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「不体失往生している者が死ねば体失往生する」「阿弥陀仏は二回往生を約束されている」等、とにかくトンデモ邪義連発の高森顕徹会長

この前の結婚式は神前式で、アニメ『世界の光 親鸞聖人』の第二部第三部に出てくるような演奏や舞いが見られました。それにしても神社の本殿(拝殿?)というのでしょうか、参列者控室からそこまでずらずらと移動し、儀式、そしてそれが終わってまた戻ってくるまでの間の寒いことと言ったら(;^ω^) 暖かい時期はもはや予約でいっぱいだったのかも知れませんが、屋内で全てを済ませるのでない場合は時期も考えた方がよさそうです。どうせなら義弟の実家は浄土真宗なんだし、仏前式がいいのになぁなんて思いましたが、今時はホテルかチャペル、また今回のような神社での式がほとんどで、仏前式を挙げたという人はいるのでしょうが周りでは聞いたことが無かったのでした。


さて、どっかのドタキャン会員達と違ってキチンと約束を果たし参列していた頃、親鸞会では、

施主・真生会富山病院からの質問
 映画「なぜ生きる」で、『「なぜ生きる」の答えは、大悲の願船に乗ることだ』とありましたが、
 なぜ大悲の願船に乗ることが生きる目的となるのか、その理由を詳しく教えて下さい。


という質問に答える形式で、高森顕徹会長の話があったそうです。彼らは未だに続けちゃってるんだろうなぁ、日曜日も富山に行って支離滅裂な話を聞いていたんだろうなぁと考えるとため息をつかずにはいられません。


今回は、先ほども触れたアニメ『世界の光 親鸞聖人』第二部に出てくる、体失・不体失往生の諍論の場面を流して「往生」について話をしたようです。本願成就文の「即得往生 住不退転」に注目し、

阿弥陀仏は、全ての人に「即得往生 住不退転」と約束されている

という流れから出てきたそうで、「往生」を

1、生まれ変わって往く
2、極楽に往って仏に生まれる


の二つの意味があると説明、それからアニメを流し、

・不体失往生している者が死ねば体失往生する
・阿弥陀仏は二回往生を約束しておられる
・死んでから極楽に生まれる往生が「体失往生」
・生きている今、絶対の幸福になるのが「不体失往生」


などと話したそうです。


まぁ、これだけでも高森顕徹会長がいかに浄土真宗に無知な人物であるかということがすぐに分かりますね。まず、「往生」とはどういうことか、何が語源なのかということも知らないといけません。既にこの記事でも書いていますが、「往生」の語源は法然聖人の

捨此往彼 蓮華化生」(『往生要集大綱』)

というお言葉です。法然聖人は『往生要集大綱』第七に

言往生者 捨此彼 蓮華化

と仰っています。読み下すと、

往生と言うは、此(ここ)を捨て彼(かなた)にきて、蓮華に化するなり

です。此(ここ)、つまりこの娑婆世界を捨てて、彼(かなた)、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土にって、蓮華に化する。その「」と「」を取って「往生」ですから、「生きている時の往生」など有るわけがないのです。

1、生まれ変わって往く

何じゃこりゃ? 「往生」にこんな意味はありません。また、当然ながら、

・阿弥陀仏は二回往生を約束しておられる

本願文のどこをどう読んだらこんなデタラメ創作教義が出てくるのか意味不明です。


これは親鸞聖人が仰ったとされる「不体失往生」の誤解から来ているものと思われます。これを

「肉体を失わない時の往生」、つまり「生きている時の往生」

と早とちりしたのでしょう。これがそもそも間違いです。お聖教をキチンと読んでいないからこのような間違いをするのです。

善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。
(中略)
念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。
『口伝鈔』一 体失・不体失の往生の事

とあるように、身体が滅ばなくても信心獲得のとき浄土に生まれることが確定するので、「体失せずして往生す」、すなわち「不体失往生」と親鸞聖人は仰ったのだというのです。ですから「不体失往生」とは何かと言えば、「平生に往生が定まる」ということです。「往生」するのはあくまで死んでからですが、その「往生」が定まるのが「体失せずして」、つまり「平生」ということです。これが分かれば、

・生きている今、絶対の幸福になるのが「不体失往生」

こんな創価学会用語をパクった解釈が出てくるはずがないのです。


ついでに善恵房証空上人が仰ったとされる「体失往生」についても触れておきますと、これは「平生」に対して「臨終に往生が定まる」ということです。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。
(中略)
諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。
(同)

とあるように、臨終を待ち、阿弥陀仏の来迎にあずかって初めて「往生」が確定するので「体失して往生する」、すなわち「体失往生」と言われたわけです。ただこの「体失往生」は「胎生辺地」への往生、つまり「化土往生」であり、「報土往生」ではありません。また、臨終に阿弥陀仏の来迎が無ければ「化土往生」すらかなわないという極めて不確定なものです。しかも何もしなくても臨終来迎にあずかれるのではありません。平生は19願に従って修諸功徳の善を積み、来迎にあずかれるよう誠心誠意努めねばなりません。ですから、

・死んでから極楽に生まれる往生が「体失往生」

こんな解釈が出てくるのはお聖教をキチンと読んでいない証拠なのです。だから、

・不体失往生している者が死ねば体失往生する

などというトンデモ邪義が出てくるのです。


それについて説明していきましょう。その後、『口伝鈔』には

勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。

と書かれています。

念仏往生は本願なる」「本願念仏の機の不体失往生

と言われているように、本願である18願を信じ念仏する者は平生に往生が定まりますから「不体失往生」です。念仏往生の機、18願の機が遂げる往生が「不体失往生」です。そして「不体失往生」は

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

とあるように「報土往生」であります。一方、

諸行往生は、非本願なる」「非本願諸行往生の機の体失往生

ですから、本願に非ざる19願の行を修して臨終に阿弥陀仏の来迎を待つ者は臨終に往生が定まりますから「体失往生」です。諸行往生の機、19願の機が遂げる往生が「体失往生」です。体失往生」は『口伝鈔』だけでも十分ですが

この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。『末灯鈔』1通

とあるように「辺地・胎生・懈慢界」への往生、すなわち「化土往生」です。このように「不体失往生」と「体失往生」とでは、遂げる往生が異なるのです。これが分かれば、高森会長の

「不体失往生している者が死ねば体失往生する」

という発言は、

「報土往生を遂げる身になった者が死ねば化土往生する」

と言っているのと同じであることが分かるでしょう。だから「トンデモ邪義」だと言ったのです。


これまで述べてきたことをここでまとめておきます。

・阿弥陀仏は往生の定まる時期が平生か臨終かで異なる2つの願を建てられている。
・平生に往生が定まるのが18願。「不体失往生」=「平生に往生が定まる」。
・臨終に往生が定まるのが19願。「体失往生」=「臨終に往生が定まる」。
・本願念仏の機(18願の機)が遂げる往生が「不体失往生」=「報土往生」。
・非本願諸行往生の機(19願の機)が遂げる往生が「体失往生」=「化土往生」。
「不体失往生している者が死ねば体失往生する」など有り得ない。


それにしても、「諸行往生は本願にあらず」と仰せられる諸行往生の機の「体失往生」であるのに、

「不体失往生している者が死ねば体失往生する」

と発言するとは、高森顕徹会長は「本願念仏の機の不体失往生」と「非本願諸行往生の機の体失往生」のどちらを勧めているのでしょうか。いすれにしましても、まともに仏の本願である「念仏往生」を説いてはおりませんから、親鸞聖人の教えられる「本願念仏の機の不体失往生」を遂げたい方は高森顕徹会長及び親鸞会から離れた方がよいでしょう。



【参照】
『WikiArc』化生
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誓願一仏乗

どもです。

石泉和上だったか
「語に依って義に依らざるは愚者の常なり」と仰ったそうです。

まさに高森顕徹氏は『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」の不体失往生の「語」に幻惑されて高森顕徹氏本人も混乱しているのかもです。本人も理解できていない話を聴くから会員は?が百個ほど付くのかも。判ってない人の話を、分かってない者が聴くのですから解る筈がないのでした。、
『口伝鈔』の後に著された『最要鈔』などにあたっておけば、不体失往生とは現生正定聚のことを云おうとしていることが判るのになあ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%9C%80%E8%A6%81%E9%88%94

