生きる意味と死んでゆく意味

ご存知の方がほとんどでしょうが、神奈川県座間市で起きた9人連続殺人事件について、連日ニュースで報道されています。詳しくは、

座間9人連続殺人事件

や、そのリンク先をご覧下さい。

容疑者の男はTwitter上で3つのアカウントを使い分け、自殺願望のある女性を次々と誘い出しては殺害していたようです。この事件をきっかけにTwitterでは規制をかけるとか、またテレビでは討論にて「(加害者と)会わなければいいということをよく教えなければならない」といったようなことを話していたりとか、とにかく

このような殺人事件を防ぐにはどうしたらいいか

ばかりが問題になっていることが気にかかりました。


どうして被害女性達が容疑者の男と会ったかというと、少なからず自殺願望があったからです。容疑者の供述によれば『実際に会ってみると、本気では死ぬ気がない人たちだった』らしいですが、「死にたい」「自殺したい」と考えていたのも事実のようです。その理由や頻度、程度は人によって様々ですが、要は

・生きていくのがつらい
・将来に希望が見出せない
・自分は誰からも必要とされていないと感じる
・自分なんかが生きていても迷惑をかけるだけだ
・何のために生きていくのか、生きる意味が分からない
・今の苦しみに耐えて生きていかなくてはならない理由が分からない
・そうやって生きていっても最後は死んでいかねばならない
・ならば苦しみ続けて死ぬのも、今死ぬのも同じこと
・むしろ今死んだ方がこれからの苦しみが無い分マシ

などの思いがあったからでしょう。無かったら自殺サイトはまず見ないだろうし、「死にたい」「自殺したい」などと書き込まないと思います。まして今回の殺人事件の容疑者と接触するなど有り得ないです。

では、どうして被害女性達は周囲の身近な人ではなく、そういった自殺サイト等にアクセスし、面識の無いサイトの人達と交流していたのでしょうか。私として考えられる理由は、自殺を考えていないと思われる周囲の身近な人に相談してもどうせ分かってもらえない、何とかなるさ的なことを言われて終わり、または相手に心配をかけて迷惑だろう、周囲が異様に騒いで多くの人に知れ渡りもっと面倒なことになって疲れるだけだから、などが思い浮かびます。相談しても根本的な解決、自分の探し求めている答えを指し示してはくれないだろうというのが大きいと考えられます。少なくとも私はかつてこのように考えて、親や周囲へ相談するのを止めました。

ならば、自分と同じように自殺を考えている人と交流した方がよいだろう、少なくとも考えていない人よりはこの苦しみが分かってもらえるだろう、少しは楽になれるかもしれない、何か変われるかもしれないと書き込みを始めたのではないかと思われます。「死にたい」「自殺したい」というのは本当の気持ちでもあるが、そういった人達の多くはそのようにつぶやき、気持ちを吐露することで何とか生き続けているのだというのです。これは言われて「なるほどな」と思いました。ところが、そんな中で今回の被害女性達は容疑者と接触し、実際に死ぬつもりは無かったのだけれども殺害されるに至ったのでしょう。


このような事件が起きるたびに、社会では様々な対策を施しますが、どれも先ほど述べた

このような殺人事件を防ぐにはどうしたらいいか

という対策に終始しています。確かにこれも大事です。でも、親鸞会じゃないですけど、肝心の

なぜ自殺をしてはいけないのか
苦しくても生きる意味は何なのか

といった根本的な部分に踏み込んで、それをしっかり教えるということがなされないのです。被害女性達が悩んだのはこれでしょう? 生きていくとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのか、そこにどんな意味があるのか。こんな大事なことを誰も教えてくれません。家庭でも学校でも職場でも、国会でも報道でも交流サイトでも、問題にするのは「生きる手段」「生き方」ばかりで、そうやって生きていくのは何のためという「生きる目的」「生きる意味」については完全に抜けていると言っていい位取り沙汰されません。色々間違ってはいましたが、私にこのことを教えてくれたのは高森会長や親鸞会の会員だけでした。

