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ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(3)

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(2)

の続きです。浄土真宗は、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、すなわち

「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せ

を、計らいを交えずにそのまま聞き受ける以外にありません。また、聞くままがすなわち信心であります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

このようなことですから、浄土真宗の教えは「聞く一つ」、正確に言うなら阿弥陀仏が「聞かす一つ」だと言えるのです。本願力がはたらいていることを疑い無く聞くことによって、報土の真因が決定する、つまり「信心決定」するということを、「行文類」では六字釈の中で

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

と仰せられています。「本願の名号」も「本願」も「願力」も、共に「南無阿弥陀仏」に他なりません。私達はただ御回向のなんまんだぶのはたらきによって往生成仏せしめられてゆくのです。

私の真剣、私の求道、私の聞いた力などが少しでもプラスになって救われるのではありません。全て本願力のはたらきによって信ぜしめられ、称えさせられ、仏に成らせられるのです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」総決

とある通りです。こうして、往生の因も果も全て阿弥陀仏がお与えになったものであり、私の側には迷いの世界を出るだけの因は全く無いし、出離の因を成就するだけの行を修めることもできないということに疑い無いのが「機の深信」です。そして、ひとえに「南無阿弥陀仏」の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられるということに疑い無いのが「法の深信」であります。

これが「他力の信心」を機と法に開いた「二種深信」の内容です。「南無阿弥陀仏」のおはたらき一つで助かるということは、私の中には往生の資助となるものが何も無いということであり、願力にまかせることによってのみ往生を得るということです。これは「他力の信心」を獲て知らされることで、私が真剣必死に求道して、その結果知らされることが「機の深信」ではありません。私の求道で知らされることは「自力の浅信」の範疇のことです。

親鸞会の会員は、真剣必死に求道していった結果知らされる自分の姿が「機の深信」だと思っている節がありますが、勘違いも甚だしいです。「他力の深信」と「自力の浅信」の間には如何とも踏み越えられない深い深い溝があることを知らねばなりません。

南無阿弥陀仏」のおはたらきが私の心に届いたのが「信心」、それが口に現れれば「念仏」です。だから念仏申すままが信心であり、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせているということです。おはたらきとか、信心と言われても色も形も無いので愚鈍な衆生は分かりませんが、要は念仏を称えることの他には無いのです。

このようなことですから、「南無阿弥陀仏」のおはたらき一つで助かる、というのは言葉を換えれば「念仏一つ」で助かる、ということです。これはすなわち、「念仏一つ」で助かる、と受け容れた「信心一つ」で助かる、ということです。そのように「聞く一つ」なのが浄土真宗です。


ところが親鸞会は違います。これまで高森顕徹会長の説く「聞く一つ」が誤りである理由として

(1)そもそも親鸞会の教えは「聞く一つ」ではない
(2)「聞く」内容が間違っている

を挙げました。親鸞会では真実の教行信証とは別の「因果の道理」を聞かせ、真実の信心を獲るためと称してその実践を勧めています。これでは当然「聞く一つ」ではありません。「仏願の生起本末」にしても邪義雑じりの「仏願の生起」を教え、加えて「末は19願・20願」だとか言っているので、「聞く」内容が間違っています。

このように「聞く一つ」ではないし「聞く」内容が間違っているので、当たり前ですが「信心」も間違っています。「」と「」が間違っていて「」は正しいなど有り得ません。今回挙げる、高森会長の「聞く一つ」が誤りであるその3番目の理由は、

(3)「信心」の内容が間違っている

です。高森会長が「真実の信心」とは異なる「創価学会の信心」を教えていますので、そんな教えを聞き求めて「真実の信心」を獲られると考える方が気ちがい沙汰です。

信心」の内容が間違っているのは下の【参照】にリンクしてある記事をご覧頂けばよろしいかと思います。が、今は何より会員の皆さんに「信心」についての理解、また、「信心」を獲た、「信心決定」した、と聞くとどのようなことを思い浮かべるか聞いてみた方がよりハッキリするでしょう。どのような理解、想像をしているか。

・絶対に崩れない変わらない、永遠の幸福になったこと
・苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったこと
・現在只今、苦悩渦巻く人生が、光明輝く生活の出来るようになったこと
・真剣必死に求道聞法していった先のこと
・真実の自己と、弥陀の誓願まことの二つがハッキリしたこと
・実地、地獄一定と堕ち切った体験をすること
・十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫く体験をすること
・地獄一定と極楽一定が同時に知らされること
・極めてハッキリと救われた鮮明な体験をすること
・一切経を読み破った体験をすること
・「さとりの52位」の内、51段の身になること


恐らくこのようなことではないでしょうか。これが「絶対の幸福」だと「創価学会の信心」を教えられ、そんな体験をすること、そんな身になることに憧れて、日々推進される活動をこなしているのではないでしょうか。あるいは

無常迅速、罪悪深重、信心決定しなかったから後生は必堕無間だ!

と無常と罪悪、死後の恐怖にせめたてられて、地獄へ堕ちたくないから求めているという人もあると思います。こんな教えを聞き続けて、「あぁ有難いなぁ」と思っている方が何人あるのでしょうね。確かに私も、

人生の目的は絶対の幸福になり、未来永遠の幸せに生かされることだ

と聞いて、実際にその身になれると教えられた当初は心の底から救われた思いがしました。その教えを周りの皆にも伝えようと『なぜ生きる』の本を片手に知人に声をかけもしました。ところが段々喜びも薄れ、

聞いても聞いても、頑張って活動してもそのような身にはなれない。自分がなれないのは仕方ないとしても、先輩達も、どうやら担当の○○講師でさえもまだ信心決定していないようだ。「人生の目的が、現在に完成する」の「現在」っていつのことだ? 無常はいつやってくるか分からない。もしかしたらこの帰りの車で事故を起こして死んでしまうかも知れない。後生の一大事とは大変な問題で、20年や30年で獲られるような信心ではないと言われるが、いつ解決ができるのか。とは言え求めなければ後生は必堕無間だからなぁ・・・。他に聞ける場所や教えてくれる先生はきっと無いのだろうから、とにかく親鸞会で求めていくしかない。

このような思いが退会までぐるぐる脳裏をよぎり、喜びとか有難いとかとは程遠い生活でした。それどころか、日々の仕事と親鸞会の活動の両立が苦しくて苦しくて、毎日のように自殺したいと思っていました。今考えてみると、「南無阿弥陀仏」のおはたらきも「念仏」も皆無同然で、「絶対の幸福」だとかいう現世利益、真宗の信心とは無関係な「創価学会の信心」を教えられ、無常と罪悪、死後の恐怖でせめたてられ、獲信・往生とは無関係の「組織拡大活動」に体よく利用されていただけですので、それは幸せも有難いもあるはずがないのでした。

親鸞会では「信心正因」、「唯信独達」を強調して「信心一つで助かる」とは言っていますが、肝心の「信心」が間違っており、会員は現世利益に釣られてありもしない信心を追い求めているために真宗の信心とは無縁の生活になるのでした。そこには「念仏」申す喜びも、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせた安心も無く、いつ無常が来るか知れない不安、いつ後生の一大事の解決が出来るか知れない苛立ちばかりで、来る日も来る日もただ献金・勧誘・服従といった活動の日々しかないでしょう。

たまたま信心決定したと言っている人がいても、語ることは体験談のオンパレードだったり、高森会長の賛美だったり、果ては念仏誹謗だったりと、やはり「真実の信心」を獲たとは言い難い人ばかりです。


その「信心一つで助かる」さえ最近は言わなくなり、

世界の多くの宗教が信じる宗教だが、信じることも要らない、聞く一つ

だとか言って「信心不要」を説いているのが高森顕徹会長です。「念仏」に続いて「信心」も抜き去り、ただ60年一貫してつらぬいているのは「絶対の幸福」なる「創価学会の信心」「一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心」なのでした。会員の皆さんは「聞く一つ」と言っても何を聞いているのか、よく思案を巡らせて頂きたいものです。



【参照】
高森の教行信証(信編) - 二種深信の誤った認識、救済の予定概念、信心決定病
高森の教行信証(信編) - 現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです
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信も行も阿弥陀さまの御計らい

こんばんわ、Abcです。

本当に高森さんには驚かされますよ。まさに「タメゴロー発言」ですね。

対して、親鸞は、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(「信文類」総決)

のほかに、

 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(『末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」』より)

とも顕されています。ここに
「もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし」

「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし (乃至) 信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし」

※ (乃至)の部分には信(信心)と行(念仏行)についてのいわれが記されています。

の2つの書物は
 「一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向」
 「本願の名号をひとこゑとなへて往生す (という
  御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念」 (という

でありますから、詮ずる所 淳心房さんが言われているように
>往生の因も果も全て阿弥陀仏がお与えになったものであり、私の側には迷いの世界を出るだけの因は全く無いし、出離の因を成就するだけの行を修めることもできないということに疑い無いのが「機の深信」です。そして、ひとえに「南無阿弥陀仏」の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられるということに疑い無いのが「法の深信」であります。 (淳心房さん)

なのであります。少し図々しかったかもしれませんが、記させていただきます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

先ほど、私が記しました
>「一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向」
>「本願の名号をひとこゑとなへて往生す (という信)
> 御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念」 (という行)

について、「信」と「行」は「反対に配置してあるのでは」と思われたかたがいるかもしれませんので 記させていただきます。(私も投稿してから「やらかしてしまった」とは若干思いました。)

別の記し方をしますと まず大本として

「一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向」としての真宗(南無阿弥陀仏)
 「本願の名号をひとこゑとなへて往生させる」と誓われている 御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念 (という信・行)
  ↓
真宗(名号)
 信・行
  信の謂れ・・・教
  信の証 ・・・証、真佛土
 不信の証 ・・・化身土

と私は見ております。ただ『化身土巻』にも「18願に回入せよ」の趣旨が記されていますので私が振り分けたものが「必ずしも」とはいえないことを留意ください。

Abc

つっこみ

ども、林遊@なんまんだぶです。

>信の謂れ・・・教
>信の証 ・・・証、真佛土
> 不信の証 ・・・化身土

普通には浄土真宗では教は行です。
諸仏の「教」によって「行」が開示されていますから、行の謂れという表現をするならば教は行です。
『無量寿経』は阿弥陀仏の第十七願に応じて説かれた経典ですから、第十七願で表された行は諸仏の「教えたもう行」なのでした。

御開山は、「行巻」の一乗の機教p.199 で、

 しかるに「教」について念仏諸善比挍対論するに、

と、教に四十七対を挙げられていましたが行(なんまんだぶ)は諸仏の示される教でした。教巻に、

 それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。p.135)

とあり、『無量寿経は』は、阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされます。 第十七願には、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。p.18

とありますから、釈尊を含め十方の諸仏は、なんまんだぶつを称えることを教えて下さったのでした。その意味で教は行なのでした。
その名号(なんまんだぶ)が往生浄土の正定業であると領解したのが「信」でした。

現代的な仏教理解では、仏教は釈尊に始まるといいます。
しかし、御開山からお聞きしたことを『歎異抄』の著者は、

 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。p.833

と、弥陀の本願から浄土真宗のご法義を展開しています。この「弥陀の本願」を説き示して下さったのが釈尊であり、その釈尊が阿弥陀仏の第十七願によって説かれた「教」が『無量寿経』であるというのが御開山の経典観でした。
御開山が、

 この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。p.135

とされた所以です。
ある意味では、浄土真宗の僧俗は「本願成就文」の一念に幻惑されて、『無量寿経』流通分の、

 仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。p.81

という真実の利である「大利」である〔なんまんだぶ〕を等閑にしがちなのですが、この流通分を和讃された、

(31)
たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり p561

の意を窺えば、聞くべきは、なんまんだぶを称えて聞くという浄土真宗のご法義であることが領解できると思ふ。これが「仏願の生起本末」なのでした。

高田派は昔から「念仏高田」といわれてきましたが、林遊は高田派の村田静照和上が好きだったりしますですよ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99



Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

早速のつっこみ、ありがとうございます。

>>信の謂れ・・・教
>>信の証 ・・・証、真佛土
>>不信の証 ・・・化身土
>
>普通には浄土真宗では教は行です。
>諸仏の「教」によって「行」が開示されていますから、行の謂れという表現をするならば教は行です。
>『無量寿経』は阿弥陀仏の第十七願に応じて説かれた経典ですから、第十七願で表された行は諸仏の「教えたもう行」なのでした。

先に淳心房さんが「「南無阿弥陀仏」のおはたらきが私の心に届いたのが「信心」、それが口に現れれば「念仏」です。だから念仏申すままが信心であり、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせているということです。」と申されていることは頷けますし、また異存はありません。

ただ、林遊さんのご指摘の「普通には浄土真宗では教は行です」に関しましては林遊さんが直前に記されている「信の謂れ・・・教」といわれたことに対してでしょうしこのことは私の不手際といわざるを得ません。

「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」(『末灯抄』)
「唯可信斯高僧説 ただ斯の高僧の説を信ず可し」(『正信偈』)

などより「信の謂れ・・・教」としるしました。
ですが、ご指摘を反映させますと「信(行 称南無阿弥陀仏(称仏名 念仏行))の謂れ・・・教」であります。

ご指摘、ありがとうございます。
Abc

コメント返信

Abc様
林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。教義に明るい方々にコメントを頂けるのは私にとっても大変刺激になります。

親鸞聖人のお書きなされたものに取り組むほど、真宗教義と親鸞会教義のあまりの違いに驚き呆れるばかりです。以前からベクトルの違いを中心に述べてきましたが、拠り所とする教も、教から出てくる行も、信も、証も、皆間違いであることが知らされます。一部真宗のように説いているところがあっても、それは建前で、会長の話ぶりや会員の本音から伺えばやはり真宗からズレています。

信の対象である行とは南無阿弥陀仏の名号で、名号願力のはたらきを聞いて疑い無いのが信心ですから、真宗ではなんまんだぶを称え聞く以外に行も信もありません。それを高森会長は『観経』顕説を根拠に19願を勧め、18願へ転入するために必要不可欠な道程であるように説いているのですから・・・。仮に如実の定散二善、諸功徳ならまだ化土への道もありましょうが、悪業悪行では三途の因でしかありません。

ところで、本願成就文は機受の極要を説かれた至極の文でありますが、高森教でも重視するために、また信を重んじ行を軽んずる方々がいるために、その重要性が薄れてしまっているような気がして残念に思います。これも蓮如教学を基にあまりに偏った方向へ行ってしまったせいかなと思います。

蓮如教学では称名は信後報謝です。信に先立って説かれ与えられているのが行というのは『御文章』には見られません。あくまでも法体名号の位として南無阿弥陀仏が説かれています。蓮如上人当時は念仏が盛んであったためにその信心を開かれたのでしょうが、現在は信を重んじ信前の念仏は自力だとかいってあまり称えられないように思われます。

今一度聖人の原点に立ち返るべきであると考えます。・・・しかし、Abcさん、林遊さん、御開山の行の捉え方は実に難しいですね(;^ω^)

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

林遊さんが記していただいた事柄について

おはようございます、Abcです。

前に林遊さんが、「御開山の教義は重層的なところがある」ともうされましたが、今回のご指摘された事柄から改めてそのことを感じました。

>『無量寿経は』は、阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされます。 第十七願には、
> たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。p.18
>とありますから、釈尊を含め十方の諸仏は、なんまんだぶつを称えることを教えて下さったのでした。その意味で教は行なのでした。
その名号(なんまんだぶ)が往生浄土の正定業であると領解したのが「信」でした。

このことから、「弥陀の名号称ず可し」の「称南無阿弥陀仏」は「弥陀が勧められたこと(かの仏の願順ずるがゆえに)」と「釈尊を含め十方の諸仏は、なんまんだぶつを称えることを教えて下さったのでした。」とのご指摘より「釈迦、諸仏の勧め」とも見ることが出来ますね。かさねがさねご指摘ありがとうございます。

ご指摘の通り。17願は「諸仏諮暛の願」とも申されるように「諸仏が褒め称えた願」と見れます。

これはあくまで私からの了見ではありますが、

「世尊我一心 
帰命尽十方 無碍光如来
 願生ま安楽国」 の『願生偈』と

「『観無量寿経』のなかに、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属したまふがごとし。これすなはちかの仏願に順ずるがゆゑに、念仏一行を付属す。」と『選択集』にありまして、

この18願を「釈迦・弥陀 二尊の誓い」とみてその「きっかけ」にあたる17願をあまり見ていなかったことには思量不足と言わざるをえません。

この度は、ご指摘ありがとうございます。
Abc

「捨閉閣抛」

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土門では弥陀一仏ですからあまり釈尊を重視しないのでした。
ですから『興福寺奏状』で、第三に釈尊を軽んずる失として非難されています。

「第三に釈尊を軽んずる」
 夫れ三世の諸仏、慈悲均しと雖も、一代の教主、恩徳独り重し、心あらんの者、誰かこれを知らざる。ここに専修の云く、「身に余仏を礼せず、口に余号を称せず」と。その余仏余号とは、即ち釈迦等の諸仏なり。専修専修、汝は誰が弟子ぞ、誰かかの弥陀の名号を教へたる、誰かその安養浄土を示したる。憐むべし、末生にして本師の名を忘れたること。
https://goo.gl/gfUtFq

また、釈尊を本仏とする日蓮上人も「捨閉閣抛」として、法然聖人の浄土教を非難していました。
https://kotobank.jp/word/%E6%8D%A8%E9%96%89%E9%96%A3%E6%8A%9B-525649

浄土門としては、たとえ釈尊がいらっしゃらなくても第十七願があるから、恒河沙の諸仏が必ず〔なんまんだぶ〕のご法義を伝えて下さるという意があるのかもでした。

と、いうわけで、梯實圓和上の『一念多念文意講讃』から「第十七願文の文意」をリンクしておきます。これによって第十七願は「教」であるという意味がわかるかもです。

「第十七願文の文意」
https://goo.gl/Xw9Yo1

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re:林遊さん

こんにちは、Abcです。

>浄土門では弥陀一仏ですからあまり釈尊を重視しないのでした。
>ですから『興福寺奏状』で、第三に釈尊を軽んずる失として非難されています。

まだまだ読み解くことはありますね。本当に奥が深いです。

私の先哲が、親鸞より頂いた「帰命尽十方無碍光如来」という十字も
親鸞が信州善光寺より運ばれた「善光寺式一光三尊弥陀如来像」も、

すべて「阿弥陀さまにお任せしなさい」と言うことを伝えんがためであり、
それ以外はありませんでした。

「夫、堂舎佛閣ヲ造立スルコトハ、三寶紹隆ノ基哉、然レバ古ヲ考ウルニ、天竺ニハ竹林精舎、祇園精舎ヲ建立シ、釈尊既ニ説法シ給フ。震旦ニハ後漢ノ明帝、白馬寺ニ経巻ヲ収メ、佛法ヲ興ズ。吾朝ニハ聖徳太子、天王寺ヲ草創シ、佛教ヲ廣メ給フ。

是則三国伽藍ノ始メ哉。サレバ大唐ノ高祖曇鸞、道綽、善導モ堂塔ヲ建立シ、破レタル精舎ヲ修理シ給フコト、既ニソノ数甚ダ多シ、マタ上人モ真宗興行ノタメニ、高田ニ御堂ヲ建立シ給ヘリ。

シカルニ寺ト云フハ、ミナコレ佛道ヲ修スルノ境界哉。佛道修行ノ場ナレバ、隋ノ煬帝ハ、天下ノ寺院ヲ勅シテ道場と名ヅケ給ヘリ。コヽニ今寺ヲ建立スルコト佛法繁昌ノ基哉。ソノユヱハ、如来上人の真影ヲ安置シ、無上殊勝ノ法門ヲ聴聞スルコト、誠ニ是依処ノ徳哉。故ニ、未来永々(みらいようよう)ニ至マデコノ所ニアツマリ、タガヒニ争フコヽロナク、信心ヲ磨キ称名念佛ヲ勵ス可キモノ哉 穴賢穴賢」(『御書 巻第四 第八通』 全文)

ここに、「シカルニ寺ト云フハ、ミナコレ佛道ヲ修スルノ境界哉。(乃至)コヽニ今寺ヲ建立スルコト佛法繁昌ノ基哉。ソノユヱハ、如来上人の真影ヲ安置シ、無上殊勝ノ法門ヲ聴聞スルコト、誠ニ是依処ノ徳哉。」とあるように、

「寺というは、仏道を修める場所であり、佛法繁昌の基」でありますから、
「寺院」というところもまた「大切な場所」に変わりはありません。

ですから、大谷が「聖人はひとつの寺も創ってはいない」と言われたことに対しまして、苦言を呈したわけであります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

一宗の繁昌とは

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。
何を仰りたいのかよく判らないのですが、林遊は在野の一門徒ですから寺という存在にはあまり興味がないです。
吉崎御坊、山科本願寺、大阪本願寺を築かれた蓮如さんは、『御一代記聞書』に、

 一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。

といわれていましたです。
要するに、なんまんだぶのご法義は、寺という伽藍によって流通するのではなく、ただ阿弥陀仏の選択摂取の「信」によって弘通されるご法義なのでした。
Abcさんには、少しく本願寺教学によるコンプレックス(優越感や劣等感)があるのじゃないかな。これ、越前の一門徒としてはどうでもいいことでした。

ところで、言葉を引用をする時は出拠を示した方が読む人も理解しやすいと思いますよ。高森親鸞会の会員と「必堕無間」の語について議論した時に、出拠はお前が探せと言われたのでブチ切れたことがありました(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820634/106


Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>ただ阿弥陀仏の選択摂取の「信」によって弘通されるご法義なのでした。
Abcさんには、少しく本願寺教学によるコンプレックス(優越感や劣等感)があるのじゃないかな。これ、越前の一門徒としてはどうでもいいことでした。

コンプレックスがあることに対しては、否定いたしません。なにせ大谷という家柄を前面に出すために、彼らは「あらゆること」をなされたのですから。それをなされた方は「正義」や「美談」として語るのでしょうが、受けた側からしますとこれほどのコンプレックスは無いかと思います。

 林遊さんの言われるように「越前の一門徒」としてはどうでもいいこと矢も知れません。

>言葉を引用をする時は出拠を示した方が読む人も理解しやすいと思いますよ。

はい、こちらに関しましては引用文掲載の後に、(『』 より) や(『』)と記して出拠を示すよう努力しておりますゆえ、よろしくお願いします。

Abc

Re: Abc様

横から失礼。林遊さんは

『御書 巻第四 第八通』

とは誰が書いた何という書物なのか尋ねているのだと思いますよ。

コメント返信

こんにちは、Abcです。

>横から失礼。林遊さんは
>『御書 巻第四 第八通』
>とは誰が書いた何という書物なのか尋ねているのだと思いますよ。

さようでございましたか。意図が読み取れず申し訳ございませんでした。

『御書 巻第四 第八通』は専修寺14世 堯秀上人の著書でございます。
堯秀上人は、江戸時代初期にご活躍されました上人でございます。

ご指摘ありがとうございます。
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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