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この世へは、お念仏申すために生まれてきたんだよ

この世に「生まれる」ということ、「生きる」ということ、「生きてゆく」ということ

の記事に、複数の方からコメントを頂きました。ありがとうございました。

親鸞聖人は、直接には「生きる意味はこうだ」というようなことは仰っていません。なので、本願を信じお念仏を申した上でそれでも生きる意味は無いと考えるのは、それはもうその人の自由じゃ。私は一つの思想に皆さんをはめ込むつもりではないし、私の考えや領解を押し付けるわけでもありません。また皆さんの考え方を無理に変えようという気もないので、「生きる意味」について反対意見や、別の捉え方があれば意見して頂いて全然かまわないです。それよりも、こういった大事な問題について無関心というのが一番困ると私は考えます。

ただ、生きる意味は無いと説く宗教が人を救い得るのか。そういう教えを人は聞きたいと思うのか。私はそうは思いません。それに生きる意味が無いなら、自死を止める理由もありません。一人一人が誰とも代わることのできないかけがえのない「いのち」を持って生きている。その「いのち」のある間に果たすべき事柄がある。そしてそれを果たし終えた人にも、その人にしかできない大切な事柄がある。私はこう考え、「生きる意味はある」というスタンスで書いていきますので、よろしくご承知おき下さい。



さて、ここからは「生きる意味とその方向性」について、本日も書いていきます。

生きる、生きてゆくということは、その文字からは想像もつかないほど大変なこと、そして覚悟の要ることです。若い内、周囲から守られている内は分からないかも知れませんが、当ブログをご覧の方の中にも、言うに言えない苦しみを抱えて生きてきた、今生きているという方もおられると思います。確かにいいこともあったが、やはり苦しみの連続が人生ではないかと思います。

たしかに今の日本には昔のように戦争もありません。世界から見たら平和そのもので、物は豊か。GDPは世界3位に後退しましたが、それでも経済大国であることは変わりません。昔は死病と言われていた病気も医学の進歩で治癒可能となったものもあります。貧しい生活を強いられている方も少なくありませんが、世界の難民と比べたら、比較にならないほど恵まれています。

ところが豊かさと幸福度は必ずしも一致しないようです。「世界幸福度報告書2018」では日本は54位とのことですから、「豊かさ」=「幸福」とは一概に言えないことが分かります。「幸せだなぁ」と身の幸をかみしめて生きている人もあるかと思いますが、今の生活が当たり前になってしまうと、中々幸福を感じられないものです。経済的な豊かさと心の幸福感が必ずしも比例しないのはそのためです。

また、生きる過程でどんな幸せなことがあったとしても、ずっとその状態を保ち続けることはできません。やがてそれは思い出となり、記憶となり、過去のこととなります。美味しいものを食べたこと、皆に褒められたこと、好きな人を見つめるだけで胸がときめいたこと、家族や友人と笑いあったこと、受験に合格したこと、志望する会社に入社したこと、いい仕事ができたこと、会社を立ち上げて成功したこと、愛する人と結婚したこと、子供ができたこと、美しい風景を見たこと、難病を克服したこと・・・人それぞれ幸せなことは色々あったでしょうが、そこで人は止まることはできません。幸せの瞬間に、「ここで、このまま時が止まってしまえば・・・」と思うのは、やがてその幸せも終わってしまうことが感じ取れるからです。

現在テレビ放映中のアニメ「HUGっと!プリキュア」の敵である「クライアス社」は、時間を止めて人々の未来を奪うらしいですが、その社長ジョージ・クライの考えも分からなくはありません。むしろその思想には同調です。今を花咲くプリキュア達も、彼女らが本物の人間だったならやがて大人になり、おばさんになり、おばあさんになります。いつまでも元気、可愛くきれいではいられません。仲間との別れ、大切な人との別れもあるでしょう。どんな悪事災難が起こるか分かりません。そして、護り、はぐくみ、育ててゆこうとしていた自分自身の未来さえも無くなり、たった一人で死んでいかねばならないのです。

