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念仏は行者のために非行・非善なり

『あなたの白道』お知らせ
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】嶋田さんが お浄土に旅立たれました。

を既に読まれた方も多いかと思いますが、1月9日に嶋田久義元講師が往生されたそうです。南無阿弥陀仏。私はそれほど嶋田元講師とご縁はありませんでしたが、お書き下された

『私の白道』

を読んだことが退会するきっかけの一つに、そしてやがて「南無阿弥陀仏」の六字のこころを知らされ、本願を信じ念仏する身になるきっかけになったことは間違いありません。それにしても、近藤智史元講師といい、梯實圓和上といい、増井悟朗先生といい、私を導いて下された方々がこうも早く往生されてしまうとは・・・。

嶋田元講師の意思を継ぐではないですけど、ご縁があった一人として、親鸞会教義の誤りと、南無阿弥陀仏の六字のこころをこれからも綴っていきたいです。



さて、親鸞聖人は念仏を「大行」と仰せられています。念仏とは口に「南無阿弥陀仏」と称することですが、これは3歳の子供でも「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と簡単に称えることができる極めて容易い行です。念仏よりも布施をしたり、戒律を守ったりする方がよほど難しく、また勝れた行に思えますが、どうして親鸞聖人は念仏を「大行」だと言われたのでしょうか。それについては、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
「行文類」大行釈

と、このように仰せです。ごく簡単に言うと、念仏は「往相の回向」であるからだというのです。念仏は阿弥陀仏が私達に施し与えて下さる阿弥陀仏の行だから「大行」というのだということです。念仏は私が称える私の行かと思っているかも知れないがそうではない。阿弥陀仏が称えさせている阿弥陀仏の行なんだ。阿弥陀仏の、「どうか私の名を称えてくれ」という願いが私に届いたすがたが、私の口から出ている「なんまんだぶ」なんだ。「そなたを間違いなく極楽へ連れてゆくぞ」の大悲がはたらいているすがたが、私の口を通して現れ出ている「なんまんだぶ」なんだと、こういうことです。

それでは、「往相の回向」である念仏はどういうもので、どういうはたらきがあるのかというのがそれ以降のお言葉です。念仏には阿弥陀仏が完成されたすべての善根功徳がおさまっています(もろもろの善法を摂し)。また、念仏はあらゆる功徳の根本としての徳を具えています(もろもろの徳本を具せり)。また、念仏は極めて速やかに往生成仏の因徳として行者の身に具わります(極速円満す)。また、念仏は仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実から現れたものです(真如一実の功徳宝海)。このようなことですから、称名念仏を「大行」と名付けるのだというのです。

この「大行」である念仏は、第17願より出てきた本願力回向の行です。第17願は諸仏が「称我名」、この阿弥陀の名を称讃し、称揚し、咨嗟する、つまり褒め称えるということですが、そうでなければ仏に成らないという願です。そのような阿弥陀仏の御名である「南無阿弥陀仏」を称えるというのは、十方のあらゆる諸仏が称讃し、称揚するのと徳を同じくする行であるというのです。であるから、称名は衆生の無明の闇、自力疑心を打ち破り、往生成仏の志願を満たして下さる「最勝真妙の正業」なのだということを、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と仰せられてあります。称名という行為自体は極めて簡単でありながら、最も勝れた、真実にして妙なる正定の行業であるというのです。そして、正定業とはすなわち念仏であり、念仏はすなわち南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏はすなわち正念、つまり信心であると結ばれています。元々

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

と、最初に「大行」と「大信」を一緒に教えられていることから分かるように、行と信は二つであって一つ、一つであって二つという不離の関係でした。それを分けて説けば、「大行」は「行文類」となり、「大信」は「信文類」となったのです。分けて説かれてあるけれども、念仏と信心と別々にあるんじゃないんだ。「南無阿弥陀仏」の他に信心も念仏も無いんだと、こういうことです。「南無阿弥陀仏」が心に届いた、映ったのが信心、それが口に出れば念仏で、体は一つです。この「南無阿弥陀仏」は、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という本願招喚の勅命でありますから、こうした本願の勅命を疑い無く信受して仰せの通り往生をおまかせしたのが信心、勅命を口に称えて仰ぎ聞いているのが念仏と、こういう言い方もできましょう。


念仏は私の口から出るものでありますが、実はそれは阿弥陀仏より回向された行であって、我が計らいの心をもって称える私の行ではありません。ですから『歎異抄』第八条には

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

と教えられています。これが、Abcさんがコメントを下さった「不回向の行」、また「自然法爾」の念仏ということです。浄土真宗はこのように阿弥陀仏が与えて下さった「南無阿弥陀仏」を称えるという行、「南無阿弥陀仏」におまかせして自力を離れた信によって、往生成仏という証を得る教えなのです。

私達が往生成仏という証を得る、もとい本願の行信を獲るに当たって、因果の道理を深く信じる必要もなければ、真実の自己とやらを知らされる必要もありません。後生に驚き立つ必要もなければ、地獄の釜底に堕ちるとか言う体験をする必要もありません。信仰とやらを進める必要もなければ、念仏以外の善に手出しして信仰が進む資糧を積む必要もありません。宿善を厚くする必要もなければ、煩悩と闘って求道する必要もありません。光とやらに向かう必要もなければ、横の線の道とやらを進む必要もありません。真実の教行信証は、阿弥陀仏が大悲の心をもって私達にお与えになる利益であって、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならないからです。このことを、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」

と聖人は仰せです。私達はただ、本願を仰いでそのままお順い、おまかせし、念仏申すだけです。逆に、念仏の他に我々がやるべきことがあるように考え、上に列記したようなことが必要だと思って、それらをやって救いを求めようというのを「仏智疑惑」「疑情」「無明の闇」というのです。


こうした「真実の教行信証」を知らず、「善をしなければ信仰は進みません」とかいう邪義にだまされて行に迷い信に惑っているのが今も残って活動している親鸞会の会員です。念仏を勧めると「称名正因の異安心だ!」とアレルギーの如く拒絶反応を示し、ありもしない信心を追い求め、ありもしない道程を通ろうとしているのが彼らのすがたです。しかし、念仏は元々阿弥陀仏が選んで「称えてくれ」と与えて下さったのであり、諸仏の勧めは勿論、親鸞聖人も当然勧められているわけで、念仏よりも活動に重きを置いているのは「教に昏くして真仮の門戸を知ら」ないのです。

そのようなことでは本願の行信を獲て念仏成仏などとは縁遠い世界を彷徨うことになりますから、会員の皆さんはどうか「真実の教行信証」を知って本願の御名を計らい無く聞き受けて頂きたいと思います。そして、阿弥陀仏の願いにかなった念仏の行者となって下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参考文献】
『安心問答』称名念仏は「私の行」ではなくて「阿弥陀仏の行」である・・・ということは、未信の人の称名念仏は「阿弥陀仏のお育て」であると理解すればよろしいですか?(もかなさんのコメント)
『WikiArc』称名破満の釈義
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Abcです

こんにちわ、Abcです。

>既に読まれた方も多いかと思いますが、1月9日に嶋田久義元講師が往生されたそうです。

さようですか...「生老病死」とは懇ろに聞き及んでおりますが...
  ただ、故人を前にしてこう申すのもどうかとは思いますが、

嶋田さんが
  「生かされて」『私の白道』を記されたこと
  「老いて」もなお、筆を置かれなかったこと
  「病」に伏されても、筆を執られていたこと
  「死」に遇われても、このように各々の心の中と
      『私の白道』という書物としてあること。

を鑑みて、「迷える衆生」に「生老病死」を伝えて下された、と私は受け取っております。ただ、このようにして「弥陀の御代官」がこの世を去るということは、残念であります。

 さて、

>最初に「大行」と「大信」を一緒に教えられていることから分かるように、行と信は二つであって一つ、一つであって二つという不離の関係でした。それを分けて説けば、「大行」は「行文類」となり、「大信」は「信文類」となったのです。分けて説かれてあるけれども、念仏と信心と別々にあるんじゃないんだ。「南無阿弥陀仏」の他に信心も念仏も無いんだと、こういうことです。

さようで御座います。「念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。」(持名抄 存覚上人)と申されており、ここである「専修」が「大行あり、大信あり」にあたります。

また、親鸞は、
「 四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

 いのち候はば、かならずかならずのぼらせたまふべし。

   五月二十八日 (花押)」

とも申されております。返す返す申してはおりますが、どうかこれを読まれて「なかま」となられていただきたい限りです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

報恩講を終えて

こんばんわ、Abcです。

今日、報恩講を無事終えて、帰路につきました。
これもまた、弥陀の御恩でありました。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

「報恩講」と申しますと、「11/27では?」と問われるかと存じます。
その問いかけは至極全うで、大谷の方では、
 旧暦1262年11月28日 の前日に執り行われます。
対して、私のところ高田では、
 新暦1263年1月16日 の前日に執り行われます。

