高森の教行信証(信編) - 現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです

仏教を聞く目的はあくまで後生の一大事の解決。絶対の幸福は後生の一大事の解決ができたらその必然として現れてくる副産物である。

親鸞会側からはこんな声が聞こえてきそうですが、では何をもって後生の一大事の解決ができたとするかと言えば、平生の救いに遇ったこと、現在の苦悩を救い摂られたことをもってです。

 親鸞聖人の著述で特に目立つのは、二度の弥陀の救済と、今の救いの強調だ。
 原因なくして結果なし。平生の救い(因)に遇わずして、死後の救い(果)は望めない。足元の小川が渡れぬ者に、その先の大河がどうして渡れよう。今生救われた者だけが浄土往生できるのである。
 現在の苦悩を救い摂り(不体失往生)、未来永遠、幸福に生かし切る(体失往生)、二つの往生を誓われた弥陀の真意を明らかにされたのが、体失・不体失往生の論争だった(十章参照)。
 現在の救いを抜きにして、死後の救いのみを弥陀の誓願とした、善慧房証空のあやまりを正されたのが親鸞聖人であったのだ。
 永遠の浮沈は、平生に決するのである。
(『なぜ生きる』p.291)

平生の救いとは「人生の目的」が成就して「永遠の幸福」になったこと、つまり「絶対の幸福」のことですから、「絶対の幸福」が因で、死後の救い、すなわち浄土往生という果を得ると主張していることが分かります。会員としても、死後の救いもけっこうだが、それよりも現在のこの苦しみを救うてもらいたい、このままでは何の為に生まれてきたのか分からない、生きる意味をハッキリ知らされて生命の大歓喜を得たい、永遠の幸福に生かされたい、というのが本音でしょう。現世利益のことしか頭に無く、浄土往生は「絶対の幸福」にならねばできないのだから、とにかく現在「絶対の幸福」になることが肝要と、自己の願いも相まって、幻想的な楽を獲たいがために聴聞し、活動していませんか? まず、会員の皆さんは自己の欲望を叶える弥陀の本願ではないことを、そして、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たことが報土の因ではないことをよく知るべきです。

ちなみに、「不体失往生」の「往生」とは「念仏往生」であり「報土往生(浄土往生)」、「体失往生」の「往生」とは「諸行往生」であり「胎生辺地の往生(化土往生)」です。高森会長の主張は

報土往生を遂げる身になった者が死ねば化土往生する

というトンデモ邪義です。詳しくはこの記事で書いています。


さて、今回は「高森の信」です。これについて、どのようなものか見ていきます。

①まして況や、無量永劫の魂の大問題です。色もなければ形もない、無限無辺、絶対の阿弥陀仏の大慈悲心を、色も形もない我々の心に受領するのが信心獲得ということですから、一朝一夕にはゆかないのです。
 浄土真宗の人々は「堕ちる者をお助けの阿弥陀さま」と聞いて知って信じて喜んでいますが、本当に堕ちた体験もなければ、助かった体験もありませんから本当の喜びもないのです。
 実地、地獄一定と堕ち切ったものでなければ本当に助かった信心(体験)は獲得出来る筈がないのです。
 明らかに、他力になるまで他力を求めぬきましょう。
(『こんなことが知りたい①』p.31)

②真実の他力信心を獲得するということは、阿弥陀仏の絶対の救いにあずかるということです。即ち阿弥陀仏の絶対の願力によって助かったことをいいます。
 阿弥陀仏は、その本願(約束)に「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」と誓っていられます。勿論、死後ではありませんから、これを平生業成というのです。現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束です。こんな素晴しい誓願は、二つとありませんから、親鸞聖人は、『正信偈』に、「無上殊勝の願を建立せられた、希有の大弘誓を超発せり」とも仰言っているのです。
 その約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです。
 これは偏に阿弥陀仏(他力)のお力によって、このようにさせて頂けた、ということがハッキリしますから、他力の信心、他力の信仰というのです。
 しかも、阿弥陀仏の救いは一念でなされます。阿弥陀仏は「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると誓っていられるからです。これを聖人は「一念往生」とか「一念の信心」とも仰言っています。アッという間もない時剋の極促に我々の苦悩を抜き取り、無上の幸福を与えて下さいます。これを抜苦与楽といわれています。
(『こんなことが知りたい①』p.32~p.33)

