親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(9)

本日は、高森顕徹会長が

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている

根拠として利用している、

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。4帖目1通

のお言葉を見ていきたいと思います。全文は上リンク先へ飛んでご覧下さい。


結論から言うと、これも高森会長お得意の「断章取義」です。このお手紙でも、3帖目12通と同様、

・ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。
・人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
・このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。


等と、人に法を弘め伝える際の注意点として「宿善」「無宿善」のふたつを分別しなさいと教えられています。

さて、4帖目1通で蓮如上人は2つのことを教えられています。

一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。

一つ目の「自身の往生すべき安心をまづ治定すべし」については、

わが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ

往生の一段においては、真実の信心で念仏しなさいということを教えられ、

そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。

その上でこのように暮らしていきなさいと指導されています。蓮如上人在世当時は真宗信者への非難、暴力は殊にひどく、上人自身、幾度となく命を狙われていましたから、このようなお手紙は他にも多く見られます。

ここで注意すべきなのは、蓮如上人は「往生の一段」以外の、いわゆる生活面については

王法を先とし、仁義を本とすべし
世間通途の義に順じて
世間の仁義をもつて本とすべし。(2帖目6通)
外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし(3帖目11通)

等と、門徒の方々が守るべき内容を「王法」「仁義」「世間通途の義」「仁・義・礼・智・信」などの言葉で教えられているということです。

王法」は仏法に対する語で、支配者が定めた民衆統治の法ということです。また「仁・義・礼・智・信」は儒教の言葉です。倫理道徳を守り、世間に合わせて行けというのです。一見、真宗は仏教なのですから、「布施」とか「持戒」といった仏教の言葉を使えばよさそうなものです。また、因果の道理を説いて「善因善果 悪因悪果 自因自果」等の名目を使って「廃悪修善に努めなさい」といった指導をされてもよさそうなものです。ところが、「往生の一段」については勿論、それ以外の生活規範としても、蓮如上人の上には仏教用語を用いて「善をしなさい」と教えられた文言は見当たりません。

それは、「一念発起の信心」、「他力信心のおもむき」は「南無阿弥陀仏の六字」以外に無いからです。往生のためには念仏一行であり、念仏以外の一切の諸行諸善は「もろもろの雑行雑善」として「なげすてて」と教えられています。「もろもろの雑行雑善」に執心してこれを修めている内は、「修めた善根功徳で何とか・・・」という自力心は無くならず、後生を弥陀に全ておまかせとはならないからです。阿弥陀さまは

・三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはん
・いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはん
・「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」


と喚んでおられますから、その勅命にそのままお順いする、すなわち「南無」とたのめば、阿弥陀仏はその衆生をよくお知りになって光明の中に摂め取り、その人の命が終われば極楽に迎えるというのが「阿弥陀仏」という道理です。蓮如上人はこのことばかり『御文章』に多く書かれ、この他には別の仏をたのみ、また念仏以外の功徳善根を修めても何の所詮もないとまで言われています。

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。
かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。
(3帖目4通)

ですから、蓮如上人が仏教の言葉で廃悪修善を説かず、世法、倫理道徳上の言葉で門徒の生活規範を教えられたのも頷けるというものです。親鸞会のように「善の勧め」だとか、「因果の道理」だとか、「廃悪修善」などと言って善を強調し、さも我々の獲信・往生と関係あるかのように勧めていたら、聞く者は雑行雑善に執心してしまい、雑行雑善をなげすてて弥陀に帰することなどできませんからね。


ところで、二つ目の「ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし」については

ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。
そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。


というのです。当時はうかつに真宗信者であると多くの人々に知られると危険であり、またそれでなくても「正雑二行の沙汰」は聞く者によってはとんでもない誤解を生じやすい問題ですので、話す相手が「宿善」の有る人か無い人かをよく推し量って教えを伝えなさいと指導されています。ここでの「宿善」は、やはり

18願の法を信じる因縁

と見るべきでしょう。18願の法を信じる因縁のない「無宿善」の人は、信じるどころか反って「謗難のくちびるをめぐらす」ので、誰彼構わず手広く話せばいいというものではないと誡められています。

このことが分かれば、最初に挙げた

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。4帖目1通

のお言葉も、説く側が聞く者の「宿善」の有無を推し量り、法を伝える上で「宿善」が大事ということであって、

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味は無い、「宿善を求めよ、厚くせよ」「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」という教えにはならないということは容易に理解できると思います。ですから、蓮如上人の仰りたいことを高森会長の言葉で言えば、

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、法を説く時は、相手が宿善の有る人か、宿善の無い人かをよく推し量って、宿善の有る人に法を伝えなさい

ということです。これを親鸞会では捻じ曲げて解釈し、

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、これから信心獲得しようとする者は、信心を獲るために宿善を求めよ、宿善を厚くせよ、獲信の因縁(宿善)として善を修せよ

と全く別の意味にしてしまっているのです。これをもっと分かりやすく言えば、

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、これから信心獲得しようとする者は、信心を獲るために「なげすてて」と言われる「もろもろの雑行雑善」を修せよ

ということです。これだけ蓮如上人とは真逆なことを教えていて、聞く者が蓮如上人の教えられる「一念発起の信心」、「他力信心のおもむき」である「南無阿弥陀仏の六字」が分かる方がおかしいでしょう。


高森顕徹会長の「断章取義」に騙されて未だに多くの会員が往生・獲信とは無関係、それどころかむしろ障害にしかならない活動をやっています。経典や聖教の言葉を自分の都合の良いように解釈しているのはどこの誰か。それをあきらかにみることは確かにつらい、苦しいことですが、信心決定して報土に往生したいならどうか正見して下さい。そして、南無阿弥陀仏に我が後生を全てゆだねてふかく一念発起の信心を決定し、他力仏恩の称名をたしなんで頂きたいと思います。
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選択本願と9願文

こんばんわ、Abcです。

私としては少々腑に落ちない場所がございましたが、
この書物は「蓮如を当流とするところ」にて、かかれたので
しょうがないのかな、と思う部分でもあります。

さて、
>「阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、これから信心獲得しようとする者は、信心を獲るために「なげすてて」と言われる「もろもろの雑行雑善」を修せよ」

と言うことは蓮如からみて「他流」にあたる私のところでも言われてはいません。

・阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている

この文の「宿善」とは、私が前に論じた「過去世の善根」という意味合いではなく
淳心房さんも申されている「 18願の法を信じる因縁 」であります。
ですから、この箇所は問題ありません

これから信心獲得しようとする者は、信心を獲るために「なげすてて」と言われる「もろもろの雑行雑善」を修せよ
結論から言うと「この箇所(文)に問題があります」です。

信心獲得(信を獲る)とは「18願を二心無くつのりとする(こと)」でありますから、
「選択本願」である「18願」以外(それ以外にも聖人が言われている願もありますが[後述])を「なげすてて」といわれています。
しかし、高森さんは「法然や親鸞が「すてもの」といわれたものを『わしが拾えといったから拾え!』といっている」と私は考えました。
これによって、高森さんが常々いわれている「もろもろの雑行を投げ捨て」は『言葉だけ』と言うことがわかります。

[後述]
親鸞は、
「11願(必至滅度願)、12願(光明無量願)、13願(寿命無量願)
 17願(諸仏咨嗟願)、18願(選択本願)、19願(臨終来迎願)
 20願(果遂願)、22願(還相回向願)、33願(触光柔軟願)」
を「9願文」として選ばれ、門徒に説明されました。

 ※これのほかに35願(女人成仏願)を含む場合もあります。

その内、
「19願(臨終来迎願)、20願(果遂願)」は「これは自力の行いで
他力ではないから捨てるように」といわれました。
(専修念仏とは「専ら18願を修め」なので19・20願は「真逆」にあたります)

正信偈にて、もうしますと
「帰命無量寿如来」(13願・18願)「南無不可思議光」(12願・18願)
「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」(17願 (18願建立のきっかけ))
「建立無上殊勝願」など(18願)
「往還回向由他力 正定之因唯信心」(22願・18願)
「必至滅度願成就」(11願・18願)
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(33願・18願)

です。また、親鸞は、
「 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華 」
とかかれており、これを現代訳(私見がかなりはいってますが)
「18願を聞信したら 弥陀は広大勝解者といい 分陀利華と名づきます、」
と言う意味です。会員の皆様も、この『短い人間の命』で、聞信していただきたいです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

獲得名号自然法爾

どもです。

Abcさんは、「なもあみだ」と発音されるので、高田派の伝承かなと思ひ「顕智上人書写本」である、『獲得名号自然法爾』の語を御開山が解説された文章をUPしてみました。
ともあれ本願寺派では「三業惑乱」以来、宗学についての学文について煩くて、「安心論題」と称して宗義上の名目(テクニカルターム)についての考察をしていたりします。
ある意味では現場を無視した「観念論」といえなくもないのですが、ご信心の上からは首肯できることもあって面白いです。
このような現場を無視した「観念論」的ご法義理解にプロテストしたのが大沼法龍氏の三願転入論でした。これを悪用したのが高森顕徹氏の宿善論でした(笑
ともあれ「行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫び」なんでしょうね。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8D%B2%E5%BE%97%E5%90%8D%E5%8F%B7%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E7%88%BE

林遊さんの返信をうけて

こんばんわ、Abcです。

>Abcさんは、「なもあみだ」と発音されるので、高田派の伝承かなと思ひ「顕智上人書写本」である、『獲得名号自然法爾』の語を御開山が解説された文章をUPしてみました。

仰るとおりで、私は「高田派 北陸方面布教の役」とでも言っておきましょうか...
「高田派 布教使 のはしくれ」ではあります。

高田派は、下野国芳賀郡高田と言うところに一宇を創建したというところより山号、そして派名をいただいております。
伊勢専修寺に関しましては、専修寺十世真慧が創建し、
それから親鸞、真佛(二世)などが記した書物が伊勢のほうへと運ばれました。

私のところの言われはこれくらいにしておきまして、本題と入りましょう。
「獲得名号自然法爾」は、私が「自然といふは自ずから然らしむ」であると
説明する際に、よく使っている書物です。

これのあとがき「上人あいまひらせての聞き書き、そのとき顕智これを書くなり」という一文は随分と物議をかもしたと聞き及んでいます。

ですが、この書物で一番として伝えたいことは「誰が書いたのか」ではなく「何が書かれているか」なのです。

すべて、人のはじめてはからはざるなり。このゆへに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむといふことばなり。(獲得名号自然法爾)

全て、人が計らざることなのです。 そうであるから(法然は)、 「他力には義なきを義とすとしるべし」と仰られたのです。 「自然」と言う言葉は、元から「しからしむ」という意味なのです。(獲得名号自然法爾 筆者訳)

ここからわかるとは思いますが、如来の大願は、
「法に依りて爾らしむ」でありますから「本願力回向(他力回向)」であり
「すべて、人のはじめてはからはざるなり。」とありますから、
「不回向の願(行)」ともいわれるのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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