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謹賀新年(2018年)

瞬く間に2017年も終わってしまいました。年を追うごとに時間の流れが加速している気がします。四方に同時に放たれた弓矢を一瞬で捕らえる男の足より命が終わるのは速いというお釈迦様の譬えはどうやら間違いないようです。残された命がどれだけあるかは分かりませんが、できるだけ無駄にせずに、そして心豊かに一日一日を生きていきたいと思います。今年もよろしくお願いします<(_ _)>



さて、本願を信じ念仏するようになってから、確かに宮田先生が仰るように私の中では「なぜ生きる」は大した問題ではなくなりました。

阿弥陀仏の救いは、「お前を浄土に往生させて、仏にする」ものです 。その身に救われたならば、「なぜ生きる」は大した問題ではなくなります。
映画「なぜ生きる」の感想(4)「なぜ生きる」は「親鸞聖人教え」と違うたった一つの理由より)

勿論、本願を信じ念仏を称え、浄土へ向かって生きる人生に転換された現在も様々な苦しみはあります。ただ親鸞会にいた頃は精神不安定だったこともあり、今よりずっと苦しみが深かったです。苦しみ痛みに弱く、おそらく他の人なら大した苦しみに思わないであろうことも大きな苦しみに感じてしまっていました。その中で毎週のように富山に通いながら仕事をしていくのは本当に辛かったです。毎朝、通勤途中に「俺は何のためにこんな苦しい中生きてるんだろう?」とか、「こんなに苦しくて、しかも後生の解決ができないのなら、いっそ今死んだ方がマシだ」とよく考えていました。それでも、

「(こんな苦しい人生)なぜ生きる?それは、阿弥陀仏に救われるためだ!」

という高森顕徹会長の教えに「そうだそうだ」と思い、何とか救われて永遠の幸福、絶対の幸福になり、一切の苦しみから解放されたいと一縷の望みを託して求めていました。ところが、いつの間にか「人生の目的」が

真の人生の目的を知ったとき、一切の苦しみ悩みも意味を持ち、それに向かって生きるとき、すべての努力は報われる(『なぜ生きる』p.365)

などと、苦しみに意味を与える方向で語られ、いつまでも後生の解決ができないことに対しては

人生の目的を知っただけでも大変なことだ

と慰めにならない慰めを言われ、

本当の人生の目的を達成したとき、一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となってその手に戻るのです。(『なぜ生きる』p.105)
阿弥陀仏に救われるための苦労ならば、全て意味があり、報われる。だから頑張れ!

とすり替わって、ますます組織拡大活動に駆り立てられるだけでした。


こうした高森顕徹会長、親鸞会の教えは、浄土真宗ではありません。後生助かるという事、私達が本願を信じ念仏を申して浄土に往生するという事は、私達の苦労や努力の成果ではないからです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。信文類

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

私がド真剣に聞いたから、苦しい求道に耐え抜いたから、どんな苦労や努力も惜しまなかったから往生の行信が獲られたのではありません。「すべて」阿弥陀仏が与えて下さったのです。これは、信後はそのことを知らされるが、信前は必死の求道聞法が必要だということでもありません。もし必要なら、「すべて」では無くなるからです。我々が本願を信じるのも、お念仏申すのも、浄土往生してこの上ないさとりを開くのも、「すべて」阿弥陀仏の回向によるものです。私としては計らいを捨ててこの道理を聞き、そのままお受けするのみです。

大体、私の真剣さとか、苦労、努力などが、後生の解決の一体何に役立ちますか? 何の役にも立たないでしょう? 私の行為が、信心を獲て浄土往生するのに何らかの役に立つと思っているのを「自力」というのです。そんな己のことなど打ち捨てて、阿弥陀さまがド真剣なはたらきぶりを聞かせて頂かなきゃなりません。こんな俺なんかを助けて浄土に迎え、最高のさとりを悟らせるためにどれほどのご苦労、ご辛労をされたのか。果てしない過去からどれだけ私の救いにかかりきりなのか。片時も休む間も無くはたらいて下さっておられる、その阿弥陀さまのド真剣を受けなきゃなりません。

ここの所を高森教では「高森先生のご苦労」「高森先生のご恩」とすり替えて組織拡大活動の促進剤としていますが、とんでもないことです。そんなものがあるとしても、それはあくまで

速やかに浄土往生して仏果を得る横超の直道を親鸞聖人が明らかにされた

点においてのみです。この、親鸞聖人の教えを知らせてくれた一点において、私は高森会長や親鸞会に感謝しています。ところが高森会長はその親鸞聖人の教えを正確に伝えず、己の私利私欲に会員を振り回しているだけですから、他は百害あって一利なしです。高森教を聞いて活動していても「阿弥陀仏のご辛労」に報いることにはなりません。あれをまともに聞いて信心獲得できる道理がないので、それを知らされた者として僅かでも「御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩」に報いるべく教義の誤りと浄土真宗の教えについて綴っています。

私は幸いにも阿弥陀さまの、真剣そのものの救済活動の只中にあることを知らされ、本願招喚の勅命を受けてお念仏申す身とさせて頂きましたが、今も気付かず組織拡大活動に勤しんでいたら、そしてその間にこの世の縁終わっていたらと思うとゾッとします。衆苦輪に繋縛せられて、またしても迷いを重ねる所だったのを、「間違わさぬぞ」「迷わせぬぞ」の仰せに迷いの絆を断ち切られたことは、慶びの中の慶びであります。私の人生、お念仏のこころを知り、お念仏申すための人生でした。


このように本願を信じ念仏申すようになってからは「なぜ生きる」だとか「人生の目的」は大した問題ではなくなりました。日々の生活の中で、勿論忙しいのもありますけど、本当にこういったことは考えなくなりました。相変わらず衆禍の波はやって来て、苦しみが深い時などは「何でこんなに苦しまないといけないんだ!」と苛立ったりもしますが、まぁこれは業の報いです。そう簡単に割り切れるものでもないですけど、受けてゆくより仕方ありません。

この世は業報の恐ろしさを知らされると同時に、永遠に迷いを断ち切って往生成仏させる本願力、また本願力に遇うための命でありすべてのものである、ということを分からせて頂く道場であるのかなと思ったりもします。今後どうなるかは分かりませんが、今日も命を恵まれた感謝、本願力に摂取され往生を一期として生かされているということを教えの光を受けて知らされつつ、命ある限り念仏を申して生きていきたいです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ただ、この記事で取り上げた座間市の事件、小学生でも自死を選んでいる現実、高校の同級生が早くも一人欠けてしまったこと、祖母の死、祖父の体調不良などをきっかけに、子供であったり親兄弟、また縁のある人、生きる意味に悩んで苦しんでいる人に浄土真宗の法を伝えるといった場合には、「なぜ生きる」というか、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味というのを自分の中で今一度しっかりと捉えておかねばならないと思いました。

別に周囲が悪いと言うつもりはないのですが、人生の何たるかについて教えてくれる人は、親も先生も、先輩も友人も、寺の坊主も含めて一人もありませんでした。どなたもどなたも、挨拶に礼儀、勉強に遊び、仕事に娯楽など、いわゆる「生き方」「どう生きる」ばかりで、それはそれで結構なことだけれども、肝心の「生きる」とはどういうことなのか、「生きる」ことにどんな意味があるのか、苦しいことがあってもなぜそこを耐えて生きていかなければならないのか、また「死ぬ」とはどういうことなのか、「死ぬ」ことにどんな意味があるのか、やがて必ず死んでゆくのに何のための人生なのか・・・、こういったことについては誰も教えてくれなかったです。誰か、こうした問題について明確に答えてくれる人はあったでしょうか? そして、あってもそれは自分が納得いくような答えだったでしょうか?

おそらく、満足する答えを教えてくれた人はほとんどいなかったのではないかと思います。このように生きることに無知であり、死ぬことにも無知であれば、決して自殺を選んでもおかしくはないし、「死にたい」「自殺したい」という声が世間に蔓延しているのも道理です。私自身もずーっと思っていたことです。

別にこのようなことを考えなくても生きてゆくことはできますが、それではハッキリ言って動物と一緒です。死ぬために生きているようなものです。毎日同じようなことを繰り返して、起きて糞して寝て食って、その内に子は親となり、また子が親となり、その間に趣味や娯楽で楽しくしていっても、我が身は年老いて、様々な病気にかかり、やがて必ず死んでゆくのです。死んでゆく時に、我が身に何が残るのか、有難い人生であったと満足して死んでゆけるのか、そして死ぬことも有難いことですと受け容れられるのか。

こう考えていきますと、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味についてよく考えもしないで生きてゆくということは実に薄っぺらい人生だなとしみじみ思うのです。「生きる」「生きている」ということを当然と思っていたら、自分は今大変有難い状況にいるということは分かりません。「命がある」というのが当たり前なのですから、命を粗末にしてしまうのも当たり前となってしまいます。ところが私達は物心付いた頃から当たり前のようにこの世に存在しているわけで、教えてもらわなければ「命の大切さ」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」といったことはまず分かりません。

今回はこれまでと致しますが、これから、改めてこのようなことについて掘り下げていってみたいと思います。
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恭頌新年

あけまして、おめでとうございます。
本年もなにとぞよろしくお願いします。

さて、淳心房さんが挙げられた文を読み解いて見ましょう。

>しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(信文類)

(真下に訳がございますが、あえて自分でも訳してみたいと思います。)

そうであったならば、行(念仏 となえること)も、また信(信心 つのりとすること)も、一つとして弥陀如来の清らかな願い(18願)の心より回向成就(成就せられる)ところに無いものは一つとして無いのだ。弥陀による因(タネ)ではない他の因(タネ)があることはないと、よく知るがよい。 (筆者訳)

と訳しましたから、次に淳心房さんがいわれている、

>「すべて」阿弥陀仏が与えて下さったのです。これは、信後はそのことを知らされるが、信前は必死の求道聞法が必要だということでもありません。もし必要なら、「すべて」では無くなるからです。我々が本願を信じるのも、お念仏申すのも、浄土往生してこの上ないさとりを開くのも、「すべて」阿弥陀仏の回向によるものです。私としては計らいを捨ててこの道理を聞き、そのままお受けするのみです。

>大体、私の真剣さとか、苦労、努力などが、後生の解決の一体何に役立ちますか? 何の役にも立たないでしょう? 私の行為が、信心を獲て浄土往生するのに何らかの役に立つと思っているのを「自力」というのです。

と記されている事はもっともなのです。弥陀の計らいは、「大願業力」とも「願作回向」とも「本願力回向」とも「自然法爾」とも申されており、
その対義語である私たちの計らいは「自力回向」とも「諸行往生」とも「有漏の穢身(の計らい)」とも「小慈小悲もなき身(の計らい)」ともいわれ、これらは「弥陀如来『われひとり助けん!』という心を妨げる『疑情』」といわれるのです。

ここまで長々と書き記しましたがつまるところ、「阿弥陀さまに、おまかせします」と後生をゆだねて下さい  ということを「悲願の一乗帰命せよ」と詠われているのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

P.S.
新年早々から書き込み失礼しました。
仮に私に会ったとしましてもこのように記していることを「文面なのか」「口頭なのか」の違いでしかないので余り期待されすぎるとハードルが筍のように育ってゆきます。 (^^;
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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