親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(12)

蓮如上人は、『御一代記聞書』では『御文章』とは少し違った意味で「宿善」の語を使われています。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。(『御一代記聞書』233)

自分が善根を積んできたから法に遇うことができたと、「宿善」を自らの手柄のように誇るのはよくない。私達が仏縁に恵まれ、善知識にお遇いして法をお聞かせ頂く身となったのは、全て阿弥陀如来のお育てのたまものである。だから、「宿善めでたし」ではなく「宿善ありがたし」、自分の中からは到底有り得ないことが有ったのだと言うべきであるというのです。「宿善」を「如来のお育てのはたらき」という意味で使われています。また、

一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。(『御一代記聞書』234)

のお言葉では、「信心獲得すること」という意味で「宿善」の語を使われています。


本日はこれを踏まえて、親鸞会で「宿善を求めよ、厚くせよ」という教えに利用している『聞書』のお言葉を見ていきます。が、まずはこのお言葉の元になっていると見られる『安心決定鈔』のお言葉をご覧下さい。

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。(【2】)

(中略)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。(【9】)

ここに書かれてあることは、阿弥陀仏が十劫の昔に既に本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。

阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、「衆生往生せずは仏に成らじ」と、自身の正覚と衆生の往生とを同時に誓われています。その誓いが成就して既に阿弥陀と成られているということは、私達は本願力によって必ず往生させて頂けるということです。阿弥陀仏が衆生に代わって浄土往生のための願と行業とを完全に成就し、南無阿弥陀仏と成って絶えず私にはたらいて下さっているのです。であれば、弥陀の正覚成就と同時にすべての衆生の往生が決定していてもよさそうなものなのです。ところが現実としてはそうなっていません。その答えが上のお言葉です。ここで『安心決定鈔』には

このことわりをこころうるを本願を信知すとはいふなり。
そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり。

等とあるように、そういった衆生往生の道理を心得る、聞き開くことが「本願を信知す」「信心はおこる」、つまり「信心獲得」ということですから、

衆生がこのことわりをしること不同なれば
=「衆生がそれぞれ信心を獲ることが同時ではないから

と解釈できます。だから、

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども
覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども

阿弥陀仏の方では衆生を往生させる手筈が整っているが、「衆生がそれぞれ信心を獲ることが同時ではないから、人によって往生の時期に前後ができるのだ」というのです。いくら弥陀の正覚が成就して南無阿弥陀仏と成って私達にはたらいて下さっていても、私達が善知識よりそのことわりをよく聞いて信心獲得しなければ、往生はできないということです。これは、「十劫安心」を度々正されている蓮如上人の教えと全く同じです。


これを理解した上で件の『御一代記聞書』のお言葉を見れば、どういうことを仰っているかは一目瞭然です。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(『御一代記聞書』307)

【現代語訳】
蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。

かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。

の「宿善」は、『御一代記聞書』234にある「宿善」と同じく「信心獲得すること」という意味で解釈するのが妥当です。そうなれば、ここは「衆生がそれぞれ信心を獲ることが同時ではないから、人によって往生の時期に前後ができるのだ」という『安心決定鈔』の解釈そのものであることが判ると思います。

陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり

日なたの花は早く開き、日陰の花は遅く咲くのと同じように「宿善」にも遅い速いがあると書かれていますし、

弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とあることからも、「人によって信心を獲ることに遅い速いがあるから、已に往生した人、今往生する人、これから往生を遂げる人というように往生にも遅い速いという時間の前後ができるのだ」と仰っているということは明らかです。

ところで宿善(宿世の善根)の厚薄はここでは問題にされていませんので、宿善が薄い人は信心獲得が遅く、宿善が厚い人は信心獲得が速いという意味はありません。これを意図的にねじ曲げて、

遅ー宿善が薄い
速ー宿善が厚い


という意味だとして、「宿善を求めよ、厚くせよ」と邪義を唱えているのが親鸞会です。『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


とありまして、上記のように結び付けて説明しています。非常に悪質な設問です。


いくら弥陀の正覚が成就していても、私達が「このことわり」すなわち「仏願の生起本末」、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」をよく聞いて信心獲得しなければ往生はできません。ですから蓮如上人は

とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり

と、「聴聞」を勧めておられます。これは勿論、親鸞会で言う「熱心な聞法」とは違います。聞法善に励めとか、高森会長の追っかけをせよということではありません。本願を疑い無く聞くこと、本願をそのまま聞き受けること、それがそのまま「信心」ですから、「聴聞」に自力的要素はありません。また、「五正行の実践」だとか言って助業を勧めることもありませんし、まして「六度万行の実践」の勧めなどは一切ありません。当然です。元となる『安心決定鈔』自力・他力、日輪の事)』には

本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

とあって、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふるただ一声」つまり「念仏一行」で往生が決定するからです。これ以外我らが往生する道はありませんから、「かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず」とまで書かれています。ちなみに、ここにある「宿善の機」とは、覚如上人のお言葉でいえば「浄土教を信受する機」、すなわち18願の法を信じる因縁がある人のことです。親鸞会で教えているような意味はありません。

それに対して、「念仏一行では足りぬ」と言わんばかりに助業も勧め、更には「雑行」である六度万行も勧めているのが親鸞会です。それでいて「布施」ほどに「念仏」を勧めません。前回も書きましたが、

「どうすれば救われますか?」という問いに対する答え

親鸞聖人 聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高森会長 ド真剣にワシの話を聞け。念仏以外の助業もやれ。雑行もやれ。


という教義の違いが歴然としてあるのです。これだけ教えが正反対なのに、どうして会員の皆さんが信心獲得できるでしょうか? 信心も安心も分からなくて当然でしょう。


活動しなければ救われない

今も残って活動している会員の皆さんは、このように信じ込んで、それには「やれ聴聞だ」「やれ破邪顕正だ」「やれ財施だ」と日々推進される活動に取り組んでいると思います。このシリーズでは「宿善」について詳しく見てきましたが、いくら活動して宿善を厚くしようとやっていても、それと信心獲得とは無関係です。

弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。往生浄土用心

私達は、己の宿善が有るとか無いとか、厚いとか薄いとか、そんなことを論じていないで、ただ「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を信じて念仏を申せば、彼の仏願に順ずるが故に必ず往生させて頂けるのです。会員の皆さんは、早く浄土真宗とは真逆な教えを聞かされている事実に気付いて、そのような偽の善知識の元を離れて下さい。そして、己の宿善の有無・厚薄など気にかけず、ただ「まかせよ、助ける」という如来の仰せを聞き受け念仏して下さい。


【参考文献】
『WikiArc』トーク;口伝鈔
『飛雲』『なぜ生きる2』のトンデモ邪義41
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宿善の定義

失礼します。

宿善の定義が、ハッキリしません。
一般に解釈する場合、言葉の定義、意味は、親鸞聖人、七高僧方が
教えられたことでなければならないと考えています。


No title

宿善の定義は、ここを読んで勉強しましょう。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/1280731.html

理解力がない人は

http://sinrankaix.exblog.jp/18063430/

でも読んだらいいのでは。

宿善の定義

一般的にいえば、
七祖には、『往生要集』の若干の例を除いて[宿善]という語は無いのですよ。
『歎異抄』には、

 「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」

とありますが、宿善/無宿善を論じているならば、それは本願を疑っている証拠だと思ひますです。

なんまだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%BF%E5%96%84

ななしさんが取り上げられたことについて

こんばんわ、Abcです。

>宿善の定義が、ハッキリしません。
>一般に解釈する場合、言葉の定義、意味は、親鸞聖人、七高僧方が
>教えられたことでなければならないと考えています。

私も、そのことを前に淳心房さんや林遊さんに議論をしたことがあります。

「聖人と七高僧に限る」とした場合は、
・宿世の善根(過去の善根(善行))
・過去世に「弥陀にすくわれたい」と願ったこと

の2つになります。
ですが、この2つはどちらも「過去世の事象」であり「現世の事象」ではありません。

淳心房さんが過去エントリーに記されている「宿世の善根」「前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと」がそれに当たります。

ですから、ななしさんのように「宿善という定義がよくわからず、往生に必要なのか」と思われているのでしたら「宿善」と言うことは知らなくても良いです。

それでいても「宿善を知りたい」と申されるのでしたら、こちらにおられる方がたにお聞きください。現状でも、「宿善/無宿善を論じているならば、それは本願を疑っている証拠だと思ひますです。」と林遊さんが申されているように、「自分でどうこう」と言っている時点で、「弥陀を疑っている」こととなるのです。

※高森さんのように「宿善とあるから現世でも善をせねば...」となるのは、「諸行往生」といわれ「自力の専心」「不了仏智のしるし」「深信因果(信罪福)」ともいわれているのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

いまいちど、名無しさんに

連投申し訳ございません

>一般に解釈する場合、言葉の定義、意味は、親鸞聖人、七高僧方が
>教えられたことでなければならないと考えています。

を、「聖人、七高僧方が 云々」つまり、「それらの書物だけ」としたならば

十住毘婆沙論 龍樹
 浄土論 世親
  浄土論註 曇鸞
    観経四帖疏 善導
     安楽集 道綽
      往生要集 源信
       選択集 源空(法然)

        教行証 善信(親鸞)

の 8冊 となります。
もっと言いますと、名無しさまの言われていることは
教行信証大意 覚如
口伝抄
改邪抄

正信偈大意 蓮如
御文

は、「含まない」と言っているようなものです。

ですが、これだと齟齬が生じてしまいます。
もし、後者のこれらを引き合いに出さないとしたならば、
蓮如が書かれた『大阪』、つまり「あはれあはれ、存命のうちに~」というのは、でてこないからです。もしこの文の「宿善」という語をとりながら、「語は聖人と七高僧に」ともうされるのでしたら、すくなくとも私は答えようがありません。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: 名無し様

当ブログでは、

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(3)
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-1057.html

にて宿善の意味について他ブログの情報と共に紹介しています。

もしこれに異論がお有りでしたら、親鸞聖人、七高僧方が教えられた宿善の定義、意味というのを用例と共に教えて頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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