「人々が笑顔で暮らし続けられる世界を作るため、新たな苦しみが永遠に生まれぬよう、時間を止めることで未来を消滅させる」

こんなことが可能ならば、「幸せだなぁ」と感じたその瞬間にぜひともそうしてもらいたいものです。

実際に、私達が感じている幸せは終わります。それには、残念ながら永続性が無いのです。生まれたからには老いと病と死はまぬがれません。出会ったからにはいつか別れねばなりません。嫌なこととも向き合わねばなりません。突然の事故、病気、家庭不和、いじめ、隣近所とのいざこざ、仕事上のトラブル、死別・・・無いものもありますけど、やがて出くわさなければならないものばかりです。生きてゆく限り、招かれざる客は必ずやって来る。その苦難に堪えて、苦難を超えて生きてゆく。生きてゆくのは覚悟が要ると言ったのはこのことです。

愛は幻、幸せは一瞬で、掴んだと思った幸福も一夜の夢、一朝の幻と消えていった経験はありませんか? 今、招かれざる客のために苦心惨憺、これからどうやって生きてゆけばいいのか途方に暮れて悩んでいる方もきっとおられるでしょう。次の瞬間には、このように書いている私がそうならねばならないかも知れません。本当にいつ何時、どのようなことが起こるか分かりません。全く予想だにしなかったことが起きるものです。

それがいいことならいいですが、反対に今まで経験したこともない逆境に立たされた時、強烈に生きる意味を問わずにはいられなくなるでしょう。苦しいのに、なぜ生きてゆかねばならないのか。この苦しみに耐えてまで生きてゆくのは何のためなのか。辛い思いをして生きてもやがて死んでゆく。なら、今死ぬのも変わらないではないか。私は10代半ばからずっとこのことを考えていました。


生きることに疑問を持たず、またそれほどに苦しくもないのなら、そんなことを考えなくても生きてゆけるのでしょう。しかし、思うようにならない現実に苦しみ、この苦しみに耐えてまでどうして生きていかねばならないのかと考えていた私はそうではありませんでした。ここに、親鸞会の教えに惹かれる下地があったのです。

ただ、教えは間違っていましたが、「人生の目的」「なぜ生きる」という問いかけまでは間違いではありません。逆にこのような問いに対して正面から向き合わない、どこかお茶を濁してあいまいに終わってしまう、何も教えられないというこの社会が間違っているとさえ感じてしまいます。何せ生きてゆくということについて根本となる問題です、この「なぜ生きる」「生きる意味」というのは。これが分からないんじゃあ、人は自死を選んだって全然おかしくないです。強くたくましく生きろ。で、生きたその先が老病死では、生きた甲斐がないですもの。

生きれば生きるだけ幸せになっていくならいいかも知れないけれども、そうではありませんから。私は、祖母が生前ぽつりと呟いたこの言葉が強く胸に残っています。

「人生って、いったい何だろうね・・・」

若い時から苦労して体もやせ細り、心臓も弱って立つこともままならなくなった祖母がこう呟いていたことが、今も忘れられません。たしかその時の祖母は88か89歳だったと記憶しています。きっと、今まで夢・幻のように過ぎて行った人生を振り返り、遠くない将来に死にゆく未来を見て呟いたのでしょう。私には、生きる意味、また死んでゆく意味を知らずに生きるとはこういうことになるのだという説法だと思われてなりません。


できるなら、その時に戻って、感謝の言葉と共に伝えてやりたい。

この世へは、お念仏申すために生まれてきたんだよ。人間の世界は迷いの境界で、本当の安心や満足は無いんだ。この迷いの世界を出て、まことの安らぎを得るのが人間に生まれて死ぬまでになさねばならないことなんだよ。ところが我々は欲望や怒り、憎しみといった煩悩の塊で、とても自分の力で迷いを離れられるような者じゃない。それで阿弥陀仏は、「お願いだから南無阿弥陀仏と称えて浄土へ生まれてきておくれ」と私達に往生のみちである念仏を与えて下さった。阿弥陀さまは「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」と仰せなんだから、その通りにまかせてただなんまんだぶ、なんまんだぶと称えて必ず生まれられると思い定めて。あとはいのちのある限りお念仏を申して、往生を定めて下された御恩を喜んで共に浄土の旅を生きようね。そして、いのちが終わった時がお浄土参りだよ。


浄土真宗では、私達がさとりの領域、まことの安らぎである阿弥陀仏の浄土に往生するみち、すなわち「念仏」を教えています。人間の力ではどうにもできない生死の問題ですが、平生南無阿弥陀仏のこころを聞いたその時に必ず往生定まる身となります。するとそこからはお浄土へ向かう人生となります。

「南無阿弥陀仏(必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい)」という真実の仏の言葉を仰ぎ、光とし、口に称えて常に聞きつつ、浄土を目指して生きてゆく。こうして生きる意味と方向性とを常に真実の御名を称え聞いて確かめつつ、いのちのある限り生きてゆくのです。そして、いのちが尽きたらただ死ぬんじゃない。お浄土へ生まれるのです。死んでゆく意味は、浄土へ参ってこの上ないさとりを完成し、まことの安らぎを得ることです。そうなってこそ死んでゆく甲斐があるというものです。そうしたら、今度は皆さんにもそうなってもらいたいと有縁の方々を思うが如くお浄土へ導くことができる。これみな、阿弥陀仏がお与え下されたお念仏の利益です。

生きる意味は何なのか。どこへ向かって生きているのか。死んでゆく意味は。こういうことが気になる方には、ぜひとも浄土真宗を聞いて頂きたいものです。日時、場所、布教使の先生については

浄土真宗の法話案内

等を参照して頂きたく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


【参照】
国連「幸福度ランキング」、日本は54位だった
『Wikipedia』HUGっと!プリキュア
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

今回も読ませていただきました、「なぜ生きるのか」この問題について真摯に向き合っていることが文章を通じて読み取れました。

>ただ、教えは間違っていましたが、「人生の目的」「なぜ生きる」という問いかけまでは間違いではありません。逆にこのような問いに対して正面から向き合わない、どこかお茶を濁してあいまいに終わってしまう、何も教えられないというこの社会が間違っているとさえ感じてしまいます。何せ生きてゆくということについて根本となる問題です、この「なぜ生きる」「生きる意味」というのは。これが分からないんじゃあ、人は自死を選んだって全然おかしくないです。強くたくましく生きろ。で、生きたその先が老病死では、生きた甲斐がないですもの。(淳心房さん)

「人生の目的」「なぜ生きる」という問いかけを求めることは、確かに自らのアイデンティティ(自己同一性)の上で最も大切なことであります。

「我思う。故に我あり」 "Je pense, donc je suis"と哲学者デカルトがいわれたことは有名な話でありますが、この「私が思うから、私自身がある」というのはあくまで、フランス哲学であります。

また、高森さん自身が言われている「六度万行」は、台教のうち「六波羅蜜」にあたることは、周知の事実かと思いますが、私が今、「台教」と記しましたように「天台宗の教え」つまり「自業自得の教え」「自因自果」であります。

弥陀・釈迦・七高僧・親鸞及び後世の浄土教の方たちが伝える「捨自帰他の教え」「なもあみだの御法義」とは、「義なきをもつて義とす」であります。この「義」は親鸞自身が「義といふははからふことばなり」と仰られているように「自らのはからいを交えないというのが、浄土教のはからいである」といわれております。

前のエントリー内で「人生の目的」について「ない」といわれている方がおられましたが、その答えは「(自らの計らいという意義において)ない」と私は読ませていただきました。先ほど記したことの言い換えとしまして、「不回向の行」といわれるものもございますが、みなみな「弥陀の御計らい(他力回向)」ということであります。

「真宗」では、「他力回向」という法義のもとにありますから、「生きる」の受身系「生かされる」、「勧める」を「勧めさせていただく」、「称える」を「称えさせていただく」等々という言い回しをよくされます。ですから、淳心房さんが先にあげていただいた、

>私達はこの世に「生まれて」きました。英語で言うと

>I was born.

>そう、受身形です。

という文章を読ませていただいた時に、
「如来の縁(えにし)によって生まれさせていただいた」と読ませていただきました。もちろん、父親と母親がいたから「いのち」をいただくことができたので、どちらがとはいえませんが、親鸞が「すべての人は父母兄弟である」と言われているように阿弥陀様からしましたら「すべて(の人)が、助ける(わたしに任せてほしい)対象」なのですから。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

勿論、浄土真宗を通して知らされる「生きる意味とその方向性」は、フランス哲学や天台宗、高森教とは異なるものです。自力回向、自力修行によって自ら勝ち取ろう、達成しようというのではなく、他力回向によって恵み与えられるのですからね。

ただし、人生の実相についてよく考えもしない人、自分が必ず死ぬということに驚かない人、生死の問題に関して自分は無力ということ気付かない人にはどうしても宗教、特に他力回向の教えは信じ難いと思います。それで、退会者の方々には散々聞いてきたような内容ですが重ねて書いています。

それと、Abcさんは

>前のエントリー内で「人生の目的」について「ない」といわれている方がおられましたが、その答えは「(自らの計らいという意義において)ない」と私は読ませていただきました。

と読まれましたか。私は信後においては「生きる意味は無い」と仰っていると読みました(maelstromさん、違っていたらコメント下さい)。私の力で達成したり、知ったりするものではなく、往相回向のお念仏のおかげで果たさせて頂く、知らせて頂くという意味ではその通りですが、もし後者の意味で「生きる意味は無い」と仰っているとするなら私は別の意見ですので、今後それについても書いていきたいと思っています。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Abcです

おはようございます、Abcです。
ご返信ありがとうございます。確かに読ませていただきました。

>勿論、浄土真宗を通して知らされる「生きる意味とその方向性」は、フランス哲学や天台宗、高森教とは異なるものです。自力回向、自力修行によって自ら勝ち取ろう、達成しようというのではなく、他力回向によって恵み与えられるのですからね。

さようであります。「真宗」(浄土宗も含む)にていわれている、「他力回向」「専修念仏」という教えは、いま言われた「自力回向(作菩薩道)」「雑修諸行(諸善万行、六度万行)」からは、180度ベクトルが違う教えでありますから、南都六宗(東大寺や興福寺など)からは、「源空房(法然)がいわれていることは、納得ができない」「間違った教えをひろめられている」と奏上を出されましたことは、既にご存知のことかとおもいます。

 また、「還相の回向(第二十二願意)」に於かれまして私は、「決してオマケではない」とおもいます。ただ、「往相の回向(第十七・十八・十一願意)」が「真宗の要領である」とされたならば、先の二十二願は、「往相あっての還相」でありますから、オマケと観られたのかもしれません。
 ただ、「還相の回向」は少し前のコメントにて「念仏を広めさせていただく願」ともしるしましたように、他力回向において「専修念仏往生の教え」を衆生に広めさせていただくのですから、私は第二十二の願は「決してオマケではない」と考えております。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

ありがとうございます。私もAbcさんに同意見で「還相回向というのは仏法の目的ではなくオマケ」というご意見はちょっと聞き捨てならないです。

・つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。(教文類)

・しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。(浄土文類聚鈔)

・往還の回向は他力による(正信偈)

・如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆゑ
 憶念の心はたえぬなり(正像末和讃)

・往相・還相の回向に
 まうあはぬ身となりにせば
 流転輪廻もきはもなし
 苦海の沈淪いかがせん(同)

