追記 親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

の記事に林遊@なんまんだぶ様からコメントを頂きました。

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聴聞という語について御開山は『平等覚経』の引文、

 宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。(行文類p.145)

の聴聞の左訓に

 ゆるされてきく、信じてきく

と、されておられますです。聴にはゆるすという訓もありますから、このように左訓されたのでしょう。

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記事を書いていた当時はこの左訓がすっかり頭に無かったもので、この記事で取り上げたいと思います。

親鸞聖人は、「行文類」大行釈の引文としてお示しの御文を述べておられます。→『平等覚経』
それともう一ヶ所、「化身土文類」善本釈でも引いておられます。→『平等覚経』

そして、この左訓を挙げて、多くの方がそれぞれ解説されています。

不自由な耳に聞こえる声 (聴と聞について)
若院のコラム(24) 聴聞とは
真宗の味わい 聴聞
かりもんの実践的!真宗法座論 ゆるされて聴く

他にもありますので、お時間ある方は調べてみて下さい。

ただ、どういう感じで親鸞聖人が左訓として施されているのか、原文が手元に無いので

「聴聞」=「聴(ゆる)されて聞(き)く」=「信じて聞く」

ということなのか、それとも

      「聴」ーゆるされてきく
「聴聞」<
      「聞」ーしんじてきく


ということなのかが分かりません。祖師は「聞」を「信」で表されていますので、漢和辞典等の意味を含めますと一見後者とも考えられますが、この場合は本願成就文の「聞其名号」の「」であって、この「」が『平等覚経』の「聴聞」の「」と同じであるかは不明です。また、「聴」を「ゆる」すと訓んだ場合、「先方の望みをきき入れる」という意味があるそうで、そうなると一概に後者とも言い切れなくなるのです。

聴すとは - Weblio辞書
聴すとは - コトバンク

等をご覧頂ければ分かるように、「聴(ゆる)す」には「願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる」という意味があります。「き」くと読んだ場合と、「ゆる」すと読んだ場合で意味が変わるので、そうなると「ゆるされてきく」と「しんじてきく」は同じ意味ではないかとも取れるのです。それでこの左訓を挙げて、「聴」と「聞」を明確に分けて解説されているものもあれば、分けずに解説されているものもあります。「ゆるされてきく」とはどういうことなのか。また「しんじてきく」とはどういうことなのか。2つは同じ意味なのか違う意味なのか。これについて親鸞聖人のお言葉、ご解説があれば良いのですが、残念ながら無いので明確に分かりません。淳心房としましては、真宗では「聞」も「聴聞」も共に本願の名号を疑いなく聞くことを仰っているのだと拝察しますが、何しろ親鸞聖人が仰せになっていないことなので断定はできないです。


なお、今問題にしているのは『平等覚経』の「聴聞」ではなく、蓮如上人の『御一代記聞書』(193)

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。

の「ただ仏法は聴聞にきはまる」の「聴聞」です。これについて高森顕徹会長が

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である


と珍しい教えを説いています。会員の皆さんは聞いても聞いても「聞」と聞けない現実と、上の蓮如上人のお言葉から「雨だれが石に何十年と落ち続けてようやく穴が開く」と思考して、

・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

としか考えられなくなっているので、そうした親鸞会会員の誤解を説かんとしています。


いずれにせよ、縦と横の線の図で言う「横の道」を求道の道程に当てはめ、「聴」により横の道を進んで縦の線の「聞」に至るという高森教の説は誤りです。更には「横の道」を二河白道の譬喩で言う「白道」に当てはめ、「聞」に至るまでのプロセスの意味で「聴」を定義づけ、勧めています。このデタラメ創作教義については

飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

にて暴かれていますのでご覧下さい。

何せ教えが正しくても、それを聞き重ねて信心を頂こうというのも悪い自力の心がけだと言われます。ですから、いくら高森教の邪義を真剣に「聴」き続け、重ねたところで、教えが間違っているので当然ながら本願を疑いなく「聞」くことはできません。私達は今、南無阿弥陀仏の勅命、「助けるぞよ」の仰せを仰せのままに「聞」き、仰せのままに「聴聞」し、受けて念仏するのみです。「聴」というプロセスを経なければ「聞」ときけないなどと思わずに、そんな邪説は速攻ふり捨てて、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。
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彼らは「天台宗」の教えを広めるときは、「仏教では」と申します。

Abcです。

「ゆるされてきく」ですか...この文言だけ聞きますと色々な解釈が出てくるのもわかる気がします。ただ、真宗では、「弥陀がどのように私たちを「ゆるされて」いるのか」ということに焦点が当てられると思いますから、「阿弥陀にすくわれない」などという言葉は、出てくるはずがないのですがね。

話は、これくらいにしまして本題に移りたいと思います。

>「ただ仏法は聴聞にきはまる」の「聴聞」です。

  (中略)

>・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

>としか考えられなくなっているので、そうした親鸞会会員の誤解を説かんとしています。

確かに上述されたことと「例の縦と横の線と人間の図」もしくは「高森版二河白道」をだされたならば、そのように考えてしまうのでしょう。

ただ、それにしましても「どのように聞けばよいのか」のところで、

  「やうもなく(一心に)弥陀を頼みて念仏もうすべきものなり」

  「今、疑いながら称えている念仏は「自力の称名」だが、
  うたがい廃るとき(自力が廃るとき)が即ち『聞即信』である」

と、説かれたならば私も騒ぎ立てることはありませんでした。
ですが、現実は違ったのです。

若し、「六度万行」こそ「往生の糧」であると申されるのでしたら「天台宗」に改宗されたほうがよいかと考えます。

また、「釈迦(善知識など説かれる『法』ではなく『人』)に帰命される」のでしたらこれも「天台宗」に改宗されたほうがよいかと考えます。

次に、「『因果の道理』を深く信じ、実践するのだ!」と仰せになられ、
『叡山の律』に従うまでではないものの、「自らがよい事を行わなければ往生できない」と考え、実践されるのでしたらこれも「天台宗」に改宗されたほうがよいかと考えます。

私が、なぜこれほどまでに「天台宗」に改宗を促しているのかを申しますと、


「我ら親鸞学徒は、破邪顕正を本とします。」と申しながら、
・絵像、木像を本尊とされないだけならまだしも、「親鸞がされなかったから我らもしないのだ!」と高々と申していること(この時点で天台宗で行われる「観察念仏からの仏身同体」は行えませんが)
・「往生の糧」には「自力」が必要といわれている時点で、「凡夫自力にあらず」という「不回向」とは、異なっていること
・『法に依りて人に依らざれ』とあげながら、会員の指摘には「会長に物申すのは法謗である」と『法』より『会長(人)』に重きをおいていること
...
などがございます。

私もこの会に「仮に属して」中を見ましたが、上記のことが行われていたことは事実です。
それでも、「会長第一主義者」ならば、それはもう「知識帰命」ですので「真宗」ではないのでしょう。

Abc

Re: Abc様

いやいや、Abcさん、天台宗ではなく高森教でしょう(笑)

彼らは外道の因果の道理をもって本とし、篤い高森信心をもって六度万行とは名ばかりの罪悪を勧め、造っています。天台宗なら如説に修行すればさとりを得られますが、高森教をいくら聞き求めてもさとりも信心も獲られません。ただ、一応『真宗聖典』は用いられますし、形式上は名号本尊ですので、高森教を聞き誤って救われる可能性はあります。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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