この別院でも布教使の方が壇上(とはいってもホワイトボートの前でしたが)にたたれ、「この別院にくるまでの雪の多さ」から始まり、「この雪で足元が悪いにもかかわらず、ご参詣されたことに弥陀のおはたらきがあるのだよ」と前回、林遊さんがいわれていた、「全ては弥陀のおはたらき」ということをお話されておりました。

次に、「世尊我一心」(天親菩薩 願生偈)から始まる回向文をあげられ、
「お釈迦様は「帰命尽十方 無碍光如来」と「なもあみだ」のこころを説かれているのだよ」とありました。
 それから、「なもあみだ」というのは「文字としてのお力」(名号)と「称えさせていただくお力」(念仏)のお力があるのだよ。 と聞き及びました。

※割愛しましたが、「十字名号と『なもあみだ』という六字名号の簡単な説明」もございました。

 まことに有難いご縁であったとともに、私も同朋として「伝えねば!」と心新たに存じた次第ではあります。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Re: Abc様

親鸞聖人は、師・法然上人とのお別れに際し

  会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを

と、詠われました。そして、法然上人は

  別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ

と、詠まれたと伝えられています。

http://www.senjuji.or.jp/goshougai/goshougai12.phpより)


とあるように、諸行無常、会者定離と聞いていても、実際にその日を迎えると「まさか!?」と思ってしまいますね。ちなみに親鸞会のアニメで聞いた歌と上リンク先で紹介されている歌は異なっています。


親鸞会では、「他の仏・菩薩をも念じ」はしませんが、教義的に「余の一切の行業をもくはふる」教えです。実態はいつも書いているように善もどきの善、一新興宗教の組織拡大活動が主な行の内容で、「余の一切の行業」にすら入らない悪業です。「善をしなければ信仰は進みません」と言いながら悪に走っているのですから、進む道理が無いというものです。


報恩講は地域や派によって勤修される日が異なるようですね。私は11月28日に聖人が往生されたと聞いていましたので、その前後に執り行うのかと思っておりました。それにしても、「弥陀のおはたらき」「六字のこころ」がきちんと説かれているようで、親鸞会のデマ情報がこれでまた一つ明らかになりました。高森会長は話の度に

「本願寺は念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助けと説いて大衆を騙している」

などと会員を騙しておりますが、Abcさんは今までの法話でそんなことを聞いたことがありますか? 私よりもはるかにお寺の法話を聴聞されている方と思いますので、高田派だけでも構いません、教えていただけたら幸いです。

ご返信ありがとうございます

おはようございます、Abcです。

>「本願寺は念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助けと説いて大衆を騙している」などと会員を騙しておりますが、Abcさんは今までの法話でそんなことを聞いたことがありますか?

「念仏さえ称えておれば」とは申されますが、「念仏」という語句に重きを置いているのは、知恩院(浄土宗本山 『選択集』をうけて) と 私のところ高田派(「念仏高田」とも 『念仏正信偈』をうけて)だと私の範疇では受け取っておりますが...

正しくもうしますと、「本願寺は「信心」という語句に重きを置いている教団」といえます。ただ「信心」も「念仏」もご存知の通り「なむあみだぶつ」ですので、「切り込んでいく場所の違い」でしかないのです。

簡単にですが、私のわかる範囲で答えました。

Abc

真仮を知らざるによりて

御開山は、『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E5%A4%9A%E5%BF%B5%E8%A8%BC%E6%96%87#P--693

とされておられますが、本文リンク先の「称名破満の釈義」で示される疑無明と痴無明という概念は「絶対の幸福」という現世利益を説く高森教とは次元が異なる教義なのでした。
本物を知らないから偽物に迷うのですが、高森顕徹氏の猫の話を聴いているばかりで虎という、なんまんだぶの本物のご法義を知らない高森親鸞会の会員は可哀想ではある。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/18/%e7%9c%9f%e4%bb%ae%e3%82%92%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%96%e3%82%8b%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8a%e3%81%a6/


コメント返信

Abc様

>ただ「信心」も「念仏」もご存知の通り「なむあみだぶつ」です

そうですね。
高森会長は全ての真宗宗派を「本願寺」と一括りにして非難しているのですが、そうやって他を非難する前に、念仏と何の関係があるのかよく分からない信心を教え、成就文から念仏を抜き、それでいて念仏一行を勧めず助業や雑行を勧めるトンデモ邪義をまず改めよと言いたいですね。


林遊@なんまんだぶ様

本物を知らないのは痛いですね。一度「高森先生に間違いない信心」が出来上がると、高森教が本物だと固く信じ込み、本物を探そうともしなくなってしまうのも実に痛いところです。なんとか虎の御法義を知って頂きたいと思っています。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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