存在しない「宿善を厚くする教え」を説き、説かねばならない「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を説かないのが、高森顕徹会長が会員の後生などどうでもよいと思っている何よりの証拠

今年の6月に、東名高速道路でワゴン車が大型トラックに追突され、夫婦が死亡した事故がありましたが、ワゴン車の進路を塞いで停止させ、追突事故を引き起こしたなどとして犯人が逮捕されたようです。

妨害行為、走行車260台から裏付け 東名夫婦死亡事故

視界がどうしても悪い夜間に、時速100キロ、場合によってはそれ以上出している車がバンバン走り抜けていく高速道路の、しかも路肩ではなく追い越し車線に無理やり停車させたというのですから、殺人罪だと私は思います。後続車が追突するであろうことは容易に想像できたはずです。可哀想に、お子さんが二人いらしたようですが、両親をいっぺんに亡くしてしまって、その悲しみ、憤りは如何ばかりかと不憫でなりません。

私も、高速道路の追い越し車線で事故が起きて間もなく、あわや前方の事故車両に追突というところで緊急回避した経験、また、高速ではなく一般の道路ですが、同じようにいちゃもんをつけてきた車に進路を妨害されて停止させられ、殴られた経験がありますから、黙っておれずに記事に起こしました。

どうしても運転をしているとこのような局面に出くわすことがあります。勿論、悪いのは逆上して進路を妨害して停車させ、いちゃもんをつけてくるこのようなクズです。もし読者の方がこんなクズに出くわし、停車させられたら、窓は閉めてドアロックし、すぐに110番通報して助けを呼びましょう。高速道路だったら、できたら路肩に止まって下さい。もし走行車線に停車させられたら、すぐに車から降りて中央分離帯へ逃げましょう。車両付近に留まらず、できるだけ離れましょう。そしてやはり110番通報して助けを呼んで下さい。相手のナンバー、車種、色、(大抵は男ですが)性別、見た目の年代、身長、体格、その他様々な情報を入手して伝えるのも大事です。


さて、お子さんの証言によると、事故当時ワゴン車に乗っていた一家は、事故が起きる直前にパーキングエリアに寄ったそうです。その時、この夫婦はまさかこの直後に自分達が死んでいかねばならないとは思っていなかったでしょう。まさに死の縁無量です。いつ何時、どのような形で死んでいかねばならないか分かりません。しかもそれが今日や明日にも迫っているかも知れないのです。このように書いている淳心房も、今は死ぬつもりはありませんが、さるべき業縁がやってきてこの世の終わりとなるかも分かりません。しかし、今はそのように思っていますが、時が過ぎれば元通り、生きることに安心し切ってすぐに死を忘れてしまいます。

ですから、今日聞いて今日助かる教え、今晩聞いて今晩助かる教えでなければ、親鸞会でいつも使う言葉で言うなら「一念の救い」でなければ我ら無常迅速の機は助かりません。では、親鸞会で説く「一念の救い」とやらは本当に「一念の救い」なのでしょうか?

親鸞会で「一念」というと大概「時剋の一念」のことで、「アッともスッとも言う間もない極めて短い時間」だと説明されます。それを、黒板の絵では縦の線で表しているということなんですが、この「一念」に到達するまでものすごく時間がかかるのが親鸞会の教えです。「一念」に至るまでの道程を横の線で表しているということなんですが、その横の線を今回の報恩講で出てきた「宿善」という言葉を使って表現すれば、

熱心な聞法、五正行の実践、六度万行の実践をして薄い宿善が次第に厚くなり、やがて開発する道程

ということです。これ、1日や2日、1ヶ月や2ヶ月、1年や2年で縦の線まで到達できますかね? もしこれが到達できるのであれば、『私の白道』3で紹介されている方の嘆きなどは無かったでしょう。

********************
30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。

財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。

********************

こんな人でさえダメなんですよ? そして病床で、やって来た嶋田さんに

********************
こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったー弱ったー
********************

と仰ったということなんですよ? 現在、この方より親鸞会の活動に熱心な方はどれだけあるでしょう? 自分だったら絶対この人のようには活動できないです。この方がダメで、一体誰なら「一念の救い」まで到達できるんですか? また、

