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ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(1)

大分前になりますが、親鸞会を退会した方からのメールで、

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか

ということを聞かれました。その時は簡単にメールでお返事したのですが、今回はこれについて、淳心房なりに考察したことを書いてみたいと思います。


親鸞会では「聴聞に極まる」「聞く一つ」「重ねて重ねて聞くのです」等と説かれ、最近では

浄土真宗は「聞の宗教」、「聞くことを教えている宗教」

であると発言し、他宗教と比較して「聞く」ということを強調するあまり

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない

というアッと驚くタメゴロー発言まで飛び出したことは皆さんの記憶に新しいかと思います。


「聴聞に極まる」「聞く一つ」「重ねて重ねて聞くのです」

これ自体は間違いとも言えないのですが、親鸞会では教義の問題と会員の誤解があるため、高森顕徹会長が説くこうした教えは間違いです。なぜ間違いかと言いますと、


(1)そもそも親鸞会の教えは「聞く一つ」ではない

第一の理由がこれです。この記事でも書きましたが、「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではありません。親鸞会では「教学」と「行学」と言って、教えを聞いているだけではダメで、聞いたことを実践しなければ横の道を進んで助かるということは無いようです。「教学」だけで「行学」が伴わなければ

観念の遊戯、信仰の幼稚園

などと言われ、実地に求道していかねば信心決定して阿弥陀仏に救われることはないというのです。しかし、「聞く」というのと「聞いたことを実行する」とは普通別の事です。

例えば健康法にしても、「○○すれば健康になる」と「聞く」のと、実際に「○○する」、「聞いたことを実行する」のは違うことです。それがどんなに理にかなった方法で健康になるとしても、「聞く」だけで「聞いたことを実行する」ことがなければ絵に描いた餅です。

それに、「聞いたことを実行する」ことと「聞いた通りのことが実現する」ことも別の事です。聞いた通りに実行したとしても、聞いた通りのことが実現するまでは多少なりとも時間がかかります。

これら「聞く」「聞いたことを実行する」「聞いた通りのことが実現する」を仏教に配当すれば、教えを知る、つまり「聞く」。如説に修行する、「聞いたことを実行する」。説の通りのさとりを開く、「聞いた通りのことが実現する」と言えるでしょう。


この点、浄土真宗は、「わが真実なる誓願を信楽すべし」と「聞く」、すなわち

お前を仏にするという本願が既に成就してはたらいておるぞ。必ず浄土に迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせて、我が名を称えなさい。

という如来の勅命を疑い無く「聞く」という教えです。それがそのまま「信心」であり、仰せを計らい無く受け容れたすがたが「称名」つまり「念仏」となって行者の上に現れるのです。「」が「」であり、「」であるという教えというわけですね。このように「聞く」ままが「」であり「」であるという教えはあまり類を見ないと思います。「聞く」がすなわち「聞いたことを実行する」ということになるのですから。これは、真実の教行信証が本願力の回向によるものだから、私の所作や計らいは要らないからそうなるのです。

さて、こうした「信心」の行者、「念仏」の行者がやがて一期の命が尽きますと、浄土に往生して仏のさとりを開くのです。これを『歎異抄』では「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と仰せられてあります。

これを先ほどの「教行証」で当てはめれば

教 - 本願(阿弥陀仏の仰せ)
行 - (信じ)念仏を申さば
証 - 仏に成る


となります。まことに有難い教えであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


このようなことですから、浄土真宗は「聞く一つ」ということ自体は間違いではありません。先ほど示したような阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」を「聞く一つ」ですから。ところが親鸞会の場合はそうではありません。

親鸞会では、阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」以外の別の教えを説いています。高森の教行信証(行編)でも示しましたが、それは因果の道理であり、因果の道理の結論である廃悪修善の実践ということです。

この教えは誓願一仏乗である浄土真宗とは異なった八万四千の法門であり、こちらは当然のことですが「聞く」がすなわち「聞いたことを実行する」ということにはなりません。ですから、

・教えを聞いているだけではダメで、聞いたことを実践しなければ横の道を進んで助かるということは無い

となるのも道理です。親鸞会では独自の方便論を用いて、因果の道理因果の道理の結論である廃悪修善の実践が必要不可欠であるかのように説いていますが、親鸞聖人はそれを自力と誡められてしかいません。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける
『正像末和讃』誡疑讃

とある通りです。実際のところは八万四千の法門もどき、19願もどき、自力諸善もどきの悪業悪行を主体とする活動がメインですから、そんな活動を「真実の仏法だ」などと信じてやっておる者は「七宝の獄」にさえ入れず、「自業自得の道理」にて三悪道に堕すのが必然です。それどころか、念仏誹謗の報いで「必堕無間」というのもあながち間違いとは言えないのであります。

ちなみにこうした高森教を先ほどの「教行証」で当てはめれば

教 - (高森流)因果の道理
行 - 悪業悪行、助正間雑、雑行
証 - 絶対の幸福


となりましょうか。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、「創価学会の信心」を求め、組織拡大要員として獲信・往生とは無関係なことをやっている会員は哀れでしかありません。


まだまだ高森顕徹会長の説く「聞く一つ」についての誤りに関して書きたいことがありますが、一旦ここで切り、続きは次回書いていきたいと思います。
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真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

ども、林遊@なんまんだぶです。

「樽一杯のワインに一滴の泥水を入れればそれは樽一杯の泥水になる。」

という言葉がありますが、高森会の教義は浄土の真実の宗に、「絶対の幸福」という人間の欲望の毒を垂らしてあるから、全体が泥水の教義になっているのでした。
真面目な会員の方は、この泥水の中から真実を探そうと鋭意努力しているのでしょう。もっとも、この泥水の大本が高森会で唯一に経典解釈権を有する高森顕徹氏ですから、会員は高森氏の話を聴いている限り泥水の解釈の中でのたうちまわるのかもです。
そもそも御開山は、真と仮の行業論の違いを《真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す》(真巻 P.373) と言われたのでした。これを高森顕徹氏は「仮」に拠らなければ「真」へは入れないというのですから困ったものです(笑
http://www.hongwan.net/index.php/%E7%9C%9F%E4%BB%AE%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%95%91%E6%B8%88%E8%AB%96%E7%9A%84%E6%84%8F%E7%BE%A9


そもそも、高森顕徹氏は「浄土真宗の大綱」ということを全く知らなかったのでしょうね。まあ大綱が判らなけらば、所詮は枝葉末節の言葉遊びになるのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%A4%A7%E7%B6%B1

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>このようなことですから、浄土真宗は「聞く一つ」ということ自体は間違いではありません。先ほど示したような阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」を「聞く一つ」ですから。ところが親鸞会の場合はそうではありません。

親鸞会では、阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」以外の別の教えを説いています。高森の教行信証(行編)でも示しましたが、それは因果の道理であり、因果の道理の結論である廃悪修善の実践ということです。 (以上 淳心房さんの本文より抜粋)

ここで「真宗の教え」と「高森の教え」をざっくりと記してみましょう。

・「真宗の教え」
 「真宗の教え」は「南無阿弥陀仏」です。これ以外にありませんし、それ以外を説くのでしたら真宗ではありません。ただ、源空聖人が言われている「諸善は廃せんがために説き」とあるように、「すてさるために説く教義」もございます。

「真宗」と「名号」と言う語句は真宗では「同意語」として扱われております。
その「真宗(南無阿弥陀仏)」を疑いなくいただくことを「門即信」とも、これを略して「聞信」ともいわれます。

「弥陀の誓願」は総てで48ございますが、浄土宗においては「ただ18願のみぞ、本願の王である」ともいわれています。わたしが過去に「それ以外の願」について大まかに記したことがありましたが、それらの願も「18願のお働き」(発願回向の義)の一つ一つであります。 ただ、17願におきましては「18願を作られるきっかけ」でありますから他の願とは少し意味合いが違ってまいります。
 以上が、「真宗の教え」のざっくりとした内容であります。

・「高森の教え」
 「高森の教え」は、高森さんも言われている「善因善果」でありますから。「因果の道理」であります。これをお釈迦様は、「信罪福の者」とよばれております。


---

 一方で、浄土宗の源空聖人、親鸞は以下のようにいわれています。
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。(源空聖人 『選択集』 三選の文)

 同じく『観経疏』(散善義)に『阿弥陀経』を引きていはく、(中略)〈なんぢら衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。

一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ることかならず疑なし〉 (源空聖人 『選択集』)

親鸞は次のように言われています。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。

また、私が何度も出している『和讃』には
 念仏成仏は真宗であり、万行諸善は仮門である
真仮をわけなかったならば、 阿弥陀さまの浄土は到底知ることが出来ない といわれております。 これは林遊さんが挙げられている、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の語句を言い換えたものであります。

蓮如上人の時代には更に顕著になります。
 ただなにごとのあつかひも思ひすてて、一心に弥陀を疑なくたのむばかりにて、往生は仏のかたより定めましますぞ。その証は南無阿弥陀仏よ。このうへはなにごとをかあつかふべきぞと仰せられ候ふ。もし不審などを申すにも、多事をただ御一言にてはらりと不審はれ候ひし (蓮如上人 『蓮如上人御一代記聞書』)

ここでは「証は南無阿弥陀仏である」と明言されております。「教」でも「行」でもなく「証」です。
  ここからは私の知見ですが、「教」は「名号のいわれ」であり、「行」は「それを称えさせていただくこと」かとおもいます。

また別の箇所にて蓮如上人は、

信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ

とも言われています。 以上のことより、「因果の道理」にしがみついているうちは、「如来広大の恩徳」を「疑っている」ことにほかならないのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様

高森会長の目的は会員の皆さんの獲信・往生とは別にありますので、執拗に「仮」の実践を説き与えているのでしょう。それでは仮の浄土にしか往けないから捨てて、真実弘願の教えを直ちに受けよと教えられたのが親鸞聖人であることを、会員の皆さんには早く分かって頂きたいものです。


Abc様

真宗の教行信証は本願力の回向によるもの。それをお説きになられた真実の教である『大無量寿経』の要点は

如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教文類)

