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この世に「生まれる」ということ、「生きる」ということ、「生きてゆく」ということ

この記事で「命の大切さ」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」といったことを掘り下げてみたいと書いてから早や10ヶ月。それから随分と間が空いてしまいましたが、今日はこのことについて触れていきます。


私達はこの世に「生まれて」きました。英語で言うと

I was born.

そう、受身形です。学生の頃、

I was born:吉野弘

をチラッと読んだ記憶がありますが、これにある通り自分の意思とは無関係にこの世へやって来たのです。もしかしたら、過去世において「次こそは人間に生まれて仏法を修め、永遠に迷いを離れてこの上ないさとりを開くぞ」と固く誓って両親の元へやって来たのかも知れませんが、そんなことは覚えていません。ただ、気が付いたら自分という存在がここにあったのです。

前世はおろか、生まれてすぐや、赤ん坊の頃の記憶は全くありません。でも、前世はともかく、胎児だった時、生まれた時、赤ん坊だった時は確実にあったのです。母親のお腹の中で十月十日、肉体を分け与えられて、恐らく出産の際には自分には想像できない痛みと共に生まれたのです。その後もお乳を飲ませてもらったり、オムツを変えてもらったり、親からしたらつまらない遊びに付き合ってもらったり・・・。

きっと、転んで泣いた時は抱っこしてあやしてもらったのです。病気の時などは眠い目を擦り擦り看病してもらったことでしょう。自分は小さい時に庭の池に落ちて溺れてしまったと母に聞きましたが、その時は必死に救助されたのです。本能的に生きようとする意思があったというのもありますが、そんなものは微々たるもの。全く親のおかげで、周りの人々のおかげで、そして自分の血となり肉となるために犠牲になった豚や鶏、魚などの多くの命のおかげで「生かされて」きたのです。

この肉体は生まれた時からして既に母親の一部を分け与えられて始まっています。乳児期に飲むお乳も母親のものです。それ以後も、植物のように自ら栄養を産み出すことなく、水やお米、肉や魚、野菜、果物、その他数多くの命を頂くことで保っています。最初から最後まで、私のものだったものなど一つもありません。全て与えられたものです。全て頂いたものです。それを我が物顔に、「自分の命なんだから、生きようが死のうが自由」などと考えること自体、こうしたことが全く分かっていない証拠です。ただし、このようなことはよほど感性が鋭いか、教えてもらうかしなければまず分からないことでしょう。そういう教えが普段の生活や教育現場で説かれない現状は実に悲しいことです。


ただ、そうやってこの世に「生まれて」、「生かされて」いるのは何のためでしょうか? 確かにこの問いに答えが無くても生きてはいけます。また、現状に満足し、生きているのが楽しいならば疑問に思うことはありません。現在小3の長女も学校が楽しいようで、嫌なこともあるものの、まだこの問いを考えるには到っていないようです。ところが、行動する意味を考えずにいられないのが人間であり、生きるのが苦しければ問わずにはいられないのがこの問題です。

生物学的に言えば「子孫を残すため」ですが、じゃあ独身で子供の無い人、子供を産みたくても産めない人は生きる意味がないのかということになってしまいます。「富を築くため」かと言えば、多くの人は十分な金や財を得られず、しかも富豪でも自殺している人がいることを考えるとどうも違います。「地位や名声を得る」にしても、「なりたい職業に就く」にしても、「愛する人と結ばれる」にしても、そういった願望、欲望関係は違うようです。

誰か、こうした「生まれてきた理由」、「生きる意味」について考え、「これだ!」と納得のいく答えを導き出せた人はあるでしょうか? また親でも先生でも、こうした問いについて真摯に答えてくれた人はあったでしょうか?


これについて答えを持たずに生きるということは、実に薄っぺらい、そして危うい人生だと私は思います。人生の裸形は、「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と一休和尚が言ったように、同じことの繰り返しでやがて必ず死んでゆくというものです。

「生きる」とは、「死に向かって」進行していることであり、「生きてゆく」と言いますが、結局「死に向かってゆく」ということです。よく、苦しい状況に「死んじゃうよ」と言う人がありますが、そんな苦しみの象徴、嫌なものの象徴である「」に向かって刻一刻と我々は向かっているのです。ですから、「生まれてきた理由」、「生きる意味」を考えずに、知らずに生きるというのは、「死ぬために生きる」ようなものです。「起きて糞して寝て食って」なら動物だって立派にやっています。ですから以前、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味を考えずに生きることは「ハッキリ言って動物と一緒」だと書きました。

ところが、そのように大事な、人生の根本でもある、「生きる」とはどんなことか、生きてゆく先である「死」とはどんなことかということを、誰かまともに取り扱っている人はいるでしょうか? 誰も立ち止まって考えることなく、ただ目の前の勉強であったり、仕事であったり、やらなければならないことに追い立てられて生きているように思います。そしてその内に、この世での持ち時間が切れて、「もうあなたの人生は終わりだよ、さようなら」と死んでゆかねばならないのだとしたら、一体何のための人生だったのでしょうか? 「こんなところでくたばってたまるか」とよく言われますが、こんなところでくたばらなければならないのです。「死んでも死に切れん」とよく言われますが、死に切れなくても死んでゆかねばならないのです。

何の為に生きて行くのか答えなんて無くていいよ

と歌っている人もありますが、本当に答えが無くていいですか? まぁ、変な宗教に騙されてしまうよりはマシかも知れませんが、それで安心して、満足して、「有難い人生でございました」と死んでゆけますか?


同じ生きてゆくなら、「生きる意味とその方向性」を知って生きてゆきたいじゃないですか。同じ死んでゆくなら、「苦しい事、辛い事も沢山あった。やり残したことも沢山ある。でも、今死んでも満足だ。真に有難い、けっこうな人生でございました」と合掌し、家族や周囲の皆さんに感謝して死んでいきたいじゃないですか。更には、この世を終わって「死んでゆく意味」は何なのか、そこまで知って次の世へ旅立ちたいじゃないですか。

これについては親鸞会でも言っているように、政治、経済、科学、医学、文学、芸術、倫理、道徳・・・、これらの人間の営みの中では答えがありません。そもそもこれらはそのような問題を扱っていないからです。扱っているのは哲学や宗教です。現在私が帰依し学んでいる浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この問題について、その教えを通して一つの答えを示されています。今は詳しく言いませんが、キーワードは万人共通の往生成仏の道である「念仏」です。お念仏申す人生を送ることこそが本当に意味のある人生であり、様々な御恩に感謝していける人生になり、人生がお浄土への旅路へと転換することになり、やがて一切衆生を思うが如く利益することになる。私はそのように領解しています。なぜそう言えるのか、詳細はいずれ別記事で書きたいと思います。

それを聞いて納得する人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。それも一つの考えだねと無関心な人もいるでしょう。ただ、いずれにしても「生まれてきた理由」、「生きる意味」、「死んでゆく意味」について考えるのは無駄な事ではありません。むしろ考えずに生きる方が危ないです。ここまで読まれて、未だ考えたことがないという方がありましたら、この記事が考えるきっかけにでもなればいいなぁと思います。

なお浄土真宗の教えに関心がある方は、

浄土真宗の法話案内

などから検索してお参りして頂ければと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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生きる意味

こんばんわ、Abcです。
今回もありがたく読ませていただきました、ありがとうございます。

「生きる」ということで申し上げますと、「生」という読み方には幾通りの読み方があり当時小学校に上がったばかりの私さえ「この文字には様々な意味があるのでは」と思ったことは懐かしい思い出です。(先生からは「いきる」「うまれる」「なま」だけで良いといわれました。)

さて、古来から「生きる(死ぬ)意味」を考察する学問としましてはいわれているとおり「哲学、宗教学」がその大半を担ってきております。
また、「私たちが住む時間」として考察した学問としまして、「天文学、地学、生物学」そこから発展しました「化学、科学、医学」などがございます。

古来からある「宗教施設」としましては、「マヤのピラミット」「ストーン・ヘッジ」そして「エジプトのピラミット」と様々ございます。
 「マヤのピラミット」「エジプトのピラミット」はいずれも「天文学、地学」を基としている建造物であり当時の技術の高さを垣間見る建造物となっております。(「エジプトのピラミット」はオリオン座 中の、「三連星」が基となっておりますし、(オリオン座は砂漠にて方角を知る重要な指標であります)「マヤのピラミット」はご存知のとおり「神殿の階段数:91x4+1=365」となっており、「一年の長さ」となっております。「春分と秋分」には「チチェン・イッツァの天文台=カラコル」に光が差す構造となっており、このことからも当時の技術が高いことがわかるかと思います。)
 また、イギリスにあります「ストーン・ヘッジ」も「先史時代の人々の間では木材は生者と結び付けられ、石は祖先の死者と結び付けられるということを提案した。彼らは、ストーンヘンジは死者を祭るための長い祭礼行進の境界標であった」とされており、先述のとおり「死者を祀る場所」とされております。(この解説の中には「木から始まり水を渡って石に至る、すなわち生から死に至る象徴的な行進であった」ともしるされており、「生を受け(木)、生かされ(水)、そして死ぬ(石)」という「命のサイクル」であるともされております。)

 ここまで「3つの宗教施設」を解説してきましたが、わたしたち「真宗」におきましては仰られるように「ただ念仏」であります。
 「お念仏を信じた時(信を獲た時)」:「お念仏に生まれさせていただく」
 「お念仏をひろめる(信を広める、信後、還相)」:「お念仏に生かされていただく」

でありますが、
 「お念仏にあわれた時、未だ疑っている時(信前)」:「お念仏を勧めさせていただく」(または「帰せよの命」「悲願の一乗帰命せよ」ともいわれている「帰せよ」であります)
でありますから「信前も信後もともに、阿弥陀様のお育てによる」と「真宗」では考えられております。

みなみな「釈迦・弥陀二尊の召し」である「お念仏」をいただき、共に「仏法ひろまれ」とさせていただきたくおもいます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

[引用元]
Wikipedia:ストーンヘッジ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B8

Re: Abc様

信前も、信後も、死後も、「ただ念仏」。勿論、お勧めしているのは往相回向の念仏であり、願力回向の信心です。

> 「信前も信後もともに、阿弥陀様のお育てによる」

その通りですね。遠く宿縁を慶べと言われるように、果てしない遠い過去からのお育てあってこそ今のお念仏申す人生です。如来広大の恩徳、師主知識の恩徳、様々な御恩を知り、それを感じて、少しでも報いられるように生きていきたいものです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

淳心房先生

前回、私の質問に対し本当に親身にお答えいただき感動すら覚えました。

今年の初め頃にこの「親鸞会ポータルサイト」を知ってから親鸞会の教義をすべて捨て去り「これで少しは浄土に近づけた」と思っておりました。

しかし本当の浄土真宗の教義にふれる度に自分の心はまったく浄土を願生していないと気付かされました。
これまでの私の人生を振り返っても後生は悪道に堕すのは必定であると判るのに、そのことに関してはまったく心が動かない。それでいて、ちょっとした日常の不幸には激しく動揺してしまう。だから信仰を続けるのは、日常の“漠然たる不安”を解消するための手段でしかなかったのです。

こんな私が「度衆生心を起こす」などとは… 地獄に墜ちていく外道達を見たとしても「ザマーミロ」という嘲笑の心しか起きないのに、もはやお笑いでしかありません。

そんな中でしたので、聖人の「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」の御言葉は大変頼もしく感じられました。
これからは先生のご指導を宗に求道して行きたいと思います。

Re: 猿松様

> 今年の初め頃にこの「親鸞会ポータルサイト」を知ってから親鸞会の教義をすべて捨て去り「これで少しは浄土に近づけた」と思っておりました。

親鸞会教義という真宗を粉飾した邪偽の法門を出て離れたという点はとても素晴らしいことです。そして真宗である横超他力、本願力回向の法門を頂くようになったとすればその思いは間違いないでしょう。

> しかし本当の浄土真宗の教義にふれる度に自分の心はまったく浄土を願生していないと気付かされました。
> これまでの私の人生を振り返っても後生は悪道に堕すのは必定であると判るのに、そのことに関してはまったく心が動かない。それでいて、ちょっとした日常の不幸には激しく動揺してしまう。だから信仰を続けるのは、日常の“漠然たる不安”を解消するための手段でしかなかったのです。

お気持ちはよく判ります。親鸞会を退会した頃の私の心情ととてもよく似ており、猿松さんのことは他人事とは思えません。

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。(「信文類」欲生釈)

仰る通り、私には真実の願生心がありません。浄土へ往きたいと思っても、それはさとりを求め、自利利他円満するためどころか、今のこの苦しみを逃れたいという我欲からだというのが悲しい我々凡夫の実態です。そのような我々に、様々に方便を巡らせて何とか本願を信じ念仏する行者に育てようと常にはたらいておられるのが阿弥陀仏であり、本願力であり、その顕現である南無阿弥陀仏です。

このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

だから阿弥陀仏は片時も私に功徳を施し与えようという心を失わずに菩薩の行を行ぜられ、南無阿弥陀仏の名号を成就して私を浄土へ来いよ来いよと招き喚びかけられるのです。私にはない真実の願生心だから、阿弥陀仏が用意して与えて下されるわけですね。何とも徹底したお慈悲です。なんまんだぶ、なんまんだぶ。私はただ、計らいを止めて如来の仰せを仰せのままに聞く以外にはありません。

今、ここで、南無阿弥陀仏のこころ、すなわち「助けるぞ」を受けて下さい。「助けるぞ」を聞くのが、すなわち信です。この南無阿弥陀仏の六字の他に、別に信心というものがあるのではありません。南無阿弥陀仏が行であり、信であり、我らが往生の証拠です。

私が求道して聞き抜くんだという心があれば、そんな心は傍らにして、阿弥陀仏が私を助けるためにどのような求道をして下されたか、そのご辛労を聞かせて頂き、阿弥陀仏の真剣なお喚び声を聞き受けて下さい。私の真剣など、後生の前にはなまくら以下です。私の求道が何になるでしょうか。私の真剣など捨て置いて、阿弥陀仏の真剣を受けて下さい。

求道していった先の救いではありません。今、ここで、この私を救うというのが南無阿弥陀仏です。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

存在理解の枠組み

ども、林遊@なんまんだぶです。

弘法大師空海(774~835)は、「生生生生暗生始 死死死死冥死終(生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し)」『秘藏寶鑰』といわれた。
さすがに宗教的天才であった空海は、生まれること、死ぬことという意味を明瞭に把握することは出来ないことを見ておられたのであろう。

生に暗く死に冥いのが凡夫である。何のために生まれて何の為に死ぬのか解らずに、一生を空しく過ごし、やがて冥(くら)くして死んでいくのである。
浄土真宗は、その冥く空しい死に対して、死ぬことの意義を提示する一面もあるのである。死を「往生」として浄土へ生まれることであるというのである。死に対する真摯で深い考察と洞察から浄土教という仏教は生まれたのでした。

そのような意味では、「一切衆生 悉有仏性」という、あらゆる衆生は仏陀になることが出来るという大乗仏教の究極が浄土真宗という仏教でした。御開山が『御消息』p.737 で「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と示されたとおりの「選択本願」の〔なんまんだぶ〕を称えて往生浄を目指す御宗旨なのでした。
http://labo.wikidharma.org/goseiten.php?k=1&page=737

宗教とは「存在理解の枠組み」だと言われますが、わたくしの存在をどのように把握し理解していくかを学ぶことでもあるのでした。それを浄土真宗では「聴聞」というのでした。もちろん、それは知識を蓄える学問ではなく、汝を救うという「本願招喚の勅命」を聞く聴聞でした。私が忘れてもわたくしを忘れない阿弥陀如来がましますことを聴聞するのです。
蓮如さんは、有難き法を聞いても忘れてしまいますと「機」を嘆く同行に「その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。」
http://labo.wikidharma.org/goseiten.php?k=1&page=1260

と言われたようですが、浄土真宗の「信」とは、判るとか解ったという凡夫の能力の話では無く、本願力回向の阿弥陀如来の話なのでした。
梯實圓和上は、「死ぬ」という動詞について、わたくしに於いては自己の認識対象として捉えることの出来ない現象であると言われました。つまり、わたくしは、わたくしの死を述語することは不可能なのですが、言葉の呪縛に嵌ってしまっているのかもです。
http://wikidharma.org/5bf2b81e6eb8b

わたくしは、私の生の意味も死の意味も解らないという決断から、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

と、「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」という阿弥陀仏の自らの正覚と衆生の往生浄土を乃至十念という〔なんまんだぶ〕を称えて我が国に生まれよ誓願された第十八願が、浄土真宗の「骨目」でした。
ともあれ、高森親鸞会の会員や脱会者の方骨目との会話は、メンタル(心に関するさま。精神的。心理的)配慮が必要なことは、この(淳心房)さんのブログで若干経験しましたです(笑 ←これがあかんのやろな。
ちなみに林遊の〔なんまんだぶ〕は、越前の林遊を育ててくれた同行が称えていた願海度出の〔なんまんだぶ〕なのでした。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。

生きる意味とその方向性を考察していますが、改めて浄土真宗という教えの素晴らしさを知らされました。親鸞聖人は直接には教えられておりませんが、その教えを通して、「なんまんだぶ」こそがその答えだと知らせて頂きました。私のような凡夫が生死を超えていく唯一の往生のみちである念仏。この念仏の教えに出遇えた身の幸を噛み締めつつ、縁のある方々に紹介していきたいものだと思ったのでした。

会員は邪偽の教えをそれと知らずに信じ込んでおり、真宗に無知も同然ですから馬鹿にされても仕方ない面もありますが、退会者の多くは過去を後悔し、また懺悔し、新たな道を歩み始めています。どうぞ温容な態度で接して頂きたいと思います。あ、私に関しては、分かってないなと思われたら鋭くツッコんで下さって構わないです。実際分かっていない、勉強不足な面ばかりなので・・・(;^ω^) でも、何とか林遊さんの指南を仰ぎ、それに食らいついていきたいと思っています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

生きる意味については様々な思いが去来しますが、結論だけ申しますと、「無い」と思っております。
「生きることに意味などない。苦しいだけだからお止めなさい。」と仰せられたのが如来であり、如来の法であると思います。
まあ、そういう意味からは還相回向というのは仏法の目的ではなくオマケですね。
たった一声の南無阿弥陀仏ですべてが終わるのだと思います。
旅の終わりです。
なもあみだぶ。

Re: maelstrom様

maelstromさんのように生きる意味は「ない」というお考えもあって然るべきかと思います。まず答えは「ある」「ない」のいずれかで、「ない」ならそれでおしまい。「ある」なら何なのか、ということになっていきますからね。

ちなみに私は還相回向が仏法のオマケとは思っておりません。また、たった一声の南無阿弥陀仏で流転輪廻が終わり、往相(浄土)の旅が始まる。そして浄土への旅が終わると同時に今度は衆生済度の度に出発する。還相はその出発点であると考えています。

いずれにせよ、本願を仰ぎお念仏を申して御国の旅を共にいたしましょう。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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