こうして火の粉ばかり問題にして、火の元は手付かずですから、日本の年間自殺者は30000人を切っても依然として20000人以上と多くの人が1年の内に自ら命を断っています。それも国の統計上ですから、実際の数字はその5倍とも10倍とも言われています。これに自殺願望がある人を足したら何百万人という数字になるでしょう。それだけ多くの人が苦しみ悩み、実際に死んでいるというのに、肝心の問題が野放し同然では解決できる道理がありません。

ところが、この「生きる目的」「生きる意味」については政治や経済、科学や医学、芸術やスポーツ、仕事や娯楽、趣味や生きがいといった分野では答えがありません。これらは、「生きる手段」「生き方」を論じているものだからです。「生きる目的」「生きる意味」について扱っているのは哲学や宗教です。当ブログは浄土真宗親鸞聖人の教えに帰依し、念仏者となった私淳心房が管理し綴っているものです。もしここまで読んで「なんだ宗教か」と思われた方、浄土真宗の教えに関心の無い方は静かにご退散下さい。




さて、続きを書きます。この人生の根本的な問題について、親鸞聖人は一つの答えを示されています。

この世は本願を信じ念仏を申して「必ず浄土に往生する方々の仲間入り」を果たす。そして命の限り念仏を申して、死ぬと同時に浄土に往生し一切の迷いを離れ、この上ないさとりを開く。

と。この世は、いつ何がどうなるとも分からない不安定な世界です。そこに、煩悩に目鼻をつけたような人間が暮らしていますから、何一つ取っても変わらないもの、確かなもの、いわゆる真実、「まこと」というものはありません。ということは、本当にたよりになるものがないということです。全てはいつか壊れるもの、変わるもの、私から離れてゆくもの、裏切るもので、「これだけは大丈夫」という本当に信じられるものが何もないということです。すべては空事であり、たわごとであり、「まこと」は無いと言われています。

そういった「まこと」と呼べるものが一つもない世の中で、安心して暮らしていける道理がありません。また、煩悩には際限がありませんから、これで満足といったこともないのです。そして私達は、刻一刻と死に向かって生きています。やがて、当たり前に見えていたものが見えなくなり、動いていた体が動かなくなり、愛する全ての人、物とさよならしていかねばなりません。死出の旅路に連れはありません。一緒に心中しても、その後は独り、独りです。「肉体の連れ」はいても「魂の連れ」がいないのです。その上に、その行先が真っ暗がり。死んだ後は有るのか無いのか、有るとしてもどんな世界なのか、どうなっているのかサッパリ分かりません。

たいていの人はこうした人間の浮生なるすがたを見ないか、見ても見ぬふりをして、ただ毎日を過ごしていることと思います。忙しい人なんかは見ている余裕がないですからね。ただ、そうやって人間のすがたを見ないで一生を過ごし、全てを置いてこの世を去り、何も分からない世界に飛び込んでゆくことに本当の安心や満足、幸福があるはずがありません。

そんな中で親鸞聖人は生きることだけではなく、死んでいくということにも意味があると教えて下さっています。それは、この迷いの世が迷いの世であることに気付いてそこから離れ、真の安らぎ、真の楽しみを得るためだと。そのために阿弥陀さまに願われ、この世に生まれた尊い命である。また、死ぬことはただ命が終わるのではなく、無に帰すということでもない。浄土に生まれるということだというのです。阿弥陀さまは、

お前は私の独り子だ。やっと探し出せた。お前を迎えるために浄土を建立したのだよ。お前が来てくれなかったらその甲斐がない。お前は決して独りじゃないんだよ。「誰もこの苦しみを分かってもらえまい」と思っているかも知れないが、私はよーく知っている。どうか我が名を聞いて称えておくれ。必ずお前を浄土へ連れてゆくから、どうか私にまかせておくれ。

と喚んでおられる、それが「南無阿弥陀仏」の六字のこころだというのです。「南無阿弥陀仏」と口に称える念仏は、単なるまじないでも気休めでも、あるいは助かりたいと祈願請求してのものでもない。「助けるからまかせてくれ」という大悲の喚び声であり、その大悲を受け容れた姿が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」という念仏なのです。そしてそのような念仏者は「必ず浄土に往生する方々」の仲間入りをし、死んだ暁には浄土に往生してこの上ないさとりを開き、真の安らぎ、真の楽しみを得るというのです。


この世にまことはありません。あるのは、「南無阿弥陀仏」という念仏のみです。このただ一つのまことを教えているのが浄土真宗です。関心がある方は、ネットや電話で法話日程を確認して参詣したり、書籍を読んだり、ネットでの法話を聞いたりしてみて頂きたいと思います。例えば、

『浄土真宗本願寺派』ご法話 生きる意味
『武庫之荘 寺院 浄土真宗本願寺派 真光寺』生きる意味と死ぬ意味

等、「生きる意味」についてはこのような記述があります。何とも走り書き感が否めませんが、この記事ではここまでとしたいと思います。

ただし「浄土真宗親鸞会」には気をつけて下さい。これは親鸞聖人の教えではないので、念のため。



【参考文献】
『Wikipedia』日本の自殺
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淳心房さま

親鸞聖人は「生きる意味が分からない」という疑問に、明確に答えを出していらっしゃいますね。

> お前は私の独り子だ。やっと探し出せた。
> お前を迎えるために浄土を建立したのだよ。
> お前が来てくれなかったらその甲斐がない。
> お前は決して独りじゃないんだよ。
> 「誰もこの苦しみを分かってもらえまい」と思っているかも知れないが、
> 私はよーく知っている。
> どうか我が名を聞いて称えておくれ。
> 必ずお前を浄土へ連れてゆくから、どうか私にまかせておくれ。

そのとおりですね。
私も、今回の事件を受けて久しぶりにブログを更新しました。
http://sunablog.exblog.jp/26123195/

ブログに引用した曽我量深先生の著作をこちらでも紹介します。
昭和28年の文章ですが、淳心房さんのお気持ちと一緒の内容だと感じました。

―――――――――――――

我が身の上にいちいち本願を頂くと、今度は他人の苦しみもまた分かる。
理屈ではない。自分で真実に長い間おたすけについて苦しむなら他の人も分かる。

人間は罪を犯したり脱線したりするが、人間が迷うのはただ迷うのではない。
子どもが間違うのは、子どもが真実を求めて、得ないからであろう。
その求めているのは何であろう。それは本願である。
衆生が脱線し、間違いをする。普通の人は見捨ててしまう。
しかし阿弥陀はその間違いを起こしておるのは、間違いの元があるに違いない。
子の間違いは、真実を求めて自暴自棄しておるからであろう
その迷いの根本をつかんで迷う者を捨てぬ。これが大悲である。
天親の五念門の行の、廻向門を釈するのに、
一切衆生の苦悩を捨てず廻向を首として大悲心を成就したとある。

今日は思想が乱れている。
若い人が悪いと老人は言うが、なぜ青年が間違いをするのか。
真実がないからである。真実に飢えているのである。
その真実を得ない悩みである。
青年は、真実がないと自暴自棄している。
真実の象徴、南無阿弥陀仏が大切である。
真実は他ではない。真実は南無阿弥陀仏である。

             (曽我量深集・上)

――――――――――――――――――

なまんだぶ、なまんだぶ。

Re: スナオ様

ありがとうございます。

> 親鸞聖人は「生きる意味が分からない」という疑問に、明確に答えを出していらっしゃいますね。

そうですね。生きる意味と死んでゆく意味をしっかりとお聞きし、ただ一つのまことである南無阿弥陀仏をよりどころとして生きる人生を多くの方に知ってもらいたいです。現代人は無宗教であることを手柄のように思い、宗教と聞くと怪しいと遠ざける人が多いように感じますが、逆にそういったよりどころとなる教えが無いから弱い、脆いのだと言わざるを得ません。生きていれば色々つらい目や苦しい目に遭いますが、そこを乗り越えて生きる理由や意味が分からなければ、自殺を選んでも何ら不思議ではないことになってしまいます。

本当なら浄土に生まれ、仏に成った暁には有縁の人々を度するようこの世へ還ってくるという還相の回向をも本願に誓われていると言いたかったですが、時間の関係と御文章に還相についての話がほとんど無かったため省きました。


曽我師のお言葉、まことにその通りですね。私も自暴自棄になっていましたし、今も多くの人が自暴自棄に自死を選んだり、殺人を犯したりしています。世の中安穏なれ、仏法ひろまれと願わずにはいられないです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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