2017年(平成29年)親鸞会報恩講の日程 及び ツッコミ『顕正新聞』9月1日号「論説」

最近の親鸞会の発行物は、月2回の『顕正新聞』に加えて、『親鸞会法話のある仏事のご案内パンフレット』だとか、レストランウェルカムの販売広告チラシ『ウェルカム通信』だとか、同朋の里にある食事処「サンキュー」の無添加洗剤の広告チラシ、アニメバス事業への支援を募る『移動映画館 友の会』とやらの案内など、多岐にわたっています。すっかり事業仏教が板についてきた感がありますね。

それと、今年2017年(平成29年)親鸞会の報恩講は

10月7日(土)、8日(日)

だそうです。演題はまだ分かっていません。情報をお持ちの方はお知らせ頂ければと思います。


さて、『顕正新聞』平成29年9月1日号では、1面に「晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました」と喜びを語るブラジルの会員さんの記事が載せられている一方で、3面の「論説」では最後に

 仏教の目的は、夢・幻のような現世の喜びではない。曠劫流転の迷いの打ち止めをし、浄土往生一定の身になることである。
 ゆめ、忘れてはならない。


と書かれています。おやおや、1面で語られているような喜びも所詮は「夢・幻のような現世の喜び」でしかないと皮肉っているのかな?

でも、この世の幸せが仏教の目的ではないといくら言われても、親鸞会では絶対の幸福が強調され、「この世から救われる」と説かれるので、会員さんはどうしたってそんな現世利益、「夢・幻のような現世の喜び」を求めてしまいますよね。浄土往生もありがたいが、それより今のこの苦しみを救うてもらいたい、この世を喜びいっぱい、幸せいっぱいで生きたいというのが本音じゃないでしょうか? 結局、会員の皆さんは「大安心大満足」「広かったぞー、大きかったぞー、想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞー、といった驚天動地の体験」「変わらない安心、満足、喜びの境地」「絶対の幸福」という「夢・幻のような現世の喜び」を追い求め、言われるままに活動に従事しているのが実態かと思います。まして、そんな喜びの境地に至ったのを他力の信心だと誤解していたら、そりゃ親鸞聖人の教えられた信心は分かりませんわ。


ところで、3面の「論説」では

往生極楽の道

という見出しで『歎異抄』第2条

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

のお言葉を挙げ、

関東で二十年、聖人の教えは「往生極楽の道」以外になかったことが知らされる。
「往生極楽の道」とは何か。
「必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる」と誓う、阿弥陀仏の本願(お約束)のことである。


と書かれています。

必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる

という表現は、1面の

すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に

よりは随分マシですが、きちんと聖人の言葉を示して

念仏する者を極楽へ迎えよう

という本願であることを伝えるべきです。しかし、そんなことは絶対に言いません。それでは組織拡大、私利私欲を満たすという目的を果たすのに不都合だからです。

「論説」ではその後、現当二益であることを蓮如上人のお言葉を挙げて説明し、先に紹介した文章へとつながっています。会員にとっては尤もな文章かも知れませんが、実は「往生極楽の道」とは何かということについて大事な部分が隠されています。『歎異抄』第二条の続きを読んでみますと、

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
(中略)
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(中略)
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。


とあるように、

親鸞聖人の仰る「往生極楽の道」とは「念仏」である

ということが分かります。親鸞会では「念仏」を「本願」と言い換えられてしまい、「本願を聞きなさい」「(本願を)聞く一つで助かる」とは言われても「念仏一つで助かる」とはまず言われません。本願寺への批判の一つが

本願寺は、「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いている

というものですので、その反動でか、念仏を表立って勧めません。それどころか、念仏は信後のお礼だとか、信前も信後も関係なくお礼だとか言って軽視しています。しかし実は、

「念仏一つで助かる」が法然聖人から親鸞聖人へと相承された浄土真宗

なのです。勿論その「念仏」は、何の分別も無くただ南無阿弥陀仏と称えれば助かるという念仏でも、念仏を自分の善根だと思って称えて助かろうという念仏でもありません。「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずる」ですから他力の念仏です。また、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ですから、阿弥陀仏にお助け頂くにはただ他力の信心(真実の信心)で念仏してと教えられていることが分かります。

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い2 の問答

Q.どうすれば救われますか?
A.真実の信心で念仏して(最初から他力の念仏)


ということの正しさが『歎異抄』第二条からも窺えます。加えて、「ただ念仏して」ですから往生極楽の道はただ念仏一行であり、念仏以外の「自余の行」、すなわち念仏以外の諸善をせよという教えはないことが分かります。シネマ学院だ大阪会館だ越前鯖江会館だとハコモノばかり建設し、阿弥陀仏の善巧方便とか都合の良いことを言ってお布施を要求しているのは、「ただ念仏して」という教えに反する邪義であります。聞く方も聞く方で、会で勧められる活動をやればそれだけ横の道を進んで信心獲得に近づくと思って念仏以外の「自余の行」(行もどきですが)に励んでいるのですから、こんな体たらくで「往生極楽の道」が正しく理解できる方がおかしいというものです。

往生極楽の道」「往生のみち」は「ただ念仏して」です。「自余の行」ならぬ、邪教への献金、勧誘、無条件服従という罪悪に執心している内は、「必ず極楽浄土へ往ける身」になることはありません。まして「絶対の幸福」だとかいう現世利益を追い求めていては・・・。会員の皆さんは、親鸞聖人のお言葉に順い、直ちに「念仏する者を極楽へ迎えよう」という本願を疑い無く信じて念仏して頂きたいと思います。
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No title

お久(?)です(-ω-)

最近、会員時代に同じ支部だったお同行の事をよく思い出すんですよね。
その方は当時、40代後半から50代くらいだったと思います。
もう何年も前の事なんで色々とうろ覚えですが。

長年勤めていた会社を辞め、整体師か何かの資格を取得して開業に向けて準備されている中、病名は聞きませんでしたが身体に病を抱えながら真摯に聞法求道されている方でした。

当時の俺はその時々で車を出される方を探しては富山まで便乗させてもらっていたのですが、何度か車内で一緒になるうちに他愛のない話を交わし、気楽に話を出来る間柄になっていました。

訃報は突然でした。
自宅で独り倒れているのを支部長が見つけたそうです。
会館内での会合等でお見かけすると顔色がすぐれないように見受けられたリもしたのですが、明るい館内でも「今日は薄暗いですね」と言われていたと後で人から聞きました。

後に「亡くなったお同行を偲びましょう。コメントをお寄せ下さい」的なメーリングリストが来たのですが、この方が「藤原紀香、メッチャ好きなんですよね~」と話していた思い出話。
それと「あれだけ大変な中真剣に求めていたのだから、亡くなる前に阿弥陀さまに救われたのではないか。そうであってほしいと願います」みたいな事を書いた記憶があります。
本音は、「そんな事はないだろうな」と諦めにも似た気持ちでしたが。
他の会員さんも皆、似たような心境だったんじゃないかなと思います。
でもそう書くよりしょうがないじゃん、みたいな。

今なら分かるけど、それは当然でした。
親鸞会は浄土真宗を謳ってるけど、親鸞聖人のご安心とは全く異なる信心、異安心を勧めているから。
その証拠に、何年経っても飛雲さんの公開法論要請から逃げ続けてますよね。

会長は人の人生、人の後生をなんだと思っているんだと思います。
阿弥陀さまの救いを求める宿善の人を、私利私欲を満たす為だけにまた迷わせて阿弥陀さまを悲しませるような事を平然とやってのける。
広げた風呂敷は大きくなりすぎて今更「ワシが間違ってました」とは死ぬまで言えなくなっちゃったと思うけど、冷血人間の俺は「もうじき重ね続けた罪を償う時が来るね。震えて待ってろ」と思ってしまったりします。

あんな人でもいつかは阿弥陀さまに救われる時がくるのは分かり切っているのですが、せめて会員さんは今生で本当の浄土真宗を聞いて救われてほしいです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏










Re: R1000様

いや~、久しぶりですよ~('ω')

つーか、先ほど個人携帯にメールしたら宛先不明で戻ってきちゃったんでちょっと心配しちゃいましたよ(;'∀') このコメントをご覧になったら、いつでもいいんで、俺の携帯アドレスにメールよろしくっす♪ あ、空メールでいっすよ☆


>「あれだけ大変な中真剣に求めていたのだから、亡くなる前に阿弥陀さまに救われたのではないか。そうであってほしいと願います」

正直こう思うしかないです。それが人情じゃないでしょうか? 自分は会員だった時、縁のある会員の知人友人が亡くなるなどということは無かったですが、もしそういう人がいて、その人が真剣に求めていた人だったらこのように思ったでしょう。
私はその会員さんは存じないですが、往生浄土の暁にはR1000さん、その方がまだ迷いの世にあれば必ず見つけ出して済度して差し上げて下さい。

高森顕徹会長は我の強い人間ですから間違いを認める気は更々ありません。死ぬまで浄土真宗を説くつもりはないでしょう。会員の皆さんには、近年の親鸞会の執拗な献金、ハコモノ建設、教義の修正等から教えの誤りに気付いて頂きたいものです。そして念仏一行を一心に称える念仏の行者となって頂きたいですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

『  』とはいったい...

Abcです。

>『歎異抄』第2条
>おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

 <乃至>

>よりは随分マシですが、きちんと聖人の言葉を示して
>「念仏する者を極楽へ迎えよう」
>という本願であることを伝えるべきです。

まぁ、伝えないでしょうね。会長は、「財欲第一」ですし。

ただ、高森さんの教えに疑問をもたれている方は、「真宗聖典」を読まれて、
確認していただきたいと考えます。


少し、話がそれるかもですが「尊号真像銘文」より、
紹介したいと思います。

『大無量寿経』言「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」(上)


 「大無量寿経言」といふは、如来の四十八願を説きたまへる経なり。

「設我得仏」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御ことばなり。
「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。
「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。この本願のやうは『唯信抄』(聖覚法印 著)によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり。「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

  「信楽」といふは、如来の本願真実(他力 本願力回向)にましますを、 (中略) 凡夫自力のこころにはあらず。

  と在りますとおり、「信楽」は「凡夫自力のこころにはあらず」と名言されています。

尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。

この箇所は、他の方がたも申されているとおりの「不体失往生」のくだりです。
このことから、親鸞は「生きているときに救われる」のだと仰せになられました。
しかし、いくらこの人間として生まれたとしても、「弥陀のおん誓い」を履き違えていたならば、知りながらであれ知らずであれ、「弥陀に救われる」ことはありません。

ここまで書いてなのですが、私は高森さんの「信楽の身に生まれさせる」という説き方は評価します。ですが、その直後に「親鸞聖人は、善を勧められている。君たちも善を行って『信楽の身』となりなさい。」という部分に嫌があると考えます。
「『信楽』は凡夫自力のこころにあらず、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへ」ですので「自力いっぱいで善をしなければ」なのではないのです。


同じく、『歎異抄』第2条より(淳心房さんの記されている箇所より)
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

ここにある「信じる」が「信心獲得」とも「信楽」ともいわれるこころで、
淳心房さんも仰られているように、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」なのです。
真宗から『念仏』をなくしてしまったら、はたして何が残るのでしょうか。
蓮如が「この三国の祖師等、 『  』の一行をすすめ、」(正信偈大意より)
としましたら、『三国の祖師』はなにを伝えられたのでしょうか。

末筆となりますが、淳心房さんの言われているとおり、「本願寺」に対抗して、
高森教では「念仏」という語は伏せられる傾向にあります。
「『  』成仏コレ真宗」としますと、「本願」が何なのかが返すかえすわからなくなります。高森教に違和感をもたれている方は、「『  』に何かが入るのでは?」と薄々気づき始めている方です。どうぞ御聖教を開かれて弥陀、釈迦、七高僧、親鸞、聖覚、覚如、蓮如などの文を読まれてください。

Abc

Re: Abc様

一応高森教では、善は往生の足しにならないと言っています。我々は「善ができる」と己惚れていて、一つの善もできない極悪人、逆謗の屍とは少しも思っていない。そんな者に真実の自己を知らせ、雑行を捨てさせるには、やらせてみるよりないのだと言います。捨自帰他こそ真宗の真髄で、「善を積め、そうすれば助かる」などとは一言も言っていないというのが彼らの主張です。

しかし、雑行を雑行と知らせる、横の道を進んで縦の線まで進むためには役に立つわけですから、現在から信心獲得のトータルで見たら「善をしなければ助からない」のであり、「善は往生の足しになる」のであり、「善を積め、そうすれば助かる」と言っているのと同じことです。親鸞会のトリックに、会員の皆さんはこれ以上騙され続けないでもらいたいものです。


>「この三国の祖師等、 『  』の一行をすすめ、」
>「『  』成仏コレ真宗」

『  』の中に何が入るのか。いい問題ですね。これは縦の一念のことで、それまでは・・・とか何とか反発しそうですが、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を素直に聞けないようならもはや高森教徒なので、浄土真宗とか親鸞とか言わないでもらいたいです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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