『あなたの白道』嶋田久義元講師の奥様の手記
『あなたの白道』とくよしみねさんの手記
『あなたの白道』RCさんの手記

にあるようなお三方も相当に活動されていた方々と見受けますが、これらの方々でさえダメなんです。

ですから、求めても求めても、安心も満足もない、「一念の救い」とやらに到達する気配が全くない会員さんばかりでしょう。この現実を皆さんはどう捉えているでしょうか? 恐らく、次のように考えていると思います。

救われるのは「一念」だが、そこまでは時間がかかる

と。これって「一念の救い」ですか? 違うでしょう。結局、「一念の救い」どころか、「一生求め続けても獲られるかどうかという救い」になっています。一番活動しているはずの講師部員でさえ会員に無信心ぶりを見抜かれているのですから、一般会員など到底信心を獲られませんわね。

なぜこのようなことになるかと言うと、親鸞聖人の教えに「宿善を厚くする教え」というものは存在しないからです。そして、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を教えられず、それとは無関係な活動に従事させられていたからです。だから、聞いても聞いても、求めても求めても、信心も安心もなく、「聴聞せよ」「破邪顕正せよ」「もっと性根を入れて求めよ」の連呼で、死ねば必堕無間と後生を人質に取られて活動せざるを得ない状態に陥って、心からの喜びも満足もなく求めているというのが実態と思います。

この私を浄土へ迎え取り、仏にするという本願は成就して南無阿弥陀仏と成り、既に私に届いています。私は、只今、この場で、この私一人目がけて喚びかけられている「南無(我をたのめ、我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず助けるぞ)」の六字のこころをそのまま頂いてお念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて御覧なさい。「何としてもお前を助けるぞ」という阿弥陀仏の喚び声が私の口から出てきます。浄土真宗はこのなんまんだぶを聞く一つなんです。だから老少善悪の人を選ばず、なんまんだぶと深く信じて念仏する者は浄土に往生するのです。今聞いて今救われる教え、それが浄土真宗なのです。

その浄土真宗を、己の私利私欲のために利用しているのが高森顕徹会長です。会員の後生のことなど、どうでもよいのでしょう。存在しない「宿善を厚くする教え」を説き、説かねばならない「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を説かないのが何よりの証拠です。形だけは毎回蓮如上人の御遺言を説法の前に読んでいますが、会員の皆さん、これに騙されてはダメです。どうか高森顕徹会長の実態に早く気が付いて、邪義を唱える人の手から離れ、本物の真宗に遇って本願を信じ念仏して頂きたいと切に願います。
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Abcです

こんばんわ、Abcです

>親鸞聖人の教えに「宿善を厚くする教え」というものは存在しないからです。そして、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を教えられず、それとは無関係な活動に従事させられていたからです。だから、聞いても聞いても、求めても求めても、信心も安心もなく、「聴聞せよ」「破邪顕正せよ」「もっと性根を入れて求めよ」の連呼で、(云々)

そのとおりで、親鸞には「宿善を厚くする教え」は存在しません。
前にも述べさせていただいたとは思いますが、
「『万善自力』を貶す」(正信偈に記載)や
「凡夫が修める『善』は『自余の善根』であるから他力に任せるように」
(正像末和讃 誡疑讃23首)と申されたりしています。

私は、『真宗』という語句を『南無阿弥陀仏』と釈す事があります。
これは、本文中にて淳心房さんも申されている
>浄土真宗はこのなんまんだぶを聞く一つなんです。

という所から来ています。
そのため、私は皆さまに『南無阿弥陀仏』(のいわれ)を聴聞していただきたくこのように記していますし、このように「親鸞は「善根を修めよ」とはいっていない」と破邪顕正を心がけています。また、「もっと性根を入れて求めよ」ということは「自力で往生せよ」に他ならないので、わたしはこれに対して破邪顕正をおこなわないといけないと考えました。それが高森さんのご意思にそぐわないことであっても「赤いものは赤い」といわねばならないのです。

>会員の皆さん、これに騙されてはダメです。どうか高森顕徹会長の実態に早く気が付いて、邪義を唱える人の手から離れ、本物の真宗に遇って本願を信じ念仏して頂きたいと切に願います。

私も同じ気持ちです。 なまんだぶ なまんだぶ
Abc

Re: Abc様

> 「『万善自力』を貶す」(正信偈に記載)や
> 「凡夫が修める『善』は『自余の善根』であるから他力に任せるように」
> (正像末和讃 誡疑讃23首)と申されたりしています。

これが会員の皆さんには、「信一念とそれまでとを分ける教え」によって中々伝わらないのです・・・。雑行を捨てるのは縦の線のことでそれまでは善をやらなければならないと思い込んでおり、善の勧めを否定すると鬼の首を取ったように「だから真宗が廃れる」云々と言うのです。


> そのため、私は皆さまに『南無阿弥陀仏』(のいわれ)を聴聞していただきたくこのように記していますし、このように「親鸞は「善根を修めよ」とはいっていない」と破邪顕正を心がけています。また、「もっと性根を入れて求めよ」ということは「自力で往生せよ」に他ならないので、わたしはこれに対して破邪顕正をおこなわないといけないと考えました。それが高森さんのご意思にそぐわないことであっても「赤いものは赤い」といわねばならないのです。

私も同じ思いです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

すこし淳心房さんにお訊ねしたいのですが...

こんばんわ、Abcです。

淳心房さんは、「念仏往生」についてどのようにお考えでしょうか。

1つに、親鸞が言われている「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」(「総序」聖典一四九頁) と『念仏の教えに出遇わせてくださった』「宿縁」に対する慶びを得ること

2つに、覚如が「往生は宿善開発の機こそ善知識に値(あ)ひて聞けば
即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」といわれ、
蓮如が「蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。」(蓮如上人御一代記聞書 233)と「宿善」を推す説き方

3つに、高森さんが言われている「縦の線と横の線」にて「横の線」を「宿善」であるという説き方


ここからは私事とはなりますが、私は御同行にあらせられまする、善信御房の説を以って「わたくしの真宗」としておりますゆえ、1つめの説を推したいと愚考致します。それを以ちまして覚如から「冥加なき企て」と申されても「われらが弥陀如来にあらせられましては「十方衆生をおん助け給はん」と五劫思惟せられ誓われた」のでありますから覚如がもうされている「往生は宿善開発の機こそ善知識に値(あ)ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と『宿善』という単語自体を出すことももはや問題と致さないのであります故、いま一度淳心房さまのお考えを記していただきたく思います。

また、他の方のお考え、お心持ち等も記していただきたいと思います故、他の方々からのコメントも受け付けております。

どうか、よろしくお願いします

南無阿弥陀仏

Abc

Re: Abc様

> 淳心房さんは、「念仏往生」についてどのようにお考えでしょうか。

すみません、この問いと、Abcさんの示した3つの選択肢の関係がいまいちよく分からないのですが・・・

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。(末灯鈔12通)

とあるように、信一念あるいは行一念を重んじそれに偏執してその後の称名を否定する一念義でも、一生涯称名に励まなければ往生できないという多念義でもなく、「念仏を称える者を極楽へ迎える」という誓願をそのまま受け容れて念仏申し上げ、阿弥陀仏の仰せ通り往生を願い、その後命ある限りお念仏を申してゆくのが念仏往生であると考えています。

その上で、今、こうして念仏往生の教えに遇わせて頂いたことに対する慶びとしては、

>「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」

と示されてあるように、阿弥陀仏のお育てに対する慶びがありますし、

>「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」
>「蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。」(蓮如上人御一代記聞書 233)

と善知識に値って念仏往生の教えを信じるようお育て下された慶びがあります。元々後生とも菩提とも願う心はありませんでしたから、自ら往生を願い教えを聞き求めたのではなく、全く本願力のおかげ、「宿善ありがたし」と感じております。

『飛雲』真宗における宿善の定義さえも知らない無知の知識
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-f60c.html