色々とツッコミどころがありすぎる文章です。まず①の文章ですが、南無阿弥陀仏の六字を心に受領するのが信心ですから、前半の説明は間違いとは言い切れません。が、問題は後半です。明らかに、他力になるまで他力を求めぬき「高森の教」を聞いて「高森の行」を実践し)、実地、地獄一定と堕ち切った体験をした者が体験し、獲得する信心が「他力の信心」のようです。自身の獲信体験とは随分と違いますね。

次に②の文章ですが、阿弥陀仏の本願とは「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」というお約束だそうで、『こんなことが知りたい①』の初版が昭和44年5月5日ですから、もうかれこれ50年近く「絶対の幸福」という創価学会の信心を貫き通していることが分かります。ところが、いざ「絶対の幸福」とはどんな幸福かを説明する際は、最近は批判を極端に恐れているので昔のように上記のようなことを話しません。例えば、

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、生きている時に絶対の幸福になること

としてみたり、

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇

等のお言葉を挙げ、結局よく分からない話をして煙に巻くだけです。あるいは、

不可称不可説不可思議の絶対の幸福

だとか言い、なれば分かるんだからそこまで求めよ、そうしなければ後生は一大事だと、半ば強制的に説明を打ち切って脅しの論法にすり替わるのが親鸞会のいつものパターンです。


ここで、特に②の文章は「高森の教」である映画『なぜ生きる』に通じるものがあります。映画の蓮如上人には

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

と言わせて、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったのが「信心獲得」の如き印象を与えています。それで、「信心獲得」するまでは、①の文章から読み取れるように「高森の教」を聞いて「高森の行」を実践していかねばなりません。そして実地、地獄一定と堕ち切った体験をした者が高森会長の説く「阿弥陀仏の本願」の通り現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようになるようです。そうなった時を「他力信心を獲たとか、信心決定したとかいう」とのことです。簡潔に言えば、

高森の信」=「絶対の幸福」=「光明輝く生活

ですので、「高森の信」は浄土真宗の信心、他力の信心、真実の信とは全く関係のない異教徒の信心であることが明らかに知られます。


会員も会員で、最近の訳の分からない高森顕徹会長の説明よりも「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」の方でこれを捉え、信心獲得の暁にはそんな素晴らしい幸福の身になれるのかと夢見ていることと思います。組織拡大に利用されているだけとは知らずに。皆さんは、「どんな悪業煩悩も往生のさわりとならない」ことを「幸福感が最高無上で、絶対に変わらない崩れない」と痛い勘違いをし、そのような幸福の身になりたいと思って高森教を聞いている内は救われないことを知るべきです。
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間違いは、間違い

やはりそういう事でしたか。
絶対の幸福という言葉が曖昧なだけに、人によって聞き方が違います。都合のいい様に解釈して納得するより仕方ありません。会の目的にしているだけに分からないのは自分に問題があるのかと思い込んでしまいます。
何度質問してもよく分からない話や、関係ない話を言いだし、答える人も分かってないのでポカンとなるだけです。
「阿弥陀様の本願は無条件でそのままの救いだ。救われても何も変わらずに疑情の心が晴れるだけだ。」と言われると、「それはその通りで納得ですが、分からないのは絶対の幸福です」と堂々巡りになります。
新しく聞く人は「大悲の願船に乗って絶対の幸福になりたい」と言っています。後生の一大事の話は殆どなくなりました。聴き始めはそんなもので、聞き進めばだんだんと奥が深くなるのかな?といった感じです。聴くほど迷宮入りして、裸の王様の洋服は美しいと洗脳されるだけなのかな?
絶対の幸福という訳の分からない餌で釣る事よりも、弥陀の本願の生起本末をしっかりと説かないと違った教義になりますね。「こんな事が知りたい」に「苦悩の人生を明るい人生に変えるのが本願だ」などとハッキリと書かれているとは今まで全く知りませんでした。淳心房さんは親鸞会の教義にも明るいので頼もしいです。間違った教義を正しく見ようとして、こういう事かと納得しても間違いは間違いですね。

