このようにして親鸞会教義が徹底されました(2)

このようにして親鸞会教義が徹底されました(1)の続きです。御法話でも、その復習部会でも、教学聖典(1)の解説でも、親鸞会的因果の道理が徹底して話されました。

「親鸞会で教えられる因果の道理」が徹底されることによって、会員は阿弥陀仏の18願へ直入できずに、親鸞会の「光に向かって進む教え」に足踏みさせられます(19願の善の実践にもなっていません)。

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◎三世因果、三業、因縁果

因果の道理についてはまだ知らねばならないことがいくつかあり、それを知らないと誤解が多々あると思われるので話を続けます。

どんな結果にも必ず原因がある。ということは、私達がこの世に生まれたという結果にも原因がある。
なぜ私は、この地球という星に人間として生まれたのか? 生まれた時代、国、家、生まれる順序、性別、、更には人種、貧富、賢愚、美醜…、実に様々な違いがある。生まれながら障害者の方もある。一卵性双生児といってもその後の運命は大きく異なる。どれ一つ違っていても今の人生とは全然違うものになっていたはずである。
そんな運命を大きく決定するような原因は一体何だったのか?
これが分からない、しかし知りたい。そこで、ある者は神が運命を作って与えたといい、ある者は偶然そうなったのだと言い、ある者は両親が作ったのだと色々に言う者がある。

仏教ではそれらを否定し、私の過去に行ってきた行為が因となり、父母を縁として私が生まれたのだと教えている。
過去とは生まれる前の過去世。そんなものがあるのかと否定する人もあろうが、結果より後に原因があるということはないので、生まれた、或いは母の胎内に私が宿ったのを結果としたら、それより前に原因がなくてはならない。
また、話題は反れるが、私達はやがて必ず死んでいかねばならないが、死んだらどうなるのか?
ある者は無になると言い、ある者は後生変わらぬ霊魂が残ると言う。
しかし、いきなり有が無になることはあり得ないし、諸法無我であるから、変わらぬ魂が存在するというのは迷信といわれる。

仏教ではこういった考えを否定し、業の存在を教え、死ぬまでに自らが造った業に報いた世界へ入っていくと教えている。業とはサンスクリットでカルマといい、行為の事を言う。
行いには力がある。そして、それはなくならないので業力不滅といわれる。では、業力は、どこに蓄えられるのか?

仏教では人間の心を大きく八つに分け、八識という。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識の八つだが、この内、阿頼耶識という心は私達が生まれる前から、生きている現在も、そして死んでからも滅びない不滅の生命である。阿頼耶とは蔵という意味で、私達の行為(業)が目に見えない力(業力)となっておさまる蔵のような心なので阿頼耶識と呼ばれる。固定不変な魂とは違い、「暴流の如し」と言われ、次々と業力がおさまっていく様は激しい滝のようである。

なお、行為(業)が我々の運命を決定する因だと話したが、行為といっても仏教では体の行い(身業)と口の行い(口業)と心の行い(意業)の3つがあると教えられる。
法律や倫理・道徳では行いといっても体で色々やることや、せいぜい口でしゃべることまでが問題にされ、心で思ったことまでは取り締まらない。しかし、火の元から火の粉が舞い上がるように、心で思ったことが口や体に現れるので、口や体の行為の責任は心にある。だから、「殺るよりも劣らぬものは思う罪」といわれる。実際に手にかけて人を殺すのもおそろしいが、それよりももっとおそろしいのは心で思う罪だと教えられる。心で思ったことを体がやり、口がしゃべるからだ。心が元である。
仏教では、口や体の行いの重さを「1」とすると、心の行いは「2」であると教えられる。

こうして、身口意の三業で日々私達は様々な行いをし、それが逐一目に見えない不滅の業力となり、不滅の生命である阿頼耶識におさまり、未来の幸不幸という運命を生み出す原因となっていくのである。

「年毎に咲くや吉野の山桜木を割りて見よ花のありかは」という歌がある。
春になると満開の桜が咲く吉野山に、冬にいってみると、枯れ木のような木がたっているだけ。どこに桜の花を隠しているのかと、木を一部刻みにしても花びら一枚でてこない。しかし、春の陽気に触れると、花を咲かせる。それは、木に花を咲かせるだけの勢力が蓄えられているから。

ここで、因果の道理は正確には因縁果の道理であることを知らねばならない。
因はこれがなければ絶対に果が得られないものであり、縁とは因が果になるのを助けるもの、条件である。
例えば、米を結果としよう。その因と縁は何か?
因はモミダネである。代わりに麦や粟を蒔いても米は取れない。
縁は日光、空気、水、温度、等々。モミダネが成長し、米になるのを手助けするものである。
この因と縁が揃って初めて、因縁和合して、目に見える結果となって現れる。

木に蓄えられていた目に見えない花を咲かせる力が因であり、それが春の陽気という縁に触れると、花という目に見える結果となってあらわれる。阿頼耶識に蓄えられた業力は、縁が加わって初めて、目に見える結果となって現れる。


◎他因自果もあるのでは?

ところが、一見当たり前に見える因果の道理だが、いざ自分に運命が降り掛かってくると分からなくなってしまうことが少なくない。
特に悪果がやってきた場合は、「本当に自因自果なのか? あいつのせいでこんな苦しまねばならないのではないか?」と思われることが多々見受けられる。
そこで1、2例を出して、こんな場合も自因自果なのかを検証する。

(例1)
ある夫婦があった。
妻は器量よしで周囲の評判もよい。誰が見てもよい奥さん。
ところが夫が悪い。酒、ギャンブルが好きでろくに仕事もせず、昼間から飲んだくれている。たまりかねて奥さんが注意すると暴力を振るう。誰が見てもダメな亭主。
この場合奥さんの苦しみは誰が見ても夫が原因ではないかと思われる。こんな場合でも自因自果なのか?

答えは、自因自果である。
世の中には男性は沢山いる。主人に選ぶのは他の人でもよかった。なのになぜこの男を主人と選んで結婚したのか。
それは奥さんがこの男を好きになったから。じゃあなぜ好きになったのか?
好き嫌いは理屈ではなく、その人のもつ業力による。
それで奥さんはこの男を好きになり結婚した。因は間違いなく奥さんにある。

では夫は悪くないのか?
夫は悪い縁になったのである。この男の態度はきちんと改めてもらわねばならないのは当然であるが、奥さんが苦しんでいることの原因ではない。縁であることをよく知ってもらいたい。

(例2)
自分が優先道路を制限速度を守って走行中、脇道から車が一時停止を無視して飛び出し、衝突して大ケガをした。
この場合も、自分も周りも飛び出してきた車の運転手(Aとする)が原因だと思う。こんな場合でも自因自果なのか?

自因自果である。
もしAが原因なら、この道を通っている車は皆事故を起こしている。この道は自分だけでなく、自分の前も後も何台も車は走っていた。それをよりによって、なぜ私が、Aが飛び出してくる時にそこを通らねばならなかったのか。
他の人にはない原因が自分にあったのである。自分自身の業力が、私をその時その場に引きずり出したのである。この業力の強さは大象百匹に勝ると言われ、物凄く強い力がある。この業力に勝る力は阿弥陀仏の大願業力しかない。

では、Aは無罪放免かというと、悪い縁になったのである。これは法律で厳しく取り締まってもらわないといけない。

世間では、縁を原因と間違えている。だから人を恨んだり、憎んだりする事が絶えない。
「ナワをうらむ泥棒」という歌がある。みなさんは、この泥棒を馬鹿だと思うでしょう。
今自分が苦しんでいるのは、ナワに縛られているからだとこの泥棒は恨んでいる。しかし、泥棒が恨まねばならないのは、自分の泥棒という悪い行いだ。原因を間違っているから、馬鹿な泥棒と思う。

みなさんは、この泥棒を笑えますか?
自分に悪い結果がくると、あいつのせいだこいつのせいだと恨んだり憎んだりしていませんか?
反対に自分によい結果が来ると、おれがこれだけ頑張ったからと思う。善因善果のときは、自因自果と思えるが、悪因悪果のときは自因自果とは思えない。これでは論理が一貫していない。大宇宙の真理に背く心。これを仏教で迷っているというんです。

「火の車 造る大工は なけれども、己が造りて 己が乗りゆく」
と歌われるように、苦しい状態・地獄(火の車)は、他の人の造ったものではない、自分のまいた種であり、それによって自分が苦しんでいるのである。

どのような場合でも自因自果に間違いない。これが大宇宙の真理である因果の道理。


◎廃悪修善

仏教の根幹は因果の道理。仏教を信じるとは、因果の道理を信じること。因果の道理が分かるとどうなるか。
誰も不幸や災難といった悪い運命は来てほしくない。「悪因悪果自因自果」で、悪い運命は悪い行為が生み出し自分の蒔いた種が自分の運命として現れるのだから、悪いことをしないようにしようとなる。これを「廃悪」という。
そして、幸福というよい運命は来てほしいと誰だって思う。「善因善果自因自果」で、よい運命はよい行為が生み出し自分の蒔いた種が自分の運命として現れるのだから、よいことをしようとなる。これを「修善」という。
因果の道理が分かれば、必ず悪いことをやめてよいことをしようと努力するようになる。だから因果の道理の結論は廃悪修善といわれる。
仏教聞いて信じる人は、悪果が来たら我身の種まきを反省・懺悔し、善果が来たらようこそこんな私にと感謝し、一層努力するようになる。だから仏教を信じている人は決して消極的・退嬰的にならず、努力向上主義になる。

仏教を正しく聞いていくと、必ず廃悪修善の気持ちが強くなる。だから自分がどれだけ仏教が分かっているかは、どれだけ廃悪修善をする気持ちが強いかで分かる。
あまり廃悪修善の気持ちが強くないと思うなら、それは仏教があまり分かっていないということ。廃悪修善の気持ちの強弱が、信仰のバロメーターであるといわれる。

分かったら実行する。実行しないのは分かっていないということ。
テストで答えが分かっていたら、必ず書く。白紙で出すのは分かっていないということ。
何十年仏教を聞いていても、廃悪修善を実行しようとしないのは結局頭だけで本当には分かっていないということ。


◎深信因果

因果の道理を深く信ずることを深信因果という。
深信とは、深く信じて疑わないということではない。信じる心には必ず疑いが混じっている。そうではなく、ツユチリの疑いもなく知らされること。因果の道理間違いなしとハッキリしたのを深信因果という。
これは、人生の目的達成した世界のこと。

人生の目的を達成した人のことを行者といわれるが、「人生の目的に向かって行く者」「教えの通りに実行する者」も行者である。
聞かなければ仏教は分からないが、いくら聞いていても実行しなければ善果はこない。廃悪修善を実行しなければ悪果ばかりやってきて相対の幸福さえ恵まれない。ましてや絶対の幸福など分からない。
「行者正受金剛心」と親鸞聖人は教えられており、行者が正しく金剛心を受ける。金剛心とは絶対の幸福ということ。行者が絶対の幸福を受けるのである。

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(つづく)
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「行者正受金剛心」のトンデモ解釈

 親鸞会の講師部員が、正信偈のお言葉に対するトンデモ解釈をしております。おそらく会長の説教を鵜呑みにしてそのまま晒したのでしょう。 ...

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南無阿弥陀仏がどこにもない

>人生の目的を達成した人のことを行者といわれるが、「人生の目的に向かって行く者」「教えの通りに実行する者」も行者である。
>聞かなければ仏教は分からないが、いくら聞いていても実行しなければ善果はこない。廃悪修善を実行しなければ悪果ばかりやってきて相対の幸福さえ恵まれない。ましてや絶対の幸福など分からない。
>「行者正受金剛心」と親鸞聖人は教えられており、行者が正しく金剛心を受ける。金剛心とは絶対の幸福ということ。行者が絶対の幸福を受けるのである。

の部分は完全に三部経のご法義を破壊していますね。

 阿弥陀仏が、絶対に善の出来ない私一人のために、五劫の思惟、兆載永劫の御修行をなされて、その善根功徳の全てが込められた南無阿弥陀仏を頂くばかりなのに、まだ私の方で何かしなければならないと説くのは他力回向の教義に反しています。
 そして、会員を因果の道理で鞭打って金集め、人集めをさせて自分は楽して贅沢三昧ですからね。一番因果の道理に反しているのは会長であることがよく分かります。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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