FC2ブログ

年頭所感でも、当然「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かない高森顕徹会長

親鸞会が今年から「新体制」になったようです。詳しくは

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』新体制になり最後のカーブを曲がった親鸞会(顕正新聞平成30年1月1日号を読んで)

をご覧下さい。「同志」だとか言っているのが隣国を連想させます。


さて、親鸞会発行『顕正新聞』2018年1月1日号の高森顕徹会長の年頭所感は、『歎異抄』第二条

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

の御言葉から始まっています。親鸞聖人が20年関東で説かれた教えは「往生極楽の道」以外無かった、その「往生極楽の道」とは、

「必ず極楽浄土へ、往ける身に救う」と、阿弥陀仏が誓われている本願

であるというのです。ところがと言うか、当然と言うか、その後はこの記事でも紹介したいつもの根拠

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり
浄土和讃

火の中を 分けても法は聞くべきに
 雨風雪は もののかずかは


や、『御一代記聞書』155

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。

などを出して

・たとい大宇宙が、火の海になろうとも、そのなか仏法を聞きひらく人は、必ず絶対の幸せに成れる
・仏法を仕事の合間に聞けばよかろう、程度に思っているのは、まだ本当の仏法が分かっていない


と創価学会用語をパクった「絶対の幸福」なるものを勧めたり、叱咤したりするのみで、本願の何を聞くのか、どうすれば「必ず極楽浄土へ、往ける身」に救われるのかについては最後まで書かれていませんでした。


この、実に中途半端というか、言わないのか言えないのか不明ですがとにかく必ず大事な部分をボカすところが高森顕徹会長らしいです。これでは、たとえこの年頭所感を何百回読んでも

もっとド真剣に聞け! お前はまだ仏法の重さが分かっとらん!

ということが分かるのみで、「往生極楽の道」とは何かということは絶対に分かりません。「往生極楽の道」とは

「必ず極楽浄土へ、往ける身に救う」と、阿弥陀仏が誓われている本願

と言っても差し支えありませんが、『歎異抄』で言うとそれは

・念仏よりほかに往生のみちをも存知し
・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
・このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり


とあるように「往生極楽の道」=「念仏」です。また「阿弥陀仏が誓われている本願」とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

とあるように、「「念仏を称える者を必ず極楽浄土へ迎える」と、阿弥陀仏が誓われている本願」です。ですから、「念仏」のいわれ、またそれを聞いて称えよということが勧められていなければ、「往生極楽の道」を説いているとは言えないのです。それがどうですか? 年頭所感を始め、高森会長の話のどこに、

念仏」のいわれ、またそれを聞いて称えよということ

が勧められているでしょうか? 高森会長が挙げた『浄土和讃』にも

仏の御名をきくひとは

とちゃんと書いてあるでしょう。だから私達は「仏の御名」である「本願の名号」、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞いて「念仏」せよと教えられるのです。


親鸞聖人は「行文類」にて、「南無阿弥陀仏」とは衆生に帰せよと命じる如来のよび声、つまり「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してただこの阿弥陀にまかせなさい」という命令、仰せなのだと教えられています。また、それは阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心であるとも仰せです。この、私達に施し与えて下さるという「往生の行」というのが「念仏」です。

念仏」は、私達が様々な行の中から選んで称えるのではなく、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものでありますから、阿弥陀仏の方でただ一つ選んで「なんまんだぶせよ」と仰せられる行なのです。こうした阿弥陀仏の勅命を受けたなら、念仏以外の自余の諸善、すなわち「雑行」は要らないなと廃るのです。そして、阿弥陀仏の仰せに帰して念仏する者はこの世で不退転の位に至る、お助け下さるというのです。

これが、蓮如上人が度々仰せられる「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。例えば『御文章』5帖目8通には

「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

とある通りです。阿弥陀仏は私達を必ず助けるために本願をお建てになり、想像もつかない御身労をされて、「南無阿弥陀仏」と成って下さいました。

これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなり(同)

ですから、この「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知る以外に私達が極楽に往生するも何も無いことがお分かり頂けると思います。

されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

とも仰せのように、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知る以外に信心も安心も無いのです。であるのに、そのような肝心要の「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を高森会長が説かない理由は何なのでしょうか?