Re:金星人さん

Abcです。

>やはりそういう事でしたか。
>絶対の幸福という言葉が曖昧なだけに、人によって聞き方が違います。

>絶対の幸福という訳の分からない餌で釣る事よりも、
 弥陀の本願の生起本末をしっかりと説かないと違った教義になりますね。
「こんな事が知りたい」に「苦悩の人生を明るい人生に変えるのが本願だ」などとハッキリと書かれているとは今まで全く知りませんでした。

ハッキリと書いてあることが分かったならばよかったじゃないですか。
「本願」 「念仏」 「真宗」 という語句は「真宗」ですが

「絶対の幸福」という語句は「高森教」です。

逆に私から金星人さんに質問ですが、金星人さんは「なぜ念仏を嫌うのでしょうか。」 高森教の方たちが「称名正因の異安心だ!」と仰られているからでしょうか。 よろしければ教えていただけないでしょうか。

Abc

Abc様へ

念仏を嫌うなどという事は更々ありません。
念仏と一言で言っても色々な念仏があります。
阿弥陀仏より称えさせられる念仏。助けて下さいとお願いする念仏。仏恩報尽で称える念仏。念仏唱えたら願いが叶うと信罪福心で唱える念仏。ただ口に唱える念仏。その他色々な念仏があると思います。
唱える念仏ではなく、称える念仏を称えないといけないと思っています。
親鸞会では信心正因と深く信じてますが、念仏正因の異安心という言葉は聞いた事がありません。
私は口で唱える念仏よりも、心で阿弥陀仏を念じる事が大事だと思ってました。しかし、阿弥陀仏を念じる心は、最初から最後まで信罪福心で念じる心しかなく真実の念仏が称えられない事に深く驚きました。念仏と信心は一つと言われますので、信心も信罪福心しかなく、今まで何をやっていたんだ。同じ所をグルグル回っているだけで、金輪際助かる縁がない事に絶望しました。高森先生はワシャ知らんぞと逃げ、諸仏菩薩にも見放され、必ず助けるという阿弥陀仏の本願一つしかなく、「そのままだぞ」の呼び声にただただ歓喜の念仏を称えさせられました。体験至上主義だと言われますので、体験談はこれまでとします。
なので、念仏を嫌う心は更々ありません。「そのままだぞ」という御心が念仏だと思ってましたが、「名号は念仏であり、南無阿弥陀仏と称える事だ」とお聖教に書いてありました。信罪福心で唱える念仏は煩悩であり、仏恩を念じて順逆共に報恩の念仏を称えたいと思っています。

No title

>念仏を嫌うなどという事は更々ありません。

念仏でも唱えて待ってろよ、すぐに死神が迎えに行くからな

と火星人は創価学会と同じセリフを言っていたのをお忘れか?

Re:金星人さん

ご返答ありがとうございます。

さて、「いろいろな念仏がある」と仰せですが

>阿弥陀仏より称えさせられる念仏。
>助けて下さいとお願いする念仏。
>仏恩報尽で称える念仏。

これらは「他力回向の念仏」とされ「必至滅度願」「選択本願」に含まれています。

念仏唱えたら願いが叶うと信罪福心で唱える念仏。

これは「自余の念仏」といわれ「20願の念仏」とされていますが、浄土教からしますと「全ての計らいをすてよ!」ですのでこれは「すてもの」です。

>ただ口に唱える念仏。

これはどちらとはいえません。「ただ弥陀を募りとしての念仏」ならば「他力」、
「口業」とこだわりをもたれているならば「自力」です。

>唱える念仏ではなく、称える念仏を称えないといけないと思っています。

「称えないといけない」と「自らの義務」のようにしていたならば「自らの計らい」であり「自力」です。「信心決定」は「自然法爾」(正信偈のお言葉を借りたならば「自然即時入必定」)ですので、「称えなければならない!」ではありません。
「自力執着の者」からしましたら理解しがたいかと思いますが、「自然といふはもとよりしからしむといふ御言葉なり」といわれるように「自力の計らい」を大きく離れたものなのです。

>親鸞会では信心正因と深く信じてますが、念仏正因の異安心という言葉は聞いた事がありません。

いいえ、親鸞会では「念仏ないから信心ひとつ」や源空聖人の「南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏を先となす。]」の「念仏を先となす」を指して「親鸞聖人は「信心ひとつ」の御教えであるから「念仏」とは教えられていない!」と声高々に言っていました。そのような「念仏軽視」をしながら「弥陀の本願は~」と言われているところに私の不審が収まらないのであります。

>私は口で唱える念仏よりも、心で阿弥陀仏を念じる事が大事だと思ってました。しかし、阿弥陀仏を念じる心は、最初から最後まで信罪福心で念じる心しかなく真実の念仏が称えられない事に深く驚きました。念仏と信心は一つと言われますので、信心も信罪福心しかなく、今まで何をやっていたんだ。同じ所をグルグル回っているだけで、金輪際助かる縁がない事に絶望しました。

金星人さんは「グルグル回っている」と言われていますが、
「全ての人がこのグルグル回ることに気づかなければならない」といっているのが高森さんです。親鸞や源空聖人また上代の高僧たちはみな「弥陀より賜りたる信心を獲よ」といわれています。

また、源空聖人は善導禅師「観経四帖疏」、道綽禅師「安楽集」を用いて説法されており、「それ以外は雑行である」ともいわれています。これは、「殊勝な行い」とされる「聖道仏教」を排斥することによって「貴賎を選ばず、民衆にひろめるため」とされております。

>高森先生はワシャ知らんぞと逃げ、諸仏菩薩にも見放され、必ず助けるという阿弥陀仏の本願一つしかなく、「そのままだぞ」の呼び声にただただ歓喜の念仏を称えさせられました。

このようにして「高森という一智識を帰命してきた方たち」を見放し、自由奔放とされているのが高森顕徹という人物です。諸仏たちは「見放され」たわけではありません。「私たちは助けたいが助けることが出来ない」といわれたのです。(「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」がそれにあたります)


>なので、念仏を嫌う心は更々ありません。「そのままだぞ」という御心が念仏だと思ってましたが、「名号は念仏であり、南無阿弥陀仏と称える事だ」とお聖教に書いてありました。信罪福心で唱える念仏は煩悩であり、仏恩を念じて順逆共に報恩の念仏を称えたいと思っています。

いいえ、「そのままだぞ」のおん心が「念仏」であります。
『正信偈』で申すところ「不断煩悩得涅槃」がそれにあたり、
「私たちの醜い煩悩を持っているそのままにて涅槃を得る」と読み、
親鸞が言う「信心獲得」したとしても「煩悩消えず絶えず」なのです。

ですから、「信罪福心で唱える念仏は煩悩」ではなく、「信罪福心で唱える念仏は自力」です。「煩悩を捨てよ」ではなく「自余の心を捨てよ」です。ここは重々お気をつけください。

