自分の創作教義、創作アニメに浄土真宗の言葉を当てはめているような説明ばかりの高森顕徹会長

『飛雲』自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

にあるように、最近の高森顕徹会長の話は同じような内容でしかも中身は浄土真宗ではありません。

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフに関する質問
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか。」


に答えるという形で日曜日も座談会があったものの、内容も、出てくる根拠もこれまでとほとんど同じでした。

本願を信受するは、前念命終なり。すなはち正定聚の数に入る。
即得往生は、後念即生なり。即の時必定に入る。また「必定の菩薩と名づくるなり」
愚禿鈔【28】)

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。改邪鈔【19】)

「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。改邪鈔【16】)

他にも出てきたでしょうが、主だったものはこの3つ。

弥陀の願船に乗せて頂くと、絶対の幸福にガラリと変わる
比較することない幸福にガラリと変わる、物凄く変わる
それを親鸞聖人は「信受本願前念命終・・・」と教えられている
絶対の幸福まことだった、絶対の幸福になった

と、創価学会用語をパクって浄土真宗の信心を騙り、

一念で心の臨終を迎えるのが「仏法の信心」
この一念(共発金剛心の一念)にお釈迦様の一切経が収まる
「ガラリ」は「一念」を言われたもの
「ガラリ」に一切経が収まる

などと言って、自分の創作教義、創作アニメに浄土真宗の言葉を当てはめているような説明ばかりでした。

そして、最後の方にちょろっと本願成就文に結び付けたような話をし、

其の名号を聞く一念で(絶対の幸福に)なれる
そこまで進ませていただきましょう


というような感じで終了したそうです。ここで縁があった方に伺いますが、「聞其名号」の説明はありましたか? 序盤の方では、

今日一念で本願を信受できる

とか何とか言っていたらしいですが、聞いた人はどうですか? 本願を信受できましたか? 結局

続けてワシの話を聞け

ということで終了でしょう? こんなことばっかり繰り返して一体何の意味がありますか? 信受すべき本願とは何か、本願を信受するとはどういうことか、この説明が無い、あるいはデタラメでは本願を信受しようがないでしょう。会員の皆さんはいい加減に気が付くべきですよ。そうしなかったら、夢幻の人生、あっという間に終わってしまいます。これでは、世の人々の営みに親鸞会の組織拡大活動を足しただけの人生で終わってしまいますよ? それで本当に後悔ないですか?


まず、本願とはどのようなことかと言えば、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通
「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」『御文章』3帖目2通
「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」『御文章』4帖目8通
「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」『安心決定鈔』【2】

等と教えられています。つまり、

念仏を称える者を極楽に迎えて仏にしよう。もし出来なければ私は阿弥陀という仏に成らない。

ということです。

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

だとかいう、たわけた誓いではないのです。この世の我々の幸福感をどうこうするとかいう低次元のことを論じているのではありません。無始曠劫より流転してきた、さとりとは無関係な私達を救ってこの上ないさとりを得させよう、仏にしようという遥か高次元の話をしているのです。そして、この願成就したすがたが南無阿弥陀仏ですから、南無阿弥陀仏念仏と無関係な本願など有り得ないのです。では、高森会長の本願の説明に南無阿弥陀仏念仏は出てきますか? 南無阿弥陀仏と無関係なことばかり説いていて、聞く者が本願を信受できる方が無理がありますわ。

次に本願を「信受」するということですが、これは教えを信じ領受するという意で、仏の救いに対して疑いなく信じることです。親鸞聖人が「疑蓋雑はることなし」「ふかく信じて」等と仰っているものです。これは凡夫が自分で起こす信心ではありません。如来より回向せられる大信心ですから、

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」経釈文自釈

と示されています。真宗では、本願を「信じ」るというのは本願を疑い無く「聞く」ことの他には無いということで、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。一念多念証文

と仰せです。ですから、本願を「信じ」るというのを平たく言えば、

「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を疑い無く、我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けて

