親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(7)

『飛雲』釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

に挙がっていますが、昨日の講師部講義にて高森顕徹会長は、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(『信文類』)

のお言葉を出し、「阿弥陀仏がどんな者のために、どのようにするとお約束されているか」という話から

真実の自己を知る、それが究極の目的
真実の自己を「機の真実」と言い、それは五逆、謗法、闡提
真実の自己をハッキリ知らされるところまで聞き抜く、これが「聞」

などと説明したそうです。以前からの繰り返しで、「仏願の生起」の部分に邪義を織り交ぜた話に終始し、「仏願の本末」の部分はありません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁の無い話ばかりです。それでいて、

「・・・するところまで」聞き抜く

と教え、聞き抜くまでは「因果の道理」「廃悪修善」「宿善を求めよ、厚くせよ」等とこれまた「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁の無い教えを吹き込んで、会員を組織拡大活動に利用し搾取し続けるのでしょう。何とか親鸞会教義の誤りと、本当の浄土真宗を分かってもらいたいのですが、こればかりは「まことに宿善まかせ」です。早く18願の法を信じる因縁が熟することを願うばかりです。



さて、本日は高森顕徹会長が「宿善を求めよ、厚くせよ」というデタラメ教義の根拠に利用している五重の義について見ていきたいと思います。まずは、五重の義について書かれている『御文章』2帖目11通全文です。

 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。

これおほきにあさましき次第なり。そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


このお手紙では、最初に「当流親鸞聖人の勧化のおもむき」が「近年諸国において種々不同なり」と注意されています。親鸞聖人の教えを勧化、つまりお伝えする時に、その内容が様々に違っているというのです。

それで、蓮如上人は「十劫安心」と「知識帰命」の2つの邪義を取り上げられ、このどちらも誤りであるとお諭しです。「十劫安心」については安心論題/五重義相の第四段を、「知識帰命」については第五段をご覧下さい。

蓮如上人は「われらが往生すべき他力の信心のいはれをよく」知って、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」「阿弥陀仏に帰命せよ」と教えられています。そのように教える方が「善知識」であり、その「善知識」には「宿善開発」して遇うというのです。このように「宿善」があって「善知識」に遇い、「光明」の御はたらきによって「信心」を獲得し、御恩報尽の「名号」を称える。これを「五重の義」と示されています。

ここでまず注意すべきは、「宿善」の順番です。

・「宿善」があって「善知識」に遇う

ですから、ここでの「宿善」とは覚如上人が仰る

善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁

と見るのが妥当です。「宿世の善根」「前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと」の意味を含められなくもないですが、あくまで「宿世」「前世」です。もし「宿善」を「今生」において、しかも「善知識」に遇ってから「信心」獲得までの間にどうにかしなければならないものなら、「善知識」の後に重ねて「宿善」がなければなりません。ところが、「善知識」の後には「光明」、「信心」、「名号」の順に続き、「宿善」は有りません。つまり、「善知識」にお遇いしてから「信心」獲得するまでの間には「宿善」云々という教義は存在しないのです。

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

親鸞会では「宿善」にこんな意味を持たせていますが、蓮如上人が言われる「宿善」にはこのような意味はありません。それが証拠に、蓮如上人は「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」とはただの一箇所も教えられておりません。もし親鸞会が自らの教義の正当性を主張するなら、「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」と教えられた根拠を示すべきです。それができなければ、親鸞会の教義は浄土真宗にあらざる邪義、異義であります。「浄土真宗」とか「親鸞」の名を団体名から外し、高森教とでも名乗るべきでしょう。


次に、「善知識」はどのようなことを勧めるかについてです。「善知識」とは「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」などと勧める方なのかどうか。それについて蓮如上人は、

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。

と仰っています。「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」「阿弥陀仏に帰命せよ」と教える方が「善知識」だというのです。

高森先生は「阿弥陀仏一仏に向け」「阿弥陀仏のみを信じよ」と教えられているではないか!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、そういう方は「一心一向に弥陀に帰命」するとはどういうことかがよく理解できていないと伺えます。「一心一向に弥陀に帰命」とは、親鸞会でもよく出てくる「一向専念無量寿仏」のことですが、これについて法然聖人は次のように教えられています。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(選択本願念仏集)