覚如上人は、いわゆる即得往生の語によって、心命終(自力疑心の終り)と身命終(身体の命が終る)を云おうとされていたのでした。
それを、不体失往生、体失往生として表現されたのが『口伝鈔』の説でしょう。もっとも『口伝鈔』の逸話は少しく怪しいです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BD%93%E5%A4%B1%E4%B8%8D%E4%BD%93%E5%A4%B1%E3%81%AE%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%AE%E4%BA%8B

幼稚な高森顕徹氏とは全く違う視点で、大谷派では即得往生の語の理解を巡って、小谷信千代師が『真宗の往生論」という書をあらわしたので学者の間では紛糾しているそうです。

曽我ははたして親鸞の往生論を誤解したか
http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2017/1108.html

親鸞の往生論への誤解を糺す
http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2017/1124.html

ある意味で近代は、幾千万の浄土真宗の門徒が往生した西方仏国の浄土を、大谷派では近代教学という学問で理解しようとした営みでもあるのですが、林遊は御開山の指南によって浄土真宗という、なんまんだぶのご法義を理解しているので、どうでもいいことではあります。

ちなみに「大悲の願船」とは、なんまんだぶという一乗の法をいうのであり、高森親鸞会では大乗、小乗といわれた仏教の「乗」という言葉の意味すら教えてもらってないのでしょうね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E6%88%90%E4%BB%8F

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ





こんばんわ

こんばんわ、Abcです。

神前式ですか、趣があっていいですね。 ^^
「控え室から拝殿にいく」という行いは、
「万のところに神が宿っている」と言う考え方からすると
滑稽かもしれませんが、「拝殿に神がおられて、謁見して結納の報告をする」というのが「控え室から拝殿にいく」意義であります。ですから、神は神としておられるのです。

さて、「体失往生」と「不体失往生」ですが、覚え書きの感じで書いておきます。

体失往生: 諸行往生 臨終来迎往生 「深信因果(19、20願)」にての往生(「思議の法」にての往生)   → 疑城胎宮往生(化身土往生)

不体失往生: 念仏往生 至心信楽往生 「自然法爾(18願)」にての往生(「不思議の法」にての往生)   → 弥陀浄土往生(報身土往生)

「報土」と「化土」は天と地ほどの差なのですが、高森さん的には一緒なのでしょう。

※ 親鸞がかかれた「教行証」のなかに
「顕浄土方便化身土巻」 と 「顕浄土真仏土巻」 の2巻がありますが、
「教行証」を読まれていないのですから仕方が無いのかもしれません。

なもあみだ なもあみだ

Abc

現当ニ益

こんばんわ、再びAbcです。
なんだかんだ慌しく映ってしまうこと、お赦しください。

さて、「現当ニ益」についてですが、

1つ目に「高森さんにとっての現当ニ益」を挙げておきますと、

「不体失往生している者が臨終の後に体失往生する」です。
弥陀がおん骨折りておつくりになられた滅度(ねはん ニルバーナ)から
迷いの衆生の迷いによって滑落してゆく輪廻(りんね)に 往くと言うのですからどうしようもない感じがします。

2つ目に「真宗論者の現当ニ益」を挙げますと、
---

『御文章』一帖目第四通に(真聖全三―四〇七)、

問うていわく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。答へていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもうべきものなり。(*)
とあるが、この論題の出拠であります。存覚師の『六要鈔』にも(真聖全二―三二一)、

問う、定聚・滅度はこれ二益か、また一益か。答う、これ二益なり。定聚というはこれ不退に当たる。滅度というはこれ涅槃を指す。
---
(引用: WikiArc 安心論題/正定滅度)

とあり、淳心房さんの言葉を借りますと、

---
「じゃあ「本願の報土へ生れ」るのはいつですか? 当然死後です。死後の「本願の報土へ生れんとねがへ」と仰せです。現生では必ず「本願の報土へ生れ」る位に定まり、臨終一念の夕べに「本願の報土へ生れ」るのです。ちゃんと「死後の往生を願え」と死後のことが説かれているじゃないですか。成就文に死後のことが説かれているから、本願文にも当然死後の往生が説かれています。」
---
(引用:真偽検証 2017/9/30)

とあります。

少し話はズレるかも知れませんが、親鸞は「和讃」で、

不退のくらいすみやかに えんとおもわんひとはみな
  恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし
(浄土高僧和讃 龍樹菩薩 第6番)
とあり、「不退のくらい(本願の報土へ生れんとねがふ集まり(正定聚))を得ようとする人は恭敬の心に執持して(六つの字のこころを強く持ちて)弥陀の名号(六つの字)を称えなさい」といわれており、このことからしましても、

「不退のくらい = 現益 = 正定聚」とみれますし、
蓮如が 「その位を「一念発起・入正定之聚」とも釈し」(聖人一流章)と言われているのもこのことにあたります。

※「信心決定」を「名号執持」と申されるいわれは上記に記したとおりです。

最後の一押しとして、「もし現世にて浄土にてうべき益である「当益」を得るならば、弥陀は11願「必至滅度の願」を立てません。」 なぜならば、現世で弥陀浄土に往けるのでしたら「私が清。浄土に生まれさせるぞ!」とはいいません。

 これは七高僧が提唱している 18願(不退のくらい)→11願(涅槃)です。
証空は、この「11願にて涅槃に入るのであり、この世で往生するのではない」と
「体失往生(臨終来迎)」を推したのであり、対して綽空(親鸞)は「選択本願(18願)として弥陀が私たちとお約束されており、その「弥陀の名号」を執持することによって往生するのだ」と「不体失往生(念仏往生)」を推されているのです。

すこし長くなったので図で説明しましょう。

証空 と 綽空(親鸞)が申されたことは、弥陀の救いを「☆」であらわすと

証空 : 現世 臨終 ☆(11願に依って) 涅槃

綽空(親鸞) : 現世(不信) ☆(18願に依って) (「前念命終」ともいわれる) 現世(名号執持) 臨終 ☆(18願 ・ 11願に依って) 涅槃

と親鸞の「捉え方」のなかには「☆」が2つあります。これが、先ほどから説明している「現当ニ益」なのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: 林遊@なんまんだぶ様

高森顕徹会長の根本聖典は『仏敵』や大沼師の著作であり、ろくに真宗学も学んでない、目的は浄土真宗の繫昌ではなく己の繫昌でしょうから、意味も分からず真宗の言葉だけ借りて本物を装っているのです。昔は本人の気性とカリスマ性からハッタリが通じたのかも知れませんが、今ではマインドコントロールの良く効いた会員にしか通じていません。それでも騙される人は騙されますし、多くの友人達も恐らく残ってしまっているでしょうから、これからも教えの間違いを指摘し続けたいです。

『飛雲』にも林遊さんがコメントされていたかと記憶していますが、「体失・不体失往生の諍論」は少し怪しいという点、了承しました。ただ、親鸞会では「親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、この三方の信心は一味」だと言っているので、経典や七祖、そしてこの三方のお言葉が全て正しいという前提で当ブログでは話を進めています。その点、ご理解頂きたいと存じます。

ちなみに「乗」とは、「乗り物」というほどの意味でしか親鸞会では教えられません。

大乗ー大きな乗り物
小乗ー小さな乗り物

という程度です。「誓願一仏乗」など聞いたことのある会員は皆無同然ではないかと思います。

Re: Abc様

高森会長は「体失往生」「不体失往生」の意味を理解していませんので、

>「不体失往生している者が臨終の後に体失往生する」

と言葉にするとトンデモ邪義が明白化しますね。高森流現当二益は

現ー絶対の幸福
当ー浄土往生、成仏

で、現世で絶対の幸福になっていなければ当来の往生は得られないと現益を強調しております。ありもしない幻想的な楽をちらつかせて聞く者を釣り、組織拡大に利用するやり方は許せません。

「体失・不体失往生の諍論」は、『飛雲』にもありましたが

臨終来迎を認めない親鸞聖人
臨終来迎を認める証空上人

との諍いであったと見るのが妥当かと思われます。法然聖人のご裁断を読めば明らかですが、現生正定聚のことを「不体失往生」「体失せずして往生を遂ぐ」と聖人は表現されていますね。それに対する形で証空上人が反論したという具合に書かれています。現生正定聚は親鸞聖人に至って初めて言われたことですし、「体失せずして往生を遂ぐ」という表現が突拍子もないことだったので証空上人が反論したのではとしか思えないです。親鸞会のアニメしか知らない人は訳が分からないでしょうけど、この際お聖教をキチンと読んで頂きたいところです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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