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今年も終ぞ「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かず、聞く者に「他力の大信心」を獲させる気が無かった高森顕徹会長

今年の仕事は、キツイことに変わりはありませんが、ぶっ壊れた去年に比べたら随分マシです。若干の荷物の遅延等はあるものの、去年のように事業所に帰ってきたらその日の午前中指定の荷物がゴロゴロ転がっているということは無く、ほぼその日の荷物をその日の内に届けることができています。あとは個々の力量と統括する上司の采配次第で、去年のような絶望感はありません。やっぱこうでないとね~。


さて、世間がクリスマスムードで浮足立っていた頃、富山ではいつもの演題

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか?


これについて高森顕徹会長の話があったそうです。 


内容は、飛雲さんが挙げていないことからも分かるように同じことの繰り返しです。「大船」とは、『教行証文類』冒頭の「難度海を度する大船」=「阿弥陀仏の本願」のことで、

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」

という約束だと説明。その後「相対の幸福」とはどんなものかを話して、Abcさんが問題発言と指摘していた

「上見て暮らすな下見て暮らせ」

の語も登場。では「絶対の幸福」とはどんなものかというと、本願成就文に「即得往生 住不退転」と教えられており、それは

退転しない境地

だと話したそうです。ただ、「相対の幸福」を

・人と比べて、喜んだり、悲しんだりする幸せ。
・比べるものによって幸福感が変わる。
・不安定で続かない幸福。


などと説明した点からして、聞く者が「絶対の幸福」を

・人と比べること無く喜べる幸せ。
・何と比べようと幸福感は変わらない。
・永遠に変わらない幸福。


と妄想し、阿弥陀仏に救われるとそんな退転しない境地に出られると夢見ていることは想像に難くありません。

もし、上述したような意味で「絶対の幸福」を捉え、この世でそんな幸せの身になれる、それが阿弥陀仏に救われた、「難度海を度する大船」に乗った、「即得往生 住不退転」ということだと考えているなら、それは大変な勘違いです。


『飛雲』親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

にあるように、

不退転=正定聚の位

ですが、これを

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

としますと問題が発生します。七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていません。

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に「絶対の幸福」になると教えられたのが七高僧方ということになります。この世で「正定聚の位」に入ったという明らかな自覚、実感があるなら、七高僧方のどなたも現生正定聚を説いていないのは到底考えられないことです。もし「絶対の幸福」=「正定聚の位」に入ったという自覚をもって正しい信心としますと、死後に正定聚になると教えられた七高僧方は異安心です。高森会長は、死後に「正定聚の位」に入る、「絶対の幸福」になると教えられた七高僧方を異安心だと非難しているのと同じだということがお判り頂けるでしょう。


話を続けます。それから高森顕徹会長は、では

どうすれば「絶対の幸福」になれるのか

ということには、成就文の「聞其名号」を出しました。それで、

名号は南無阿弥陀仏の六字

と説明したまではよかったんですが、そこから唯一の本願寺攻撃の足掛かりと言っていい本尊の話になりました。何があっても本願寺は非難したいらしく、浄土真宗の各寺の本尊が大体木像であるということから、

如何に、現在の浄土真宗が誤ってしまっているかが知らされる。迷っている証拠でもある。

と宣っています。その後、『御文章』5帖目13通

南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。

や、「行文類」正信偈

帰入功徳大宝海

を出して、

そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される

などという話はあったものの、最後まで「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とはどんなこころかについては語られなかったようです。これでは、浄土真宗を説いたことにはなりません。なぜなら、5帖目13通には続けて

・されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
・されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。


等とあるからです。「この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひと」というのであり、六字のほかに別に信心というものがあるのではないのです。それで蓮如上人は

そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。


と、ここでも善導大師の六字釈を引いて懇ろに「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説き開かれておられます。私達のような悪業煩悩の身であっても、一念阿弥陀仏に帰命すれば、必ずその人を弥陀はよくお知りになって助けて下さるというのです。これも、「必ず助けるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という弥陀の先手の勅命があって、それに対して私が、「では仰せの通りにおまかせします、お助け下さい」と仰せをそのまま受け容れたことを言われています。そのように、弥陀の仰せを聞き受けた者に「無上大利の功徳」をお与え下さり、またそうした念仏の行者を「正定聚不退転なんどいふ位」に定めて下さると教えられています。

そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される

とは言っても、「されば一念に弥陀をたのむ衆生に」与えて下されるわけで、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」がどんなこころか知らない者は受けられません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」をよく心得た者を、「他力の大信心」を獲た人だと蓮如上人は仰います。しかし高森顕徹会長は、上辺だけの説明に終わって、本願寺は攻撃するものの、今年も終ぞ六字のこころを説きませんでした。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かないということは、「他力の大信心を獲させる気が無いということです。ということは、「難度海を度する大船に乗せるつもりも無いということです。


そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される

とは説かれても、だからそこまで光に向かって進ませて頂きましょうとか、より真剣に聞かせて頂きましょうなどと更なる活動を余儀なくされるのが落ちです。また、それには仏教をよく理解しなければならない、その仏教の根幹が因果の道理だとか、どうせそんな展開になることは目に見えています。そんな宝をいつ受け取んだよ?

