親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(5)

なんとか学会の真似をして全国各地に会館を建てまくっている親鸞会ですが、『顕正新聞』平成29年10月15日号にはその内の東京会館落慶座談会で、高森会長が話した内容が載っています。

1、「なぜ後世を知ることが最も大事なのか
2、「無明の闇を破り、往生一定の身になるにはどうしたらいいか

という質問に答えたようで、聞いた内容が多く掲載されている会員の手紙から伺えます。

1については、「もろもろの雑行(もどき)」を捨てもしないでやりまくっている者が後世を知るも何もありません。また、死んだらどうなるかは、決定後も自らの自覚の上ではハッキリ分かりません。返す返す如来の御誓いにまかせたてまつるのみです。親は我が子を我が家に連れ帰るだけですから親の方ではハッキリしていますが、子供としては行ったことがない、写真や動画等で見たこともない処なので子の方ではハッキリしません。でも、別にハッキリしてようがしてまいが子が目的地に着くことには変わりないでしょう? 間違いのない阿弥陀さまのなされることですから、私はただ阿弥陀さまのなされるまま身も心もゆだねるのみです。

もしどうしても後生ハッキリしたいなら、観仏三昧の行を修することですな。阿弥陀仏や浄土を観る方法は有るには有ります。ただ息慮凝心のゆえに行を成就できるかは貴方次第です。いつも挙げていますが、

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。『執持鈔』第二条

とあるように、地獄極楽がハッキリしたのではなく、本願にすっかりおまかせしたのを「他力に帰したる信心発得の行者」と言われます。詳しくはリンク先へ飛んで全文をよくお読み下さい。我々の側で後生ハッキリしていなくても、「連れてゆくぞの親の喚び声」にまかせて後生は安心なのです。私達としてはただ「極楽へ迎えるぞ」という本願の仰せを深く信じて念仏し、法然聖人、親鸞聖人がいらっしゃる処へ往くのだと心得るだけです。


さて、2の質問に対してですが、それは「聞く一つ」であり、

「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し」となるまで聞くのだ

などと話したそうです。それを聞いて

「聞く一つで救う」阿弥陀仏の本願まことだったと疑心晴れるまで、釈尊、親鸞聖人、蓮如上人のご教示を、重ねて重ねて聞かせていただきます。
親鸞学徒の旅路は聴聞の一本道、行く先がハッキリするまで聞かせていただきます。

などと会員が決意の手紙を出していますが、何回こんな決意の手紙を出すのでしょうね? 人によっては何十年とこんな決意の手紙を出しているでしょうが、一体いつになったら疑心が晴れるのでしょうね?

私も会員だった時、途中限られた人しかお礼状を出せなくなるまで毎回毎々、聞いた内容と

光に向かって進ませていただきます
真剣な聴聞に身を沈めます

などと決意を手紙にしたためていましたが、聞いても求めても全くダメでした。毎回同じことの繰り返しで晴れたも曇ったも分からず、こうしている間にも無常が迫っているかも知れないと思えば不安だらけでした。そうやって大学時代が瞬く間に終わり、社会人になっても一向に前進している気配すらない状態で、次第に

何せ事は無量永劫の後生の一大事なんだから
死ぬまでに何とか解決できれば万々歳だ

という考えになり、地道に活動を重ねていくしか方法は無いという結論に至りました。それは決して私一人だけのことではないでしょう。親鸞会の活動をした経験のある方なら、ほとんど誰しもが至る結論と思います。なぜこうなってしまうのでしょうか?


それは、親鸞会では「聞く一つ」と言っても、「聞く」時、「聞く」内容を間違って教えられているからです。

まず「聞く」時というのは、「・・・となるまで聞く」と言われるような今から重ねて重ねて聞いていった先の未来ではありません。今、ここにいる、この私に届いている南無阿弥陀仏の名号法を現在只今聞くのです。勿論、人によっては何ヶ月、何年、何十年と本願を信じるまでかかる方もありましょうが、それは機の側が疑い計らって信受しないものでお救いにあずかれないだけです。私も例に漏れず随分と如来の御手を煩わせましたが、現在はこの通り本願を信じ念仏し、往生を期として生かして頂いております。なんまんだぶ、なんまんだぶ。要は今私に届いている「助けるぞ」の喚び声を、この場でそのままお聞きするのみですから、法としては今聞いて今救われます。今、ここに、私に本願力が届いていますから、どこかまで進む必要もありません。

乃木坂46『いつかできるから今日できる』

とはちょっと違いますが、今聞いて今救われるという点からすれば「今日できる」のです。対して、親鸞会の説く阿弥陀仏の本願は「今から重ねて重ねて聞いて行った先の未来のお助け」ですから、「称名念仏一行をもつてその本願」ではなく「多聞多見をもつて本願」だと言えましょうか。とても「今日でき」ません。「今日でき」ないということは、明日になればまた今日ですから、「明日でき」ないということです。これをずーっと辿ってゆけば、

「今日死なない」と思う心は、「永遠に死なない」と思う心だ

と高森顕徹会長がいつも話していることと同様に、

「今日でき」ないと思う心は、「永遠にでき」ないと思う心だ

と置き換えられます。これだと、高森会長がいつも本願寺を批判する際に話している「死んだらお助け」じゃないですか。どっか違いますか? 「平生業成」の教えを「臨終業成」の教えにしてしまっているのが分かります。まぁ19願を勧める時点で「臨終業成」の教えになっているのは明らかですがね。

次に「聞く」内容ですが、親鸞会では説く内容に「因果の道理」を混ぜ、因果の道理の結論は「廃悪修善」だとか言って善を勧めています。それで、「廃悪修善」を実践しなければ聞いたことにはならないというのです。

「聴聞」と「顕正」は車の両輪のようなもので、どちらか片方だけでは前に進まない
・「自力一杯求めたことのない者に自力無功と知らされる筈がありません」(『こんなことが知りたい①』p.117)

などとも言われ、善と称しての人集め金集め、上司への無条件服従といった活動を余儀なくされます。自力一杯の活動をしなければ自力が廃って他力に帰した妙味など分からないというのです。ド真剣に善をしなければ雑行が雑行と知らされ廃ることはないと言われ、雑行(もどき)に励んでいるのが親鸞会会員です。

活動しなければ救われない

という親鸞会会員の誤解はここから生じるのです。こんな教えは浄土真宗に無い珍説です。

また、「仏願の生起・本末」の内容に関係ない19願・20願の内容をねじ込み、「他力回向」「本願力回向」とは真逆の「自力修善」「自力回向」的な教えに改変しているのも誤解が生まれる要因の一つです。19願・20願を聞いている時は「如来の諸智を疑惑して信ぜず」の状態ですから、疑心が無くなるわけがありません

最近当ブログで論じている「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という教義も要因の一つです。「信一念とそれまでとを分ける教え」もそうです。「縦と横の線の図」を用いて視覚的にも強調し、ありもしない道を訪ねさせる、「光に向かう教え」もそうです。このように、「一念の救い」「平生業成」という言葉はあっても、

活動しなければ救われない

と思わせる教義がふんだんに織り交ぜられているのが親鸞会の教義です。ですから、こんなデタラメ教義をまともに聞いている会員の皆さんが、阿弥陀仏の願い通りに本願を信じ念仏することができないのは当たり前の当たり前のことなのです。決して会員の皆さんが高森顕徹会長の話を正しく聞けていないのではありません。高森顕徹会長が聞き誤らせる教義を説いているから、会員の皆さんが聞き誤るのです。


親鸞聖人が教えられている「仏願の生起・本末」を、蓮如上人は「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」で教えられています。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(『御文章』5帖目5通)

19願・20願は関係なく、「第十八の願をこころうる」のが「信心獲得」であり、それは「念仏する者を極楽へ迎える」という本願招喚の勅命にそのまま順うその時に阿弥陀仏の方から私達に回向せられるといういわれです。『御文章』のどこかに「十九願の善をせよ」とか「聴聞や善をして宿善を厚くせよ」なんかと書いてありますか? あったら示して頂きたいものです。無ければ、高森顕徹会長の説くこのような教義は全てデタラメ創作教義だということです。

「釈尊、親鸞聖人、蓮如上人のご教示」ではなく、「高森顕徹会長の創作教義」を重ねて聞いて従っているという実態に、会員の皆さんはいい加減気付きましょう。
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19願は化土往生の願

こんばんわ、Abcです。

>また、「仏願の生起・本末」の内容に関係ない19願・20願の内容をねじ込み、「他力回向」「本願力回向」とは真逆の「自力修善」「自力回向」的な教えに改変しているのも誤解が生まれる要因の一つです。19願・20願を聞いている時は「如来の諸智を疑惑して信ぜず」の状態ですから、疑心が無くなるわけがありません。

そうですよね。ここで「17・18願」と「19・20願」を記しておきましょう。
(18願においては、今回は控えめにしておきます。)

17・18願 = 「名号」を形作る願 、 「名号」(真宗)を届ける願

19・20願 = 「因果の道理」>「名号」 と見ており、
「因果の道理」こそ全てであり「これこそ『仏教』である」といっていること
願の内容としては「臨終に迎えに来る」という願ではあるが、
「不思議の法」を疑っている状態なので「迎えに来る」ことはできない。
20願は、「弥陀が『名号』という教えを残されていて、称名正因であるから唱えれば助かる」と思っているこころである。この19・20願どちらにおいても、
「弥陀不思議を疑いて(不了仏智のしるしには)」であるので、
何度も申してはいますが、往く先は「疑城胎宮(宮殿、七宝の獄)」です。

※「正しい善行」であるならば法然がいっている「殊勝な行い」ではあるのですが、末法においては「ただ念仏のみ」でしか助からないとされています。
その根拠として、「親鸞は『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』と良き人(法然)のおおせによって信じるほかに、別の子細(方法)なきなり」といわれています。
 また、同じ箇所に書かれています、「自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、」とありますように末法では『覚りを開くことができない身が、』ともいわれているのです。それでも「善のすすめ」を推すのですから本願寺に門徒からの苦情が入っても私としましても何もいえません。

>『御文章』のどこかに「十九願の善をせよ」とか「聴聞や善をして宿善を厚くせよ」なんかと書いてありますか?

それについては少なくとも私は知ってはいませんね...「御文」は親鸞(本願寺では祖師聖人とも称されます)「ご消息(末灯抄)」に倣って「18願(真宗、南無阿弥陀仏、六つの字のこころ)」を門徒の方がたにお伝えしたと聞き及んでいますので、その他があると申されるのでしたら私も興味深い事柄です。(本願寺の住職のなかには「御文」を集めるために命をかえりみず旅をされた方もいらっしゃると聞き及んでいます)

「十九願の善をせよ」
「信罪福」ですか...天台の教えはあまり把握はしていませんが、「六度万行」は私でも把握はしています。ただ「大経」にあるとおり、「名号には全てがふくまれている」のです。
根拠として「大経(下)」に「因力・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞の力、施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正念・正観・もろもろの通明の力、法のごとくもろもろの衆生を調伏する力、かくのごときらの力、一切具足せり。」と記されています。
そのためこちら側(凡夫側)では願にある「弥陀とつのりとする心にて「南無阿弥陀仏」と称えなさい」、すなわち「念仏一行修するべし」なのです。

「聴聞や善をして宿善を厚くせよ」・聴聞
聴聞(親鸞はゆるされて聴く、信じて聞くとも左訓されています)は「弥陀のいわれ、六字のこころを善智識によって聞くこと」であり、蓮如の時代には「善智識にあうてだての一つ」として「宿善」をいわれているのです、ただ、「宿善のものでもうたがっていては救われませんし、無宿善のものでも救われるときは救われる」ので「宿善の有無を往生の得否とするべきではない」と覚如はいわれています。

「聴聞や善をして宿善を厚くせよ」・善
「浄土の教」である「真宗」は「悪人正機の教え」ともいわれています。その中にて、「善を修する」ということは「善人になれ」ということに他ならないので「弥陀にお任せしよう」とは先ずおもえなくなります。ここが問題点の一つとなっています。

前回は18願について記したので今回は19願について記しました。

どうか、会員の皆さんも「19願の脆さ」と「19願は選び捨てられた願」であることを知っていただきたいです。

Abc

No title

なるほど、これを悪意のある言い方をすれば
「この世はどうにもならん」
「死後のことは死んでみにゃ分らん。死んだらお助け、死んだら極楽」
になるわな。

あんたらのアンチじゃないよ、一応。
好きでもないけど

コメント返信

Abc様

親鸞会でも、『教学聖典(3)』に


『南無阿弥陀仏』の大功徳は、何億年かかって説いても説き尽くせない、と言われた釈尊のお言葉と、根拠を示せ。


若し広説せば百千万劫にも窮め尽すこと脳わじ。(大無量寿経)

という問答まで設けているのですから、そんな大功徳である名号をもっと強調して勧めればよいのにそうはしません。その理由は・・・もはや言うまでもないですね。会員の獲信・往生など眼中に無いことだけは間違いないです。

念仏以外の諸善は難行であり劣行であるとして本願から選び捨てられた行であること、私達はただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしという法然聖人の仰せを仰せのままにお受けして念仏するのみであることを会員の皆さんには知って頂きたいです。



名無し様

悪意はありません。高森理論を適用すればそうなります。

No title

俺の書き込みはあまりブログの趣旨に副わないような気がするのでしばらくコメは控えようと思っていたのですが、空気を読まずに少しだけ。

この前の日曜日にRCさんと前回本願寺でご一緒した方と、お東のお寺の報恩講に行ってきました。
2名の布教使がご説法されましたが、共に有難いお話でした。

お東の先生方はそれぞれ個性的というか、割と自由にお話されるなぁと思いました。
俺がお聴聞したことのある限られた方々のお話を聞いての、あくまでも個人的な印象ですが。

お寺に行く前とご法話終了後、喫茶店とファミレスで信心の沙汰をしたのですが、幸せだなぁと思いました。
沙汰というほど大げさなものでなく、自由に各々が法について話したり脱線したりとゆるい感じでしたが、俺が阿弥陀さまにお遇いできたご縁となってくれた方と阿弥陀さまに導かれている同じく親鸞会にいた懐かしい方と共に法を喜べるご縁はとても有難いなと思いました。

普段の休日には布団の中でグッタリしてる時間に起きて外出したので昨日は色々と疲れましたが、やはり行ける時はお聴聞したい、お同行方と法を讃嘆したいと思いました。

南無阿弥陀仏

Re: R1000様

こういうお話であればどうぞどうぞ('ω')ノ

聴聞と信心の沙汰のご縁があったそうで有難かったですね。今度俺もご縁があったら混ぜて下さい(笑) 暗記力大会ではなくて本当の意味での信心の沙汰がしたいっす(>_<)

茶色の

こんばんわ、Abcです。

先のコメントにて、「17・18願」「19・20願」について記したので、
今回は、淳心房さんが「茶色で書かれていること」について
突っ込んで行きたいと考えています。
なお、「宿善」に関しては先のコメントにて記しましたので省略いたします。

>「なぜ後世を知ることが最も大事なのか」

後世(後生ともいわれたりもします)を知ることは大切です。
なぜならば、「六道輪廻」という「生死の苦海」を知ることに依って
「極楽」というものを知ることができるからです。
しかし、この「生死の苦海」は「自分で泳いでどうにかなるもの」ではありません。
「弥陀の船」によって「弥陀の国」へと運んでいただくのです。
「そこまでは自力いっぱいに聞かなければならない」と申される方もおいででしょうが、「自分の力で泳ぐ」ということは「弥陀が「名号」をうけとれ!」といわれているにもかかわらず、尚も自力で泳ごうとしていることにほかならないのです。
これを法然は「疑情」といわれ、親鸞は「不了仏智のしるしには(大経より引用)」と記されているのです。

>「無明の闇を破り、往生一定の身になるにはどうしたらいいか」
「無明の闇を破り、往生一定の身になるには」、「ただ念仏すべし」です。
もう少し申しますと「弥陀をつのりとする心にて、ただ念仏すべし」です。
ただそれだけです。 ほかには何もありません。

>「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し」となるまで聞くのだ
たしかにそうかもしれません。ただ「疑心有ること無し」のなるのでしたら、
「善のすすめ」は今すぐにやめてください。それは往生の資糧とはならないのですから。

>「聞く一つで救う」阿弥陀仏の本願まことだったと疑心晴れるまで、釈尊、親鸞聖人、蓮如上人のご教示を、重ねて重ねて聞かせていただきます。
私としては、むしろ「御聖教」を呼んでいただきたいです。「御聖教は難しいから...」と申されるのでしたら、「近くのお寺さん」にいかれてください。「高森先生が『悪知識にはちかづくなともうしているから...』」ともうされるのでしたら、残念ですが「往生のみち」は高森会長(が正しいと思っているあなたたちの心)によって断たれてしまわれたのです。

弥陀如来...法蔵菩薩の時に(この願に依って仏となるために)
        自らの名を入れた「名号」をつくられ
        称えるようにおすすめされた。
        (これを第四の正因、「称名念仏」の正業ともいわれます)
釈尊...釈尊の父(浄飯王)に「念仏三昧」をすすめられた。
親鸞...ただ「念仏」のみぞ、まことにておはします。
蓮如...この三国の祖師等、「念仏一行」をすすめ (大意より)

高森さん...念仏ないから、信心一つ  ←ここで「念仏」を否定している。

>親鸞学徒の旅路は聴聞の一本道、行く先がハッキリするまで聞かせていただきます。
>光に向かって進ませていただきます
>真剣な聴聞に身を沈めます

「聴聞の一本道」...ですか。確かにそうかもしれません。
しかし、「念仏ないから」と申されているところで聞いていたとしても
そのグループの中では「念仏ないから」となっているため
「念仏のみぞまこと」とは、「そのグループの中」では、
思うことができないかと感じます。
「弥陀の本願」は「願作回向の願」であり、「仏の方より往生は治定せしめたまう願」なのです。そのため「進ませていただく」ということはしなくても良い「不回向の願」なのです。

ですから、「活動しなければ救われない」とありましても
親鸞会というフィールドの中で「活動しなければ救われない」と思うことは
少々早合点かと思われます。(講師からしましたら親鸞会に活動費を注いで
ほしいので「(親鸞会で)活動しなければ救われない」は正しいとはもうされますが)

このコメントよりもだいぶ前に「わたしは『念仏高田』の出である」と記しました。
『念仏高田』とは「弥陀の教えは『念仏一つ』である」と言っている高田の山 という意味です。また、寺号「専修寺」は「専ら『念仏』を修める寺」という意味です。
私のところの住職 顕智上人が親鸞をお浄土に帰られるのを見届けてからはや754年、私と同じ歳の方や後の方も『念仏』を聞いていただきたく文をしたためました。

どうか、みなさま 「六つの字のこころ」を知っていただき共に称えさせていただく身となられていただきたいものです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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