親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(6)

親鸞会では、『教学聖典(5)』の問(22)から順に宿善に関する珍らしき法の問答を掲載しています。

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(御文章2帖目11通)

五つのものが揃わなければ助からない、その第一が「宿善」であると言い、

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(4帖目15通)

蓮如上人はご遺言にて信心決定は「宿善まかせ」であると教えられていると言い、

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。(3帖目12通)
ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目8通)
されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。(4帖目1通)

無宿善は絶対に助からぬ」「阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている」根拠として以上の御文を挙げています。こうして宿善が如何に大事なものであるかを教えた後、

宿善には厚薄がある
宿善の厚い者は信心決定が早いが、宿善の薄い者は信心決定が遅い
宿善を求めよ、厚くせよ
獲信の因縁(宿善)として善を修せよ

という邪義へと移行します。

問(26)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(御一代記聞書)

問(27)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。
答(27)
○宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


親鸞会では、これらのお言葉を使って

宿善の厚い人(「頓機」と説明) ― 宿善が速い ― 廃悪修善の気持ちが強い ― 早く救われる
宿善の薄い人(「漸機」と説明) ― 宿善が遅い ― 廃悪修善の気持ちが弱い ― 遅く救われる


と説明し、耳四郎や親鸞聖人、熊谷次郎直実などは宿善の厚い人で早く救われたが、そういう人は少なく、多くは宿善が薄い者で救われるのに時間がかかる。宿善の薄い者は聞法を重ねても、なかなか弥陀の救いにあえず流転を重ねてきたのだから、今生において真剣に宿善を求めなければならない。でなければ宿善開発の時節到来はあり得ない、つまり救われないというのです。


これが大体の親鸞会の「宿善論」ですが、こうして改めて書きますと、間違いだらけでどこからツッコミを入れたらいいのか迷います(笑) 今回は、根拠の捏造断章取義について書いていきましょう。

まずは宿善の厚い人を「頓機」といい、宿善の薄い人を「漸機」という大間違いからです。『本願寺なぜ答えぬ』ではp.93~p.94に、また『顕真』では平成22年11月号に

法然上人は『和語灯録』に、
「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」
(宿善の厚い人は少なく、宿善の薄い人がほとんどである)
と仰せられている。


と書かれていますが、法然聖人の『和語灯録』にはそもそも「頓機」と「漸機」という言葉自体がありません。頓機」「漸機」という言葉を法然聖人の上で探すと、

頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。(『往生浄土用心』)

と別の書物にあるようです。意味としては

頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。

というように、理解力等のことを「頓機」「漸機」という語で示されていて、宿善の厚薄という意味で使われてはいません。まして、「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という珍説は法然聖人からは出てきようがないのです。


次に、『唯信鈔』のお言葉についてです。『唯信鈔』では第15段、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。

という問いから、宿善について述べられています。「五逆を犯した罪人でも、十声の念仏によって浄土に生まれることができるというのは、前世の善行によるのである。私たちはとても前世の善がそなわっているとは思われない。どうして往生などできようか」というのです。これに対する答えが、

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

です。「宿善のあつきもの」とは今生も善を修め悪を恐れる人で、言わば「善人」です。対して「宿善すくなきもの」とは今生に悪を好み善をしない人で、言わば「悪人」です。親鸞会で勧める

宿善を求めよ、厚くせよ
宿善と言うのは、過去世の仏縁のことであるが、過去世に仏縁浅き者は、現在に於いて真剣に宿善を求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