いつやるか? 今でしょ!

ちょっと古いですけど、今、この場で、「助けるぞ!」という「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞くんです。そのまま受けるんです。聞くのが信心です。聞いたのが無上大利の功徳を受け取ったのです。正定聚不退転の位に入ったのです。難度海を度する大船に乗ったのです。学生サークルの延長のような活動をこなしていった先の未来の話じゃないんですよ。会員の皆さんはいつまでのらりくらり邪義に迷って無関係な活動をやっているのかと、業を煮やしているのは私だけではないと思います。

もう間もなく2017年も終わろうとしています。一生を一年としますと、その総決算が大晦日に当たるかと思いますが、高森教の教えで大晦日までに信心決定することができると会員の皆さんは考えているでしょうか? もしできないと考えているなら、この先臨終まで信じて求めていっても同じことです。高森教の「光に向かう教え」、「宿善を厚くする教え」、「三願転入の教え」は、こちらから阿弥陀仏の救いを掴もうとする自力的な教えであって、やっていることが如実の善だとしても獲信・往生とは無関係です。

獲信・往生には念仏一行、それは言葉を代えれば「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞く一つです。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も教えられない、行だけでも「念仏一行」ともなっていない、それどころか「雑行(もどき)」をやりまくっている、それでいて「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めている、こんな状態で「信心決定」とか、「難度海を度する大船」に乗るとか言っている方がどうかしているんです。


如何に、現在の浄土真宗が誤ってしまっているかが知らされる。迷っている証拠でもある。

これは本願寺にあらず、他ならない親鸞会のことです。会員の皆さんは、信心を獲させる気が無く、私利私欲を満たすことしか頭に無い偽の善知識から一刻も早く離れて、本物の浄土真宗に遇い、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。
荷物が捌けているならば何よりです。

さて、本題ですが、
>どうすれば「絶対の幸福」になれるのか

>ということには、成就文の「聞其名号」を出しました。それで、

>名号は南無阿弥陀仏の六字

と有ります通り「絶対の幸福」を「不退のくらい」と同義と考えたならば、
弥陀のおん計らい(自然法爾)によって「自然の浄土」に導いてくださるのですから私たちの計らい(自力の計らい)は、全く意味のないことなのです。

ですが、「上見て暮らすな下見て暮らせ」発言を顧みると、
この発言は誰が「発信」したのかはいったん置いておいて、
「上見て暮らすな下見て暮らせ」とは、「そのようにしろ」という
発言者(当場合においては、高森会長)の「計らい」と言うことになります。

高森さんの話を懇ろに聞かれている方は理解し難いかとは思いますが、
端的に申し上げますと、

弥陀は「五劫のあいだ思惟して、「衆生をすくう法」を作ったから受け取ってほしい。その代表的なのは「南無阿弥陀仏」であるが、「わたしにお任せする(弥陀にお任せする)」という趣旨ならば、どれでもよい」と申され、

釈迦はそれを伝えることができると慶んでいる様子を「お顔がキラキラと光っている」(讃仏偈 意訳)と弟子が書き残されていることを

ワシが「上見て暮らすな下見て暮らせ」と言ったのだからその通りにせい!!

と「高森の計らい」という「知識帰命」となり、「上と比べるよりも...」という意味から「相対の幸福」を押し付けていることがうかがい知れます。

だいぶ前のコメントに記しましたが、「そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される  名号は南無阿弥陀仏の六字」という名号を称えることは他でもない「念仏」なのです。

そのため、「念仏ないから信心ひとつ」というよくわからない発言が「是である」とするならば、「念仏こそ選び取られた行である」と申した法然
「念仏成仏これ真宗」と申された親鸞
「三国の祖師等 念仏の一行をすすめ」と釈された蓮如
の申し上げることは「すべて非」となり、
そもそもの「浄土門」というカテゴリー自体が崩落してしまいます。

つまるところ高森さんは、「弥陀に任せよ」という浄土門自体の概念をつぶし
「諸行往生」を願う聖道門を推し進め、それにともなって「六度万行」を修し、

「念仏」はないとはいいながら「浄土真宗」というブランドは保持したいので
「形だけ」叡山を非難しているという とても滑稽な感じなのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

現場が去年よりは改善されてよかったです。何とか無事に年を越せそうです(^-^


正定聚の位を「絶対の幸福」だとかと表現すること自体が間違っています。彼らが教える相対の幸福とは異なる幸せであり、そんな幸せになったと実感できるものという認識を与えるからです。所詮は現世利益で釣らないと会員のモチベーションが保てないのでしょうが、会員の皆さんはそんな幻想的な楽に騙されることなく本願を信じ念仏して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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