FC2ブログ

知りたい人にはどうしても知りたい、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」

人生、気が付くと既に始まっています。

私は4歳位からでしょうか、それくらいからおぼろげに記憶があります。便所で、曾祖母にケツを拭いてもらったことを覚えています。幼稚園で友達と砂場を掘ったり遊具で遊んだりしたこと、また園にいる時に大きな地震があったことも覚えています。庭で走っていて、自分ほど速く走れる者はいないだろうなんかと自惚れていた記憶が残っています。まぁそれは小学校の徒競走で見事に打ち砕かれましたが・・・。

4歳頃ですからある程度大きくなっていて、自分の頭や目、耳、鼻、口、手足、体があって、小さな物を掴んだり投げたり、歩いたり走ったり、食べたり飲んだりできることは分かりました。それから父母、祖父母、曾祖母、妹、近所の人や友達、先生など、多くの人達が周りにいることを知っていきました。住んでいる家、庭、周辺の地理も覚えていきました。色々な遊び、自転車の乗り方、読み書き計算、挨拶、その他様々な「生きる知恵」を習得し、段々世界が広がってゆきました。


そうやって大きくなってゆく過程から現在まで、勉強や様々な「生きる知恵」を教えてくれる人はありましたが、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」はこれだと教えてくれたのは、私には親鸞会しかありません。他は、まるで考えてない、関心が無い、どころか、触れるのがタブーかの如く、誰も問題にもしませんでした。

別に「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」を知らなくても生きてはいけます。毎日毎日、変わり映えもなく台所とトイレの往復、家と会社の往復、寝て起きてを繰り返すだけの人生ならば。でもそれでは動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのか。これでは動物と変わらない一生ではないかと思ってしまいます。否、人間は動物と違って耐え難きを耐え忍び難きを忍んで生きている分、苦しみが深いのではないでしょうか。

人生が順風満帆であったり、生きるのに必死過ぎて心を亡くしている状態の時ならばこんなことは思いません。苦しみや将来の不安、身近な人の死や臨死体験など、考えさせられる縁でも来ない限り。そして、同じことの繰り返しで最期死ぬだけの人生ならば今死ぬのとさして変わらないと気付いてしまうと、どうしても「生きる意味」を知りたくなります。知ることができなければ生きていけません。そんな事、いっそきれいさっぱり忘れて楽しく生きられたらいいのですが、考えてしまった者からしたらそんな簡単に方向転換できないものです。


かく言う私も小学生、中学生位まではそこそこ楽しく生きていましたが、志望の高校に入った頃から段々とこの問題を考え始めました。というのも、私は小さい頃から母親に「○○高校に入学してもらいたい」と言われており、それを目標に生きてきたからです。当然高校入学で終わりではないわけで、目標を失った自分は迷いました。次は大学だと期待をかけられましたが、中学までと違って勉強量は膨大でキリがありません。なりたい職業があったとか、好きで勉強していたとかではなく、私は当時好きだった女の子が勉強ができたから勉強していたに過ぎなかったので、意味も分からずただ知識を詰め込むだけの勉強が徐々に苦しくなっていきました。

高校では、やはり天才というか秀才というか、上には上がいるもので、自分が最大限努力しても勝てない相手がクラスにいました。好きなTVゲームもやり過ぎて親がいい顔をしません。時々受ける模試の判定は苦手の国語が足を引っ張ってCとかDランク。迫ってくる受験を考えると暗くなるだけです。また、当時心の支えであり好きだった女の子への恋も実らず、思うようにならない現実に嫌気が差してきました。

自分は一体何がしたいのか。何をするためにこの世に生まれてきたのか。全く分からない。とにかく苦しい。この苦しい気持ちを抱いたまま生きてゆくのはつらい。その内にも通信教育の課題はドンドン溜まり、時間はドンドン過ぎていきます。やりたいことが分からないし、本当に欲しいものも得られない。将来に希望も持てない。親や先生の期待は重圧でしかない。しかも苦しいこの気持ちを分かってもらえない。他人にとっては「その位の事で何悩んでんだ?」と思うことでも、自分にとってはそれが全てと言っていい位大きいことだったのです。

高3の2学期、いよいよ苦しくなってきた私は「どうせ死ぬなら今死んだ方がマシだ」と自殺を決意しました。が、いざ死のうとすると真っ暗で、恐怖しかありません。それまでは死んだらタンパク質の塊になるだけ、自分は無になると考えていましたが、その考えは一変し、この言いようのない死への恐怖に驚き、負けて、自殺も断念しました。その頃の自分が自分に出した答えは、

「人生に意味は無い。自分には死ぬ勇気も無い。ならば無意味な人生を死ぬまで生きるしかない・・・」

というものでした。その後、奇跡的に大学に合格しましたが、この暗い心はどうにもなりませんでした。


知りたい人にはどうしても知りたい、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」。日本で自殺者が多いのも、新興宗教にハマる人が多いのも、こうした人生の根本的な問題が家庭でも学校でも、社会でも全く扱われていないからではないかと私は考えます。訳の分からない無意味な行動はできないように、意味も目的も分からない人生を明るく楽しく生きることができるはずがないからです。きっと、生きる目的や意味が分からないことが根本にあり、そこへ様々な苦しみが関係して自殺したり、新興宗教にハマったりするのだと思います。

