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何の意味がある?

今日は釈尊成道の日と言われています。私も今年が35歳なので、ちょうどお釈迦様がさとりを完成し仏陀と成られた年なのですが、相変わらず仕事や家事、子育てに追われ、欲と怒りと愚痴にまみれ、さとりに近づく気配すらありません。今週は例のセールで物量が膨らみ、しかも冷やかし半分で頼んでいるせいで荷物が落ちず、半狂乱となっております(苦笑)。当然と言えば当然ですが、もう少し何とかならんもんかなぁと思います。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信文類)

まことにこの通りです。せめて事故だけは気をつけねば・・・。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。


さて、私の仕事は主に配達で、不定休のシフト制です。自分が休みの日は代走と言って別の人間が私の担当エリアを回ります。私が現在の職場で働き始めた当初はそれが上手く機能していて、代走の人も相当レベルが高かったので安心して休めていました。それが今では深刻な人員不足のため、へぼい人でも代走が回ってくれればいい方で、下手すると代走の人員配置がありません。すると、周辺のエリアの人間がカバーするわけですが、当然彼らは自分の仕事もあるわけで大した量はできず、多くはそのまま持ち越しで次の日に未配達分の山が出来てしまいます。最近は客側もweb上で荷物の持出状況が分かるため(これ非常に厄介)、たまに未配達に関して文句をつけてくる人もあります。いつもより膨らんだ量を持っているのに、もしそんな客につかまったらアウトです。

ところで、子供の行事等で連休を取る時がありますが、私が連休の場合は代走が私の担当エリアを連続して回ります。その休み明けによく、ちゃんと回った形跡があるのに何日も不在のまま残っている荷物が散見されます。荷物に無頓着でどうしようもない客もありますが、中には私が回れば1回で配達完了という人の荷物が残っている場合があります。私は過去の経験からその人が大体どの位の時間に在宅しているかが読めるので、その時間に伺って荷物を渡します。しかし代走の人にはそれができないため、居ない時間に何度も行っては不在票を書いて持ち帰る羽目になるのです。

こうした、然るべき時間に行けば渡せるのに、受取人が居ない時に何回も通って何枚も不在票を入れるという行為。代走の人には自分が休みの日にせっかく回ってもらっているところ本当に申し訳ないが、本音を言わせてもらいますと無意味です。特に、私は違いますけど、歩合でやってる人なんかは配達完了しないと金になりません。仕事の目的は受取人に荷物を渡すことであって、ただ足を通わせることではありません。いつまでも渡せずにいるなら、その努力に何の意味がありますか? 

時には、受取人が転居していて空室の住所へ何回も通って何枚も不在票を入れる羽目になる時もあります。これなんか本当に無意味です。先ほどの例では受取人が真面目できちんと連絡を入れてくれるという場合が考えられますが、受取人が転居していては連絡は来ません。偶然オーナーがやって来て不在票を発見し、律儀に連絡をくれない限りは、何度通おうがなしのつぶてです。もう一度言いますが、仕事の目的は受取人に荷物を渡すことであって不在票を書いて投函して帰ることではありません。いつまでも渡せずにいるなら、その努力に何の意味がありますか?


このように考えを巡らしますと、私達のやる行為・努力は浄土往生に関してやはり無意味です。浄土往生の因も果も、全て本願力に依るものです。私がやる様々な行為・努力は無関係です。それを関係がある、意味があると思って、あるいは聴聞を励み、あるいは念仏を励み、あるいは悪を慎み善に励む。このように我々凡夫の側で何とかしようと方法論を模索し実践する、これを自力というのです。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(末灯鈔2通)

一念多念のあらそひをなすひとをば、異学・別解のひとと申すなり。異学といふは、聖道・外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。
別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
(一念多念証文【16】)

阿弥陀仏以外の仏の名を称えたり、念仏以外の諸善を修めたりして浄土に往生しようとすること、念仏を称えてはいるが他力をたのまず、我が身、我が心をたのみ、我が力で励んだ様々な善根をあて力にして本願力におまかせしないこと、これらを自力だと教えられています。

高森教なんかは、余の仏号を称念すること、聖道・外道におもむくこと、余仏を念ずること、吉日良辰をえらぶこと、占相祭祀をこのむことは自力だから捨てよとハッキリ言いますが、一方で余の善根を修行すること、助業をこのむこと、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむことも自力だから捨てよとは言いません。実に中途半端です。組織拡大、会員倍増に都合の良いことは「心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよ」と言い、行為・努力自体はさせています。聞く方も聞く方で、行為・努力を続ける限りは心がけも廃らないこと位分かりませんかね? 余の善根を修行することは報土往生に関しては心も行為も間違いですから、報土往生が目的ならば直ぐに捨てて念仏一行を一心に称えることです。

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。(唯信鈔文意)

「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむと、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。(一念多念証文【8】)

『経』(大経・下)に「無諸邪聚及不定聚」といふは、「無」はなしといふ、「諸」はよろづのことといふことばなり。「邪聚」といふは、雑行雑修・万善諸行のひと、報土にはなければなりといふなり。「及」はおよぶといふ、「不定聚」は自力の念仏、疑惑の念仏の人は、報土になしといふなり。正定聚の人のみ真実報土に生るればなり。(一念多念証文【11】)

親鸞会で勧められる献金・勧誘・無条件服従等の活動がもろもろの善業万善諸行の中に入らないことは言うまでもありませんが、入るとしても、それでは報土往生できない、もとい信心決定できないことが分かります。親鸞会の活動は、全て信心決定に近づく行為として推進されるものですから、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむ自力の人々の集まりが親鸞会と言えるでしょう。本願力をこちらから掴もうとする限りは何回聴聞しても、何人入会させても、何万円献金しても浄土へは参れない、もとい信心決定できないことを会員の皆さんはよく知るべきです。

真剣な聞法求道をしなければ自力が廃らないと説く団体は親鸞会以外にもありますが、自力が廃るのはあくまで他力によってです。100%他力によってです。真剣な聞法求道というのが自力が廃る、信心を獲るのに少しでも役に立つならやればいいですが、信心を獲ることには何の関係もないでしょう? 信心を獲るにはただ他力を聞いて、他力にまかせるしかないのですから。

救われたいのに、救いとは無関係なことに努力して、その努力に何の意味がありますか? 意味がないことに意味を持たせようとするのが人間の悲しい性ですが、獲信・往生に人間の努力などハッキリ言って無意味です。念仏より他に「往生のみち」はありません。我々に悠久の時間があれば、また我々がさとりを求めていけるほどの善人・聖者ならば回り道もいいでしょう。しかし命というのは実に足が早いものです。今年2017年も残りわずかでしょう? 「もう数える位で僕らは消え失せて(※)」しまうかも知れません。速やかに生死を離れようと思ったら、正定業である念仏を一心に称えて往生を願い、ひとえに阿弥陀仏に後生をおまかせするしかありません。徒に後悔をのこすことが無いよう、皆人が本願を信じ念仏して報土往生を遂げて頂きたいと思います。


(※)L'Arc~en~Ciel『Driver's High』の歌詞を参照
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難き道と易き道

こんばんわ、Abcです。
今回もありがたく読ませていただきました。やはり配達は大変ですね。
私の職業も配達の人がいての職業なので配達の人は尊敬しています。

>救われたいのに、救いとは無関係なことに努力して、その努力に何の意味がありますか? 意味がないことに意味を持たせようとするのが人間の悲しい性ですが、獲信・往生に人間の努力などハッキリ言って無意味です。念仏より他に「往生のみち」はありません。(中略)速やかに生死を離れようと思ったら、正定業である念仏を一心に称えて往生を願い、ひとえに阿弥陀仏に後生をおまかせするしかありません。

誠に仰るとおりです。先のコメントでものべさせていただきましたが、
「義なきを義とす」ですので一切の自力は「獲信・往生にハッキリ言って無意味」でしかないのです。

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今回は「選択集」より文を挙げさせていただきます。

ここをもつて火宅を出でず。何者をか二となす。
一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。
    それ聖道の一種は、今の時証しがたし。
一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるによる。
二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』にのたまはく、〈わが末法の時のうちの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人として得るものあらじ〉と。 (已上)

このことから、親鸞は和讃のなかにて
末法五濁ノ衆生ハ 聖道ノ修行セシムトモ
  ヒトリモ証ヲエジトコソ 教主世尊ハトキタマヘ 

と詠われ、別の箇所には、
聖道権仮ノ方便ニ 衆生久シク留マリテ
  諸有ニ流転ノ身トゾナル 悲願ノ一乗帰命セヨ

と申されています。

再び「選択集」より、

つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品)を案ずるにいはく、〈菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。 一には難行道、二には易行道なり〉と。
〈難行道〉とは、いはく五濁の世に無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多くの途あり。ほぼ五三をいひてもつて義意を示さん。
一には外道の相善、菩薩の法を乱る。二には声聞の自利、大慈悲を障ふ。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顛倒の善の果、よく梵行を壊る。五にはただこれ自力のみにして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。
たとへば陸路より歩行するはすなはち苦しきがごとし。
〈易行道〉とは、いはくただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗りてすなはちかの清浄の土に往生することを得。
仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路より船に乗りてすなはち楽なるがごとし」と。
このなかの難行道は、すなはちこれ聖道門なり。易行道は、すなはちこれ浄土門なり。難行・易行、聖道・浄土、その言異なりといへども、その意これ同じ。天台(智顗)・迦才これに同じ、知るべし。

今挙げた場所に、聖道 浄土について記されてはいますが、抜き出したとはいえまだ長文のように見受けられてしまいます。(法然はそれほどまでに懇切丁寧にされたのですが浅はかなるわれらからしましたら「長い」という感想しか出てこないことは悲しい限りです)

このことについて親鸞は、『正信偈』にて
「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」  と言われており、

さらに後の世、蓮如が『正信偈大意』にて、
「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」といふは、かの龍樹の「十住毘婆沙論」に、念仏を褒め給ふに二種の道を立て給ふ。一つには難行道 二つには易行道なり。その難行道の修し難きことを譬ふるに、陸地のみちを歩ぶが如しと言えり。易行道の修し易きことを譬ふるに、水の上を船に乗りてゆくが如しと言えり。

と申されています。

上に挙げた文の中にて高森さんのことを言うのでしたら、「顛倒の善の果、よく梵行を壊る。」がそれに当たると私は思いました。
(私が抜き出した所に5種あげられており、実際はこの5つ全てなのですが、「聞法善」といわれている高森さんにはこれかなと思い抜き出した次第にてあります。)

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詮つるところ、「ただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗りてすなはちかの清浄の土に往生することを得。
仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。」と信じていただきたい ただそれだけなのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

荷物は多くても捌ければいいんですがね・・・留守で捌けない、連絡もしてこない、頼んだことを忘れている、代引きなのに金を持ってない、というのが問題です。

高森会長は和讃はどうかとして、『教行証文類』すらまともに読んだことがありませんから『選択集』のお言葉など知らないのではないかと思います。大沼師と伊藤師の剽窃にオリジナル教義を加えただけですから、挙げた御文のほとんどを知らないかと。彼ほど「裸の王様」という言葉が似合う人は中々ないんじゃないかと改めて思います。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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