『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、ありもしない道程を設けてそこを通そうとする高森顕徹会長

1月3日の親鸞会初聞法会は、去年に引き続きいつもの

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という演題で話があったそうです。相変わらず「難思の弘誓は難度海を度する大船」(総序)という、

五道、六道という迷いの世界を難度海という海にたとえ、阿弥陀仏の本願、お約束をそこから出離して往生成仏せしめる船にたとえて教えられた

ことを、

人生を難度海という海にたとえ、阿弥陀仏の本願、お約束をその苦しみの海から救う船にたとえて教えられた

という低次元な話に貶め、阿弥陀仏の本願を

「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」

というこれまた低次元な現世利益を獲させる本願に貶めています。ここで、「絶対の幸福」とは煩悩を断ぜずになる幸福であり、それは「無明の闇」が晴れたことだというのです。ところが、高森会長によると「無明の闇」とは

「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」

だというのですから、それが晴れたということは、

「後生明るい心」「死んだ先がハッキリ分かった心」

になったということでしょう。この誤りについては散々述べていますが、例えばこの記事を参照して下さい。


さて、今回は、

(阿弥陀仏の本願は)無条件で絶対の幸福にするとのお約束とのことだが、(私達は救われるのに)条件があるとしか思っていない。(本願に対する)疑いの心がある。
無条件で助けるとは、「○○した人は(大船に)乗せてあげよう」ということではない。
「無条件(の救い)だったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く。

などと高森会長が「無条件の救い」について宣っていたことを取り上げます。

阿弥陀仏の本願、中でも18願は、迷いの世界を離れて往生成仏するような因を持たない私に、成就された本願力を回向して、すなわち南無阿弥陀仏を与えて、私をさとりの世界へ導こうというものです。私の力、自力は全く要せず、ただ本願力、南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられます。罪の軽重、善根の多少、修行の久近といったことは救いの条件に含まれません。ただ本願の仰せ、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」を聞き受けて念仏する者を極楽へ迎えようという本願ですから、「無条件の救い」とよく言われます。

ただ「無条件の救い」と言っても前提があります。全ての人を救うべく本願力ははたらいているのですが、まず本願あることを知らない人は残念ながら救われません。

聞其名号 信心歓喜

ですから、本願、また本願が成就したすがたである名号を聞かないことにはどうしようもないです。次に、本願あることを知っていても、本願によって救われようと思わない人も救われません。例えば異教徒や無宗教者であったり、仏教徒であっても聖道の修行によってさとろうとする者、浄土教を信じていても19願や20願によって往生しようとする者などです。また、謗法や闡提の者は謗法なり闡提を止めてからでなければ救われません。

仏教、中でも浄土教を信奉している者で、本願(18願)によって救われようと思っている人、という前提があるのです。私達で言えば、「親鸞聖人の教えが正しいと信じている人」と言っていいでしょう。親鸞会の会員でも、親鸞聖人の教えが正しいと思い、18願によって救われたいと思っているのであれば対象者に含まれます。ここで「無条件の救い」とは、そのような18願によって救われたいと願う人が、「本願を聞くのに」「本願に救われるためにその人の方で○○しなければならないという条件は無い、ということです。

判り易く言うと、私達の側で、善をしなければならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、地獄一定の自己を知らされなければならないといった条件は無いということです。主体を変えて言うと、私達の行為如何で「この人は救う」「この人は救わない」「この人は早く救う」「この人は後で救う」と阿弥陀仏の方で選んだりしないということです。親鸞会の会員で言えば、

「(縦と横の線で)縦の線まで聞き抜いた者を助ける」
「因果の道理をよく聞いて理解しない者は助けない」
「廃悪修善の心の無い者、弱い者は助けない」
「後生に驚きが立たない者は助けない」
「宿善の薄い者は助けない」
「今生において真剣に宿善を求める者を助ける」
「善をせず信仰が進まない者は助けない」
「三願転入する者(19願の善、定散二善をする者)を助ける」
「微塵の善もできない極悪人と知らされた者を助ける」


