ブログ「あなたの白道」(嶋田久義元講師)の案内                               及び 成就文から念仏も死後のことも取り去ってニセモノの本願を説く高森顕徹会長

『私の白道』で知られる嶋田久義元講師が新たなブログを書かれていますので以下に紹介します。

『あなたの白道』

当ブログのリンク先(右下)にも追加しています。関心のある方はどうぞご覧下さい。



さて、前回の続きです。まずは聖人のお言葉を今一度挙げます。

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文


今回は「乃至一念」からでありますが、それについては、

「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。 「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

とお示しです。「乃至」とは、数が多いとか少ないとか、時間が長いとか短いとか、次第の前とか後とか、そういったもののすべてが包摂されている言葉だというのです。この「乃至」からは、念仏は百遍でも十遍でも一遍でも、あるいは一遍も無くてただ本願の名号を聞くだけでも往生が可能であるように成就されているのが本願名号の救いであるということと、信一念より命終わるまで念仏の行者は一生涯に亘って念仏を相続していくということの、二つの方向が含まれていることが伺えます。

一念」については、『一念多念証文』では「信心をうるときのきはまりをあらはすことば」であるとされ、信心がおこる時の極限を顕した言葉であるといわれています。いわゆる「信の一念」、「信楽開発の時剋の極促を顕」されたお言葉ですが、では本願成就文の「一念」には「信の一念」の時剋釈のみで「行の一念」、すなわち念仏は無いのかと言ったら「称名の一念」の意味があると存覚上人は仰せです。詳しくは

『飛雲』念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

をご覧下さい。本願を「念仏往生の願」と言われるからには、その「念仏往生の願」成就の文には当然念仏があるのです。その当然あるはずの念仏を成就文から除いて、訳の分からない「信心」を教えているのが高森顕徹会長です。恥ずかしいことに高森会長は『教学聖典(3)』にて

問 阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』でどのようにハッキリするかを示せ。
答 (中略)
  ○信心が正因か念仏が正因か判らぬ ― 念仏がないから信心一つ

という珍回答を載せています。はぁ? 「念仏がない」だぁ? こうして念仏が除かれ、訳の分からない「信心」が独り歩きして、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことだ」とか、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽が獲られたことのように誤解している会員の皆さんがほとんどかと思われますが、飛雲さんの言葉を借りれば「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心です。念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。「信心正因」「信心為本」「唯信独達」とは言っていても、肝心の「信心」が何なのか全くもって知らないのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。


次に、先日の講師部講義でチラッと出てきた「至心回向」についてですが、親鸞聖人は

「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。

と仰せです。阿弥陀如来が、真実の御心をもって、「本願の名号」すなわち南無阿弥陀仏を十方衆生に与えて下されるというのです。高森会長は「何を」与えて下されると言ったのか、或いは「何を」の部分は話をしなかったのか、頂いた情報のみからは分かりかねますが、南無阿弥陀仏を頂くのです。それが心に頂かれたのを「信心」といい、口に出れば「念仏」といいます。「信心」も「念仏」も体は同じ、南無阿弥陀仏の名号であります。であるから、往生のみちは「ただ念仏して」と言われるのです。これに「信心」という言葉を付け加えるなら、「ただ『念仏一つで助かる』という信心で念仏して」となります。もう一度言いますが、念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。


それから「願生彼国」にも触れておきましょう。これについては、

「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。

とお示しです。かつて本願文の「若不生者」についての法論がなされていたおよそ9年前、教学講義にて「若不生者」の「」は「「信楽」に生まれさせることだ」とこだわる高森顕徹会長はこのように明言しました。

成就文には死後のことは説かれていないから、本願文に死後のことが説かれているはずがない

と。じゃあ「本願の報土へ生れ」るのはいつですか? 当然死後です。死後の「本願の報土へ生れんとねがへ」と仰せです。現生では必ず「本願の報土へ生れ」る位に定まり、臨終一念の夕べに「本願の報土へ生れ」るのです。ちゃんと「死後の往生を願え」と死後のことが説かれているじゃないですか。成就文に死後のことが説かれているから、本願文にも当然死後の往生が説かれています。それを親鸞聖人は

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

と仰っているのです。そもそも「往生」の語源は法然聖人の「捨此往彼 蓮華化生」(『往生要集大綱』)の語に由来し、その往と生で「往生」ですから、「生きているときの往生」などと言ったりはしないのです。「即得往生」の語は、「正定聚の位につき定ま」ったことをいうので、これを「生きているときの往生」などとは言いません。「不体失往生」にしても、平生に必ず往生すべき位に定まったことを「体失せずして往生す」と言われているのです。別に「生きているときの往生」と「死んでからの往生」と二つの「往生」があるのではありません。

生きているときの往生」=「不体失往生
死んでからの往生」=「体失往生

と親鸞会では捉えているでしょうが全く違います。『口伝鈔』一 体失・不体失の往生の事をよくお読み下さい。往生はあくまで死んでからです。その往生すべき位に定まるのが平生か臨終かというのが体失・不体失往生の諍論です。書かれているお二方の主張は以下の通りです。

親鸞聖人 ― 往生が平生に定まる ― 念仏往生の機 ― 18願 ― 不体失往生
証空上人 ― 往生が臨終に定まる ― 諸行往生の機 ― 19願 ― 体失往生


生きているときの往生」などというのは語義からの逸脱であり、高森顕徹会長の無知も甚だしいです。


このように成就文から念仏も死後のことも取り去ってしまうから、会員は念仏を軽視して信心のオマケのように思い、浄土往生ではなく「夢・幻のような現世の幸せ」を願ってしまうのでしょう。死後の浄土も結構だが、それよりも今のこの苦しみを何とかしてもらいたい、「絶対の幸福になりたい」「幸せな人生にガラリと変わりたい」が本音ではありませんか? そしてそのために推進される活動な活動に励んでいるのはありませんか? そんなだから、阿弥陀仏が遠く感じられてしまうのです。阿弥陀仏のねらいは私を浄土往生させることにあり、そのために本願を信じさせ、念仏を称えさせようとしているのです。試しに浄土往生を願って、様々な活動を止めて念仏一行を称えてごらんなさい。今まで遠かった阿弥陀仏が、近く感じられませんか?

親鸞聖人は念仏と諸善を様々に比較されていますが、その中で

親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。


と教えられています。親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それは雑行であり、阿弥陀仏から疎遠であり遠く離れた行であって、そんな雑行を修める者を阿弥陀仏の光明は摂め取っては下さいません。浄土真実の行である念仏一行を、本願を疑い無く聞き受けて称える者を、阿弥陀仏は必ず摂め取って決してお捨てにならないのです。会員の皆さんには、早く念仏と死後のことが抜けたニセモノの成就文、及び念仏の抜け落ちた訳の分からない信心を獲させるニセモノの本願を説く邪義と決別して本願を計らい無く聞き受け、本願の名号を専ら修めて往生を願う念仏の行者となって頂きたいものです。

以上、簡単ではありますが、成就文を介して本願のお心を伺いました。あらゆる人々が、諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀如来が真実の心をもってお与えになったものであるから、本願の報土に生まれたいと願うその時に往生が定まり、正定聚不退転の位に住する。これが本願の救いだと明らかにされたのが釈尊であり親鸞聖人です。私達はこうした浄土真宗を計らいなく聞いて念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。


【参照】及び【参考文献】
一念多念証文(現代語訳)
『WikiArc』トーク;一念多念証文
親鸞聖人における現生正定聚の意義
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五正行 正業 助業 についての味わい

こんばんわ、Abcです。

今回、記すことはあくまで「味わい」ですので、
もしかしたら間違いを含むかもしれません。
その際は、コメントにてご指導のほどよろしくお願いします。

・五正行 右()内は正業、助業

読誦正行 (助業)
「浄土三部経」(経)、「七祖本」(論)及び「親鸞の著書」などの書物(釈)を読む行い → 「南無阿弥陀仏」のいわれを知るために書物を読むが、
「われ助けん!」という弥陀の呼び声を聞くための行いとされなかったため
「正業を助けるおこない」とされています。

観察正行 (助業)
弥陀の名号、絵像、木像を観察する行い
→ 名号は「方便報身尊号」、絵像(木像)は「方便報身尊像」といわれるように、本来の目的は「弥陀より信心(募りとするこころ)を賜ること」であるため
「正業を助けるおこない」とされています。

礼拝正行 (助業)
阿弥陀仏を礼拝すること。
→ 「礼拝する」とみますと私は(正業)でも良いのでは?と思ったりもしてしまいます。
そもそも、「南無」の語源(サンスクリット語 ナマス)は、「~に礼拝する」という意味を持っており、直訳すると「阿弥陀仏に礼拝する」となるので私のなかでは、若干あやふやです。
これに関しては、皆様のお力添えをお願いしたいところではあります。

称名正行 (正業)
ほとけの御名を称えること → この「六字」に「弥陀のすべて」が詰まっているためこれを「正定業」(正業)とも呼ばれます。自力の念仏(20願の念仏、自力で唱えて往生しようとする称え方)は「他力の中の自力」とも呼ばれ、「方便化土」に生まれます。一方、他力の念仏(18願の念仏、他力回向の念仏、「われ助けん」を疑いなく聞き入れた念仏 など)は「他力に摂め取られ(仏の方より往生は治定せしめ給う)」とも呼ばれ「真実報土」に生まれます。

讃嘆供養正行 (助業)
阿弥陀仏の功徳くどくをほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。
→ 「褒め称えること」は、「信心の沙汰」に通じますが「真宗の目的」は、
「ひとりひとりが弥陀より信心を賜る」ことなので助業となっています。
「ささげて供養する」は、「供養往生」(異安心のひとつ 財施をおこなえばおこなっただけ「往生するだろう」と思うこと)に当たるので正業とはされませんでした。

また弟子は、坊主にものをだにおおくまいらせば、わがちからかなわずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。 これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、 さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。 (蓮如上人 御文 1-11 電光朝露・死出の山路 より)

南無阿弥陀仏

Abc

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>問 阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』でどのようにハッキリするかを示せ。
>答 (中略)
  ○信心が正因か念仏が正因か判らぬ ― 念仏がないから信心一つ

確かに、これでしたら1年聞いていても、5年でも10年でも「念仏がない」となってしまいます。申し訳ございません。私は教学聖典(1)しか見ていなかったので、把握できませんでした。

ですが、これならば話が早いです。「念仏がない」ということは、
「称名念仏(正定業)」はまずなくなってしまいますし、(「念仏往生」ですので)

「本願名号正定業」が「念仏がない」ということで無くなってしまい、
次にある
 「至心信楽願為因」(18願を因と為し)
 「成等覚証大涅槃」(大涅槃へ往くことと等しく成る証を覚り、)
 「必至滅度願成就」(11願もまた成就する)
ということがないこととなってしまいます。

「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」といふは、本願力の不思議を憶念するひとは、おのづから必定に入る(正定聚に入る)べきものなりといへる意なり。
(蓮如 「正信偈大意」より)

この箇所で申す「本願力の不思議」をなきものと申しあげているに他なりません。

そうしますと、「唯能常称如来号」すなわち「南無阿弥陀仏を常に称えることは唯一の能うべきこと」とはなりませんし、
「応報大悲弘誓恩」(大悲弘誓恩(弥陀弘誓の恩)に報う応え)とは成りません。

天親菩薩のところは上記より顕著となります。
「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」すなわち「天親菩薩は、『浄土論』を造り無碍光如来に帰命した」となります。

もう少し申しますと、天親菩薩は『浄土論 願生偈』にて
世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国
世尊はわれわれに 無碍光如来(阿弥陀仏)に帰命(南無)して 安楽国(真実報土)に生まれてくれよと 一心に願われました。
とありますが、ここにある「名号」も「念仏往生」の「念仏」ですので高森さんの観点からしますと無いこととなってしまいます。

そのため
「往還回向由他力 正定之因唯信心」
(往還二相回向は他力に由来し 正定業の因(たね)はただ信心(念仏)一つである)
と会員は、到底思えなくなってしまうのです。

彼らは、朝晩のお勤めで、私が記した文言を読んでいるはずなのですが(願生偈は別として)肝心の「念仏」を抜いてしまったがためにこのようなことがおきてしまっているのです。

最後にもう一度いいますが、「『念仏往生』を目的としている真宗(お西の方は、浄土真宗)では、「念仏を本とする(七祖本 法然 選択集)」であるので「念仏」がなくなったらそれはもう真宗ではない」のです。

真宗の布教使、門徒ともども他宗から「一向衆」「無碍光衆」と指を指されるほどに「弥陀をあてにする(信じる)あつまり」なのです。その中において「善をせねば往生できない」と申し上げることは親鸞や蓮如、七祖の御遺訓に背き、ひいては弥陀如来の計らいをはねつけることに他ならないのです。

印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。 (蓮如 正信偈大意 より)

なまあみだぶ なまあみだぶ

Abc

浄土真宗は大乗のなかの至極なり

>このように成就文から念仏も死後のことも取り去ってしまうから、会員は念仏を軽視して信心のオマケのように思い、浄土往生ではなく「夢・幻のような現世の幸せ」を願ってしまうのでしょう。死後の浄土も結構だが、それよりも今のこの苦しみを何とかしてもらいたい、「絶対の幸福になりたい」「幸せな人生にガラリと変わりたい」が本音ではありませんか? 

高森親鸞会って、いわゆる巷間の「自己啓発セミナー」のテクニックに「信心獲得」という宗教味を付けた、学徒ごっこみたいですね。
仏教とは、煩悩の寂滅を目指す教えなのですが、その為に「信心決定」という煩悩を煽るのですから訳が解らんです。
で、この「信」と「救い」を連関させて浄土真宗のご法義を説くから、御開山の示して下さった「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息p.737)という仏道が判らなくなるのだと思ふ。
浄土真宗に於ける「救い」という概念が、明治期以降のキリスト教の救いと混同されている面も多いのでした。林遊はこのような「救い」という捉え方を「金魚すくい」の救いと揶揄してたりするのですが、高森氏は。迷いからの出離という仏教の基底に接したことがない為に彼の教義が破綻するのでした。
せめて高森顕徹氏が、幾ばくかの「仏教概論」を学んでいれば、所詮は「高森さんで終わる教団だ」と越前の門徒に揶揄されることもなかったと思ふ。

ともあれ、聖道門仏教を批判的媒介項として往生浄土教は成り立っているのですが、自称予科練あがりの高森顕徹氏の親鸞会は、戦後の一混乱期を基底とし乱立した宗教思想の奇妙な一形態でしょう。

仏教とは、さとり(正覚)を目指す教えなのですが、浄土教では救いと覚りを混同しやすいのでWikiArcに「救済」=「済度」の項目を設けて「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」の意を考察してみました。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B8%88%E5%BA%A6

Abcさんへ

「五正行」云云ですが、
原典にあたってから考察しましょう。

ちなみに、御開山は、

五正行を指示する、

 正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。

の一段は、乃至して「信文類」では依用されたずに「化文類」で依用されておられるのでした。

http://wikidharma.org/59d28166086a1

林遊さん へ

おはようございます、Abcです。

>「五正行」云云ですが、
>原典にあたってから考察しましょう。

林遊さんが示していただいたリンク先の原典を確認しますと、
善導禅師が書かれた「観経四帖疏」 にあることがわかりました。

リンク先「観経疏 散善義 (七祖)」より

称名正定業
一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。

上記「これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の部分が正助二業を分かつところなのかと思いました。

ご指摘ありがとうございます。

なまんだぶ なまんだぶ

Abc

コメント返信

Abc様

仰る通りで、親鸞会では正信偈は朝晩拝読していても全く意味が判っていないと言っていいでしょう。朝晩のお勤めをキチンとしない者は助からないとか、親鸞学徒ではないと言われるからやっている人がほとんどのように思います。何にせよ、信仰が進む、横の道を進む行為と捉えてやっているに過ぎません。

信心正因称名報恩を強調しすぎるのと、本願寺攻撃に「ただ念仏さえ称えておれば・・・」という文言を用いるのと、念仏は本願と言い換えられたりするのとで、本当に念仏と疎遠な新興宗教が親鸞会です。


林遊@なんまんだぶ様

>高森親鸞会って、いわゆる巷間の「自己啓発セミナー」のテクニックに「信心獲得」という宗教味を付けた、学徒ごっこみたいですね。

その通りです。「絶対の幸福」だとかいう「夢・幻のような現世の幸せ」を前面に出して聞く者を釣り、やがて必堕無間の恐怖を植え付けて縛り、助かる道は「信心獲得」しかない、それには善をして信仰を進めなさいと組織拡大活動をやらせています。ただそんなに真剣に活動しているかというと大体はサークル活動のような感じ、まさに「ごっこ」です。

もともと打倒本願寺と私利私欲を満たすのが目的なので、正しい真宗を学ぶとか、皆々信心決定あれかしとか、そういったことはどうでもよいのでしょう。可哀想なのはそんな人物とは知らずに無二の善知識と信じている会員の皆さんです。騙される方も悪いのかも知れませんが、やはり一番の悪は騙す方です。

「救われる」=「ものすごい幸せになる」と会員の皆さんは思っていると思いますが、目的違いも甚だしいです。成仏が目的です。それを「絶対の幸福」とか「必堕無間から逃れること」を目的にしているから訳が分からなくなってしまうのです。挙げて頂いたリンク先を読んで頂いて、浄土真宗における救いとはどういうものか分かって頂きたいです。

淳心房さんへ と書きましたが会員へかもしれません

こんばんわ、Abcです。

>親鸞会では正信偈は朝晩拝読していても全く意味が判っていないと言っていいでしょう。朝晩のお勤めをキチンとしない者は助からないとか、親鸞学徒ではないと言われるからやっている人がほとんどのように思います。

意味がわかってないのでしたら、淳心房さんや林遊さん、近場のお寺さんなどでもたずねることができましょう。「本願寺は間違っているから近寄ってはいけない」に対して歯向かうのでしたら。

私が一番、腑に落ちてないことは「本願寺は間違っている」といいながら、同じ口で「蓮如上人は真宗を広められ、また諸善を広められた」と申しているところです。

かつて、この会のセミナーには「正信偈に学ぶ」というのがありましたが、「念仏がないから信心一つ」などと申すことは「正信偈を学ぶ気がない」としか受け取れません。悲しい限りです。

選択本願(18願) (真佛土)往生之業 念仏を本とする。(法然)

そらごとたわごと真あることなし、ただ念仏のみぞ真にておわします。(親鸞)

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、(乃至)末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。 (蓮如)

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”念仏一行で良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。 (高森さん)

会員のために下線までつけて、書き示しておきました。

なまあみだぶ なまあみだぶ

Abc

Re: Abc様

> 意味がわかってないのでしたら、淳心房さんや林遊さん、近場のお寺さんなどでもたずねることができましょう。

会員は高森会長・親鸞会以外は全て間違い、高森会長・親鸞会の説くところこそ真実と信じ切っていますので、そういうことはまずしません。依然として助からない現実と、教義的・組織的におかしなところに疑問を抱いて調べようと思わないことには外部の情報を入れようともしないでしょう。

Re: 淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

>会員は高森会長・親鸞会以外は全て間違い、高森会長・親鸞会の説くところこそ真実と信じ切っていますので、そういうことはまずしません。

まぁ、そうであるからこそ淳心房さんや林遊さん、飛雲さんなどが教義の違いについて書き表されているのですし、「知っていただきたい」とも思って文をしたためているのでしょう。私もまた、このように信心の沙汰をさせていただいていることは嬉しい限りです。

高森さんの説かれている、「信罪福(「善のすすめ」によって往生を定めようとたよりにすること)」は「因果の道理」であり、弥陀の願いのうち「19願」がこれに当たります。「自力」について、「19願を信じる」は「18願を疑う」ということに他ならないので往くところは「化土」です。
また、「自力の念仏」ともよばれる「20願(果遂之願)」の往く先も、「18願を疑う」ということに他ならないので「化土」です。

また「従仮入真」ということは「仮に従いて真に入る」といいますが、「仮」は「仮門(権仮要門)」すなわち「19願の門」です。また「真門」は「20願の門」のことで、どちらも「他力を疑いてくぐる門」であるので、疑城胎宮へ往くのです。

また、「仮門」(臨終来迎の願)の延長線上にある「八万四千の法門」も「不了仏智のしるし」に他ならないので「化土」なのです。

時たまいわれている「キリスト教信者も仏を信じていない」ということに関しては、「聖書(旧約聖書 新約聖書)」に「ほとけ」ということが書かれていないから当然です。

ここまで「化土」について書いてきましたが、実際のところ高森さんは「善もどきの善」なので「化土」でなく高森さんのいっている「無間地獄」に高森さんとともに落ちてゆくのです。

何度かこちらに書かせていただいてる「回向文(天親菩薩)」
「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」は、
「十字名号」の元の文ですが、これは
本願寺で読まれている「回向文(善導禅師)」につながっています。

世尊我一心 (世尊はわたしたちに一心に)
帰命尽十方 無碍光如来 (無碍光如来(阿弥陀如来)に帰命(南無)して)
願生安楽国 (安楽国に生まれることを願う)

以此功徳 (此の功徳を以って願う)
平等施一切 (一切を平等に施し)
同発菩提心 (同じく菩提心を発し)
生安楽国 (安楽国に往生することを)

なもあみだ なもあみだ

Abc

信罪福心

Abcさん

お示しの「信罪福」についてwikiarcに追記してみました。

ともあれ、仏教で使われる言葉は定義をはっきりしないと高森親鸞会のように、迷いの因になるのですが、学ぶなら正確に御開山の説かれた意(こころ)を領解したいものですね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BF%A1%E7%BD%AA%E7%A6%8F%E5%BF%83

コメント返信

Abc様

>そうであるからこそ淳心房さんや林遊さん、飛雲さんなどが教義の違いについて書き表されているのですし、「知っていただきたい」とも思って文をしたためているのでしょう。

そうですね。親鸞会教義の誤りと、浄土真宗について知って頂き、本願を信じ念仏してもらいたいです。

臨終現前の願の行を、どうして平生業成の願の信を獲るためにやらねばならないのか。会員の皆さんはそこに疑問を持たねばならないと思います。会員としては「高森先生が仰るから」なのでしょうが、親鸞聖人はそんなことは教えられていません。それでも高森会長についていくというなら勝手にしたらよいでしょうが、そんな人はまかり間違っても「親鸞学徒」ではないことを自覚すべきです。


林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。親鸞聖人は本願を信じるのに「まず罪福を信じよ」とは教えられていないことを会員の皆さんには分かって頂きたいです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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