という教えは、この『唯信鈔』で言えば

「宿善すくなきもの」から「宿善のあつきもの」になれ

ということです。ということは、

「悪人」から「善人」になれ

と言っていることに他なりません。悪人正機の完全否定です。そしてこの説は、親鸞会自身の

「十方衆生に善人は一人もいない」という説の否定

でもあります。高森顕徹会長の説が、如何に破綻した噴飯ものかということがお分かり頂けると思います。

それで、「宿業の善悪」、つまり宿善が厚いか薄いかは今生のありさまにて明らかに知られるというのです。今生に善を修め悪を恐れる「善人」が「宿善の厚い人」、今生に悪を好み善をしない「悪人」が「宿善の薄い人」ということです。ところが次に、法印は「しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを」と仰っています。お釈迦様のお弟子の中でも「説法第一」と称された富楼那尊者のようだと人々に言わしめた聖覚法印でさえ、「善心なし」、「宿善すくなし」、そして「われら罪業おもし」というのです。では、そんな「宿善の薄い人」は、「宿善の厚い人」になるよう「宿善を求めよ、厚くせよ」と教えられているかと言えば、そんな創作教義は『唯信鈔』にはありません。それどころか、

宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

と、「宿善すくなし」のままで「ふかく本願を信」じさせて頂いたと仰っています。つまり、

・宿善の厚薄と、「ふかく本願を信」じること(信心獲得)とは無関係
・今生において「宿善を求めよ、厚くせよ」という説示は無い
・宿善の薄い者は、宿善の厚い者にならねば救われないというのは間違い
・宿善の厚い者は厚いままで、宿善の薄い者は薄いままで救われる


ということです。今まで高森顕徹会長の邪義を真受けにし、何年、何十年と宿善を厚くしようと頑張ってきた人にとってはとても受け入れ難いものがあると思いますが、これが現実です。そして、宿善の薄い我々はどうして往生することができようかと考えること自体が

・これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。
・小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


であると仰せです。我々が、宿善の厚い者は早く救われ、宿善の薄い者は救いに時間がかかるとかと宿善にこだわること自体が「痴闇にまどへる」「小智」だというのです。私達は己の宿善の厚薄にこだわるのではなく、そんなことは無関係に「我にまかせよ、必ず救う」と仰せの本願を、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を一心に仰いで念仏すればよいのです。

会員の皆さんは、「根拠の捏造」、及びごく一部の聖教の御文の「断章取義」により、浄土真宗を全く別の高森教として教えられていることに早く気付きましょう。そして、「痴闇にまどへる」「小智」の高森教からさよならし、「宿善すくなし」なら「宿善すくなし」のままで早く「ふかく本願を信」じて頂きたいと思います。



【参照】及び【参考文献】
『飛雲』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1
『同』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り6
『浄泉寺』 『唯信鈔』(現代語訳)
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「往生浄土用心」

どもです。

高森親鸞会が「往生浄土用心」を引くなら、以下の文も引くべきでしょうね(笑


 彌陀は。惡業深重の者を來迎し給ふちからましますとおほしめしとりて。宿善のありなしも沙汰せす。つみのふかきあさきも返りみす。たた名號となふるものの。往生するそと信しおほしめすへく候。(『拾遺和語灯録』「往生浄土用心」)
http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J09_0649B29
「大藏經テキストデータベース」から転載したもの
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%AA%9E%E7%81%AF%E9%8C%B2%E4%B8%8B#P--765

高森氏はネットで原典が公開されるなんて夢にも思わなかったかも。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

これは、貴重な情報をありがとうございます。何らかの形で記事の中で取り扱いたいと思います。

ここを読まれているみなさん へ

こんばんわ、Abcです。

> 彌陀は。惡業深重の者を來迎し給ふちからましますとおほしめしとりて。宿善のありなしも沙汰せす。つみのふかきあさきも返りみす。たた名號となふるものの。往生するそと信しおほしめすへく候。(『拾遺和語灯録』「往生浄土用心」) (林遊さんのコメントより)

林遊さんが示しておられるように、「宿善のおおいすくなき」は関係なく
「ただ名号となうる」で往生は決定するのです。
ただ注意しなければならないのは、「自力をつのりとする心」ではなく、
「他力をつのりとする(淳心房さんが申すところ「弥陀にすっかりお任せして」の)心」です。
これを、「弥陀を疑う心(疑心)あることなし」の心です。

>頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。(『往生浄土用心』)
>と別の書物にあるようです。意味としては
>頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
 ご解説、ありがとうございます。これは、私がだいぶ前に記した、
「真宗は南無阿弥陀仏、ただこれだけである。」と聞いて、
  「南無阿弥陀仏だな、わかったぞ!」とすぐ理解する人を「頓機」で、
  「そんなこと無いはずだ...まだ、他に何かあるはず...」と疑っているのを「漸機」とも取れます。

親鸞は「愚禿抄」にて、
   (後ろの「聖道」「浄土」は私がつけたもので原文にはついていません)
大乗教について、二教あり。
一には頓教、「浄土」
  二には漸教なり。 「聖道」

頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。「聖道」
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。 「浄土 他力のなかの他力 18願意」
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。 「聖道」
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。 「弥陀不思議信ずる者がたどりつく場所」

漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。 「聖道」
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
 「浄土 他力の中の自力 19願・20願意」
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。 「聖道」
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。 「思議の法、信ずる者がたどり着く場所」

とあります。つまるところ
18願 = 不思議の心 = 選択本願・真実報土・即得往生
19・20願 = 思議の心 = 胎宮・辺地・懈慢の往生

このうち高森さんが言われている「善のすすめ」とは、いま挙げた文の中では
「易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
 「浄土 他力の中の自力 19願・20願意」」であり
この三福の中に「因果深信」(別名:信 19願、信罪福、六根清浄(天台)、六度万行(天台、真言、佛心(禅宗)))が入っています。

※六根清浄(天台)は、親鸞で言うところの、「余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ」(末灯抄)です。

そのため「たた名號となふるものの。往生するそと信しおほしめすへく」、すなわち「因果の理に大きく背く、弥陀の大願を信じる」(別名:信 18願、真実信、選択本願信じる など)を見て、「間違っている」といっているに過ぎません。

最後に、勧行(おつとめ)の和讃を出して、締めくくります。

五濁の時機至りては
 道俗共に諍いて
念仏信ずる人を見て
 疑謗破滅盛りなり

五濁の時機(五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁中、[小経])となっては、
 修行者、俗人ともにいいあらそって、
念仏をつのりとする人をみて
 (選択本願を)疑ったり、バカにしたり、破り捨てたりすることなどが蔓延っている。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

>親鸞は「愚禿抄」にて、
   (後ろの「聖道」「浄土」は私がつけたもので原文にはついていません)
大乗教について、二教あり。
一には頓教、「浄土」
  二には漸教なり。 「聖道」

→これは、浄土門にも頓教と漸教があり、聖道門にも頓教と漸教があることがその後の記述から分かるので不適切ではと感じました。ただ仰りたいことは浄土門内の他力の教え・頓教が18願の法で、浄土門内の自力の教え・漸教が19願・20願の法だということは分かります。

実質漸教(もどき)を聞かされているのですから、何十年聞いても救われないのは道理ですね。浄土門内の漸教とは言えさとりの完成には何十年、いや百年や二百年でも済まないレベルなので、文字通り「死ぬまで求道」です。

昔から高森親鸞会の会員と議論していて、
その言葉の出拠を示せというと、自分で調べろという返答だったので、何回ブチ切れたものか(笑

ご法義上の文言に対する議論というものは、お互いが検証可能な資料の上で成立するのでした。その上でお互いの解釈について論じるのですが、 淳心房さんが述べられているように、高森親鸞会は「断章取義」(文章の一部だけを取り出して自分の都合のいいように解釈)ですから文献の出拠を示さないかもです。

高森親鸞会の教学らしきものを、世間では「短冊教学」と揶揄していたりするのも、高森顕徹教学に都合のよい文章だけを抽出してご法義を語る(騙る)からでした。
で、林遊の場合は、再検証可能なように、ネット上で文章をUPしていたりしますです。

