FC2ブログ

浄土真宗には、「横の線」に該当する教えは無い

親鸞会の会員は、「信一念とそれまでとを分ける教え」が深く脳裏に染み付いているため、只今本願の救いにあずかるということ、この場で本願を信じ念仏すれば必ず往生を得るということを受け容れられずにいると思います。それを助長しているのが、高森顕徹会長の話の際に必ず出てくる「縦と横の線の図」です。



例えばどうでしょう? 会員の皆さんは初聞法会の話を聞いて、

「無条件だったー!」となるのは信一念(縦の線)のことで、それまでは重ねて聴聞し、顕正し、実地に(横の線の道を)求道していかねばならない。そうしなければ「無条件だったー!」と救われることはない。

などと思いませんでしたか? 私は会員だった8年間、ずーっとこのように理解していました。そうでなければ話の落しどころがありませんでしたから。指示棒で横の線を右から左になぞっていき、縦の線を指して

ここが決勝点、ここがゴール、ここが卒業、ここで救われる、一念で救われる

と聴聞の度に見て聞いていたのと、自分も周囲も一向に救われていない様子から考えて、そのように理解するしか無かったのです。高森会長が正しいと信じる限り、

縦の線まで到達するには、横の線の道を進んでいくしかない

という考えに、また高森会長のその時々の話ぶりから

自分なんかまだまだ黒板の右端、もしかしたら横の線の軌道にも乗っていないかも知れない

という考えになることは必至でした。ですから、会員の誰一人として、現在から未来の信一念に至るであろうまでのトータルで考えると「無条件の救い」「一念の救い」とは到底思えないのではないかと思います。


勿論、このような「信一念とそれまでとを分ける教え」「信心獲得するためにどこかまで進む教え」は浄土真宗にはありません。あくまで高森教でしか言われない邪義です。そもそも浄土真宗とはどんな教えかと言うと、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。「教文類」

とあるように、往相と還相の二種類の回向です。「回向」とは、阿弥陀如来が、本願力をもってその功徳を衆生にふり向けられる、つまり恵み与えられることです。このことは『教行証文類』の略本である(『浄土文類聚鈔』【3】)にも

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。

と教えられています。ここから、「浄土真宗」=「本願力の回向」であることが分かります。「本願力の回向」の内、往相回向を教・行・信・証の四法で顕されたのが「教文類」「行文類」「信文類」「証文類」です。ちなみに、「証文類」には往生成仏の証果を開いた者が十方の衆生を救うためにこの世に還り来るすがた(還相)も説かれていますが、ここでは詳しく述べません。


さて、このように浄土真宗とは「本願力回向」の教えですが、それは言葉を代えれば

・私達の力は全く要せず、すべて阿弥陀仏の本願力を与えられて往生成仏する
・私達が本願を信じるのも、念仏を称えるのも、仏に成るのも、すべて本願力によってのこと


ということです。それは、真実四法の結論として

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」

と仰っていることからもお分かりかと思います。「如来の大悲回向の利益」とあるように、私達が本願を信じ念仏を申して仏に成るという一連の教行信証は、「すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益」なのです。往生の因も果も、聞法求道した対価として獲られるものではないし、また、聞法求道を阿弥陀仏が評価し、その功績を讃えて行者に与えるというものでもありません。繰り返しになりますが、「すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益」なのです。

ですから、浄土真宗には「本願力回向」を求める自力の道程、つまり未信の者が信心獲得するまでに通らねばならないと言っている道、親鸞会の図で言えば「横の線」に該当する教えは無いんです。それを高森会長が勝手にでっち上げて、ありもしない架空の道を教えて会員を通そうとしているだけなんです。

親鸞会のように私達が重ねて重ねて聞き続け、また推進される活動を求道と称してやり続けて、今いる地点から進んである地点まで到達した後に救われるというのと「本願力回向」とは、根本的に異なるのです。それは「本願力回向」ではなく、「自力回向」です。願で言えば、18願ではなく19願です。19願は平生に修諸功徳の善を修めた者を、その功績を評価して臨終に迎えに行こうという願ですから、構造的に19願に近いです。

阿弥陀仏は本願を成就され、「南無阿弥陀仏」と成って今現に私にはたらいています。「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と喚んでおられます。それを、これから将来どこかまで移動した先に聞くのではありません。只今、この場で聞くのです。こちらの方であれこれ計らったり、我が胸に持ち替えたりせずに、この「なんまんだぶ」の勅命をそのまま聞くのです。そのまま聞くのが信心です。あとは、後の世のことは阿弥陀さまにおまかせして安心です。このような身とさせて頂いたご恩を思えば「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏を申して、有難いことだ、かたじけないことだと報謝する人生を生きてゆくのです。


親鸞会は、「自力一杯求めたことのない者に自力無功と知らされる筈がありません」と「自力一杯の求道」を勧める「自力回向」的な集まりです。それを批判されて、会内では

他力になるまで他力を求める

などと詭弁を使っていますが、高森会長の説く教えが他力ではないので、会員は他力を求めていることにはなりません。また、他力を求めるのは当然自力ですから、他力を求めて他力になるなら自力が役に立つということです。「自力無功」の完全否定です。他力は私達が求めた結果獲られるのではなく、求めた功績を讃えて求めた人を救うのでもありません。「他力回向」ですから、阿弥陀仏より一方的に与えられるのです。それも、縦の線まで進んだ者に与えられるのではなく、只今この場で与えられるのです。「なんまんだぶ」と成って今現に私に届いているからです。その願力、はたらきをただお聞きし念仏するのみであるのに、逆らって

救われるのは縦の線のことで、そこまでは求道しなければならない

などと本願力を疑うのを「仏智疑惑」といい、これを「無明の闇」というのです。「闇に向いて走るものは滅ぶ」とか何とか言っていますが、実際闇に向いて走っているのが親鸞会会員と言えましょう。

本願力回向」の法を与えられず、獲信・往生と無関係、むしろ障害にしかならない活動を強いられる会員の皆さんは本当にお気の毒です。必堕無間と脅され、「絶対の幸福」というエサに釣られて、ありもしない信心を求めてありもしない道程を通ろうとしているのが自分であることに早く気付いて下さい。そして、親鸞会の「横の道を進む教え」、「信一念とそれまでとを分ける教え」とはきれいさっぱり決別して、只今この場で往生すべき身に定まる本物の浄土真宗を聞信して頂きたいと思います。



【参照】及び【参考文献】
『WikiArc』補註12 他力・本願力回向
『WikiArc』往相
『WikiArc』三法立題
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Abcです

こんばんわ、Abcです。
長期的な休みの方は、1/9から仕事に励まれるでしょうが、
淳心房さんはいかがお過ごしでしょう。「配達に休みなどない!」と
各々を巡っていらっしゃるのでしょうか。

さて、「横と縦の線のはなし」は仰るとおりで、「真宗にはございません」。

むしろそのように考えている人の事を「自力のもの」「疑情のもの」「こころあらん人(唯信抄文意 後述)」と申されておいでで、和讃には

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
  疑う罪の深きゆゑ 七宝の獄にぞ居ましむる

自力をつのりとしている人は皆 弥陀の本願(選択本願 18願)を信じていないので
  その疑う罪(疑情)がふかいので、 七宝(弥陀の国を形づくられているとされるもの)で作られた獄(オリ)にいるのだ

と詠まれています。

少し話はズレますが、高森さんは「観経」がお気に入りなようなので「観経(観無量寿経)」にて話を進めますと、その中に
称南無阿弥陀仏 称仏名故 [乃至] 讃言善男子 汝称仏名諸罪消滅」とあります。

このことからも分かるとおり、「称 南無阿弥陀仏」と言うのは紛れも無く『念仏』のことであり、ご覧の通りお勧めされています。もしこれに対して「念仏ないから信心ひとつ であるから『念仏』などない!!」と申されるのでしたら、それは蓮如や親鸞 七高僧 はもとより、釈迦のお金言にケチをつけるということになりますので、お気をつけ頂きたいところではあります。