・無始流転の苦をすてて
 無上涅槃を期すること
 如来二種の回向の
 恩徳まことに謝しがたし(同)

・南無阿弥陀仏の回向の
 恩徳広大不思議にて
 往相回向の利益には
 還相回向に回入せり(同)

・往相回向の大慈より
 還相回向の大悲をう
 如来の回向なかりせば
 浄土の菩提はいかがせん(同)

・他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の回向を
 十方にひとしくひろむべし(同)

他、まだあると思いますが、これほど親鸞聖人は往相、そして還相という二種の回向を頂戴し、これを喜ばれ、私達にも伝えて下さいました。決して「オマケ」ではありません。

しかし、まぁ特に親鸞会出身者は報謝ならぬ報謝の強要をさせられてきましたし、心にトラブルを持っている方もあります(私もその一人でした)ので、今のお考えを否定したり、一緒に報謝をさせて頂きましょうなどと無理に勧めたりするつもりはありません。御恩報謝、伝道活動はあくまで自主性が大事です。退会者の中には親鸞会での報謝の強要にこりごりとか、執拗な機責めによって深く心身が傷ついてボロボロとか、様々な事情を抱えている方がいらっしゃいますから、一口に退会者と言っても一様ではないことをご理解頂ければと思います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>御恩報謝、伝道活動はあくまで自主性が大事です。退会者の中には親鸞会での報謝の強要にこりごりとか、執拗な機責めによって深く心身が傷ついてボロボロとか、様々な事情を抱えている方がいらっしゃいますから、一口に退会者と言っても一様ではないことをご理解頂ければと思います。(淳心房さん)

確かに無理強いはよくはありませんね。私は「還相の回向」はこのように記されているということを伝えたかったのですが・・・伝え方も重要ということでしょうか、今もそうですが「面と向かって」ではないので、どのような心で言われているのかが掴みにくいのが、欠点ではありますね。(ただ、淳心房さんとは、こうしてよく話させていただいておりますので初対面のかたよりかは掴みやすいですね。)

・往還の回向は他力による(正信偈)
「往還回向由他力」(おうげん えこう ゆ たりき)
※余談ですが、北陸では真宗が盛んであるために、「街道」のことを「往還(おうかん)」とも呼び慣わしたりします。
例:石川県 県道17号線 「金沢港線、金石往還、金石街道、金沢主要道路金石線」 と「~往還」という使用をされます。

・如来二種の回向を ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆゑ 憶念の心はたえぬなり(正像末和讃)

往相の回向、還相の回向のふたつの計らいにふかく信じるひとは、
 仏のさとりに至るので、いつまでも忘れない思いが絶えることはない

・往相・還相の回向に まうあはぬ身となりにせば
 流転輪廻もきはもなし 苦海の沈淪いかがせん(同)

二種回向に間に合わない身となったならば、
 流転輪廻は限りなくなってしまう 苦海の沈淪(くかいのちんりん / 苦海にしずむこと)はどのようにすれば良いのだろうか

・無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期すること
 如来二種の回向の 恩徳まことに謝しがたし(同)

苦海に沈むという苦をうちすてて、無上涅槃をねがうことは
 如来二種の回向の利益であるから 仏恩(ぶっとん)は本当にありがたいことである
※このように記しますが、迷われている方に「念仏称名にはげみなさい」という難しさ、常に考えさせられる事柄であります。

・南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
 往相回向の利益には 還相回向に回入せり(同)

他力回向の証「南無阿弥陀仏」の回向は、恩徳は広大不思議であり、
 往相の後には、還相回向に回入するのである

・往相回向の大慈より 還相回向の大悲をう
 如来の回向なかりせば 浄土の菩提はいかがせん(同)

往相の後には、還相回向の大悲を得る
 他力回向(たりき・えこう 弥陀如来の御誓い 「南無阿弥陀仏」の回向とも)が無かったならば 浄土を願う方はどうすればよいのだろうか

