「正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがない

日曜日の高森顕徹会長は相変わらず「絶対の幸福」「ガラリと変わる」を連呼し、真宗もどきの話をしていたようです。真宗の皮をかぶるためにお聖教の言葉を出しているのみで、浄土往生の正しい教えも行も教えられませんから、それをまともに聞いて正しい信心を獲、報土往生・成仏の証果を得るなど奇跡です。

今回は「お疲れのため」だそうで、いつもの説法ではなく座談会形式での話だったそうですが、あのような高齢でも高森顕徹会長が話をしなければならない、会員は高森顕徹会長の話を求めて聞きに来ている、ということを考えるに、つくづく親鸞会というのは高森顕徹会長という「」に依っている集団なのだなと感じます。それが将来どのような結果につながるかは、推して知るべしでしょう。


さて、『顕正新聞』9月1日号「論説」へのツッコミ記事を書いていて思ったことがあります。会員の皆さんが救われないのは、もちろん間違った教えを正しいと信じているから、正しい教えを全く知らないからなのですが、これは言葉を代えると

「正雑の分別」ができていないから

と言えるのではということです(それ以前に、倫理道徳上の善悪の分別もできているか疑問ですが・・・)。

「正雑の分別」くらいできている!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、できていません。その証拠に、横の道を進んで信心決定に近づこうという目的でお布施をし、人を誘う活動をし、上司の無理難題にも「畏まりたる」と表面上つくろっていませんか? 「正雑の分別」ができていたら、こんなことはしないんです。たとえ親鸞会の活動が仏教の善に含まれるとしても、それらは「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」だからです。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(化身土文類)

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。


まぁ実態を言えば、浄土に往生してさとりを開こうというのではなく「絶対の幸福」「ガラリと変わる」だとかいう「夢・幻のような現世の喜び」を追い求めており、勤行など一部の行為を除いて他は一新興宗教の組織拡大、私利私欲を満たすための活動ですから、親鸞会は「浄土門」でもなければ活動のほとんどは「雑行(諸善)」でもありません。一部経典や真宗用語を使っているだけの「新興宗教」すなわち「外道」であり、主たる活動の多くは「善もどきの善」「行もどきの行」つまり「悪行(諸悪)」です。こんな教えをまともに信じて親鸞聖人と同じ信心になれる方があり得ないというものです。


ところで、『御文章』1帖目1通に、蓮如上人は

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな

という古歌を引いています。この意味について上人は、

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


と続けて教えられています。信前の「むかし」と、信心獲得の「こよひ」とで、違う点がいくつかあります。

むかし」・・・「雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつる
こよひ」・・・「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す

その一つが、「正雑の分別」があるかないかだというのです。「雑行・正行の分別」もない会員が信心決定していないというのは至極尤もな話なのです。

また、信前の「雑行・正行の分別」もなかった「むかし」であっても蓮如上人は「念仏だにも申せば、往生するとばかりおも」っていたと仰っています。親鸞会の大好きな「諸善」いわゆる「雑行」をやっていたという記述もなければ、「諸善」「雑行」をやれば往生すると思っていたとも言われていません。信前にして既に往生行として「念仏一行」であったことが伺えます。信前も信後も関係なく、浄土真宗は往生行として「念仏一行」。これは当たり前の当たり前のことなのです。「正雑の分別をききわけ」るとは捨自帰他のことですが、それにはまず何が正行で何が雑行かを分別し、往生行は「念仏一行」となっていなければ話になりません。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(「行文類」大行釈)

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」経文結釈)

その当たり前のことが教えられず、教義だけ見ても「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」を勧めているから

「正雑の分別」ができていない

と言っているのです。「正雑の分別」を聞き、浄土真実の行は「念仏一行」となって、それから念仏する心が自力か他力かということが問題になるわけで、「念仏一行」どころか念仏を軽視し、「雑行(という名の悪行)」をやりまくっている者は、高森顕徹会長の言葉で言えば「コンマ以下」なのです。

正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがありません。会員の皆さんは、まず正しい教えを聞いて「正雑の分別」をし、「念仏一行」になるところから始めてはいかがでしょうか。なお、私が勧めているのはあくまで「一向一心」の他力の念仏ですから、そこのところはお間違いなく。
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『念仏』とは

Abcです。
今回の内容も、ありがたくよませていただきました。

>「正雑の分別」くらいできている!

「分別ができている!」ですか、それならば早々に自余の善根を修する、
「自力の行い」を捨てさせていただかないといけませんね。

>「聖人は、善をするな(修善をするな)といわれたのではない、自力のこころをすてよといわれたのだ!」(「なぜ生きる」など より)
この文言を会ではよく見ましたが、真宗での往生の因(たね)において、「修善=自力」であり、同じことは「会の不都合」にあたるためボヤかします。

ここからは日本語の話になりますが、すこしズレるかも知れないことをお許しください。
「漸教」の「漸」とは「ようやく」という意味で他の解釈では「しばらくののちに、永いときをかけて」ともあります。 
使用例:漸減してゆく(ゆっくりと減ってゆく)
これに対しての「頓教」の「頓」とは「またたく間に、直ぐに」という意味です。
(親鸞は「弥陀のおん誓い」を「頓教である」と「愚禿抄」に著されています。)
使用例:頓服薬(服用してすぐに効能がある薬)

もちろん、このことからも邪偽であることに結び付けられる危険性をはらんでいるため説明は行いません。(この理論から行くと...といいますか、そこから「漢字字典」や「古語辞典」を用いるのを私は止められました。)

最後に、私も「念仏」をお勧めする謂れとしましては、「分別のわからぬ『むかし』においても「念仏申せば...」と「念仏」をされている」ことからの由来です。

18願は、「念仏往生の願」で、
易行とは、「念仏一行」、
「専修念仏」は、「18願(他力念仏)をら(信じ)すること」
なのです。

Abc

Re: Abc様

>それならば早々に自余の善根を修する、
「自力の行い」を捨てさせていただかないといけませんね。

仰る通りです。阿弥陀仏の光明は余の雑業(雑行)を修める者を照らし摂めることはありませんから、早々に捨てねばなりません。雑行を修める者ですら照らし摂められませんから、雑行もどきをやって「絶対の幸福」に近づこうと考え行っている者など話にならないですね。


>>「聖人は、善をするな(修善をするな)といわれたのではない、自力のこころをすてよといわれたのだ!」(「なぜ生きる」など より)

『なぜ生きる2』には書かれているかも知れませんが、『なぜ生きる』ではこの文言は見かけなかったですね。尤も顕正新聞では度々取り上げられ、説法でも多く出てきましたが。
自力の心を捨てよと言われても、雑行を修める限りはそこに心は執着するわけで、まして「信心獲得に近づく」と思って行じていたら廃るわけがありません。どうしてもやるなら、「修善と獲信・往生は無関係」とキッパリわきまえて善と称するものを行うべきです。「阿弥陀仏の善巧方便」とか言われて勧められるので、横の道を進むのに関係がある、つまり信心獲得に近づくのに関係があると会員さんは思っていると思います。であれば、自力の心を捨てよと言われても無理です。


>18願は、「念仏往生の願」で、
易行とは、「念仏一行」、
「専修念仏」は、「18願(他力念仏)を専ら(信じ)修すること」
なのです。

まことその通りですね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
Abc様は布教使の方とのことですが、機会があれば一度法話をお聞きしてみたいです。私は関東の者ですが、Abc様はどちらの地方の方ですか? 差し支えない範囲でお聞かせいただければと思います。これについては秘密コメントでも結構です。

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お答え頂きありがとうございます。読ませて頂きました。
こちらこそ、拙いブログですがこれからも書いていくつもりなのでよろしくお願いいたします。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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