1、そもそも高森会長は「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知らない。
2、知ってはいても、会員に信心を獲させる気が無い。


考えられるのはこの2つしかありません。いずれにしても、そんな知識から聞き続けても浄土真宗の信心を獲て、極楽に往生することはできないのは言うまでもないことです。


いつもの「光に向かう教え」「横の道を進む教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」といった高森教に支配された頭では受け入れ難いものがあるかも知れませんが、これが浄土真宗です。『歎異抄』に「ただ念仏して」とあるのも、元々は阿弥陀仏が「ただ念仏せよ」と仰せられていますから、その勅命を受けて「ただ念仏して」と言われているのです。

ただのだだもいらんただじゃったー!

などという訳の分からない境地ではないのです。阿弥陀さまの勅命を受けて、その通りにおまかせする以外に信心はありません。ありもしない信心を追い求め、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽に憧れて、「往生極楽の道」とは無関係の組織拡大活動をしている限りは他力の信心など毛頭分かりませんから、会員の皆さんは早く親鸞会の邪義に気付き、高森教を捨てて浄土真宗に帰依し、阿弥陀仏の仰せを受けて念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Abcです

こんにちわ、Abcです

関東と言えば私の出番ですね。親鸞は、当初は高森さんや本願寺が言われるように辻説法されていました。ですが、説法を聞く人が増えてきたことによって、御堂を建造したと言うのもまぎれもない事実です。その根拠としまして、「稲田御坊」といわれている西念寺、 私の本寺 専修寺 などが挙げられます。

>『歎異抄』第二条

>おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

高森さんが作られたビデオ内では、5巻がそれにあたります。親鸞が63歳(別説ではその前後)に花洛(京都)に帰られてから、「善鸞の問題」や「他宗派からの煽り」などでグラついたことがあり、それを確認するために出向いてきた事案です。この事案に関しましては、「弥陀に任せる」と腰を据えておればよかったのを、「私は夜な夜な父上からこう聞いておる」という言葉に乗せられてしまったことが根底にあります。 その結果、本寺下野 専修寺 、 甲斐 専修寺 また、本願寺 別格本山 稲田御坊 西念寺 等々 混乱を招きました。

その後に、淳心房さんも挙げられていますが、


・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

・このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり

  翻訳
親鸞におきましては、「ただ念仏して、(蓮如のいう、「やうもなく念仏申し」)弥陀に助けてもらいなさい」と法然のおしえをつのりとするほかに、別の方法などないのだ。

以上のことから、念仏を執りてつのりとするも、また棄て去るも、あなたたちの計らいなのです。

と記されているのです。
※私のところは「嘆異抄」はあまり用いりませんが、ただその中にでさえ「念仏」ということが重々いわれています。「念仏者ハ無碍ノ一道哉」と別の箇所に申されているように「真宗 = 南無阿弥陀仏 = つのりとすると『執持名号(信心名号)』 であり、となへると『称名名号(念仏名号)』」となり、真宗ではそれ以外教えられていないのでそれ以外を「雑行雑修自力のこころ」といわれるのです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

関東の同行が、様々な事件によって信心に動乱が起きたというアニメ5部の描写はまぁまぁよろしいかと思いますが、

「往生極楽の道」=「往生のみち」=「念仏」

だと説かないのが親鸞会、高森顕徹会長です。念仏、すなわち南無阿弥陀仏の六字のこころを説かない高森会長の話をいくら真剣に聞いたとて、信心も安心も無いことを会員の皆さんにはよく知って頂きたいですね。

ご返信ありがとうございます。

こんばんわ、Abcです。
この度は、返信ありがとうございます。
親鸞自身、「『ただ念仏』のみぞ、まことにておはします。」 『歎異抄』後序
と申されております。

先ほど、私がコメントの中にて
>ただその中にでさえ「念仏」ということが重々いわれています。

と記しましたので親鸞が申されたとされる『歎異抄』第1条から第9条の「念仏」の部分抜粋を掲載しておきます。詳しくは淳心房さんも示されているWikiArcの方をご参照ください。
第1条 :弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

第2条 :親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

第3条 :自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

第4条 :しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき

第5条 :わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ

第6条 : 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり[乃至]如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり

第7条 :念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり

第8条 :念仏行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり

第9条 :念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり[乃至]
よろこぶべきこころおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし

長くなってしまいましたが以上の通りです。

なもあみだ なもあみだ
 Abc

No title

ども、林遊です。

稲城選恵和上は「他力の信の特色」の法話で無所得性について、

 他力の信は、こっちにものがらが無い。これを、無所得性と言うてもええんです。これでなけりゃ仏法でない。これがわからんのですね。ですから、御開山はね、「信の巻」だけは、ものがらを出しておられんのです。出体釈が抜けてます、一番大事な「信の巻」で。教巻・行巻・証巻、みな出体釈が出てます。信巻だけ出体釈が無い、ものがらがないんです。信のものがらは、有ることは有るんです。ものがらを言えば、前の行巻がそうなんです。この行信の関係はね、丁度こう言う関係でありましてね。この喩えも語弊がありますけど、こちらの「行」が水です、そうすると、この「信」は波です。波、ご存じかね。知らん人は手を挙げてもらおうかね。波、御存じじゃろう。波を御存じで無い方は、海に見に行きなはれよ。波というのはね、水が無いと立たんでしょうが。どんなに大風が吹いても、水が無いと立たんね。ここらでは、波は立たんね、水がないから。ですから、水のまんまが動いとるんが波ですね、違うかね。そうか言うても、波と水は違うで。コップ一杯波くれとは、言わんが。波と水は、違うじゃろう。そうか言うて、水が無いのに波だけが立つという事も無いね。行と信は、この関係なんです。ですから、もし信のものがらは何かというと、前の大行がものがらという事になる。南無阿弥陀仏が、信のものがらです。わしの側でこさえたものは、ものがらにならん。みんな置いとくんです。
http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E3%81%AE%E4%BF%A1%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2#no3

と、おっしゃってましたです。
高森親鸞会の信を強調する話を脱会者の方などから伺うと、高森顕徹氏の話は、水のないところに波を立てようというのですから、会員の方は、浄土真宗の御信心は永遠に領解できないのでしょう。
いわゆる「信心決定病」に嵌りこんで、御開山の示される「有縁を勧誡する」、

 穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E6%95%99%E8%A1%8C%E8%A8%BC%E6%96%87%E9%A1%9E_(%E5%BA%8F)

という「専奉斯行 唯崇斯信(もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ)」の浄土真宗の「行信」が判らないのでしょう。高森顕徹氏は『教行証文類』の総序すら読めてなかったのでしょうね。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「教・行・信・証の出体」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E6%B3%95%E7%AB%8B%E9%A1%8C#syuttai



Re: 林遊@なんまんだぶ様

コメントありがとうございます。本年もまた、宜しくお願い致します<(_ _)>

>他力の信は、こっちにものがらが無い。これを、無所得性

まさかこのようなものとは露ほども思っていないのが会員です。私もそうだったのですが、「信一念はハッキリ自覚できる」「信心決定すると、ハッキリする」、また「念仏は信後報謝に限る」「念仏は信前も信後もお礼」とばかり教えられますから、求道の果ての摩訶不思議な体験、自分の中でのハッキリとした自覚、「絶対の幸福」なるものを信心とばかり思いこんでいました。信心と言っても念仏とは無関係としか思えませんから、まさに

>水のないところに波を立てよう

としているというのは言い得て妙です。

信心の説明も間違いならば、信心決定までの道程とやらも間違い。これで信心決定できると思う方がどうかしています。『総序』すら読めていないのか、読めていても正しく伝える気が無いのかは定かではありませんが、とにかく教えは間違いですから、迷う人が一人でも少なくなるように訴え続けていきたいと思っています。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード