ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけだったあの頃

先日、家族旅行で愛知県のラグナシアというテーマパークへ行ってきました。前日はそこへ隣接している変なホテルに泊まったのですが、長女は随分気に入ったようでした(次女は受付のでかい恐竜にビビッてましたが・・・(;'∀'))。3歳~10歳位の小さい子供がいるご家庭にはお勧めです(^ω^)

朝食を終え、開園時間まで随分あったので、私は長女と三女を連れて近くの海岸へと向かったのですが、内海とは言え久々に見る海の大きさに、改めて人間の小ささを知らされました。

ふいに遠くの方へ眼をやると、大きなタンカーのような船が見えました。それが、かつて親鸞会で説法のたびによく目にしていた「難度海を度する大船」によく似ていたので懐かしく思われました。しかしあの頃は

難度海を度する大船があるぞ~!
早くこの船に乗れよ~!


といくら言われても、大船がどこにあるのかも分からず、ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけでした。私と「難度海を度する大船」の間には随分と距離があるように感じ、その距離感は聞き始めた当初から退会まで変わりませんでした。ただ黒板に書かれる大船の絵を眺めては、「早く乗せて頂きたい。どうすればあの船に乗れるのか・・・」ともがいていたことを思い出します。

このように、かつての私と同じくただ「難度海を度する大船」の絵を遠くに眺めているだけで、私と大船の距離感は聞き始めから現在に至るまで変化がないという会員さんはいませんか? いらっしゃるとしたら、どうしてだと思いますか? 親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だということは耳タコと思いますが、これを高森顕徹会長は

人生の目的が現在に完成する

ことだとしています。ということは、

「難度海を度する大船」に現在乗せて頂ける

ということです。しかし現実としては、何年、何十年求めても一向に大船に乗ることができない。大船に近づいているのかも全く分からないし、もうすぐ乗れるかもしれないという兆しも全く無い。どうしてでしょうか?

それは、求める方向性というか、ベクトルが逆だからと言えると思います。皆さんは、かつての私同様、

「早く乗せて頂きたい。どうすれば・・・」

と考えて、そのために推進される様々な活動に取り組み、それによって横の道を進んで大船に近づいていると思っていると思います。逆に現在の活動と、大船に乗ることが無関係なら、今のようには一生懸命取り組まないと思います。私が救われるべき地点まで到達しなければと思い、破邪顕正(勧誘)や財施(献金)をすることでそこへ近づき、やがてたどり着けるかのように思っているでしょう? これが大間違いなんです。

浄土真宗の信心は「本願力回向の信心」と言われるように、「如来の加威力」によって一方的に恵み与えられる信心です。それを、こちらから掴みにかかっているんですから、素直にお受けできる道理がありません。こちらの掴もう、助かろう、何とかなろうという力みを捨てて、あちら(阿弥陀)様の仰せを受けないことには信心も安心もないのです。

また、信心、信心と言われるものの、肝心の信心の内容を間違って教えられていることも原因の一つと考えられます。他力の信心をとるといっても、それは「ただ南無阿弥陀仏」なのです。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通)

「我をたのめ、必ず助けるぞ」の六字のこころを信受したのが「信心」、それが口に出たのが「念仏」ですから、蓮如上人の仰る「ただ南無阿弥陀仏」は

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)

の「ただ念仏」と全く同じです。名号で語るか、念仏で語るかの違いのみで、南無阿弥陀仏の他に信心も安心もありません。ところが親鸞会では二種深信を誤解して、

地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすることだ

などと訳の分からない説明をしています。また、映画『なぜ生きる』を盲信していると、

苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったのが他力の信心だ

と思ってしまうでしょう。このように、南無阿弥陀仏、念仏と全く関係ない信心を教えられますから、そんな教えを聞く会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる「信心」を獲られないのも道理です。


根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆゑに臨終にふたたび名号をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。(執持鈔)

覚如上人も仰せのように、「本願の名号」が「正定業」であり、それは「弥陀の名願力を称念す」ること、「本願の名号を持念す」ること、つまり「ただ念仏して」です。で、念仏するその信心はというと、「本願あにあやまりあらんや」、本願を聞いて疑いない信心です。本願、また本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の名号を聞くことの他に信心はありません。その「本願の名号」と無関係な信心の説明を聞いていて、「本願の名号」を信受できる方がおかしいというものです。

一部『教学聖典』に出ているお言葉も混じっていますが、会員の皆さんはお聖教に取り組もうとしないので、覚如上人の仰る意味がまるで分かっていないと伺えます。まぁ私も当初はそうでした(今も知らないことだらけで勉強中ですけど・・・)から当然と言えば当然です。知らないなら知らないで知ったかぶりをせず、知らなかった自分を反省して覚えればいい話です。

このように平生本願の名号を聞き受け念仏すれば、その時往生の業事は成弁し、臨終に再び念仏を称えなくても往生を遂げるであろうことは勿論です。死の縁無量ですから、どのような死に方をするか分かりません。念仏を称える間もなく、あっという間に死んでしまうかもしれません。凶弾に倒れたり、溺れ死んだり、焼け死んだり、病気に苦しみ悶えて死んだり、あるいは寝ている間に死んだりして、臨終に念仏する余裕もないかも知れません。しかし、どのような臨終を迎えるにせよ、臨終の有様と往生は無関係であることをこの段では教えられているのです。そして最後のお言葉が、

本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。

です。「本願を信じ念仏せよ」、これ以外に往生のみちは無いのです。逆にこれ以外の道を示してそこへ聞く者を誘導し、獲信・往生と無関係な組織拡大活動をやらせて私利私欲を満たしているのが高森顕徹会長です。

もし会員の皆さんが「難度海を度する大船」「大悲の願船」に乗せて頂きたいと願うなら、間違った教えを説く知識から離れて本物の真宗に遇い、本願を疑い無く聞き受けて念仏する他にありません。週末には親鸞会で報恩講が営まれますが、如来聖人のご恩に報いようとするならどうするべきか、よく考えて頂きたいと思います。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

>もし会員の皆さんが「難度海を度する大船」「大悲の願船」に乗せて頂きたいと願うなら、間違った教えを説く知識から離れて本物の真宗に遇い、本願を疑い無く聞き受けて念仏する他にありません。

誠にそのとおりです。まずは「間違った教えを説く知識から離れ」るために「聖人の教えとは」と立ち返ることが肝要です。

私の立場上、あまり好むことができない「改邪抄」より引用いたします。

一 本願寺の聖人(親鸞)の御門弟と号するひとびとのなかに、知識をあがむるをもつて弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもつて別願真実の報土とすといふ、いはれなき事。

それ自宗の正依経たる三経所説の廃立においては、ことしげきによりてしばらくさしおく。(乃至)「易行道といふは、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生れんと願ずれば、仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入れたまふ」といへり。曾祖師黒谷の先徳(源空)、これをうけて「難行道といふは聖道門なり、易行道といふは浄土門なり」(選択集 一一八九)とのたまへり。これすなはち聖道・浄土の二門を混乱せずして、浄土の一門を立せんがためなり。(乃至)ただ実語を伝へて口授し、仏智をあらはして決得せしむる恩徳は、 生身の如来にもあひかはらず。木像ものいはず経典口なければ、伝へきかしむるところの恩徳を耳にたくはへん行者は、謝徳のおもひをもつぱらにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかは別の仏なしといふこと、智者にわらはれ愚者を迷はすべき謂これにあり。あさましあさまし。

上記しました通り、知識は「如来の御代官」であって「帰命すべきところ」ではないのです。また、此のことは「御文 1-11 電光朝露・死出の山路」にも、

また弟子は、坊主にものをだにおおくまいらせば、わがちから
かなわずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり
これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、
さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。

とあります。
 改邪抄は「知識をあがめ奉ること」、御文は「知識(坊主)にものをまいらせたならば、往生できる」と門徒は考えているでしょうが『それは誤りである』ということをいわれているのです。

「それならばどのように...」と思われるでしょうが、親鸞の教えに立ち返ると「ただ念仏して(ただ弥陀仏にたのみまいらせて)」すなわち「六字の名号」なのです。

名号は、右脇にかけられている「十字名号」 左脇にかけられている「九字名号」
『正信偈』に挙げられている「十二光仏」と様々にあり、時たま門徒の中でも「どちらが名号か」「どちらが本尊か」「どちらが...」となりますが「六字」も「九字」「十字」も「名号」なので捨てなくてもよいのです。

すこし変わった言い方をしますと、「帰命大講堂如来」と申されたとしても「講堂(道場)」は「弥陀の別号」としてございますので問題ないのです。

私の書き記したこの文を読んでいる今このときも、弥陀は「われ助けん!」と叫ばれているのです。その叫ばれていることを文字にしたものが「名号」なのですが、「如来の御代官」が代わりとして筆を染められて書かれたので壁にかけられている名号は「方便法身尊号(法の身(からだ)である尊号(名号)を方便として(仮として)書かれたもの)」と称されるのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

今も活動している会員の多くは、

・高森先生の他に今日本当の親鸞聖人の教えを説ける方はいない
・誰が何と言おうと高森先生が正しい
・高森先生を通してしか阿弥陀仏の御心は分からない

と信じていることと思います。会長自身は「阿弥陀仏に助けてもらいなさい」と言い、「俺に帰命しろ」とは言っていませんが、講師部聖則

・会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
・上司の指示は会長先生の命と心得ます。

や蓮如上人の『御一代記聞書』

「善知識の仰なりとも「成るまじき」なんど思うは大なる浅間しき事なり。然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも、「畏まりたる」と申すべく候。」

等の言葉を利用して、阿弥陀仏への無条件服従を巧みに会長や上司への無条件服従にすり替えています。会員は会員で、会長や上司の指示命令に従っていくことが信心決定への最短の道だなどと信じていますから、これで阿弥陀仏に帰命できる方がどうかしています。


ちなみに、会員の皆さんはお示しの文で言いますと「坊主にものをだにおおくまいらせば、わがちからかなわずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。」、高森会長や講師部員、また親鸞会に物を多く出せば助かるというよりは、教えは正しいがそれに合わせられないから助からないように考えていると思います。先ほどの会長や上司の指示への無条件服従がかなり効いています。いずれにしても親鸞聖人とは真逆な教えを本物と教えられ、真実と盲信している会員の皆さんは実に哀れです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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