ということです。如来の仰せに対して我が考えを差し挟まず、仰せが届いたそのままが「信心」ということです。如来の仰せを素直に聞いて、そのまま受け容れたすがたが「信心」ということです。そのまま受け容れたら、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

という本願なのですから、必ず「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と念仏称えるのは当然のことです。また、受け容れる前であっても、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願をお聞きしたなら往生には念仏一行となるのも当然のことです。これに念仏以外の余行を交えていたら、お前何を聞いてるんだという話になるでしょう? 阿弥陀仏は

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。『選択本願念仏集』難易義

称名念仏一行を本願の行として選び択り、あまねく一切衆生を浄土に往生させようという本願をお建てになったのですから、疑い無く信じる前であってもそうした本願であることを聞いたなら、称名念仏一行となるのは当たり前のことです。ですから、高森会長の話を聞くことや財施や破邪顕正などが獲信の因縁(宿善)になるとして、これらを修めて助かろうとしている者が阿弥陀仏の本願を知らないというのは明白な事実です。更に目指しているところが往生ではなく

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のようなこの世の幸せ

では方向違い、見当違いもいいところです。浄土真宗とは無関係の異教徒がやることです。

さて、それで「本願を信受」するとは本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏を信受するということです。私達の往生は南無阿弥陀仏の名号によるしかないと、往生には念仏一行と定まり、我が手を離れて阿弥陀仏に100%往生をおまかせした、託したということです。その時に自力の計らい、前念が命終わり、同時に正定聚の数に入ると明らかにされたのが『愚禿鈔』のお言葉です。

同じく念仏一行でも、称えた念仏に功徳があると思って、それを積み重ねて助かろうという自力の念仏一行ではありません。阿弥陀仏に全ておまかせした他力の念仏一行です。私が「助かりたい」と思う遥か以前から、「まかせよ、助ける」と願われ、差し向けられている救いの御名が、私の口を通して顕現しているのが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」というお念仏なのです。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)


とは、そのようなお心をうたわれたものでしょう。「助かりたい」という自力の臭みは全くなく、「まかせよ、助ける」の仰せに「お順いいたします、おまかせいたします」と信順した他力の念仏一行です。

余談ですが、自力の念仏一行さえ報土には参れません。念仏と雑行の兼行なんて論外です。まして念仏と雑行の兼行まがいのことをやっている会員の皆さんが「本願を信受」できないのは至極尤もな話なのです。


このように、往生には念仏一行と本願の仰せを疑い無く信じて念仏を称えるのがまこと本願のお心にかなった念仏の行者だということを、親鸞聖人は

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とお示しなのであります。それに対して、往生には念仏一行どころか、

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

等と念仏一行を否定しているのは何宗の者なのでしょうか? 少なくとも浄土真宗でないことは明らかです。

こんな偽の創作教義、創作アニメを浄土真宗だとして信じて聞いている人はまことにお気の毒です。早く、このような邪義を言う悪知識の手から離れて本物の浄土真宗を聞き、「念仏する者を極楽へ迎えよう」という本願をそのまま受け容れて念仏して頂きたいと思います。



【追記】
林遊@なんまんだぶ様より、「前念命終」と「共発金剛心」についてリンクを貼って頂いたので追記します。

前念命終
共発金剛心
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

本物のご法義にあえてよかったですね

どもです。

古くから浄土真宗は、なんまんだぶを称えて往生を期するご法義なのですが、高森顕徹氏は、御開山が行から信を開いた(信別開)という意図を考えてもみなかったのでしょね。
大悲の願船の法語は、

 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と、「行文類」にあり、なんまんだぶという「誓願一仏乗」の教法についての釈でした。
高森顕徹氏は軍国少年であったそうですが、お聖教の上での「一念」の語を「一念岩をも通す」という思いこみを、浄土真宗の信心と錯覚したゆえに、生きる意味と方向に迷う人を虜(とりこ)にして使役してきたのが高森親鸞会の歴史でしょうね。
http://kotowaza-allguide.com/i/ichineniwawomotoosu.html