・他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし(同)

「南無阿弥陀仏」の信心を得た行者は、仏恩(ぶっとん)に報おうと
 如来二種の回向(往相・還相 二種回向)を 十方衆生にわけ隔てなく広ろめるものである
※この『和讃』が、私が「念仏を広めさせていただく願」ということをよくあらわしております。ありがたいことです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

正信偈や和讃の解説、ありがとうございます。

退会者と言っても一人一人境遇も教えの理解も受け止め方もみな違うことを分かって頂ければ十分です。その一人一人に応じて阿弥陀さまはそれぞれ最善の方法で導いておられるわけで、ひとまず念仏一行を仰いでこれを一心に行じているなら他は自由じゃというわけです。

ちなみに私の会員の時の「還相回向」の受け止め方は、「この世でこんなに苦しんでいるのに、またこの世界に還って来て苦しまなければならないのか・・・」というものでした。また、還相回向を「この世に再び還って来るのでは流転輪廻と一緒じゃないか」と思っている人もあります。さとりの必然としての利他の活動であり、さとりの領域での話で流転輪廻とは別ものなのですが、往生浄土、成仏はまだしも、還相回向については無知であったり、消極的な方が多いと見受けられます。Abcさんの周囲ではどうですか? お坊さん含めて門徒の方々はどのような受け止め方でしょうか?

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

>退会者と言っても一人一人境遇も教えの理解も受け止め方もみな違うことを分かって頂ければ十分です。

さようであります。ですから、「方便」とされる19願の機(定散ニ善の機)は、「十三の善行」を始めとして、「ただこれ一つ専らにせよ」とはいわれておりません。そのように申される基としましては、いま淳心房さんがいわれた「人それぞれ」であるから「行いもそれぞれ」なのであります。

>還相回向については無知であったり、消極的な方が多いと見受けられます。Abcさんの周囲ではどうですか? お坊さん含めて門徒の方々はどのような受け止め方でしょうか?

まず、他の布教使の方がたにおかれましては、あるかたは声をだいにして「祖師の御遺訓を違わず門徒に伝えるべきである」とも申されておりますが、やはり淳心房さんの危惧するように「真宗の本領は往相である。そのために大行(17願)と大信(18願)を伝えねばならない。」とされ、先の『和讃』、

南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
 往相回向の利益には 還相回向に回入せり(正像末和讃)

他力回向の証「南無阿弥陀仏」の回向は、恩徳は広大不思議であり、
 往相の後には、還相回向に回入するのである

の「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には」までは伝えておられるようですが、「還相回向に回入せり」つまり、第二十二の願については伝えられていないのが、実情であります。

 ですから、淳心房さんも思われた「如来にお任せしても猶お、衆生がいるところに戻るのはどうしてなのか」というギモンに応えられていないと言う部分が、なんとも歯がゆい部分です。

次に、聞き手(門徒さん)におきましては、上述したような教え方でありますので、やはり淳心房さんのようなギモンがあがってくることもあれば、挙がってこないこともございます。「布教使の時間を割くのは・・・」というお心使いからでしょうが、やはり「なんともいえない」という様子でお帰りになられる方が多いとお見受けします。

 私どもも伝えるならば、滞りなく伝えたいのですが、その辺の距離感が未だにあるのが問題なのかもしれません。

Abc

利他の正意

利他の正意

ども、林遊@なんまんだぶです。
御開山は真実の証を示す「証巻」で、

 還相の利益は利他の正意を顕すなり。
http://wikidharma.org/5bfbf7a697841

とされておられますから、阿弥陀仏の正意(ご本意)は還相の利益を恵むことでもあったのでした。下心というとすまんのですが、阿弥陀仏はわたくしをして還相の菩薩たらしめようというのが「利他の正意」の下心でした。
宮沢賢治に「永訣の朝」という詩があります。その中でいまや死なんとする妹に、

  うまれでくるたて
   こんどはこたにわりやのごとばかりで
   くるしまなあよにうまれてくる

と賢治は語らせていますが、この一句に還相をみると、大乗仏教の基本理念である「上求菩提 下化衆生」の、「度衆生心」を裡に内包した「願作仏心」はありがたいことです。
この煩悩まみれの林遊が、下化衆生などということは口が裂けても言えないことですが、御開山は「真仏土巻」で浄土の「体性」を、

 また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性、一味にして衆流入るものかならず一味となつて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆゑに、種々の妙好色・香・美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土はもろもろの往生のひと、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性、成就したまへるをもつてのゆゑなり。
http://wikidharma.org/5bfbfcd92af43

と、必然であり不改の義(自らは変わらずに他を変えていく浄土のはたらき)とされておられますから、浄土へ往生すれば、浄土のはたらきの必然として衆生済度が楽しめる身とならしめられるのでした。これを「証巻」で『論註』を引文し、

 生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。
http://wikidharma.org/5bfbfeeeb9326

とされたのでした。「正信念仏偈」に『浄土論』の園林遊戯地門の意を、

 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
 遊煩悩林現神通 入生死園示応化
  蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなはち真如法性の身を証せしむと。
  煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといへり。

とされたのでしょう。
「上求菩提 下化衆生」という語を表面的に見るだけでは、往生浄土の浄土真宗は理解しがたいのですが、例えば『歎異抄』第4条の、

 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

とあるように「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」

という浄土の菩提心が「上求菩提 下化衆生」の横超の菩提心でした。
人を救う(済度)するには、救う側に救う力が無ければ救えないのですが、浄土門では、その衆生を救う力を得る為に浄土へ往生するのでした。──仏教に於ける救いとは、あほみたいな絶対の幸福ではなく、生死を超え解脱することをいふ──
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BA%A6%E8%A1%86%E7%94%9F%E5%BF%83

四弘誓願には「衆生無辺誓願度」とあるが、あらゆる衆生をさとりの世界へ渡そうというのが大乗仏教の理念であり、あほみたいに、なんまんだぶを称えて往生成仏を目指す林遊のような凡愚に開示されるご法義であった。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。

仏教とは何を求める教えなのか、大乗仏教とはどういう教えなのか、仏陀とはどんな御方なのか、この辺を誤っていると自分一人が浄土へ往けばいいやという、小乗に近い精神に陥ってしまうと思います。

> 人を救う(済度)するには、救う側に救う力が無ければ救えないのですが、浄土門では、その衆生を救う力を得る為に浄土へ往生するのでした。

自身は確かにそうなのですが、もはや既に成就している南無阿弥陀仏の名号法を、今、この世で、縁のある方々に紹介してゆきたい。全く自在性が無いので私の活動などてんでダメですが、このような思いは本願を仰ぎお念仏を申すほどに起きてまいります。お念仏申すすがたを通して子供達に、ブログを通して見て頂いた方々に、本願念仏の救いを紹介していきたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Re: Abc様

質問に答えて下さりありがとうございます。

往相回向を伝えることは勿論ですが、還相回向まで説かなければ浄土真宗を説いたことにはなりません。自分もそうでしたが、聞いている方の中には浄土へ往って楽をするとか、自分が助かればさえいいという考え方の人が少なくないと思います。

まずは本願を信じ念仏して報土往生を決定して頂きたいですが、それだけでなく、浄土へ往ってそれで終わりというのが真宗では無い、この世ではどうすることもできなかった人々を、今度は自分が思うが如く救ってゆくという還相回向まで恵まれるのが浄土真宗であることを知って頂きたいですね。そして、自身のさとりの完成は死後だが、既に完成している南無阿弥陀仏の名号法は今現にこうして我々に届いているのだから、それを今、有縁の方々に紹介しないのは非常にもったいないことだと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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