本願を聞くのに」「本願に救われるために」上記のような条件は無いということです。


ところが親鸞会ではどうでしょうか? まさに上記のような条件を付けていることは言うまでもありません。

第一、親鸞会では阿弥陀仏の本願を「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲させる本願だとしています。信心については「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」とか訳の分からない説明をし、その際念仏は出てきません。信心の体である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かないのはいつも指摘している通りです。そして、親鸞聖人が教えられたことの無い信心獲得までの道程、いわゆる「横の線の道」を勝手に設けて、そこを通って救われるべき地点(縦の線)まで到達しなければ救われないかのように説いています。「横の線の道」が時として

因果の道理が深く知らされてゆく道
廃悪修善の気持ちが強くなってゆく道
後生の一大事が知らされてゆく道
仏法の重さが知らされてゆく道
薄い宿善が厚くなってゆく道
二河白道を煩悩と闘って求道してゆく道
『聴』から『聞』ときこえるまでの道
信仰が進んでゆく道
三願転入の道

などと変化しますが、いずれにせよ、只今、この場で、本願を聞いて極楽浄土へ往ける身に救われることは無いようです。逆に「只今この場で救われる」と説く者を「土蔵秘事やそれに類する者達」だと非難し、あくまでも高森会長が説く「横の線の道」に万人を当てはめようとしています。今回で言えば、

「無条件(の救い)だったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く。

と、「横の線の道」を通って、ある地点(縦の線)まで到達しなければ「無条件の救い」にはあずかれないように説いています。もうお気付きのように、高森会長の説く「無条件の救い」は、いくつもいくつも条件を張り巡らせた上での「無条件の救い」であることがお分かり頂けるかと思います。これでは最早「無条件の救い」とは言えません。何十年と聞いている会員や、講師部員でさえ救われていないことがそれを物語っています。こんな教えをまともに聞いていて、阿弥陀仏に救われるとかどうとか言っていること自体が気狂い沙汰なんです。



『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、救いにあずかるまでにありもしない道程を設けてそこを通そうとするのが親鸞会のやり方です。ところが、親鸞聖人の教えに「横の線の道」に該当する教えはありません。存在しない道をいくら通ろうとしても通れないのは道理です。会員の皆さんには、皆さんの求道姿勢が悪いのではなく、教えが間違っているから信心も安心も無いのだということに気付いて頂きたいです。そして、邪義を授ける人の手から離れて浄土真宗に帰依し、只今、この場で、本願の仰せを聞いて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長
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ひさびさに検証です。

こんばんわ、Abcです。

>大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

この返答としては「特に変わりません」です。「不断煩悩得涅槃」(正信偈)とあるように「煩悩を断たずして、涅槃を得」つまり親鸞含め浄土系の学生たちは「自分で進む竪出の義ではなく、弥陀によって回向していただく横出の義を進められている」のです。 ですが高森さんは、「自力いっぱいで光に向かって進まなければならない(怒涛の進撃をせねばならない)」といわれており、このことからも親鸞の教えとはかけ離れていることがうかがい知れます。

・「因果の道理が深く知らされてゆく道」
「深信因果」とは「19願を信じること」であるので、「18願を疑う心(疑情)」にほかなりません。

・「廃悪修善の気持ちが強くなってゆく道」
「コレが悪でコレが善」と私の計らいによって仕分けることを「自力の計らい」といわれます。浄土系では「『念仏』という仏が用意していただいたものがあり、私たちはただ「それを貰うだけ」」なのです。私のほうから「頼み込む」のではなく、仏のほうから「もらってくれ!」と貰うのです。そのため、浄土系 真宗においては「『ただ念仏』のみぞまことにておはします。」といわれます。

・「後生の一大事が知らされてゆく道」
後生を知らされることは、大切ですが それだけを説いていても「生起本末を説いている」とはなりません。「後生を知るという『生起』と、念仏(名号)という『本』、それをつのりとする集まりという『末』」を説いてこそ「生起本末を説いている」といえるのです。

・「仏法の重さが知らされてゆく道」
仏法とおおきく見た場合、「殊勝な行い」の「難行道」と「やすくこころえる行い」の「易行道」があります。親鸞、蓮如は「やすくこころえる行い(やうもなく行うおこない)」を勧めてはいますが、高森さんは「善のすすめ」といわれるように「諸善を積み上げて往生せよ」といっているようにしか聞こえません。

・「薄い宿善が厚くなってゆく道」
これは過去に「宿善」ということについて結構議論した覚えがあります。
このように「宿善」という語によって「あたかも善をせねばならない」と誤解をしてしまうので私自身はあまり「宿善」については言及は行いません。

・「二河白道を煩悩と闘って求道してゆく道」
二河白道に足を踏み入れた時こそ「弥陀に任せたとき」なのです。

・「『聴』から『聞』ときこえるまでの道」
「問法善」などといっている間は「疑情」はずっとあります。
「円満徳号勧専称」(正信偈)でありますので「専ら念仏」です。

・「信仰が進んでゆく道」
信仰が進んでいく...ですか、「弥陀にお任せする」という『信心のともがら』と
「まだ弥陀にお任せできていない」という『不信心のともがら』の違いでしかないのですが。。。 あぁ、「弥陀に任せず、ワシにまかせろ!」という謗法というのがいましたね。

・「三願転入の道」
コレに関しまして親鸞は「教行証」内、「浄土方便化身土巻」にて言及されているのみでそれ以外では言われておりません。よって「ただ念仏」のともがらからしましたら「化土のタネ」ぐらいの意味合いでしかないのです。
※19願を「仮門」、20願を「真門」といいますが、どちらも18願からしますと「化土門」でしかないのです。

簡単にですが、記しました。

なもあみだ なもあみだ

Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

「愚禿抄」に竪出、竪超 横出、横超についての記述がありますので記しておきます。

---
一には自利真実なり。
難行道  聖道門
竪超 即身是仏・即身成仏、自力なり。
 竪出 自力のなかの漸教、 歴劫修行なり

二には利他真実なり。
易行道        浄土門
横超 [如来の誓願他力なり。]
 横出 他力のなかの自力なり。定散諸行なり。

---
前の記述にて「竪出」に対して「横出」をしるしましたが、
「横出」は「他力の中の自力 定散諸行」であるため、
正しくは「横超」(如来によって回向せられる)です。

「痴無明」と「疑無明」

高森親鸞会では、仏教語の定義が曖昧で聖道門仏教と浄土門仏教を混ぜ合わせたような言葉を使うのでわけが判らなくなるのでしょう。

たとえば「無明」という言葉ですが、浄土真宗では「痴無明」と「疑無明」に分けて考察するのですが、こういうところの混乱が「破無明」を「絶対の幸福」という概念で混乱させるから会員は意味不明の話を聴くことになるのかな。
ですから、「絶対の幸福」という語に騙されて、

 「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E8%A8%BC%E6%96%87#P--693

という語の意味が判らないのです。

とりあえず、

 しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。

という「称名破満の釈義」についてリンクしておきます。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%A7%B0%E5%90%8D%E7%A0%B4%E6%BA%80%E3%81%AE%E9%87%88%E7%BE%A9

「無明」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E6%98%8E

「真宗学」とは言葉の定義を学ぶことである、と聞いたことがありましたが、断章取義の高森親鸞会とでは、言葉の定義が曖昧なので議論が成り立たないのでした。(経験談)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2017/02/05/%e5%8e%9f%e7%90%86%e3%81%a8%e7%8f%be%e8%b1%a1/

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Abc様

仰る通り親鸞会は自力いっぱいの求道なので、それに対しては「他力になるまで他力を求めます」などと詭弁を使います。しかし、高森会長の説く教えと勧めが「他力」ではありませんので、どれだけ活動しても他力を求めていることにはなりません。また、他力は私達が求めてその結果獲られるのではありません。既に与えられている救いの法を己の計らいを入れずにそのまま聞き受けるのみであるのに、獲信・往生と無関係、むしろ障害にしかならない活動を強いられる会員の皆さんは本当にお気の毒です。



林遊@なんまんだぶ様

新興エセ真宗団体であり、自是他非の高森学徒ですから、当然議論になりません。真宗の信心はおろか、『絶対の幸福』なる創価学会の信心も獲られず、隣国のように大本営発表を真受けにしている実に哀れな方々です。

>「破無明」を「絶対の幸福」という概念で混乱させるから会員は意味不明の話を聴くことになるのかな。

その通りと思います。で、無明が晴れると後生がハッキリするとか、真実の自己がハッキリするとか、地獄一定と極楽一定が同時に知らされるとか、更なる邪義を吹き込まれてますます混乱するのです。「無明の闇が破られる」=「絶対の幸福になる」とトンデモ邪義を未だに唱え続けていますが、必堕無間で脅して現世利益で釣らないと会員の尻に火が付きませんので、これからも変えるつもりはないでしょう。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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