私からは、「早く『弥陀をつのりとするなかま』となってほしい」と案ずることしか、できませんが どうかそのようになっていただきたいです。そのようなことを蓮如は「あはれあはれ、存命の内にみなみな信心決定あれかしと朝夕思い判べり」といわれているのです。「法話の前に会長が読まれているから云々」と申されるのでしたら同じく会長が言われた「念仏ないから云々」ということが詭弁であると知らされるでしょう。

なもあみだ なもあみだ

Abc

本願力

本願力回向のご信心を

「絶対の幸福」とか、「後生明るい心」「死んだ先がハッキリ分かった心」などと、まるでオカルトのように真宗を語る(騙る)のが、高森親鸞会かな(笑

御開山のおっしゃる「無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議」p.200 の真如法性を顕す語を、神秘主義の表現と誤解したのであろう。

本願力とは、本願の力用を示す語であり、本願のはたらきをいうのである。この本願のはたらきを、

 引く足も、称うる口も、拝む手も、弥陀願力の不思議なりけり

と先人は詠ったものである。
お寺へまいって説教を聞こうと足を運ぶことも、口になんまんだぶと称えることも、合掌礼拝する姿も、阿弥陀仏の願力がはたらいている相(すがた)である。弥陀願力の不思議なりけり、であった。

その意でいえば、
「人間怱々として衆務を営」む、
http://wikidharma.org/5a550cc2c1c8f

中で、淳心房さんがブログまで立ち上げて真実の浄土真宗を顕彰されているのも「本願力」のはたらいている証拠なのでした。ありがたいこっちゃな。

曇鸞大師は、本願成就を、

 願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E6%96%87%E9%A1%9E#P--198

と、示して下さいましたが、わたくしの口に、なんまんだぶと称えられている事実が、本願の成就したすがた(相)なのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2012/07/05/%e7%96%91%e3%81%b2%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%89%e3%82%82%e3%80%81%e5%bf%b5%e4%bb%8f%e3%81%99%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%80%81%e5%be%80%e7%94%9f%e3%81%99/






「OOしなければならない」は恐ろしい言葉

淳心房さま

今年もよろしくお願いします。
みなさまのコメントもいつもありがたく読ませて頂いております。

「OOしなければならない」と言った時点で「無条件」ではない。
「横の線を進まなければならない」と教えた時点で「弥陀の救い」ではない。

会員の皆さんには、この単純な矛盾に早く気がついてもらいたいです。

「ただいまの私」からかけ離れたところにゴールを設けるのは真宗の教えではありませんね。「OOしなければ救われない」とは、弥陀を泣かせる恐ろしい言葉です。


なまんだぶ、なまんだぶ。

Re:スナオさま

こんばんわ、Abcです。
なにか疑問に思われた時は積極的に質問していただけるとありがたいです。
それが「信心の沙汰」となり「真宗興隆の礎」となるのですから誠にありがたいことです。林遊さんがいわれているように「すべては弥陀のお計らい」でありますので、このように縁(えにし)をもたれる方が増えることは嬉しいとともに阿弥陀様のお徳を再確認させていただく契機とも感じられます。

さて、
>「OOしなければならない」と言った時点で「無条件」ではない。
>「OOしなければ救われない」とは、弥陀を泣かせる恐ろしい言葉です。

ですが、誠に仰るとおりであります。このように仰られる時点で「自力のモノサシ」を使っている『他力のなかの自力のもの』(横出の機)にほかなりません。

真宗に当てはめますと
「弥陀のおちからに依って、念仏させていただく」
「弥陀のおちからに依って、信心をいただく」
「弥陀のおちからに依って、真宗を聞かせていただく」
 ...
「弥陀のおちからに依って、講堂(弥陀の別号)に参詣し
 弥陀のおちからに依って、弥陀立像(名号 絵像もふくむ)の前に座し
 弥陀のおちからに依って、「なもあみだ(なんまんだぶ なまんだぶ)」と称えさせていただく(念仏させていただく)」 なのです。

ですから、スナオさんの言われる通り「自力に依って○○せねばならない」ということはこの真宗にはないのです。

それを親鸞は、
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。(「証文類」)

と仰られておいでです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

コメント返信

Abc様

先週末は5日から仕事始めの会社の荷物が集中してけっこうえぐかったです(*_*;
年始早々10倍界王拳を使う羽目になるとは思いませんでした(笑)

高森会長は最後の話まであの図を使って邪義を唱え続けるでしょうし、その後もあの図は親鸞会ではずっと語り継がれることでしょう。嶋田久義元講師の20通にも及ぶ手紙もことごとく無視ですし、私達の願いは残念ながら・・・。せめて騙されている方々の目が覚めればと思います。



林遊@なんまんだぶ様

>本願力回向のご信心を「絶対の幸福」とか、「後生明るい心」「死んだ先がハッキリ分かった心」などと、まるでオカルトのように真宗を語る(騙る)のが、高森親鸞会かな(笑
>御開山のおっしゃる「無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議」p.200 の真如法性を顕す語を、神秘主義の表現と誤解したのであろう。

いつもながら的確な表現でございます。最後は「不可説不可称不可思議の信心だ」と逃げて、とにかく組織拡大活動に会員を駆り立て、南無阿弥陀仏と何の関係があるのか訳の分からない信心を教えるのが高森会長です。

恐らく全て南無阿弥陀仏のおはたらきなのだろうなとも思うのですが、ブログは自分の意思で書いているので、例えば嶋田久義元講師のように「阿弥陀仏に書かされている」という境地には中々至らないです。どうしたらもっと判り易く、間違いなく本願力回向を伝えられるか阿弥陀さまに智慧をお貸し頂きたい、とは思いますがね。まぁ、そのような思いは阿弥陀さまによって起こさしめられているのでしょう。有難いことです、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



スナオ様

こちらこそ、宜しくお願い致します<(_ _)>
「横の線の道」云々時点で少なくとも18願、本願では無くなりますね。命ある内に皆さん気付いて頂きたいばかりです。

初めまして

突然 ぶしつけな事を、お伺いするのは どうかな? と 思いながらも

伺わずにおれない私を、お許しください。

淳心房様始め 皆様方は 次第相承の善智識の元で 弥陀の法に あわれた方々なのでしょうか?

私は、親鸞会様とは一切関係ございません。

又、こわくさい事を言って、皆様を論破してやれ!などと言う傲慢な事は微塵も考えてはおりません。

只々 純粋に 法にあわれた方々なのか 知りたいだけなのです。


Re: 蜘蛛の糸様

>次第相承の善智識の元で 弥陀の法に あわれた方々なのでしょうか?

他の皆様はどうか知りませんが、「次第相承の善智識の元で」というのが「親鸞聖人の教え、南無阿弥陀仏の六字のこころを説く方々から教えを受けて」という意味でしたら私はそうです。

よろしければ、何を目的にこのようなことを尋ねられたのか教えて下さい。

Re:蜘蛛の糸 さま

こんばんわ、Abcです。

ご質問ありがとうございます。私がお答えできるのはあくまで「私のこと」しかお話しすることしかできませんが、どうかご容赦いただきたいです。

>次第相承の善智識の元で 弥陀の法に あわれた方々なのでしょうか?

「善知識」の元かは存じませんが、私は「親鸞の著書」にてこの法に会わせていただきました。

私のところは、古くは真言宗の家柄で、「二上山 当麻寺」に属していました。(今では浄土宗奥院がこちらにございます。)

その「当麻」の名を山号に号したところがございます。それが「当麻山 無量光り寺」であり、こちらは時宗 一遍上人を祖とされるお寺です。

また「当麻寺」より、真言文化がもたらしたとされる「如来来迎の儀」を「万部おねり」として広められた寺院もございます。そのお寺は大阪にございます「大念仏寺」であり、融通念仏宗の本山としてその地にございます。

 話を私のところに戻しますと、古の時代 百済 聖明王より数々の仏教に関する品物をいただいております。その途中、倭国に入れる際に管理していたのが、「大内氏」であり、戦国時代まで周防国の守護をされていました。関東の家柄は、奈良時代に花洛に上じ、その後板東に赴かれたと聞き及んでおります。そしてその地にて越国よりこられた親鸞と出会われ、この真宗に遇われたと聞いております。

 時代は下りて室町時代になると、花の御所にて政権がとられるようになります。そして私のところも「大内氏」から「飛鳥井氏」へと相承せられました。「飛鳥井氏」は書道では名のある家柄で、「飛鳥井流」という書法をもたれております。

 さらに下りて戦国時代となり、足利氏が花洛より西国へ行かれると、「花の御所」の近くにございます「常盤井氏」に移ります。この「常盤井御殿」は、織田信長が上杉謙信に送られた「洛中洛外図」(山形県「上杉博物館」蔵 国宝)にも描かれています。 江戸時代は概ね「常盤井氏」の下で、「私の真宗」の基が築かれてゆきました。

 大政奉還の後、明治4年に私の派名を「専修寺派」より山号の名「高田派」に改名致すとともに、「本願寺の教え」も取り込んでいきました。とは申しても、教えは同じ「南無阿弥陀仏」ですので、「違う手法の教授の仕方」を目の当たりにしたに過ぎません。ただ、「親鸞」を「御同房・御同行の一人」と観ている私たちにとって、「御開山 祖師聖人」と観られている「本願寺の教え」をそのまま聞き過ごすことができないというのも悩ましい限りです。

 おろおろと、書き記して参りましたが つまるところ「私が聞き及んでいることは、 南無阿弥陀仏 でしかない」ということです。
 家柄は、大谷氏のみの「大谷派(東・西)」、親鸞のころよりの大内氏、飛鳥井氏、常盤井氏の「高田派」とございますが、「念仏成仏コレ真宗」のこころだけは、「弥陀の方より賜る信心」であるため一つも変わることはございません。

このようにご質問していただいた蜘蛛の糸さんに感謝するとともに、
この私まで「いのち と 教え」をつないで頂いた方がたに感謝して筆を下ろさせていただきます。

なもあみだ なもあみだ

Abc

訂正

連投申し訳ないです、Abcです

>当麻山 無量光り寺 では無く

当麻山 無量光寺 です。

文字の修正が利かないのはなんともならないですね。

念仏成仏これ真宗

ども林遊です。

Abcさん
仰りたいことはほぼ理解できるのですが、寺史などは初心者には解りにくいです。ですからリンクを用いることをお奨め。

WikiPedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E9%AB%98%E7%94%B0%E6%B4%BE

高田派専修寺
http://www.senjuji.or.jp/

親鸞と呼び捨てにする意図が判らなかったのですが、なるほど御同朋・御同行という視点から敬称を略されていたのですね。
ただ、仏教においては「聖(ひじり)」という字は特別の意味を持ちます。その意味では御開山は、法然聖人と記述されて法然上人とは呼ばれていません。

(108)
諸仏方便ときいたり
 源空ひじりとしめしつつ
 無上の信心をしへてぞ
 涅槃のかどをばひらきける

本願寺派では、浄土宗に倣って長年「法然上人」と記述してきたのですが、最近は御開山の用例に随って「法然聖人」と記述する方が増えているそうです。あたりまえなのですが。で、それならば御開山に順って『教行証』と呼称しろと思っていたりします(笑
なお、このブログでの投稿文の訂正は「編集」をクリックして投稿パスワードを入力すれば可能です。たぶんリロードをしていないから修正されたことが確認できないのかな。


蜘蛛の糸さん

方言から判断するに、たぶん富山の方だろうけど、「善知識」という言葉の意味をリンクしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98

「次第相承の善智識」という言葉は『領解文』にありますが、この場合の「次第相承の善知識」とは、主に本願寺の歴代の門主を指します。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A0%98%E8%A7%A3%E6%96%87

ちなみに林遊は越前の、馬鹿みたいになんまんだぶを称え、なんまんだぶを称えよという「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」道を示して下さった両親や同行が善知識です。で、暇なので「他力真実のむねをあかせるもろもろの正[聖]教」をひねくりまわしてますです(笑
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84#no12

御開山は、『無量寿経』の意を和讃され結論として、

(71)
念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%92%8C%E8%AE%83#no71
と、されておられますから、真宗は〔なんまんだぶ〕を称えて仏に成るご法義なのでした。これがアルファでオメガです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ





Re:淳心房様

こんばんは。蜘蛛の糸です。
御丁寧で詳しい返信を、ありがとうございます。
感謝いたします。
 ふとした機会で、親鸞会の方々と知り合いになりました。
それまでは高森氏は、がめつい事をしているけど 信者さんを法に合わてあげているなら それはそれで良いのかな?
位にしか考えていませんでした。
何気に親鸞会さんをネットで見てみると なんだか悲惨な感じでした。
信心深い知人が哀れに思われて 助かる道は、無いのかなと。
それを機に
あちこち見て回りまして、淳心房様のこちらに辿り着きました。
私は皆様方の様に、熱心に学ぶ方では(全く)無いので、凄い方々が居られるなと思い、もしや法にあわれた方かと知りたくなったのです。
申し訳ございません。

Re:Abc様

こんばんは。蜘蛛の糸です。

御丁寧な返信を、ありがとうございます。
感謝いたします。
二上山は霊山と、聞いた事がございます。

Abc様、まことに失礼致しました。
二上山へ行った時、当麻寺を、訪ねてみたいと思います。
【弥陀の方より賜る信心】有り難く、頂戴いたします。

有難う御座いました。

Re:林遊様

こんばんは。蜘蛛の糸です。
平生、方言ずらずらでも 人前で文を書く時は 多少気取って標準語を
使っているはずでしたが
これが本当のお里が知れる。でした。
どこでばれてしまったのか 読み返しても 暫くは、判らなかった事、お笑いくださいませ。
こわくさい、ですね。
赤面です。

林遊様が記して下さったリンクを 一つ一つ回って観たいと思います。

皆々様のお手を、煩わせてしまいました。
真に申し訳なく思います。
ありがとうございました。

コメント返信

こんばんわ、Abcです。

林遊さん

コメントありがとうございます。私たちは、「親鸞、弟子のひとりも持たず候」といわれていたり、「父母のために念仏申すべきにあらず」とみな「御同朋・御同行」とされておりますゆえ、こちらも「御同朋・御同行」、「ともに弥陀をたのむもの」として位置づけております。いずれにしましても、ご指導ありがとうございます。

蜘蛛の糸さん

>Abc様、まことに失礼致しました。
>二上山へ行った時、当麻寺を、訪ねてみたいと思います。
>【弥陀の方より賜る信心】有り難く、頂戴いたします。

丁寧な返信、ありがとうございます。
蜘蛛の糸さんが言われている「二上山」はどちらを言われているか少々分かりかねますが、もし富山伏木の方を言われているのでしたら、そちらではないのでそのことを伝えておきます。

余談ですが、七高僧の一人 源信僧都はこの二上山のご出身で、「横河法語」などの著作がございます。先コメントにも記しましたが、当麻寺は、「真言宗浄土宗」のお寺です。そのため、「親鸞」の名は見ることはできませんので先に伝えておきます。

ですが、浄土変相図である「当麻曼荼羅」は、ございます。 林遊さんの意見も取り入れ、リンクを貼っておきます。

当麻曼荼羅-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E9%BA%BB%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re:Abc様

Abc様

御指摘、有り難う御座います。
汗出ましたー。
すみません。仰る通り伏木の【ふたがみさん】を思ってました。
さっそくググってみましたら
奈良県と大阪府をまたぐ【にじょうざん】なのですね。
てっきり【ふたがみさん】だと思ってましたので、春になってから足を伸ばせば すぐ行けるな🎵などと考えておりました。
(汗)

Re: 蜘蛛の糸様

親鸞会の会員も、親鸞聖人のお言葉に触れ、朝晩正信偈を拝読し、阿弥陀仏に合掌・礼拝・念仏していますから、そういう点で法に遇っているとは言えます。しかし、間違った教えを信じ込まされ、本願真実の行信を誤っているという点からすれば「遇はざるがごとし」です。
会員だから救われない、会員ではないから救われるなどとは言えませんが、高森教を信心深く信仰しているようでは本願を信じ念仏して報土往生はかないませんから、知り合われた会員の方々にも教義の誤りを分かってもらいたいものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード