親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(10)

これまで数回に分けて、蓮如上人が「宿善」について書かれており、高森顕徹会長が『教学聖典』に断章取義している御文章を見てきました。

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(御文章2帖目11通)

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。(3帖目12通)

ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目8通)

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。(4帖目1通)

上の4通の御文は、いずれも「善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁」という意味で「宿善」の語を用いられています。これに「宿世の善根」「前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと」の意味を含められなくもないですが、高森教で言うところの

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

の意味で使われている箇所はありません。

なお、他にも、80通の『御文章』の中に「宿善」について書かれているお手紙はあります。

これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。2帖目9通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。2帖目13通

まづこの光明に宿善の機のありて照らされぬれば、つもるところの業障の罪みな消えぬるなり。3帖目1通

宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。3帖目2通

これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。 3帖目9通

されば他力の信心発得せしむるうへなれば、せめてはかやうにくちずさみても、仏恩報尽のつとめにもやなりぬべきともおもひ、またきくひとも、宿縁あらば、などやおなじこころにならざらんとおもひはんべりしなり。4帖目4通

それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。 4帖目5通

ただし不宿善の機ならば無用といひつべきものか。4帖目7通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。5帖目12通

宿縁」という言葉も含めて抜き出しましたが、5帖80通の中で漏れている御文がありましたらコメントにてお知らせ下さい。『帖外御文』は調べていません。『帖外御文』で「宿善」について書かれている御文がありましたら、全文を挙げた上で下線や色をつけて同様にコメントにてお知らせ下さい。

いずれもいずれも、「18願の法を信じる因縁」という意味で解釈するとしっくり読めるものばかりです。やはり、

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味で仰っている御文は皆無です。親鸞会教義に染まっている人は「宿善」という言葉を目にするにつけ「宿善を求めなければ・・・」等と条件反射的に解釈してしまうかも知れませんが、会で勧めている財施や破邪顕正といった活動が如実の善だとしても、それらは「なげすてて」としか言われていない「もろもろの雑行雑善」です。親鸞聖人、蓮如上人の教えに

雑行の勧め

はありますか? 「なげすてて」としか言われていないのであれば、そのお勧めに順い、獲信・往生のためと思ってやっている行いを一切止めて、ただ「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をそのまま聞き受けて念仏しましょう。それが

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ御一代記聞書159)

ということです。もし親鸞聖人、蓮如上人のお勧めに順わず、「誰が何と言おうと高森先生が正しい!」と思い定めているなら、残念ながらそのような「無宿善の機にいたりてはちからおよばず」というところでしょうか。



今回は、「宿善まかせ」という文言があり、今年の親鸞会報恩講でも出てきた

○あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。4帖目15通

のお言葉を見ていきたいと思います。全文はリンク先へ飛んでご覧下さい。大意としては

『ご文章の大意』大坂建立章の大意

が参考になるかと思います。

蓮如上人は大阪に後世の「石山本願寺」を建立されましたが、そこに住まいしているのは「一生涯をこころやすく過」すためでも、「栄華栄耀をこの」むのでも、「花鳥風月にもこころをよせ」るのでもない、

あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざし

があってのことだと仰っています。要は、

本願を信じて念仏し、往生極楽の本意を遂げんとする念仏の行者、信心決定の行者が多く現れるように

ということです。では、信心決定するとはどのようなことかと言うと、例えば

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
5帖目11通

と教えられています。蓮如上人は「他力の信心をとる」といっても「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」以外には無いと、ほぼ全ての『御文章』で「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を示しておられます。今回、調べがてら『御文章』を通読させて頂きましたが、既に信を獲た人も、まだの人も、時間を見つけて改めて『御文章』を拝読されたら良いと思いました。「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」で溢れており、しかも平易な文章で書かれていて、これほど私達に適した書物は無いのではと思われます。

南無」の二字は、「もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころ」です。「親鸞会へのお布施」も「破邪顕正」も、「高森会長及び上司への無条件服従」も、たとえ如実の善だとしても、それらは念仏以外の「自余の万善万行」、「雑行雑善」です。「自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」と蓮如上人は仰せです。「もろもろの雑行(もどき)」を勧める高森会長の教えが、「南無の二字のこころに反することは明らかです。

一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」とは、前に示したように「念仏一行」ということです。「雑行」の勧めか、あるいはせいぜい「念仏」と「雑行」の「兼行」の勧めを説く高森会長の教えをまともに聞いていて、その会員が「一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」わけがありません。

阿弥陀仏」の四字は、「一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれ」です。「念仏を称える者を極楽へ迎えるぞ」という本願招喚の勅命にすっかりおまかせし、往生には念仏一行と定まったのを「南無」の二字で、その念仏の行者を造作も無く助けるというのを「阿弥陀仏」の四字で示しておられます。

このように「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を心得たのを「信心決定」というのです。ですから、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」も教えないで、聞く者が「信心決定」も何もないということがお分かりでしょう。では、高森顕徹会長の教えはどんな教えですか? 「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」はしっかり教えられていますか? 「信心決定」というと「絶対の幸福」になるとか、「真実の自己」がハッキリしたとか、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする」とか、そんなことばっかり言っていませんか? そんなことばっかり聞いて喜んでいる(いない?)会員の皆さんが、蓮如上人の願い通り「信心決定」できる方がおかしいんですよ。


これが「第十八の願」のこころですが、世の中には、こうした18願の法を信じる因縁の有る「宿善の機」と、18願の法を信じる因縁の無い「無宿善の機」があります。18願の法を信じる因縁の無い「無宿善の機」は、せっかくこのような素晴らしい法があることを聞いても信じず、それどころか反って謗り、中には教法を破壊しようとする者まであるため、「無宿善の機」を前にむやみやたらに法を説いてはならないと掟を作られたのが蓮如上人でした。そのような「無宿善の機」にも、日頃の悪心をひるがえして本願に帰して頂きたいとは思うものの、こればかりは私の思い計らいではどうにもならない、そのようなことで「みなみな信心決定あれかし」と思うがそれは「まことに宿善まかせ」だと書かれたのでしょう。決して、

「宿善」を厚くする行いについて、一番は聞法

などという寝とぼけた邪義を蔓延させるために「まことに宿善まかせ」と書かれたのではないことは、他の『御文章』を拝読すればすぐに分かることです。分からないのは邪義にすっかり染まっている者くらいです。


別に「浄土真宗」とか「親鸞」と名乗らずに「高森教」としてやっていくなら、私はすぐにでも彼らへの批判を止めます。だって「浄土真宗」「親鸞聖人の教え」とは関係ない「一新興宗教」ですから、勝手にやってもらって構わないです。しかし「浄土真宗親鸞会」としてやっていくなら、あんなデタラメ創作教義を本物と誤解する人がこれからも現れるでしょうし、「浄土真宗」の名が汚れますから放ってはおけません。高森会長は「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を説かず、それどころか雑行もどきの組織拡大活動に会員を利用し搾取し続ける悪知識です。会員の皆さんは早く気が付いて下さい。そしてそのような偽り、邪な善知識の手から一刻も早く離れ、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞き受けて念仏し、往生極楽の本懐を遂げて頂きたいと思います。
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Abcです

こんにちわ、Abcです。

久しぶりに、淳心房さんの「こころの叫び」を聞いた気がします。

>親鸞会教義に染まっている人は「宿善」という言葉を目にするにつけ「宿善を求めなければ・・・」等と条件反射的に解釈してしまうかも知れませんが、会で勧めている財施や破邪顕正といった活動が如実の善だとしても、それらは「なげすてて」としか言われていない「もろもろの雑行雑善」です。親鸞聖人、蓮如上人の教えに

>雑行の勧め  はありますか?

私自身であり、弥陀をつのりをする方は、「ない」と断言することができますが、
いや...もうすこし言及いたしますと「正定聚」でありますが、

まだ、弥陀をつのりとせず、「自力こそ頼りのツナ」とし、
「氷が融け水となり、水が凍って氷となる。」と言うことこそ、
真実であり、この理を”超えるものはない”と信じるのならば、
そのものは永久に「三会の暁」を観ることは無いのでしょう。

>しかし「浄土真宗親鸞会」としてやっていくなら、あんなデタラメ創作教義を本物と誤解する人がこれからも現れるでしょうし、「浄土真宗」の名が汚れますから放ってはおけません。

仰るとおりです、私も「親鸞」などの名が出なかったならば「新興宗教のひとつ」なのだな、と思っていました。ですが、彼は「親鸞」について語っています。それも親鸞が「生涯かけて説かれた教え」ではない教えを織り交ぜながら。

私と大谷は、約600年にわたる(いや、「名を変えただけで」 蘇我と中臣として1400年余りにわたり)争っていますが、どちらも「親鸞聖人(善信上人)」を「教えの良き朋」とし、

蓮如は、それに倣おうと
  なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ(御一代記聞書159)

と仰せになられているのです。

もう一度言います。「因果の道理」は「聖道教の根幹」であり、「浄土教の根幹」ではありません。ですから、「因果の道理」を「根幹」と成し、「不可思議の道理」を疑うのでしたら、蓮如の言う「信心決定」は永遠に訪れないのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

今回もありがとうございます。

> 「因果の道理」は「聖道教の根幹」であり、「浄土教の根幹」ではありません。ですから、「因果の道理」を「根幹」と成し、「不可思議の道理」を疑うのでしたら、蓮如の言う「信心決定」は永遠に訪れないのです。

その通りで、本願の仰せを頂く時は因果の道理は傍らに置いておくのがよろしいですね。弥陀の五劫永劫の願行をお前に回向するぞというのですから、その時点ですでに自因自果に反しています。

浄土真宗=二種の回向

でありますから、因果の道理に従って廃悪修善をやっていった先に救いがあるように話すのは正反対もいいところですよね。「浄土真宗」とか「親鸞」とか言うのを本当にやめてもらいたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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