にあるように、「宿善=過去世の善根」としか捉えられない高森教に問題がありますね。同じ「宿善」という言葉でも、覚如上人や蓮如上人の使われる「宿善」は随分広い意味というか、意味が異なっていることに注意することが必要でしょう。

>3つに、高森さんが言われている「縦の線と横の線」にて「横の線」を「宿善」であるという説き方

これに関しては、そもそも念仏往生は私達が聞法求道してその努力で到達するものではありませんから、全く間違いだと言わざるを得ません。

No title

横からどうもです。

>すみません、この問いと、Abcさんの示した3つの選択肢の関係がいまいちよく分からないのですが・・・

多分噛み合わないと思ひます。
Abcさんは『慕帰絵詞』の、

 法印(覚如)は「往生は宿善開発の機こそ善知識に値(まうあひ)てきけば、即信心歓喜するゆへに報土得生すれ」と云々]。
 善公(唯善)は、「十方衆生とちかひたまへば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願にあへば、必ず往生をうるなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E3%80%8E%E6%85%95%E5%B8%B0%E7%B5%B5%E8%A9%9E%E3%80%8F%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%B7%BB_%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AE%B5_%E5%AE%BF%E5%96%84%E3%81%AE%E4%BA%8B

を引いてますから、覚如上人は「宿善往生」の立場だとし、対判者である唯善房(御開山の孫)は「念仏往生」の立場だという形で見ておられるのでしょうか。
覚如上人は「宿善往生」という語を使っていないのですが、以下の、

 その時又、唯公「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生といふべしや、如何」と。又、法印「宿善によて往生するともまふさばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善のゆへに、知識にあふゆへに、聞其名号 信心歓喜 乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し不退転にいたるとは相伝し侍れ。これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。
そののちはたがひに言説をやめけり。

とある唯善房の「宿善往生」という名目を対論の為に使用したことから、Abcさんは「宿善」を「往生」の「体」であると見られたもかもです。または信心に対して念仏を強調された高田派の方かもです。
ともあれ、対論の場では、唯善房のように新しい名目を導入すると、お互いの議論の内容が見えなくなるのでした。

「宿善」については、総合的に考究されている梯實圓和上の著書の抜き書きが参考になると思ふのでリンクしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E9%88%94#.E5.85.89.E6.98.8E.E3.81.A8.E5.90.8D.E5.8F.B7

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



No title

淳心房さん , 林遊さん

この度は、私の問いに答えていただきありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ

No title

梯和上の宿善論は問題があるでしょう。
信心と良い因縁とか自力の善との発想は、高森会長の影響を受けたと思われますが、親鸞聖人や善導大師の領解と異なります。
善導大師は、善根あることなしの悪人が念仏称えて往生できるのが、本願と教えられ、源信僧都は善に励まれた聖者でも念仏を信じないし、善をしてこなかったものでも本願にあえるとされ、法然上人は宿善の有無を沙汰せずとおっしゃっていますし、親鸞聖人の本願力回向の思想からも過去世の善と信心とは関係ないと見るべきでしょう。

要するに、善を縁として本願に遭う人もあれば、無善で本願に遭う人もあると言うことです。

Re: 宿善有無様

私も読みましたが、梯和上の文章は親鸞会の信心で読むと危ういものがありますね。また、親鸞会側が文章の一部を断章取義してきそうな感じが致します・・・。ただ梯和上は

>ともあれ宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。

と仰せですから、今生において宿善を積み重ねることによって信心獲得しようとするような次元の教説も否定されていることは明らかでしょう。


・まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。(往生要集)

・ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

要はこれが分からないところに高森教の如き誤りがあると思います。高森教では、善悪のふたつを過去の因のみならず現在の因にまで広げ、実質、往生の大益を自力修善にまかせて、機のよしあしきに目をかけて往生の得否を定めています。宿善が有るとか無いとか、厚いとか薄いとか、それはそれとして置いておいて、既に親鸞聖人の教えに遇わせて頂いた私達にとっては、ただ「往生の大益をば如来の他力にまかせ」ることが大事です。これを会員の皆さんには分かって頂きたいです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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