高森親鸞会だけで浄土真宗のご法義らしきものを聴聞してきた方には、「行の一念」などという言葉は聞いたこともないのでしょうが、御開山のお示しは「行の一念」「信の一念」の「行信」のご法義でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%80%E5%BF%B5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

とりあえずwikiarcの「前念命終と「」についての記述をリンクしておきます。
前念命終
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%89%8D%E5%BF%B5%E5%91%BD%E7%B5%82
共発金剛心
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%B1%E7%99%BA%E9%87%91%E5%89%9B%E5%BF%83

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 高森顕徹氏は軍国少年であったそうですが、お聖教の上での「一念」の語を「一念岩をも通す」という思いこみを、浄土真宗の信心と錯覚したゆえに、生きる意味と方向に迷う人を虜(とりこ)にして使役してきたのが高森親鸞会の歴史でしょうね。

そうだと思います。『聞書』のお言葉を

雨垂れ石を穿つ
http://kotowaza-allguide.com/a/amadareishiwougatsu.html

という意味で教えて、続けて重ねて絶え間なく高森会長の話を聞き続け、推進される活動をし続けた先に獲られる信のように錯覚させています。本物のご法義を知らせて頂くにつけ、邪義が際立ち、あれをまともに聞いていて助かる方がおかしいことが明らかに知らされます。


> 高森親鸞会だけで浄土真宗のご法義らしきものを聴聞してきた方には、「行の一念」などという言葉は聞いたこともないのでしょうが、御開山のお示しは「行の一念」「信の一念」の「行信」のご法義でした。

一応言葉だけは出てきます。ただ、信の一念が先で行の一念が後とか、信心決定して最初に称える念仏が行の一念とか、そういった説明です。要は信後のお礼のような感じで、念仏軽視の高森教では信心を強調しすぎる故に信心決定まで、少なくとも20願まで進まないと念仏が出てこないようです。その信心も創価学会用語をパクっての説明でまるで間違っているのはご承知の通りですが・・・


リンクを貼って下さりありがとうございます。後ほど追記にて記事に加えたいと思います。

ただ念仏のみぞまことにておわします

こんばんわ、Abcです。

「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」『歎異抄』(『真宗聖典』P.640)

この世の色々なことは、すべて、空言、戯言、まことがない。
   ただ念仏のみが、 まこととして此処にあります。

真宗において「念仏」と申した場合には、「第四の正因」はもとより、
「そのいわれを聞くこと」、「そのいわれにはどのようなお力があるのかを聞くこと」も広義として含みます。 逆に、「念仏を『狭義』にて示せ」としたならば、
「南無阿弥陀仏」の六字と言うことにほかなりません。
  『南無』と『阿弥陀仏』のいわれについては前に淳心房さんが言われたので割愛します。
    ただ、「因果の道理」に当てはめたいのでしたら、
因:法蔵菩薩のときに阿弥陀さまが「無上殊勝願」を建立する。 (正信偈)
果:迷える衆生 一人ひとりを救済する。
   弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
   法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

つまり、「仏因自果」であり、また

「善き哉(かな)、善き哉、汝が願、将(まさ)に満足せんとす。善き哉、善き哉、我が願も亦(また)満足す」

とある通り、「仏因仏果」でもあるのです。

(17)
一 おなじく祖師(親鸞)の御門流と号するやから、因果撥無といふことを持言とすること、いはれなき事。
 それ三経のなかにこの名言をもとむるに、『観経』に「深信因果」の文あり、もしこれをおもへるか。
[中略]
いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきに あらず、また撥無すべきにあらず。

と「改邪抄」内で覚如がいわれていることにつながるのです。

>・弥陀の願船に乗せて頂くと、絶対の幸福にガラリと変わる
>  ・「ガラリ」は「一念」を言われたもの
>  ・「ガラリ」に一切経が収まる

仮に「ガラリと変わる」が本当だったとしても、
「因果深信」が「仏教の根幹」と申し、浄土教に対してまで
「因果の道理」を押し通すのでしたら「ガラリと変わる」事はないのでしょう。

まぁ、「念仏ないから」といって「念仏」という語を遠ざけている
教団からしましたら「念仏のみぞまこと」となること事態ありえないことなのですがね。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

親鸞会では約仏で法を語ることはあまりありません。ですから「仏因自果」(親鸞会で言う他因自果)はおろか、「仏因仏果」などは言葉すら出てこなかったと思います。

無理やり自因自果の範疇におさめようと、炭素とダイヤモンドの例えまで出していました。例の、炭素(因)に常温常圧(縁)を加えてもただの炭にしかならないが、炭素(因)に高温高圧(縁)を加えるとダイヤモンドになるという例えです。しかしこの例えだと、私に往生の因が有るということにおかしいのです。これでは、私(因)が弘誓の強縁というものすごい力(縁)に遇って往生成仏(果)するというような、私が主体の宗教になってしまいます。会員の皆さんの理解はこのようなものだと考えられます。だからその縁に遇うために求道だ廃悪修善だ何だと活動が主体になっているのだと思います。

浄土真宗では如来さま、阿弥陀様が主体です。私が「助かりたい」と願う以前から「助ける」と願われ、願いに見合うだけの兆載永劫の行を修めて下さり、それをなんまんだぶに込めて与えてお救い下さる。私としてはこの道理を聞き受けお念仏申すのみです。もう既にお与え下さっている法を受けるのみで、方向性が真逆なんですよね。

念仏はお礼とか、真宗の至極である成就文から念仏を抜いてしまう教えでは、仰る通り「念仏のみぞまこと」にはなりません。

炭素とダイヤモンドの例え について

こんばんわ、Abcです。

>無理やり自因自果の範疇におさめようと、炭素とダイヤモンドの例えまで出していました。

そのことについては始めて聞きました。ですが、おそらく「金剛信」の語よりヒントを得て作られたものなのでしょう。
「金剛信」に当てはめて論じたものを紹介するならば、
『「炭」である私たちは、どのような『殊勝な行い(かしこいおこない)』を行っても「炭」から変わることができません。この『殊勝な行い(かしこいおこない)』とされるものは、八万四千の法門(いろいろな仏法の教え)の経典(お経)などに書かれている行い(おうちの人からします「仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)」です)のことです。

そこに現れたのが阿弥陀(あみだ)さまで、「あなたたちの力では「金剛(ダイヤモンド)」になることはできない。だから私があなたたちの代わりに「金剛」となり、あなたたちに分けてあげましょう」といわれお約束されました。そのため、後の世にて「阿弥陀さまにおまかせしましょう」といわれる人たちは、「あなたたちの力ではなく、阿弥陀さまのお力でこうして生きているのですよ」といわれているのです。』
というコラムがあったのを思い出しこうして記させていただきました。
(なお、このコラムは「児童向けコラム」にあったものなので、『そのような言い回し』になっています。


>念仏はお礼とか、真宗の至極である成就文から念仏を抜いてしまう教えでは

真宗、浄土宗はまとめて「念仏宗」と呼ばれることもあり、そこから「念仏」をなくしたら「なもなきただの集まり」となってしまいます。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

炭素とダイヤモンドの例えについては相当以前から会の中で存在します。炭素に常温常圧という縁を与えても二束三文の炭にしかならないが、摂氏2000℃、55000気圧という高温高圧の条件下ではダイヤモンドになるというのです。このように、同じ炭素でも縁によってありふれた価値の低いものにもなり、ものすごい貴重なものにもなるという例え話です。それで、私という因に弘誓の強縁という縁を加えると信心決定、絶対の幸福、そして往生成仏という果を得るというものです。

しかしこの例えだと、往生の因は私が持っているということになり、大間違いです。これについては

『飛雲』世間事の範疇でしか18願を理解できない高森顕徹会長
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-3eb8.html

等で詳しく解説されていますので参照して下さい。


「念仏さえ称えておれば・・・」が本願寺攻撃の足掛かりなので、これからも親鸞会は念仏軽視で行くでしょう。選択本願念仏ということが判らない、阿弥陀仏の本願を知らない、それではただの「高森教信者の集まり」ですね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード