高森の教行信証(行編) - つつしんで高森の行を案ずれば、表裏の義あり。その表といふは聞法なり。その裏といふは聞邪義、弘宣邪義、献金、服従、助正間雑、雑行なり

高森教」のやり方は「絶対の幸福」という現世利益で聞く者を釣り、「絶対の幸福」を獲るにはと、ありもしない方法論を説いて聞く者を組織拡大活動に駆り立てるというものです。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。(『御文章』1帖目11通)

等のお言葉を挙げて「死んでゆく時は何もたよりにならない」と説き、

「難度海を度する大船」に乗れば「絶対の幸福」という幸せな人生にガラリと変わる。その時、「よくぞ人間に生まれたものぞ」と生命の大歓喜が起き、一切の苦労が報われるのだから、そこまで求めよ。無常は迅速であり、罪悪は深重、一息切れたら後生は一大事。仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむべからず。

などとアメとムチを使い分け、無常と罪悪でせめ立てて人集め金集めをさせるというものです。私も、この世の無常や我々の罪悪、死の問題の解決を説く団体なのだからと、金や物、性、名誉や地位などに関して執着しない、クリーンなイメージを勝手に抱いていました。が、実態はそうではなかったのです。

100%何から何まで噓では人を騙すことは難しいです。しかし、無常や罪悪、幸福は続かない、最後は死によって崩れ去るなど、「確かにそうだなぁ」と思わせる話から入りますと、聞く者はどうもその後の話も真実なのだろうと錯覚してしまう傾向があるように感じます。一部、上に挙げた蓮如上人のお言葉などの根拠を用いてくるので、特に世間や仏教に無知な人ほど引っ掛かる傾向が強いでしょう。

そして、やがて「必堕無間」の呪縛をかけられ、「高森信心」が形成されて、「絶対の幸福」を獲ようと親鸞会に金と人を運ぶ働き蜂、働きアリと化すのです。今も活動している会員は、一生懸命になっている

高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
親鸞会に財施すること
高森会長や上司の指示に無条件で従うこと

などの行為がまさか「真実の行信」を獲るために無関係、どころかそれにこだわる事自体が獲信・往生の障害にしかならないとは露ほども思っていないでしょう。これらが「真実の行」ではなく「高森の行」であると分かればマインドコントロールは解けたも同然です。


さて、高森会長は「高森の教」である映画『なぜ生きる』にて

聞く一つで大船に乗せる

つまり「聞く一つで絶対の幸福になれる」と教えています。ですから、親鸞会では唯一無二の善知識である

高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと

が一番大事なことになっています。

ところが、聞く一つとはあくまで表向きの「高森の行」です。ということは、そうです、裏の「高森の行」が存在するのです。実際、「聞く一つ」とは大ウソで、聞いたことを実践しなければ聞いたことにならないと言うのです。で、何を実践するかというと、

善因善果 悪因悪果 自因自果

の因果の道理を説き与え、因果の道理の結論である廃悪修善を実践せよ、とこう言うのです。

善をしなければ信仰は進みません
実行しなければ、善果の現れぬは、当然である

などと執拗に「善の勧め」を説いてきます。どうやら聞く一つと言っている高森会長の教えには、「阿弥陀仏の本願」の他に「因果の道理」があり、「因果の道理」の結論であるという「廃悪修善」があるようです。このように親鸞会の教えは二本立てですから、当然聞く一つにはならず、聞いたことを実践する、というもう一つの行が出てくるわけです。

ですから、親鸞会の教義上では大きく分けると

①「絶対の幸福」に助けるとかいう高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
②高森顕徹会長の説く「因果の道理」を聞いて「廃悪修善を実践する」こと


この二つが「高森の行」であると言えます。これら「高森の行」を修めて「絶対の幸福」を求めなさいということを、あるいは「光に向かって進め」と教え、あるいは「宿善を求めよ、厚くせよ」と教え、あるいは「白道を煩悩と闘って進め」と教え、あるいは「三願転入せよ」と教えているのです。

いつもの縦と横の線で言えば、縦の線が「」であり、そこが「信一念」であり、「決勝点」であり、「卒業」である。「「人生の目的」完成」であり、そこで「絶対の幸福」になる。そこまで進めと言い、横の線の道を指します。横の線の道を進む方法は先ほど示した通りです。そうやって「高森の行」を実践し、横の線の道を進んで縦の線に到達した者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。

また、「宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない」として、親鸞会では「宿善を求めよ、厚くせよ」と教えています。それに関して、聴聞は「聞法善」と言って善の一つに数え、「熱心な聞法」は最も宿善が厚くなる行為と位置付けています。朝晩の勤行は「五正行の実践」といい、次いで宿善が厚くなる行為と位置付けています。それ以外の善をすることは「六度万行の実践」といい、3番目に宿善が厚くなる行為と位置付けています。これら、「聞法」「五正行の実践」「六度万行の実践」という「高森の行」を実践し、薄かった宿善が段々厚くなり、やがて宿善開発した者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。

また、善導大師の二河白道の譬喩を高森流にアレンジし、白道の中間で三定死となりそこで弥陀の喚び声が聞こえるとして、そこまで「白道を煩悩と闘って進め」と教えています。水火二河に代表される貪欲や瞋恚などの内からの煩悩に負けず、そして旅人が白道を進むのを妨げようとする群賊・悪獣・悪知識の言葉に惑わされずに、ひたすら白道を西へ向かって進めというのです。白道を進む方法は先ほど示した通りです。そうやって「高森の行」を実践し、白道を進み中間の三定死に到達して弥陀の喚び声を聞いた者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。

また、親鸞聖人の三願転入の御文を高森流に解釈し、19願→20願→18願と進むという、弥陀の救いにあうまでの三願転入の道程は「万人共通の道程」だとして、19願や20願の実践を勧めています。特に19願を強調し、「修諸功徳」「定散二善」の文言を出して「善の勧め」を説きます。「因果の道理」を聞いて「廃悪修善」を実践していくと、善のでき難い「真実の自己」が知らされてくる。そんな自分が一息切れたら「後生は一大事」だと驚き立った者に、弥陀は19願を用意され、「善をしなさい、そうしたら助ける」と誓われている。そして誠心誠意「廃悪修善」に努めるが、やはり見えてくるのは悪しかできない自分。そんな者に弥陀は20願を用意され、「念仏を称えなさい、そうしたら助ける」と誓われている。そこで念仏に目が向き、20願へと進んで真剣に称えようと努める。ところが(真心からの)念仏も称えられない自分が知らされ、「地獄一定の自己」がハッキリする。そこで「そのまま救う」18願に転入し、救われる。大雑把に言うとこのような理論が「親鸞会流三願転入の教え」です。一つは「後生は一大事」だと驚き立つため、もう一つは「20願に進む」ために二重の「善の勧め」をし、先に示した「高森の行」を実践し、三願転入の道程を進んで18願に転入した者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。


このように、切り口を変えては「高森の行」を勧める親鸞会ですが、「六度万行」、19願の「修諸功徳」、『観経』の「定散二善」等いわゆる「諸善万行」はいずれも報土の真因ではありません。またそれらを修める際の信心はそれぞれ行ずる者によって異なる自力の信心であり、利他の一心、他力の信心ではありません。(※)

廃悪修善の実践」「六度万行の実践」といっても、それらは「雑行」です。真宗に「雑行」の勧めはありません。なぜなら、阿弥陀仏の光明は「雑行」という自力の行をまじえるものを照らし摂めることはないからです。(※)

五正行の実践」も、行は殊勝ではあるけれども、それでは「助正間雑」であり、「なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし」(「行文類」)と念仏一行を「真実の行」だと教えられた親鸞聖人に反します。なお、朝晩の勤行は「五正行の実践」とは言いません。勤行は聴聞であり、御恩報謝です。(※)五正行の実践」をしているつもりの会員は、助正間雑し、定散心雑するがゆゑに迷いの世界を離れることがないのです。(※)

このような「雑行」、「助正間雑」を勧める高森顕徹会長には、当然「念仏一行」の勧めなどありません。また、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も正しく説きません。唯一無二の善知識はおろか、とんでもない「悪知識」であります。そんな者の話を聞くことを「聴聞」「聞法」とは言わず、「聞邪義」とでも言うべきです。そんな者の説く教えを弘め伝えることを「顕正」「法施」とは言わず、「弘宣邪義」とでも言うべきです。そんな者が会長を務める団体に献金することは「布施」でも「財施」でもなくただの「献金」であり、そんな者やそんな者を崇拝する上司の指示に無条件で従うことは「諸善」でも「万行」でもなくただの「服従」なのです。このようなことですから、いくら「高森の教」を学び「高森の行」を修めても「真実の行信」を獲て報土往生することは無いのであります。

悲しいことに親鸞会の会員は、「六度万行」「修諸功徳」「定散二善」といっても名ばかりの悪業悪行を勧められ、これを修めています。朝晩の勤行として「助正間雑」を勧められ、これを修めています。聴聞といっても、悪知識からの邪義を聞いて信じているだけです。実態は「聞邪義」「弘宣邪義」「献金」「服従」です。このもろもろの悪業悪行を修めて無量光明土に生まれようとしても、絶対にできません。それどころか、悪業をもっての故に悪道に堕するのが高森会長の説く因果の道理の必然です。


以上、「高森の行」を顕し終わりました。これを前回になぞって古文調で書きますと、

つつしんで高森の行を案ずれば、表裏の義あり。その表といふは聞法なり。その裏といふは聞邪義、弘宣邪義、献金、服従、助正間雑、雑行なり。 ・・・ 故に知りぬ。真実の行に非ざるといふことを。

といったところでしょう。「高森の行」に執心してこれを修める者が「真実の信」を獲て「真実の証」を開くなど絶対にできないことがよくお判りになったと思います。会員の皆さんは、一刻も早くこのような邪義から離れ、「真宗の教行証」を敬信して、ことに如来の恩徳の深いことを知らされて頂きたいと思います。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

雪ヤヴァイです。いよいよ、北陸自動車道が、通行止めになりました。

>①「絶対の幸福」に助けるとかいう高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと

「高森教」は「真剣に高森の話を聞け!」の集まりですから。
ですが、このようにしてコメントしているのは、高森さんが相変わらず
「浄土真宗」や「親鸞」という語を降ろさないからです。

>②高森顕徹会長の説く「因果の道理」を聞いて「廃悪修善を実践する」こと

「因果の道理」「六度萬行」は、「自力」ですので、「18願を疑う情け(こころ)」つまり「疑情」でしかありません。『和讃』には、

不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし

弥陀がつくられ勧められている「不退の位(正定聚)」を
速やかに得ようと思う人は
 恭敬の心(弥陀六字のこころ)に執持して(強くもって)
 弥陀の名号を称えなさい(念仏を称えなさい 称南無阿弥陀仏しなさい)

とあります。

一方で高森さんは、「疑情のまま、自力いっぱいで」といわれているので、
「弥陀を信じよとは口が裂けてもいってはならない」といわれるのです。
このことから考えると「五正行の実践」とは言われていますが、
「観察正行」には「絵像・木像が」といわれ
「読誦正行」は「自力の足がかり」といわれ
「礼拝正行」は「弥陀でなくワシに無条件降伏だ!」といわれ
「称名正行」は「念仏ないから、信心ひとつ」といいながら「口が裂けても云々」といわれ
「讃嘆供養正行」は「仏法のためにつかいます」と言う名目で「財施しましょう」といわれる始末です。

よって、「五正行の実践」は「弥陀の説かれた正行」ではなく「高森が説かれた正行」の「実践」なのです。

>悲しいことに親鸞会の会員は、「六度万行」「修諸功徳」「定散二善」といっても名ばかりの悪業悪行を勧められ、これを修めています。[乃至]それどころか、悪業をもっての故に悪道に堕するのが高森会長の説く因果の道理の必然です。(淳心房さん)

これで「「悪業をもっての故に悪道に堕する」ことを高森会長は「必堕無間」といわれているのだ!!」と言うのでしょうから、どうしようもないです。

会員たちは早くこの悪智識から離れていただきたいです。

Abc

Re: Abc様

特に福井県がすごいらしいですね・・・37年ぶりの大雪とか・・・こちらとしては何もできませんが、無事に過ごして頂くことを祈るばかりです。

親鸞聖人の勧めは、御和讃にも示されているように「真実の信心で念仏しなさい」これ一つですね。そして信心を獲るのに方法論はなく、ただ南無阿弥陀仏、「必ず助けるから安心してまかせなさい」という本願の仰せを聞き受けてお念仏申し上げるよりありません。

にもかかわらず、ありもしない方法論を説き与え、ありもしない獲信までの道程を設けて、ありもしない信心を求めさせて会員を騙し続ける高森会長は本当に許せません。私もあのまま親鸞会に居続けていたらどうなっていたことか・・・。高森さんが相変わらず「浄土真宗」や「親鸞」という語を降ろさないので、私も批判し続けたいと思っています。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ガラリと変わった

親鸞会はカルトの中に真実を織り込んでいるのが厄介です。
私の頭の中にある教義は、84年から01年にかけてのものであり、内容は嶋田講師の「あなたの白路」の第2章に書かれている内容そのものなのですよ。
後生の一大事と絶対の幸福については相変わらずだとはおもいますが。
三願転入だ、ドメインだと言い出して、退会者が続出し始めた10年頃を境にガラリと変わってしまったのでしょうか?高森先生の性格もガラリと変わった様に思えます。それまで強く抑制していた人がいなくなり、本性がむき出しになっただけなのでしょうか? 単に昔から上手く騙してきただけなのでしょうか? もう かれこれ10年位前から2000丈での御法話には一度も出た事がないので真相はよく分かりません。嶋田講師と淳心房さんが指摘している事は実にごもっともな事だと思います。表と裏の顔があります。

訂正します

失礼しました。訂正します。
昔の親鸞会は、もっとカルト色が強く、聖道門に凝り固まっていました。
違うのは、後生の一大事を前面に出し、その解決が仏教だと強調してました。
「あなたの白路」の第二章に書いてある内容の話でした。
よほど仏縁のある人が集まり、絶対服従だとそれは厳しくピリピリと恐ろしい雰囲気がいつも漂い、あちこちで指摘の嵐が巻き起こり、逃げ出したい気持ちで一杯でしたが、後生の一大事という言葉がいつもあり、雁字搦めで従うしかなかったというのが昔の親鸞会でした。
小杉に本部が移ってからは、急に優しく親切になり、より多くの人が軽い気持ちで集まれる様に恐ろしく甘くなり、それが不気味で堪りませんでした。またいつか虎の本性を出して噛み殺されるぞと内心冷や冷やしてました。最近は絶対の幸福が強調されて本当の聞く目的が曖昧になっていると思います。
「あなたの白道」を読み返してふと初心にかえり仏教を聞く目的を思い出しました。昔は正しい事を説いていたと思わせるコメントでした。そこには裏の顔が隠れていました。

No title

昔から間違っていましたけどね。
本願寺との宿善論争をお忘れか?
善の勧めバリバリで、どこが正しいの?

Re: 金星人様

私の中ではガラリと変わったようには思いませんが、少しずつ変化してはいると思います。

三願転入は、宿善よりも強力に「善の勧め」を徹底する根拠として、突如35周年大会に言い出しただけです。聞法ドメインの目的は、蓮如上人時代の多屋を真似る意味と、ハコモノ建設の募財の両面があると見ています。

高森会長が変わったように思うのには、深松最高顧問等もお亡くなりになり、諫言する者がいなくなったのもあると思いますね。講師部員は無条件服従ですから誰も諫める者がなく、そういう状態になったら、たとえ信心を獲ていても煩悩具足の凡夫ですからやりたい放題になるのも道理です。その点を高森会長はよく私達に教えてくれています。

『会報』は大沼法竜師や伊藤康善師の著書のパクリがほとんどですから、パクリ文章のままなら正しいことが書いてあっても不思議ではありません。これに高森教や創価の思想を混ぜていき、徐々に真実味が無くなっていき、現在はほぼ高森教となってしまったのであろうと思います。昔は正しかったのではなく、昔から間違っていたが、今はその間違いがより顕著だと言うべきでしょう。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>昔から間違っていましたけどね。
>本願寺との宿善論争をお忘れか?
>善の勧めバリバリで、どこが正しいの?
(suさん)


そうですね、「私の知る限りでは」間違っています。
「本願寺との宿善論争」は『本願寺、なぜ答えぬ』に書いてあると思われますが
私が属していた期間内での情報では、「本願寺との宿善論争」は知らされていませんでした。ただ、ブログ「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」の山も山さんが「私が親鸞会を除名となってから10年になります」といってるところを観ますと、2008年辺りに「なにか大きなこと」があったのかなとは思われます。

元来、真宗では「ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄 後序)と言われている通り「南無阿弥陀仏と称えること(称南無阿弥陀仏)」のみ「善のすすめ」といわれているのです。ですから、高森さんが言われている「六度万行」も「高森式五正行の実践」も「廃悪修善」もみな「雑行、雑修、自力のこころ」でしかないのです。

「廃悪修善」に関して申し上げますと、弥陀が「われひとり助けん」という超世の悲願を建てるために法蔵菩薩となられ(従果降因)、「八万四千の法門」を選び捨てられ(弥陀による廃悪)、「称南無阿弥陀仏」のみを善とされ(弥陀による修善)それを七高僧たちが「易行道」(龍樹菩薩)、「浄土門」(天親菩薩、曇鸞大師、善導禅師、道綽禅師、源信僧都)また「選択本願」(源空聖人)と申され親鸞は「無碍の一道」と申されるのです。

ここからは余談ですが、「遊行念仏」といわれる「時宗」では、あった人に「南無阿弥陀仏」と書いた紙を渡すそうです。(このことを遊行賦算といわれるそうです。)

原文:夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。[乃至]またかくのごとく愚老の申す事も意得にくゝ候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏したまふべし。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。

訳文:念仏の行者で一番心に留めておくべきことは、南無阿弥陀仏ととなえるほかに何もないのである。昔から今日まで立派な人たちが定められた仏法の要義も、しょせんはかりそめのもので、真の念仏の行者は、そんなものは皆捨ててしまえばいいのである。[乃至]もしわたしの言うことに納得いかないなら、それもそのままにして(本願に任せて)念仏を申しなさい。肝心なことは、愚かな者の心になって念仏を申すことである。(『一遍上人語録 捨て果てて』坂村真民 より)

(引用元:http://www.muryoukouji.or.jp/founder.html

私事とはなりますが、私の宗派「真宗高田派」は、「念仏高田」の二つ名があり、寺号である「専修寺」は「専修念仏の寺」という意味合いで命名されました。この「専修寺」の名前をもたれていた寺としましては「真宗浄興寺派」の「浄興寺」、「真宗出雲路派」の「毫摂寺」などがあります。

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。(歎異抄 六)

このことから「ただ念仏のみぞまことにておはします」ということは
「専修念仏(専修正行)のみぞまことであります」という意味合いとなり
「第四の正因」のことより「称名念仏のみぞまこと」とも見ることができます。

ですから、「善のすすめ」は「ただ念仏」であり「念仏一行」となります。

なもあみだ なもあみだ

Abc

真相の解明

真実の自己を知る事と、三世因果の道理により、後生に大変な一大事がある。その原因と解決を教えたのが仏教だ。自力では絶対に解決できる問題ではないので、全ての人を必ず助けるという阿弥陀仏の本願を聞くしかない。
ここまでは正しい教えであり、聞くきっかけとなりました。
次に方法として宿善を厚くせよ。善知識の聴聞をせよ、お勤めせよ、善をせよ。というのが親鸞会の教義であり、それが間違っていたので本願寺に指摘されて論争になった。善知識に服従せよがカルトという事ですか。
08年頃に教行信証と違うと質問する学生が現れて、黙れ黙れ事件があった。その頃よりネットで教義の間違いを指摘する人や退会者が多くなった。
35周年で三願転入だと更に諸善をすすめ、箱物など手を出して、最近は絶対の幸福を連呼するようになり、幸福の科学を意識した新興宗教に成り下がった。
親鸞会は正しい高森先生は善知識だと信じ込んだ会員は、騙されている自覚がなくどこどこまでも付いて行く。    ざっと要約するとこういう事ですか。
私は自分の体験に合わせて三願転入をいい様に解釈してました。
聞く切っ掛けは正しかった。聴き始めは本願を軽くみて、自分の聞法善で聞けると思い真剣に聴聞しました。絶対に聞かない逆法の屍の心があり、この心が聞かないと、と弥陀の本願を念じて聞き求めました。聞く心も信じる心も助かりたいという心も出離の縁が何もない、いくら聴聞しても流転輪廻から離れられないと廻心した時に、そのまま助ける本願だぞと聞く事ができました。調熟の光明に育てられて、摂取の光明に救われる道程が三願転入なんだと解釈していました。
仏願の生起本末が説かれてなければ、一心に弥陀を念じて本願を聞く事ができません。絶対の幸福という現世利益の理想を追い求める宗教は仏教とは違います。親鸞会は原点に戻りようがないところまでいっちゃったという事ですか?それはとても悲しい現実だと思います。離れた場所から冷静に見極めたいと思います。

No title

>真実の自己を知る事と、三世因果の道理により、後生に大変な一大事がある。その原因と解決を教えたのが仏教だ。

ここから間違っています。
真実の自己、三世因果の道理、後生に一大事があるとか、親鸞聖人はどこに仰っていますか?
親鸞聖人は仰っていないのですね。
聖道門の修行ができないから出離などできると思ってもいない、そんな者を出離させ往生させると誓われたのが阿弥陀仏の本願だとしか教えられていませんね。

蓮如上人はいろいろな言い方をされていますが、こんな勧められ方もされています。

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

人間界の一時の楽しみではなく後生は永生の楽果だから浄土往生をとげようと思いなさいと。

脅しは真宗ではなくカルト。

真相の解明よりも

金星人(火星人)さん。高森会の真相の解明よりも、我が身が騙されていたことに気づいて間違った道を歩んでいたと自覚して、浄土真宗の教えを今聞いて救われてください。ええ!また振り出しに戻るのか〜イチから頑張るのか〜ではなくて、私はなんの用も要らずです。阿弥陀様がすでご苦労されて全てご用意していますので、今聞いて救われるのです。へんな体験に固執してはダメですよ。体験を無理やり教えにあわそうとしてもダメですよ。あなたの体験は回心も懺悔も念仏も無かったではないですか。精神的に追い詰めるとたまに不思議な体験が、誰でも真宗以外でも起こりうるのですよ。脳がみせてくれた煩悩のせいですね。高森も18才の時の不思議体験に固執して真実信心と思っちゃて今に至るのです。爺さんお念仏言わないでしょ。爺さんの一人舞台に長々と付き合ってシマッタのが私や金星人さんですよ。後生の一大事、因果の道理。皆高森流の解釈で最初から出鱈目ですよ。もう辞めてお念仏称えてください。

真相の解明の解明

こんばんわ、Abcです。

金星人さんのコメントの突っ込みをしていきたいと思います。

>真実の自己を知る事と、三世因果の道理により、後生に大変な一大事がある。その原因と解決を教えたのが仏教だ。

「仏教」には、「聖道門」と「浄土門」の二門あり、「仏教だ。」といわれましてもごっちゃになっていたらどうしようもありません。「後生の一大事をこころにかけて念仏もうすべきものなり」と言われているように「お念仏一つ」なのです。

>自力では絶対に解決できる問題ではないので、全ての人を必ず助けるという阿弥陀仏の本願を聞くしかない。

仰るとおりで、「すべて弥陀のおん計らいなれば、よき人「義なきをもって義とす」とは仰せごとにて候なり」ともいわれています。すべて弥陀にまかせて「お念仏申す」のであります。


>次に方法として宿善を厚くせよ。善知識の聴聞をせよ、お勤めせよ、善をせよ。というのが親鸞会の教義であり、それが間違っていたので本願寺に指摘されて論争になった。善知識に服従せよがカルトという事ですか。

宿善は厚くするものでも薄くするものでもありません。「お念仏に出会われる縁(えにし)」のことを「宿善」と言われているのです。「聴聞」ともうしましてもすこし前に書いたように「南無阿弥陀仏の外の安心なきなり」なので「ただ念仏のみぞまこと」なのです。親鸞がかかれたものを「お勤め」することによって「弥陀も親鸞も側にいるぞ」と私たちに伝えてくださっているのです。「建立無上殊勝願」(正信偈)とあるように「弥陀がつくられ、私たちが別途なにかせねばならない」というわけではないのです。「帰命無量寿如来」、「南無不可思議光」、「帰命無碍光如来」と『名号』が私たちを助けてくださるのですから、「円満徳号勧専称」とあるように「専ら名号を称えることを勧める」なのです。善は「弥陀の名号称ずべし」一つでありますから、「お念仏を称える」となります。

>08年頃に教行信証と違うと質問する学生が現れて、黙れ黙れ事件があった。その頃よりネットで教義の間違いを指摘する人や退会者が多くなった。

「間違いは間違いである」ということはとても大切です。権力に屈して「付和雷同」となっていてはよくはありません。

>35周年で三願転入だと更に諸善をすすめ、箱物など手を出して、最近は絶対の幸福を連呼するようになり、幸福の科学を意識した新興宗教に成り下がった。
親鸞会は正しい高森先生は善知識だと信じ込んだ会員は、騙されている自覚がなくどこどこまでも付いて行く。

親鸞は「三願転入」については化身土巻に触れる程度で記されておりその他の巻では「念仏」についてとかれています。なぜならば18願は「念仏成仏の願」だからです。

こんなところでしょうか。つまるところ、「お念仏称えてください」と言うことに収まります。 なもあみだ、なもあみだ

弥陀初会の聖衆は
 算数のおよぶことぞなき
 浄土をねがはんひとはみな
 広大会を帰命せよ (浄土和讃)

ここに記されている「広大会を帰命せよ」つまり「帰命広大会仏」もまた
「帰命無量寿如来」であり「南無阿弥陀仏(なもあみだ なんまんだぶ)」なのです。

Abc

Re: 金星人様

真実の自己を知れとか、三世因果の道理により、後生に大変な一大事があるとか、そのようなことは親鸞聖人は教えられていません。

私達は決して迷いの世界を出られない者で、そこから出離して報土往生するには如来回向の真実の教行信証に依るしかない。

ごく簡単にいうと浄土真宗とはこのような教えです。


ちなみに、高森会長が華光会時代にした体験とは、このようなものだと言われています。

↓↓↓

何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。

求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々

これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏

今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。

【華光会発行『華光』第5巻第5号「私の信仰体験」】

http://nazeyame.shinrankai.biz/gyakushin.html
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏の獲信体験

金星人さんのされた体験とはずいぶん違うようです。

Re: 金星人様

また、「後生の一大事」については

http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-52.html
『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事

を参照してください。

Re: 金星人様

金星人さんがどのような体験をされたか、その体験を否定はしませんが、体験をたのみにしてそこに教えを合わせようとする考えは間違っています。それこそ高森会長の言う「体験至上主義」でしょう。信心決定とは体験ではなく、南無阿弥陀仏のすがたを心得たこと、往生には念仏一つと定まったことを言います。それは過去の事でも未来の事でもなく、現在只今の事です。

私には金星人さんが真実の行信を獲ているかどうかは分かりませんが、不思議体験は、他宗教の信者、はたまた無宗教の信者にもあるもので、過去にどんな体験をしたかなど全く当てになりません。迷いの世界を出離するにはただ念仏して弥陀にたすけれまいらすべしとよき人の仰せをかぶりて信ずるほかにありません。どうぞ「必ず助けるから安心してまかせなさい」という本願の仰せをそのまま聞き受けてお念仏申して頂きたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

金星人さんへ

金星人さんは、TENさんのブログには、素晴らしいですねよくわかりました。と書き込まれてましたね。私は本当にわかったのかな?と思った矢先に、こちらに相変わらずのヘンテコな書き込み。
しかし他力信心に生かされたAbcさん淳心房さんは、同じことを書かれますね。ブログを渡り歩いて、そこで知った聞いたものをパクって自己の信心の補強材にしたところで、土台から曲がってますので真実の信心にはならないですよ。高森会長も、大沼師や伊藤師の言葉をまるっと、パクっても真実の信心でないのでボロがでました。同じ構図となってますよ。親鸞会側の火星人から、脱会者よりになったという金星人さんは、名前を変えても本質変わってないですね。私が頑張ってどうにかするのでなく、阿弥陀様が私にかける願いを聞き受けて念仏申してください。

Abcです

おはようございます、Abcです。

チュウビさん

「真宗の相(すがた) これ南無阿弥陀仏なり」でありますから、
このようになるのは、チュウビさんも理解されていることだとおもいます。

後半は、親鸞が記され「おつとめ」とされている「正信念仏偈(正信偈)」から抜き出すことに依り、「金星人さんに少しでも分かっていただけたら」と記させていただきました。 なもあみだ なもあみだ

チュウビさん含め他の方がた(特に金星人さん)

ここまで、「文による説明」を心がけてきましたが、なにぶん長くなりますので
切り口を変えて「箇条書き」で記したいと思います。

「善の勧め」:真宗における「善の勧め」は「万善万行の南無阿弥陀仏を称えること」であり、親鸞は「弥陀の名号称ずべし」(龍樹菩薩抄 六番) 「ただ念仏のみぞまこと」(歎異抄 後序)「「弥陀に任せなさい」といわれる高僧たちの説を信じなさい」(「唯可信斯高僧説」の意訳 正信偈 文類偈) などと言われています。


「因果の道理」:
自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり
(共に『正像末和讃』 より)

このようにあるように本来わたしたちは「私たちが作る業」によって地獄にいくのを、弥陀は「われ一人助けん」と誓われているのです。にもかかわらず「自力のほうが他力よりも勝る」と考える人間の「傲慢さ」によって私たちは「迷える衆生」となっているのです。ですから法然は「捨てようとするこころを捨てよ!!」といわれているのです。

「廃悪修善」:先ほども申したように「弥陀による廃悪」、「弥陀による修善」と「すべて弥陀のお働き」であり、それで「われ一人助けん!!」と仰られているのです。

弥陀による廃悪:「八万四千の法門」といわれる「諸々の自力による修行」
弥陀による修善:「ただ吾に任せん」という「南無阿弥陀仏」というこころ(信心)。
また、それを称える「称名念仏の正因」という「念仏」。

善のでき難い「真実の自己」が知らされてくる。 :

 知らされません、「オレはここまで出来る」という「傲慢さ」を生むだけです。


そんな自分が一息切れたら「後生は一大事」 :

 ですから、「われひとり助けん!」と仰られている弥陀に帰命していただきたく思います。

なもあみだ なもあみだ

Abc

助言に感謝

沢山の助言を頂きありがとうございました。
仏教を聞く切っ掛けが、未来に対して漠然とした暗い心にありました。
後生の一大事という言葉が引っかかり、つなぎとめました。
阿弥陀仏の本願の話をいくら聞いても、心は聖道門の機でありました。
もともと禅宗なので、座禅をする感覚で聴聞し、修行の一つとして求道しました。
浄土真宗の教えは淳心房さん達の仰られる様に、念仏一行の教えです。
親鸞会でいくら聞いても念仏一行の真宗の教えは分かりませんでした。(もともと説かれてなかったという事ですから)
しかし、確実に弥陀の調熟の光明に照らされて育てられたのは確かです。
助かる縁が全くないと、弥陀の本願に全てを打ち負かす事が出来たのは、高森先生からお門違いだと見捨てられたからであります。
聖人が言われる様に、遠回りしたのかも知れませんが、親鸞会で聞き求めた事が全くの無駄事ではなかったので、この様に皆様から批難の嵐になるのは確実なコメントを書き続けました。
弥陀の本願力は機に応じて常に平等に働いております。体験は人それぞれであり、仏願の生起本末を素直に聞ける人もあれば、私の様に方便の邪宗に迷わねば聞く事が出来なかった人もおりました。
当然、只今救われる正しい浄土真宗の教えを明確にして、親鸞会の間違いを正していく事は重要な事であり、淳心房さんのブログに出会えた事に大変感謝しています。これからも正しい真宗の教えを顕かにして頂きたいと思います。

Abcさん有難う御座います

Abcさん、いつも有難う御座います。いつも勉強させていただいてます。私にお声がけしていただいたついでなのですが、
専修寺の(お寺のお名前良いですねぇ)一光三尊仏は、親鸞聖人が善光寺よりいただいて直拝されたという話に、感動しました。ご存知のように親鸞会では、名号本尊のみ!他は認めない!どころか気持ち悪い!とまで言い出す始末でしたから、私も当然そのように洗脳されてました。Abcさんには当然当たり前普通のことでしょうが、私はそんなことも知らず恥じるばかりです。今後とも宜しく教えてください。

Re: チュウビさん

こんばんわ、Abcです。

>専修寺の(お寺のお名前良いですねぇ)一光三尊仏は、親鸞聖人が善光寺よりいただいて直拝されたという話に、感動しました。ご存知のように親鸞会では、名号本尊のみ!他は認めない!どころか気持ち悪い!とまで言い出す始末でしたから、私も当然そのように洗脳されてました。

ご返信ありがとうございます。一光三尊弥陀如来像のお話しが出ましたので「報恩講御書 第五通」を書き込んでおきます。よろしければご一読ください。

「報恩講御書 第五通」
抑、親鸞聖人者俗姓ハ藤原氏前皇太后宮大進有範ノ息男ナリ。
人王八拾代高倉院御宇承安参歳ニ誕生ス。
幼(イトケナフ)シテ伯父範綱卿ノ学窓ニアリテ俗典ヲ切磋シ
九歳ニシテ出家シ慈鎮和尚(慈円)ヲ師範トシテ二十歳諸宗ヲヒロク修学ス。
シカレドモ末代ノ衆生ニイ於イテソノ教エカナヒガタシ。
カルガユエニ吉水ノ禅室ヲタヅ子テ真門ニイリ同年救世菩薩ノ霊夢ヲ蒙リ三拾三歳ニシテ選択ヲ相伝シ宗義ヲ相承ス。
シカルニ空聖人流刑ノキザミ鸞師三拾五歳ニシテ都ヲ出デヽ越後国府ニ左選セラレ五歳ノ居諸ヲ経。
岡崎中納言範光卿ヲ以テ勅免ヲ蒙レリ。シカレドモナホカシコニ化ヲホドコサンガタメニ東関ノ修行ヲ企。
五旬余歳ニシテ一代蔵ヲヒラキ経律論釈ノ要文ヲヌキンデ教行信証マタ諸経要文等ヲ撰集ス。
総ジテ製作ヲイハヾ百余巻ニ及ベリ。五旬四歳ニシテ後堀河院御宇嘉禄弐歳(1226年)ニ下野国芳賀郡高田(現:茨城県真岡市高田)ト言トコロニ専修寺ヲ建立シタマフニ善光寺ノ如来一体分身シテ聖人ニ身ヲアタヘタマフトアル霊夢ヲ蒙リスナハチ信州ニイタリ果シテ一光三尊ノ如来ヲ感得ス。
イマノ本尊コレナリ。  [云々]

上の文は原文であり、漢字とカタカナで書かれていますが大筋は理解できるかと思います。今後ともよろしくお願いします。

Abc

Re: チュウビさん

連投申し訳ございません、Abcです。

この文は、大谷には存在してはおりませんが「御俗姓御文」がこれに当たります。

「範宴少納言君」とございますが、正確には「範綱(有範)」の「範」
「慈鎮和尚(慈円)」の「円」からそれぞれとられたものでありますので
「範円」と考えられます。「範宴」は「伝えられていくうちに『同じ読みの文字』を代用しそれが定着化して行ったのでは」と考えられます。

また、源空聖人の室(吉水入室)には前に「綽空」と改めておりますが、
「道綽禅師」の「綽」 と 「源空聖人」の「空」からとられたものとされます。
(源空聖人は、師であった叡空禅師より「空」を譲られました。)

もう一つ、「善信房」という房号ですが、法然門下には他に「善恵房(証空)」と「善」の字を持つ方がおられます。証空上人ももとは「解脱房」と号していましたが法然門下になる折に「善恵房」とされたようです。

「親鸞」というお名前は、ご存知かとは思いますが「天親菩薩(世親菩薩)」と「曇鸞大師」よりとられています。

真宗のお仏壇の内部右脇 「帰命尽十方無碍光如来」は「願生偈」より出でたる文で「回向文」としても読まれたりします。

世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国 (浄土論内 願生偈より)

一方、左脇「南無不可思議光如来」は曇鸞大師の著書より取られており、「和讃」には、

信心歓喜慶所聞 乃曁一念至心者
 南無不可思議光仏 頭面に礼したてまつれ (浄土和讃)

とあらわされています。

これも皆「弥陀回向の義」でおわしますから、みなともに「御念仏申し上げ」られたくおもいます。

なもあみだ なもあみだ

Abc

Abcさん

御文までしめしていただいて有難う御座います。今の本尊これなり。なんですね。親鸞会がいうところの、親鸞聖人は生涯名号本尊のみ拝されたというのは、あっさり嘘とわかりますね。
私は昔、長野市の善光寺の近くに住んでおりました。そんないわれがあったのかと感慨深いです。当時はバリバリの会員でしてたので、善光寺の如来像も興味がなかったのが、今思うと悲しいです。
親鸞会は名号本尊のみ!と言っても結局は、皆が、絶対の幸福という現世利益を祈願祈念しているだけで、本当の本尊の意味も知らない教えてもらえてない外道でした。なんまんだぶなんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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