だから、教義は間違いだらけですが、「人生の目的」「なぜ生きる」という親鸞会の問いかけまでは間違いではありません。むしろまともです。私はその答えを知りたい、人生の目的を果たしたいという気持ちがあったので、先輩の勧誘も手伝って入会しました。結果は散々でしたが、「親鸞聖人の教え」というところまでは間違っていませんでした。おかげさまで私は今、本願を信じお念仏を申して、往生を期として浄土への旅路を歩む身とならせて頂けています。「親鸞聖人の教え」の存在を示してくれた点のみ、親鸞会には感謝、感謝です。


親鸞聖人の教えには、人間の力では如何ともし難い生死の問題を超えてゆく、「生死出づべき道」が示されています。それが「念仏」であるということを一生涯通して明らかにされたのが親鸞聖人です。その教えによって、私はこの人生は迷いの世界を出離させる「念仏」に遇うための人生だったと知らせて頂きました。

勿論、人生の苦悩が全て解決されたわけではありません。今までの業報で、現在も様々に苦しみ悩んでいる事に変わりはありません。仕事、人間関係、病気、経済面、その他人生の一切の苦しみは、煩悩具足は変わりませんから、生きてある限り存在し続けます。しかし、真っ暗な死後の恐怖に怯え、無意味な生を受け入れて、空しさを抱えながら死ぬまで生きる人生ではなくなりました。

「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」、更には「死んでゆく意味」をも知りたいという方には、聖人の教えを学び、そこに答えを見出すというのも一つの選択肢だと思います。浄土真宗に関心がある方は、

浄土真宗の法話案内

等で日時や場所を確認の上、参詣されてはいかがかと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

The life is a dojo where we meet Tathagata.

The life is a dojo where we meet Tathagata.
「人生は 如来にあわせていただく 道場である」- 梯實圓和上

>「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」

『浄土論』には、「生まれてきた理由」や「生きる意味とその方向性」を知らずに死んでいくことを《空過》(空しく過ぎる)という言葉であらわしていました。

 観仏本願力 遇無空過者
  仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。
 能令速満足 功徳大宝海
  よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。
http://wikidharma.org/5bf57b7780f93

御開山は、この『浄土論』の語を大変に慶ばれて、

 本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%AB%98%E5%83%A7%E5%92%8C%E8%AE%83#no13

と、和讃されていました。
ともあれ「空理」に沈むニヒリズム(生きることに意味はないという空に沈むこと。浄土教ではこれを「七地沈空」といふ)に陥って、生きる意味を喪失するのですが、人が生きるということは自らの課題を明確にし、それと取り組んでいく人の営みをいうのでした。
生きることに意味が見出せなくて死を欣ったり、その反対に死を否定して生のみを享受するという生を欣う我らに、生きることにも意味があり、死ぬことにも意味があるということを示して下さったのが、浄土真宗というご法義でした。

梯實圓和上は、「人生は 如来にあわせていただく 道場である」と仰いましたが、あらゆる困難を、私を育ててくれる「道場」であり、なんまんだぶを称える者に育む「場」が人生であるといわれたのでした。
これは「人はこの世へ、お念仏をいただきに来たのですよ」という梯實圓和上の師である山本佛骨和上のお示しだろう。なんまんだぶと称えて、なんまんだぶになるというお示しが御開山の示された、念仏往生のご法義であった。ありがたいこっちゃ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%81%93%E5%A0%B4

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。私も梯和上のご著書に感銘を受けています。現在書いている「生きる意味とその方向性」も梯和上のお言葉であり、私が和上から受けた影響はとても大きいです。

さて、「生きる意味」というのは、たった5文字にして人生のすべてといっていい位大きな問題です。それゆえ、とても難しい問題であり、同時に色々と意見が分かれる問題かと思います。

なので、私は「生きる意味は無いという者はけしからん」とか、そういうことを言うつもりはないです。あくまで、未だ考えたことの無い方には、生きる意味について真剣に考えてみませんか? というスタンスで、考えたことがある/あった方には、浄土真宗の教えを通して淳心房はこのように領解していますというスタンスで書いているつもりです。

悩んで考えた末に「生きる意味は無い」と思われている方には、その思いを無理に変えようとは思いません。そのお考えを尊重します。それよりも厄介というか困るのは、生きる意味が「ある」「無い」以前に無関心ということです。こういう人こそ本当の「ニヒリズム」ではないかと私には思われます。

かく言う私も、以前は大分苦しみが深く、鬱的症状も抱えていたのでとても現在のようにお念仏を喜び、人にも何とかお伝えしたいとは思えませんでした。今は幾分苦しみも和らぎ、お念仏を申して浄土へ向かう人生をようやく歩み出したという状況です。この先どうなるかは分かりませんが、とにかく我が身を法に浸して本願を仰ぎ、お念仏を申していきたい、生きる意味とその方向性を確かめつつ浄土への旅をしたいと思っております。

本当に、ありがたい教えに遇わせて頂くことができました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード