宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議

先日愛知県へ旅行に行ったことをこの記事で書きましたが、今回はラグーナビーチを歩きながら考えたもう一つのことを書きます。

その日の朝、私は長女と三女を連れて歩いていた(三女は抱っこの状態)のですが、やがて三女は寝てしまいました。長女は長い木か竹の棒を見つけて波打ち際でお絵かきを始めたので、三女の睡眠時間確保のために私はしばし別行動をとり、少し離れた海岸線の先へと向かいました。

普段のせわしない日常から離れ、ゆっくりと時間が流れているようでした。視界を遮るものはなく、沖に目をやれば水平線が見え、山に目をやれば広大な自然が広がっており、周囲に人間は私達家族を含めて5、6人しか見当たりません。何て広いんだ・・・。都会で生活していると、実にせせこましい所で毎日同じことの繰り返しで生きているため、すごく新鮮な気分でした。そして、この小さい体と頭で普段俺は一体何をやっているんだと思わされました。

こんな広い世界で、俺一人居ても居なくても何も変わらないし、一生の間でやることなど実にちっぽけなことだ。俺が死んで何十年、何百年と経ってしまえば、俺という人間がこの地球に存在していたことすら誰も知らなくなるだろう。道路には沢山のトラックが走っていて、俺もいつもは似たようなことをやっているが、遠くから見るとあんなちっぽけに見えるのか・・・。この広い海や山に比べたら、何て小さいんだ・・・。これが宇宙から見たならば地球なんて塵のような小ささで、星ごと一つ消滅したところで何の変化もないのではなかろうか。海や山と比べたってこんなにちっぽけだというのに、まして宇宙と比べてしまったら、俺は何て小さな存在なんだ・・・。

このように考えた時、藤村操の「巌頭之感」が頭をよぎりました。

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。


こう書き残して自殺した藤村操の心中は分からんでもありません。わずか50年乃至100年の人生、わずか五尺の躰でこの広い世界に挑戦しようというのですから、無謀もいいところです。一生の間で分かることなどホンのごく一部に過ぎず、ほとんど何も分からんまんま生き、ほとんど何も分からんまんま死んでいくのです。自分一人でできること、残るものなんて無いに等しいです。子供が海辺に書いた絵と同じで、自分が残した足跡は消えてしまいます。ならば今死ぬのも、この先苦労して、世界のほんのちょっとのことを勉強して理解して、ほんのちょっと人の役に立って、ほんのちょっと周りに迷惑をかけて、ほんのちょっとの足跡を残して死ぬのも、何も変わらないのではないか。どうせ俺という存在さえ遠くない将来にこの世から抹殺されてしまうのだ。そうならば、苦労しない分今死んだ方がマシではないか。

このように考えを巡らしますと、自殺者が絶えないというのも理解できます。実際私も思うようにならない現実にもがき苦しみ、人生苦を感じて自殺したいと思っていた口ですので。


ただ、今は自殺をしなくて良かったと思えます。つらかったけど、苦しかったけど、毎日死にたいと思っていたけど、南無阿弥陀仏が私に至り届いていると知ることができましたから。いつ何が起こるか分からない、あっという間に生きて死んでいくこの世界で、ただ一つのまことに遇えたことは喜びの中の喜びです。死に際しては何一つたよりにならず、死出の山路、三途の大河をただ一人逝かねばならないというのに。苦しみから苦しみの綱渡りで、死んでも我が業苦で責め立てられて安らぎなどないというのに。その私を浄土へ連れていって仏にするというのですから、南無阿弥陀仏にはいかなる淳心房も頭が下がります。

宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議。名声聞十方と重ねて誓われた阿弥陀仏の本願はまことでした。その願成就して南無阿弥陀仏と成って私にはたらいていることを知らせて頂けました。噓偽りだらけ、無常のものしかないこの世の中で、「ただ念仏のみぞまこと」と仰った親鸞聖人のお言葉は本当だなぁ、南無阿弥陀仏しかまことにたよりになるものはないなぁと思わされます。この偉大なる選択本願念仏の御法によくぞ遇うことができました。そしてそれを信じ奉り念仏しているのは、不思議の中の不思議。本当に良かったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
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有難い。

いつもご苦労様です。

一文不知の尼入道の私ですが、この私めがけて届いた南無阿弥陀仏、不思議不思議の他はありません。
本当に不思議だなぁ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

旅行、リフレッシュできたようでなによりですw

1時間後くらいに精神科なので、近くの喫茶店でタバコ吸いながら書き込んでます。
どこの病院でも精神科は20年前からいっぱいで、現代日本の生き辛さを象徴しているように感じます。
色々あって会社辞めてもいいやと、先日鬼上司と二者面談しました。
話が過去のパワハラに及び、「記憶にない」とかぬかすので「アンタが散々こうしてきたでしょうが‼︎」と近くにあったイスを思いっきり蹴飛ばしました。
更年期障害ですかね。
数日前につべでみたOUT RAGEの影響ですかね。
俺がイカれてるんですね多分。

一応しばらく仕事は続けることになりましたが、色々と拗らせた人間がこれ以上生きていくのはちょっと無理っぽいなと思ってます。
予定より20年も生きたし、俺が長生きしてもロクなことがないと思います。
今は阿弥陀さま任せというか、このまま毎日お念仏と共に慶び苦しみながら生きるのかもしれないし、淳心房さんの知らないうちに豆腐メンタル如来爆誕してるかもしれませんが、どちらでもよくて今は心がとても穏やかです。
本当に苦しんでるんだけど、同時にお念仏と共に安心している精神科患者ってあんまりいないんでしょうね。
精神科が実家の近くにあるので、帰りに愛猫にゃんたくんを慈しみ、耳もとで願いと共にお念仏しますw

>>とくよしみねさん

あなたの白道の手記、読ませて頂きました。
在籍中では御縁がありませんでしたが、多くの共感と共に拝見しました。
お会いした事はありませんが、やはり俺にとってもとくよしみねさんはなぜか懐かしく思います。
幻のような世界で共にお念仏を喜んでること、不思議です。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

我信念

淳心房さん。

>このように考えた時、藤村操の「巌頭之感」が頭をよぎりました。

お示しの「巌頭之感」から清沢満之師の「我信念」を想起しました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001211/files/45629_23864.html

「我信念」は、じいさん(父親)の本箱にあったのを、中学生か高校生の頃に引っ張りだして読んだ記憶があります。
思春期ですから、何となく、なんまんだぶを称えることや朝夕おつとめをする/させられることに疑問を感じていたときに、愚昧な両親を論破してやろうと読んだ本です。
敵の思想を知らなければ論破も出来ませんからと読んだ本です。
「我信念」は、読んでも意味はサッパリ解りませんでしたが、我が家の真宗という宗教は、なかなか馬鹿にできないと思ったものです。

「個」という近代の自覚から、あらゆる矛盾に煩悶する苦悩が展開するのですが、WikiPediaの「清沢満之」の項に、

歎異抄と清沢
 山本伸裕によると、清沢の仕事は、時代の濁流の中で自己を見失い、煩悶を抱いて生きざるを得なくなった近代日本人 - 代表は藤村操であるが - に歎異抄にみられるような生きた宗教心を刺激すると同時に、そこに哲学的なメスを入れることで、むき出しの「個」として生きることを強いられた人々に精神の立脚地を確立するためのガイドを示すことにあったと書いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%BA%80%E4%B9%8B

と、近代日本人の 代表として藤村操が挙げられています。
清沢満之師の「我信念」にも、

 遂に人生の意義は「不可解」であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。

と、不可解という語がありますが、不可解なる命題は有限なる世界に居るわれらには、

 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。「巌頭之感」

か、

 不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。「我信念」

と、いう二つの道があるのかも知れませんね。知らんけど。

梯實圓和上は、

 もし私どもが親鸞聖人に「あなたにとって、よろこびとすべきことは何ですか」と尋ねたら、きっと「遇うべき人に遇わせて頂いた、聞くべきみ教えはすでに聞かせて頂いた、そして現に本願を信じ、お念仏申す身にすでにして頂いている。そのことが私の無上の慶びです」とお答えになるに違いありません。
そこではすでに慶ぶべき事柄がご自身の上に実現しています。「この世に生きてある限り、さまざまな苦難は襲いかかりますけれども、しかし何事があろうと、この世に生まれさせていただき、この法縁を恵まれ、本願を聞き念仏して、浄土を一定と期する身にしていただいたことは、何にもまして有り難いことでございます」と、自分の人生に合掌して終わっていけるような境地に安住しておられることがわかります。

と、よく仰っていました。
辛いことや悲しいこと、また喜ばしいことや心おどることもあったけど、本願を聞き〔なんまんだぶ〕を称えて、浄土一定である者にまでに、阿弥陀さまに育てて頂いた自分の一生に合掌して終わっていける世界にであえたのはよかったです。
なんまんだぶと頂くものは全て頂いたのであり、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

とくよしみね様

ありがとうございます。本当に、なぜ、数え切れない衆生の中で私に届いたのか。本願からしたら当然なんですが、本願を知らない人、疑う人、謗る人、そういう人達が沢山いる中でと考えますと、不思議でしかありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

私も「あなたの白道」の、とくよしみねさんの告白手記を読ませて頂きました。長い間迷わされてしまいましたが、今は本願を信じ念仏申す身となられて本当によかったです。私達からしたら「親鸞会との縁がなければ本願を聞けなかったかもしれない」という思いはありますが、かと言ってまずニセモノの教えを通らねばならんということは決してありません。未だ迷っている会員の皆さん、そして新たに入ろうとしている方にも教義の誤りと正しい浄土真宗が伝わってくれたらと思います。


R1000様

1泊2日で中距離を移動、また子供を喜ばせるためだったので、私としては中々大変でした(;^ω^) ただ、子供を邪義に巻き込んで毎週毎週富山へ連れて行き、子供部屋に押し込めるなんてことではないので、そういう点でも私ははるかに幸せです。

本願を信じさせて頂いても、相変わらず業報で煩い悩むのは変わらないですね。

精神疾患はただ通院して薬を飲んでいても中々回復しません。一日、理想は夕一食、せいぜい昼夕二食の玄米菜食生活をして体の中の宿便を取り除き、徐々に薬の量を減らしつつ心身の健康を取り戻していくという方法があります。私の先輩はこれでうつ病から立ち直り、私も随分肉体的にも精神的に楽になりました。
現代は食べ物が洋風化して、肉、脂肪、砂糖、また食品添加物など、悪いものを体に取り込みすぎなのです。一日三食しっかり食べるのも、食べすぎでよくありません。これらのことが心身を蝕んでいると考えられます。これを体から追い出し、なるべく取り込まないことで心身の健康を保てると思います。

http://www.2shock.net/article/0012.html
1日2食健康法

などを参照して下さい。また最近

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E7%94%B7%E3%81%AF%E8%B6%85%E5%B0%91%E9%A3%9F%E2%80%95%E7%A9%BA%E8%85%B9%E3%81%93%E3%81%9D%E6%B4%BB%E5%8A%9B%E3%81%AE%E6%BA%90-%E8%88%B9%E7%80%AC-%E4%BF%8A%E4%BB%8B/dp/4074111861
できる男は超少食―空腹こそ活力の源 !

こんな本を読みましたが、やはり必要以上に食べない、食べる物を厳選して体に入れるというのがよいです。


林遊@なんまんだぶ様

林遊様にも若かりし時はそのようなことがあったのですね。少し安心というか、そういう思いが致します。

真宗、選択本願念仏を知っているかどうかで、自死か、あきらめか、如来におまかせの浄土の旅の人生になるか、そういった道が
別れてくるのだと思います。

何か、梯和上や林遊様と少しリンクしたような気持ちになりうれしいです。

>「遇うべき人に遇わせて頂いた、聞くべきみ教えはすでに聞かせて頂いた、そして現に本願を信じ、お念仏申す身にすでにして頂いている。そのことが私の無上の慶びです」(梯和上)

>辛いことや悲しいこと、また喜ばしいことや心おどることもあったけど、本願を聞き〔なんまんだぶ〕を称えて、浄土一定である者にまでに、阿弥陀さまに育てて頂いた自分の一生に合掌して終わっていける世界にであえたのはよかったです。
なんまんだぶと頂くものは全て頂いたのであり、ありがたいこっちゃ。(林遊様)

これが素直にそうだと読ませて頂けます。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

できない男ですが、超少食です(白目

淳心房さんは親切にマジレスして下さるから申し訳ないので書いときますが、俺は自分の事すらどうでもいいというか、あんま興味ないんですよね。
健康に気を遣う自殺志願者なんて聞いたことないですし。
会社の健康診断も2年連続でバックれましたし。
台所には包丁もヤカンも何もなく、コンロ点けたこともありません。
冷蔵庫様と電子レンジ様のお陰で細々と生きてる感じですな。
自殺志願者の中でもガチ勢に入るのかもしれませんが、どうでもいいです。

そんな終わってる人間でも、阿弥陀さまはいまだにお育て下さっているのを感じる時があります。
この世界は孤独で辛くて残酷で、神も仏もないと阿弥陀さまに対してさえ、ここに書けないような罵詈雑言を吐き続けました。

でもそんな俺にさえ過去無量劫からずっと寄り添って、共に苦しみ泣いて下さってました。
全てが阿弥陀さまの大慈悲に包まれていたということが真実だったと分かり、仏法のとんでもなさに、俺はいまだに唖然とするしかありません。
俺みたいな無間地獄から出てきたっぽい凡愚にはなにも分かりませんが、今、ここに、既に届いてるお念仏だけがまことだとつくづく思います。
最近は具体的に自殺を考えることも少なくなり、自分の最期がどうなろうとも縁がきたらなるようになるんでしょうし、生きるのも死ぬのも阿弥陀さまにお任せしようと思うようになりました。
あれだけ疑い謗ってきた自分でさえ、お念仏申す身にして頂けたほど阿弥陀さまのお働きはとんでもないので。
迷い切っている自分が明日の心配をするよりも、お念仏と共に今を過ごそうと思います。

嶋田さんの奥様の手記も拝見しましたが、親鸞会は不思議な所だったと思います。
個人的にはあんなキモい団体には金輪際関わりたくないですが、残されたお同行のことはやはり気になってしまいます。

俺的には、こうして阿弥陀さまの話が出来る場所があるのが有難いですし、今後もこちらのブログをご縁として阿弥陀さまにお遇いする会員さんも出てくると思うので、応援してます。

。。父ちゃん、お疲れ様でしたw
でも、お子さんにとって後々いい思い出になったと思いますし、これからもご家族を大事にして下さいね。

南無阿弥陀仏


Abcです

こんばんわ、Abcです。

>このように考えを巡らしますと、自殺者が絶えないというのも理解できます。実際私も思うようにならない現実にもがき苦しみ、人生苦を感じて自殺したいと思っていた口ですので。

淳心房さんも苦労なされたのですね...私事ですが、このように「阿弥陀さまのいわれ」を学ぼうと思い立ったきっかけは淳心房さんももうされている

>自分一人でできること、残るものなんて無いに等しいです。子供が海辺に書いた絵と同じで、自分が残した足跡は消えてしまいます。ならば今死ぬのも、この先苦労して、世界のほんのちょっとのことを勉強して理解して、ほんのちょっと人の役に立って、ほんのちょっと周りに迷惑をかけて、ほんのちょっとの足跡を残して死ぬのも、何も変わらないのではないか。

というきっかけなのです。

世尊は、「有無同然」と釈され、「有ればあるで苦しみ、無ければないで苦しむ」といわれています。それはちょうど「生きていても死んでいても苦しいのは変わらない」といわれているように感じます。

実際、「生苦(生きる苦しみ)」「死苦(死ぬ苦しみ)」と「四門出遊」で申されていますし、このことからの結論(四門出遊の結論)は「仏教は「生苦」から救う」とされ、その「救う手立て」として、堅出の機(難行道 聖道門)では「殊勝な行いにて往生する」とし、横超の機(易行道 浄土門)では「阿弥陀さまをたのみて(信じて)往生する」とされます。そのなかでわれら真宗に生かされる者は、「阿弥陀さまをたのみて往生する」集まり(正定業のあつまり)とされます。

「正定業の集まり」は「正定聚」ともよび習わされ、これについて
蓮如は「御文」の中にて、

---
 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、(云々)
---

と詠まれています。
長文を晒してしまい申し訳ございませんが、
世尊は「「生苦」をなくするには...」と旅をされ、その物語が「一切経」として現存しているのです。

その中で、親鸞は「大経こそ真実の書」といわれ、「観経」と「小経」は「イダイケ夫人の獲信(高森さんはこれをもって「会員もこのようにやってみよ」とされていますが)」と「弥陀浄土の風景を伝える書」でしかないのです。

覚如は、「因果撥無といふこと(改邪抄 内)」にて
---
大師聖人(親鸞)の御相承はもつぱら『大経』にあり。『観経』所説の「深信因果」のことばをとらんこと、あながち甘心すべからず。たとひかの『経』(観経)の名目をとるといふとも、義理参差せばいよいよいはれなかるべし。
---

といわれています。

まとめようとしましたが、まとまっていない事 お許しください。

なもあみだ

Abc

コメント返信

いやぁ、もっと自分に興味を持ちましょうよ(;^ω^) 精神疾患抱えたまま生きていくのは辛すぎます。俺は辛かったあの10代後半~30代前半にもう二度と戻りたくありません。病院にこそ通いませんでしたが、俺も間違いなく精神疾患でした。それを克服できたのも健康に気を遣い、食生活と生活習慣を見直したからなので、こうしてR1000さんにも勧めています。別に何十万という高い器具を買うのではなく、その辺に売っているミキサー(ジューサー)とガーゼを買ってきて、リンゴやニンジン、小松菜、ほうれん草等の野菜で手絞りの生野菜ジュースを飲み、食事を一日一食か二食、菜食中心に切り替えて寝る直前には食べないというだけですから。
冷食生活は良くないですよ。マイクロ波にやられてもはや私達を生かす命のない食品になってしまっているでしょう。嘘か知りませんが、普通の水では枯れなくても、電子レンジでチンした水を植物に与えていたら枯れてしまったということをどこかで読んだ記憶があります。

俺は欲深いんで、どうせ生きるならこの世をなるべく楽しんで生きて死にたいと思っています。それには、然るべき知識を得て吸収し、工夫、努力、創作、実践していかなければなりません。この世のことは自分たちで何とかするしかないのです。念仏称えていても、それだけでは生活できないでしょう? 確かにあきらめるしかないものも沢山ありますが、せめて肉体的精神的健康はあきらめたくありません。特に精神的健康は。せっかく南無阿弥陀仏に生かされた同志ですから、俺としては少しでもR1000さんに精神的に楽になってもらいたい一心で書いています。まぁ取り入れて実践するかどうかはR1000さん次第ですがね・・・。

俺もRCさん、とくよしみねさん、嶋田さんの奥さんの手記を読みました。皆さん苦労と犠牲にしたものが多く、自分だったら絶対途中で投げ出していると思いました。これ以上の苦労と犠牲を払っても、獲信・往生とは何の関係もないことを何としてもわかってもらいたいと会員の皆さん(特にかつての友人達)に改めて思いました。おっしゃる通り、家族を大切にしつつ、これからも書いていこうと思います。


Abc様

いやいや、記事ではなくコメントですから、荒らしでもないですしまとまっていなくて全く構いません(*´ω`*)

>われら真宗に生かされる者は、「阿弥陀さまをたのみて往生する」集まり(正定業のあつまり)とされます。

そうです。次生浄土に往生しよう、そのために阿弥陀様をたのみて念仏するという集まりですよね。きっかけとしては現世利益を目的としていたというのでもよろしいでしょうが、「絶対の幸福」なる文言に魅力を感じ、念仏と関係ないスーパー信心を追い求めていては真宗の信心はもう分かりません罠・・・。

ちなみに『大経』では五逆、謗法の者が救われるかどうかが分かりません。それで『観経』(下品下生の往生が説かれている)を方便の教とし、『涅槃経』(アジャセの獲信が説かれている)を信文類に長々と引文されたのでしょうね。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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