往生行として諸善を廃してただ念仏一行を立てるのが「一向」です。

一心一向に弥陀に帰命」=「一向専念無量寿仏」=「念仏一行

ということです。もし念仏の他にまた布施や持戒等の諸善を加えたら、もはや「一向」ではないのです。それを三寺の例で言えば「兼行」ということです。では高森顕徹会長は、会員の皆さんに何を勧めているでしょうか。

そうです。教義上では十九願の「諸功徳」、『観経』の「定散二善」、また菩薩の修行内容である「六度万行」です。つまり「雑行」です。「念仏」の勧めは無いも同然ですが、有りとしても「念仏」と「雑行」の「兼行」です。これだけでも「一向専念無量寿仏」とは如何にかけ離れた教えかが判るでしょう。

これが如実の善なら化土往生の道くらいは開かれるかも知れませんが、実態は酷いものです。「デタラメ教義の聴聞・教学」に始まり、「お布施」という名の「献金(金集め)」、「破邪顕正」という名の「勧誘(人集め)」、また「高森顕徹会長及び上司への無条件服従」が主な会員の活動です。「勤行」「親孝行」「親切」「言行一致」といった勧めも無くはありませんが、高森顕徹会長からしてまともに実践しているとは言い難い現実があります。過去に、高森顕徹会長が導師を務めた勤行において御和讃を一つすっ飛ばしたり、『飛雲』からの公開法論の申し込みを5年以上無視し続けたり・・・。会員の方もデタラメ教義に染まっていますから『正信偈』や『御和讃』、『御文章』の内容など分かるはずもなく、勤行をキチンとやらないと助からない、親鸞学徒ではないなどと言われるからやっているだけの人が多いと見受けられます。

諸功徳」「定散二善」「六度万行」等いわゆる「諸善万行」は「雑行」であり、真宗においては「捨てて」としか言われない行です。「雑行をなげすてて」等と言われるのは、我々の報土往生には「雑行」は役に立たないどころか、これに執心している内は「一向専念無量寿仏」できないからです。まして「雑行」とも言い難い上述のような「雑行もどき」、すなわち「高森教の組織拡大活動」に執心してこれを修める者が「一向専念無量寿仏」できないのは小学生でも容易に理解できる道理です。ところが脳が高森教に浸食されていますと思考能力が失われてしまうらしく、東大クラスの頭脳の持ち主さえ

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。(『なぜ生きる2』)

などという詭弁に簡単に騙されて利用・搾取されてしまうのです。「念仏一行」、すなわち「一向専念無量寿仏」を否定しておいて「一心一向に弥陀に帰命」せよとは訳が分からないでしょう? このように、本当の意味で「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは教えられていないということが分かれば、高森顕徹会長が正しい仏教を伝えるという「善知識」かどうかなど論じるまでもなく、一刻も早くこのような人物から離れた方が良いということに気が付けると思います。


ところで、参考文献として挙げている「安心論題」に、以下のような記述があります。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

親鸞会の事を言い得て妙だと言わざるを得ない内容です。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。


講師部聖則」なるものを作って、朝晩講師部員や学院生にこんな唱和をさせているのはどこの誰でしょうか? また、「尊き生き仏様会長先生」などと書いてある手紙をまとめた『絶対の幸福』なる書物を出版し、会員に読ませているのはどこの誰でしょうか? 会員の皆さんには、「高森教の組織拡大活動」という悪を止め、そんな悪を勧める人の手から離れて、本当の意味で「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と教える「善知識」にお遇いして法をお聞かせ頂き、本願を信じ念仏して往生を遂げる身となって頂きたいと思います。


【参考文献】
安心論題/五重義相
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とみえたり

どもです。

『御文』二帖の、五重の義はややこしいので、高森顕徹氏のように誤解、錯覚する人も、たま~にいます。
で、蓮如さんは「この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり」と、「みえたり」といわれているので、その出拠であろう存覚師の『浄士見聞集』の文を「安心論題/五重義相」の末尾に追記しておきました。これは判り易いです。

これを読めば、高森親鸞会でいう「宿善を求めよ、厚くせよ」という「宿善」という語には悩まないかもですね。認知バイアスがかかりすぎている会員には無理かもしれないけど……

ともあれ、正統な浄土真宗の教義と、淳心房さんが示して下さる高森親鸞会のヘンテコな教義とはあまりにも違うので、こういう理解をする輩がいるのかとかえって勉強になったりしてます。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%BE%A9%E7%9B%B8

知識帰命

こんばんわ、Abcです。

先ほどは、ありがとうございました。別のコメント欄ではございますが重ねがさね御礼申し上げます。

さて、本題と入りましょう。
>されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。(蓮如 『御文』2帖目11通)

「この文こそ高森さんに宛ててかかれたものでは?」とこの文を読むたびにおもいます。彼らは「高森会長こそ唯一無二の善知識であり、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」とあるから高森会長に付き従うのだ」と申されるでしょうが、そこまで高森さんの教えに忠実になるならば、今一度「高森さんが立てられた」教義をご覧になられてください。
まず、教学聖典(3)に

”念仏ないから信心ひとつ”とあります。

次に、顕正新聞 第93号、昭和45・2・15 に、

まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ
 (イ、聴聞、ロ、破邪顕正)

私が始終うるさく申してはおりますが、
「南無阿弥陀仏(または、それ以外の名号)」は「真宗」であり、
「南無阿弥陀仏」と称えることを以って、「称名念仏」(第四の正因)であり、
「南無阿弥陀仏」が「阿弥陀さまが、私一人やすくこころえさせるためにおつくりになり それをつのりとする支えとさせていただいた」と「信心」があるのです。

そのため「自身の信心決定をめざす」のなら、
”念仏ないから信心ひとつ”と申されている知識から離れなければなりません。
また、高森さんは、「宿善をつめ」と申されていますが、
覚如、蓮如が申している「宿善」は「阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひに遇う手立て」でしかないのです。

そうしますと彼らは「高森会長は、「阿弥陀仏に帰命せよ」と懇ろに申されている」と仰せでしょうが、もしそれならば”念仏ないから信心ひとつ”とはなりません。

もっと簡潔に記しましょう。

A: 衆生を救うために法蔵菩薩の時から思惟せられて、仏となられた阿弥陀仏をつのり(南無)とするのか

はたまた、

B: 自らの至福を肥やすためだけに「南無阿弥陀仏(真宗・信心・念仏)」を使い、また”念仏ないから”と申し、弥陀をないがしろにする高森さん(知識)をつのり(帰命)とするのか

この A と B の2つでしかないのです。

Abc

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。確かに『浄士見聞集』のお言葉は分かり易いです。蓮如上人のご教化を知るには、祖師方や覚如・存覚上人の教えをよく理解した上で、当時の世情、また蓮師が争いを徹底して避けられたこと等を様々に考慮しなければなりませんね。

既にマインドコントロールを脱した者が読めば間違うことはありませんが、篤い高森信者はそれでも無理でしょう。私としては情報を発信し続けて気付いてくれる機会を待つばかりです。



Abc様

>彼らは「高森会長こそ唯一無二の善知識であり、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」とあるから高森会長に付き従うのだ」と申されるでしょうが

会員の皆さんはこのようには思っていないし、また言わないと思います。唯一無二の善知識だとは信じているでしょうが。

『阿弥陀仏に帰命するには、阿弥陀仏の御心を正確にお伝えする善知識の仰せに何事も何事も無条件に従わねばならない。今日正しい仏教を説いて下さる善知識は高森先生。だから高森先生のご指示、また高森先生の御心をお取次ぎする上司の指示に何事も何事も「はい!」と従う他に私の助かる道は無い。信心決定しなければ後生は必堕無間だ』

こんな理解ではないかと思います。まぁ実質的に知識帰命に陥っていることに変わりはありませんがね・・・

五重の義

蓮如さんが、

 これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

とされたのは、『浄士見聞集』を名目を引かれたのだと思ふ。
その意味では、これによりて五重の義をたてたり、以下は『浄士見聞集』の文に置き換えて読むべきかもです。

>蓮如上人のご教化を知るには、祖師方や覚如・存覚上人の教えをよく理解した上で、当時の世情、また蓮師が争いを徹底して避けられたこと等を様々に考慮しなければなりませんね。

仰るとおりです。
深川倫雄和上は、据わりは本典(教行証文類)です、と示して下さいましたが、「この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩」(領解文の意)ですから、蓮如さんのご教化は、御開山の意を正確に領解するところから把握しないと齟齬が生じるのかもです。

ちなみに浄土真宗の「村雀」は、高森顕徹氏は「蓮如教学」の「タスケタマエ」の請求(しょうぐ)を骨頂する異安心であり、所詮は、親鸞会はカリスマの高森顕徹氏一代で終わる集団だと揶揄してましたですね。

高森親鸞会の方は、仏教史や真宗史にうとく、体系的な仏教な学習が出来ていないのですが、御開山の示された浄土真宗は、

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

という、なんまんだぶのご法義なのでした。

なんまんだぶ なんまだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%9F%E3%81%99%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%B8%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%B8%E3%81%B0



Re: 林遊@なんまんだぶ様

これによりて五重の義をたてたり。
もしききえてよろこぶこころあらばこれ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光 行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまつりて くちに名号はとなへらるるなり。

こういうことですか? 確かにこれなら判り易いですね。
親鸞会会員は高森会長の言葉が絶対なので中々難しいかも知れませんが、「宿善を求めよ」なんて教えは存在しない、架空のデタラメ教義であると何とか分かってもらいたいところです。


私の少ない親鸞会歴の中で、過去に一回だけ、高森会長は「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」を

「阿弥陀仏にうちまかせて」

なんて言ってたこともあったんですが、いつものヘンテコ創作教義に汚染されていたので全く意味は分からなかったです。本人は分かっているのかどうか知りませんが、たまに真実らしいことを説くところが嫌らしいです。

> >蓮如上人のご教化を知るには、祖師方や覚如・存覚上人の教えをよく理解した上で、当時の世情、また蓮師が争いを徹底して避けられたこと等を様々に考慮しなければなりませんね。
>
> 仰るとおりです。
> 深川倫雄和上は、据わりは本典(教行証文類)です、と示して下さいましたが、「この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩」(領解文の意)ですから、蓮如さんのご教化は、御開山の意を正確に領解するところから把握しないと齟齬が生じるのかもです。
>
> ちなみに浄土真宗の「村雀」は、高森顕徹氏は「蓮如教学」の「タスケタマエ」の請求(しょうぐ)を骨頂する異安心であり、所詮は、親鸞会はカリスマの高森顕徹氏一代で終わる集団だと揶揄してましたですね。
>
> 高森親鸞会の方は、仏教史や真宗史にうとく、体系的な仏教な学習が出来ていないのですが、御開山の示された浄土真宗は、
>
> 念仏成仏これ真宗
>  万行諸善これ仮門
>  権実真仮をわかずして
>  自然の浄土をえぞしらぬ
>
> という、なんまんだぶのご法義なのでした。
>
> なんまんだぶ なんまだぶ なんまんだぶ
> http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%81%9F%E3%81%99%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%B8%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%B8%E3%81%B0

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>高森親鸞会の方は、仏教史や真宗史にうとく、体系的な仏教な学習が出来ていないのですが、御開山の示された浄土真宗は、

>念仏成仏これ真宗
> 万行諸善これ仮門
> 権実真仮をわかずして
> 自然の浄土をえぞしらぬ

>という、なんまんだぶのご法義なのでした。

真宗史に疎いのは存じてはおりましたが...まぁ、「高田」の名を聞いて何も思わなかったらしいので、その程度と言うことでしょう。

さて、前置きはこのくらいとしまして、本題と入りましょう。

先に記していただいた和讃は、「念仏成仏これ真宗」として有名な和讃であり、
このことからも「真宗」と「聖道」の「違い」がわかるかと存じます。

もう少し、掘り下げる手立てとして、「聖教」を記していきたいと考えております。

・念仏成仏これ真宗
「念仏成仏」は18願の別称、すなわち「弥陀の御計らい」です。
私が何度も「真宗」を「南無阿弥陀仏」と釈している事は承知の上とは存じますが、
「念仏」「信心」「南無阿弥陀仏」「真宗」は、「文字の形」が異なるだけで全て同じものです。今回は、「親鸞聖人御消息集」より引きたいと存じます。

 まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、(中略)
つぎに、念仏せさせたまふひとびとのこと、弥陀の御ちかひは煩悩具足のひとのためなりと信ぜられ候ふは、めでたきやうなり。ただしわるきもののためなりとて、ことさらにひがことをこころにもおもひ、身にも口にも申すべしとは、浄土宗に申すことならねば、ひとびとにもかたること候はず。おほかたは、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたく候ひながら、往生を疑はずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も申すことにて候ふに、かかるわるき身なれば、ひがことをことさらに好みて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしと申すことは、ゆめゆめなきことなり。弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。

引用:親鸞聖人御消息 御消息集(9)

ここに、「念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。」とあるとおり、親鸞は「念仏を妨げる人は領家(その地方を治めている人)のようなものであり、とやかく申すべきではない」といわれているのです。ここで、この箇所の結論とはなりますが、「領家の計らい」は「自力の義」であり、「仏智不思議の御計らい(他力回向)」ではないので、「念仏信じる身」からしたならば、なんら問題とはならないのです。


・万行諸善これ仮門

 安楽浄土に入りつれば、 (中略)
『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。

このようにあり、「仏の本願は自力の善でも、自力の行でもない」、そうであるから法然は「『義なきを義とす』とされたのだ」となります。

また、このことを受けて覚如は『執持抄』にて、

 光明名号の因縁といふことあり。(中略)
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。

引用:末灯抄 非行非善・光明名号因縁の事
     執持抄 光明名号因縁の事

・権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

そしてこの和讃の「結論」であり、このコメントの「結論」ともなりますが、
「権実真仮をわかずして」すなわち、仮(19願)と真(18願)を区別しなかったならば、「自然の浄土をえぞしらぬ」すなわち、弥陀の浄土は到底わからないだろうといわれているのです。

 光明・名号の因縁といふ事。
 十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。(中略)
涅槃の真因たる信心の根芽わづかにきざすとき、報土得生の定聚の位に住す。すなはちこの位を、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(観経)と等説けり。また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。
 しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

引用:口伝抄 光明名号因縁の事

この聖教に一貫していることは、「名号」は「他力の計らい」であり「自力ではない」ということです。最後に「安心決定抄」を載せましてこれまでといたします。

 一、自力・他力、日輪の事。
自力にて往生せんとおもふは、闇夜にわがまなこのちからにてものをみんとおもはんがごとし、(中略)
またまなこひらきたる縁ありとも闇夜にはみるべからず、日とまなこと因縁和合してものをみるがごとし。帰命の念に本願の功徳をうけとりて往生の大事をとぐべきものなり。帰命の心はまなこのごとし、摂取のひかりは日のごとし。南無はすなはち帰命、これまなこなり。阿弥陀仏はすなはち他力弘願の法体、これ日輪なり。よつて本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

引用: 安心決定抄

ここにある「宿善」というのが先に議論させていただいた「宿善」ですね。
ありがたいことです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

> 真宗史に疎いのは存じてはおりましたが...まぁ、「高田」の名を聞いて何も思わなかったらしいので、その程度と言うことでしょう。

ごめんなさい。私もよく分かりません(;´・ω・) 親鸞会にいても、高森教の知識のみしか身に付かないので仕方ないです。


「信一念とそれまでとを分ける教え」によって、会員の皆さんは

>仮(19願)と真(18願)を区別

するのは信一念で、それまでは仮(19願)を実践する必要があるという観念に陥っています。「自力」「他力」にしても、

・自力一杯求めたことのない者が、他力に帰した妙味など分かるはずがない

などと捉えて、それまでは自力一杯の求道が必要であると思い込んでいます。こちらとしては、縁あって閲覧されている方々に聖教の御文を示して誤りに気付いてもらえるよう発信していくしかないのかなと思います。

両重因縁

どもです。

>光明・名号の因縁といふ事。

に触発されてwikiarcに「両重因縁」の項を辞書の内容で記述してみました。

高田派の方だと三法門の方が領解しやすいかも知れません。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%A1%E9%87%8D%E5%9B%A0%E7%B8%81



プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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