とあるように如来の本願であり、仏の名号(南無阿弥陀仏)でした。ですから真宗の教行信証といっても本願力の回向といっても、南無阿弥陀仏の他には無いのですね。

> 「教」は「名号のいわれ」であり、「行」は「それを称えさせていただくこと」かとおもいます。

同意見ですね。「教」は「南無阿弥陀仏のいわれ」、「行」は「南無阿弥陀仏を称する」、「信」は「南無阿弥陀仏を信ずる」、証は「南無阿弥陀仏のさとりを開く」とこのように言えるのではないでしょうか。

やがて50年乃至100年で滅びるこの肉体。普通ならば流転してまた苦悩に沈む私達がこの度さとりを開く身とさせて頂けたのはひとえに南無阿弥陀仏のご回向、おはたらき以外の何物でもない。だからこそ「ただ念仏のみぞまこと」と親鸞聖人は断言されたのではないかと思われます。なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

正雑二行の方便

こんばんわ、Abcです

>真宗の教行信証は本願力の回向によるもの。それをお説きになられた真実の教である『大無量寿経』の要点は
>如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教文類)
>とあるように如来の本願であり、仏の名号(南無阿弥陀仏)でした。

さようです。真宗は全て「本願力回向」によって成り立っております。
『正信偈』でいうところの「往還回向由他力」がそれに当たります。

まず、「教」について示します。
「教」は、「阿弥陀さまにおまかせします」という「南無阿弥陀仏」が大本としてございます。こちらは阿弥陀さまが五劫の間、思惟されてお作りになられたものであります。そのことからも解るように、

>阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない

とはならないことは百も承知かと思います。
以上記したことは「釈迦の教法」に記されているので、私なりに記すならば「経の教え」としておきます。  ※「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」(高僧和讃 より)とあります。このお二方を「二尊」ともいわれ、その上の誓いを「二尊の誓い」とも呼ばれます。

次に、「高僧たちが記された教え」です。『正信偈』に「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」と記されているところでございます。高僧たちは、天竺 震旦 日朝 と三朝に渡り、教えをつないで頂きました。これもひとえに阿弥陀さまのお力であります。有難いことです。 真宗の掛け軸にて「高僧連坐像」といわれるものがあります。こちらは「和国の教主」といわれる聖徳皇太子を上にかかれ、次に龍樹菩薩 天親菩薩と続き、源空聖人 となっているものであります。 この「高僧連坐像」は『正信偈』にて「名号の謂れ」を学ぶ際に、「こちらにいらっしゃる方が伝えられたことですよ」と伝えるために使われ、また堂宇内に「阿弥陀堂」と「御影堂」とございますように「阿弥陀さまの絵像」と対峙して「高僧連坐像」を掲げたこともございました。以上記したことは『正信偈』 「印度西天之論家」から「必以信心為能入」に記されているので、私なりに記すならば「論の教え」としておきます。

次に「行」についてです。
龍樹菩薩は「難行道 易行道」といわれ、源空聖人は「聖道門 浄土門」といわれていますが、詮ずる所「19願を信じる「罪福のもの」か 18願を信じる「正定のもの」か」ということです。

 「このなかの難行道は、すなはちこれ聖道門なり。易行道は、すなはちこれ浄土門なり。難行・易行、聖道・浄土、その言異なりといへども、その意これ同じ。天台(智顗)・迦才これに同じ、知るべし。」(源空聖人 『選択集』より) とある通りです。

そして肝心の「行の内容」ですが、「聖道門」は別名に「八万四千の法門」といわれるように色々あります。代表的な例を挙げるならば、「滝行」「瞑想行」などですかね。 対して「浄土門」は別名「易行道」といわれるように「南無阿弥陀仏と称えること」ただこれだけです。あまりに簡単なので「いやいや、何かまだあるのではないか」と勘ぐってしまうでしょうが、その勘ぐることを源空聖人は「疑情」といわれました。また「この疑情によって生死の流転輪廻となっているのだ」ともいわれています。

最後に「証」です。「聖道門の証」というのがあるのですが、この「五濁のもの」には獲ることが難しいとお釈迦様がいわれた と『和讃』にございます。

 「末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも
 ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ」(『高僧和讃』)

そのために阿弥陀さまがご用意されたものが「南無阿弥陀仏」なのです。この「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀さま(阿弥陀仏)におまかせ(南無)します」と言う意味でございます。他の記し方として
 「阿弥陀さま(不可思議光如来)におまかせ(南無)します」
 「阿弥陀さま(無碍光如来)におまかせ(帰命)します」などもございます。

このことを和讃には、
 「釈迦の教法おほけれど 天親菩薩はねんごろに
 煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ

 「釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ

とございます。ですから、先のコメントにて私が「蓮如上人のことば」としてあげた、「信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ」と「弥陀をたのむが念仏なり」とあるのです。

また、長々と記しましたが私なりに
「教 経の教え と 論の教え」
「行 聖道門と浄土門 は、 雑修と専修」
「証 「聖道門の証」をえられない「五濁のもの」のための「南無阿弥陀仏」」

を記しました。ご一読いただけると幸いです。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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