と、いうわけで、お聖教の文言を引くときは、出拠やページ数を明示して頂けると幸いです。>ALL

なお、頓機・漸機とは、教化について使われる語であって、

 おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。
http://wikidharma.org/59f4ddd4bb621

という、本願による、あらゆる衆生を摂化するという済度を顕す「機」とは違う概念でした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%A9%9F




Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 昔から高森親鸞会の会員と議論していて、
> その言葉の出拠を示せというと、自分で調べろという返答

それはブチ切れますね(苦笑


> お聖教の文言を引くときは、出拠やページ数を明示して頂けると幸いです。>ALL

ご指摘ありがとうございます。私は主に

WikiArc:浄土真宗聖典目次
http://labo.wikidharma.org/index.php/WikiArc:%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E8%81%96%E5%85%B8%E7%9B%AE%E6%AC%A1

から引用させて頂いておりますので、今後なるべくURLをリンクした上で経典や聖教のお言葉を示していきたいと思います。

Re:ここを読まれているみなさん へ

こんばんわ、Abcです。

>>親鸞は「愚禿抄」にて、
>   (後ろの「聖道」「浄土」は私がつけたもので原文にはついていません)
>大乗教について、二教あり。
>一には頓教、「浄土」
>  二には漸教なり。 「聖道」
>
>→これは、浄土門にも頓教と漸教があり、聖道門にも頓教と漸教があることがその後の記述から分かるので不適切ではと感じました。

よくよく読み直してみると仰るとおりです。少々、早とちりしてしまいました。
淳心房さんの返信を鑑みて、書き直しますと、

>親鸞は「愚禿抄」にて、
   (後ろの「聖道」「浄土」は私がつけたもので原文にはついていません)
大乗教について、二教あり。
一には頓教、「浄土 聖道」
  二には漸教なり。 「浄土 聖道」

ですね。重ね重ねご指摘のほど有難くおもいます。

さて、
「お聖教の文言を引くときは、出拠やページ数を明示して頂けると幸いです。>ALL」と林遊さんが、ご指摘していただきましたので「出拠を明示して」再び、記したいと思います。

【有念無念之事】
有念無念の事。 (中略)
又、正念といふにつきて二あり、一には定心の行人の正念、二には散心の行人の正念ある可し。この二の正念は他力の中の自力の正念なり。定散の善は諸行往生の言葉に摂まるなり。この善は他力の中の自力の善なり。この自力の行人は、来迎待たずしては辺地・胎生・懈慢界までも生まる可からず。この故に、第19の誓願に、「諸の善をして浄土に回向して往生せんと願ふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓い給へり。  (中略)
選択本願(18願)は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形を思ふについていふことなり。無念といふは形を心にかけず、色を心に思はずして念も無きをいふなり。これみな聖道の教なり。  (中略)
浄土宗にまた有念あり無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。この無念は聖道の無念には似ず。またこれ聖道の無念の中に、また有念あり。よくよく問ふ可し。浄土宗の中に真あり仮あり。真といふは選択本願(18願)なり、仮といふは定散二善(19・20願)なり。選択本願は浄土真宗なり。定散二善(19・20願)は方便仮門(要門、真門)なり。浄土真宗は大乗の中の至極なり。方便仮門の中にまた大小権実の教あり。釈迦如来の御善知識は110人なり。『華厳経』に見えたり。
南無阿弥陀仏 建長三歳辛亥閏長月廿日 愚禿親鸞七旬九歳(之書)

【五説等之事】
また「五説」と言ふは、  (中略)
「二教」と言ふは、一には頓教、二には漸教なり。いまこの教は頓教なり。  (云々)

私は、この「頓教」と言うのを受けて早とちりしてしまった次第です。ですが、この「早とちり」のおかげで「早とちりが早とちりであった」とも気づかされました。
 末筆とはなりますが、重ねがさねありがたく思います。

なもあみだ なもあみだ

Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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