Abc

Abcです

おはようございます、Abcです。

金星人さんもそうですが、そのほかの「高森信心」にハマっているひとは「すべからく浄土門に帰して」いただきたいです。

さて、親鸞は「弥陀の48願」のうち重要な願として9つ抜き出しております。
これを「九願文」と申しますが、戦国時代、下間 蓮崇によってバラバラにされました。その「9願」というのは、「11 12 13 18 19 20 22 23 33願」でありこれを「自力」と「他力」で大まかに分けますと

自力 19 20願
他力 18 11 12 13 22 23 33願  となります。

 まず「自力」ですが、
(十九) わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(二十) わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
(WikiArc より引用 現代語 無量寿経 上巻)

 これらは「横出の機」と呼ばれ「他力の中の自力」とも言われたりもします。往く先は「宮殿 化土 疑城胎宮」とされます。

 次に「他力」ですが、端的に言って「南無阿弥陀仏」以外伝えることはありません。ですが、「18 11 12 13 22 23 33願」とありますので、「かいつまむ程度で」説明していきます。

18願 念仏成仏願 自然法爾願 至心信楽願 不回向願 他力回向願...
こちらは「真宗の本願」とも呼ばれる願であり、これをもって弥陀は「われをたのめ! 必ず助ける!」と誓われています。

11願 必至滅度願
こちらは「あなたの命が終わったら滅度(涅槃)に生まれさせます」という願です。親鸞は「正信偈」中で、「必至滅度願成就」といわれています。よってこの11願は「11願でありながら18願に含まれている願」となります。

12願 光明無量願
こちらは「清浄光」「智慧光」とも言われる由縁であり、一光三尊像では「弥陀と大勢至菩薩」がこの願にあたります。「正信偈」では、「南無不可思議光」がこれにあたりますが、
 <<大慈悲心は「智慧」と「光明(おちから)」を兼ね備えておりますので「どちらがどちらとはいえません。」>>

13願 寿命無量願
親鸞が「正信偈」でいわれる、「帰命無量寿如来」ですが、上述のとおりですので「これが「無量寿だ!」とはいえません。」一光三尊像では「弥陀と観世音菩薩」がこれにあたります。

22願 還相回向願 一生補処の大願
親鸞が「如来二種回向文」に示されている、
「還相回向といふは、『浄土論』にいはく、「以本願力回向故是名出第五門」と。これはこれ還相の回向なり。」であり、この「迷いの衆生」に弥陀願をひろめんがための願です。
「往還回向由他力」といわれているように「これも他力回向のひとつ」です。

23願 供養諸仏願
別エントリーでも記しましたが、「弥陀願をひろめるために浄土を離れたいと願うならばどうぞ離れてください」という願です。そのため「22願の補願」とも見ることができます。

33願 触光柔軟願
「すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。」(WikiArcより)
とあり、端的にいいますと「全て弥陀にお任せしたならば私の方でやきもきしなくてもよい」と言うことです。ただ「弥陀に任せ」ましても「煩悩は消えません」ので実のところその「煩悩のせいで」やきもきはします。

補願
この9願には含まれていませんが、「観経」のイダイケ夫人の下りでも出てきますのでしるしておきます。特に35願は、「対象者には女人も含まれる」という当時の仏教界では画期的なものでした。

34願 聞名得忍願
『正信偈』の「与韋提等獲三忍」にあたり、
「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。」とも言われています。ですがこれは親鸞会がいうところ
「ハッキリ分かった」と言うことではありませんので留意しておいてください。

35願 女人成仏願
文字通り「女人を助ける願」です。蓮如上人はお手紙(御文)のなかにて、

「まづわが身は女人なれば、罪ふかき五障・三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も三世の諸仏にもすてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりかかる機をすくはんと誓ひたまひて、すでに四十八願をおこしたまへり。そのうち第十八の願において、一切の悪人・女人をたすけたまへるうへに、なほ女人は罪ふかく疑のこころふかきによりて、またかさねて第三十五の願になほ女人をたすけんといへる願をおこしたまへるなり。かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもふべきなり。」(御文 一帖 吉崎 より)
と言われています。そのため真宗におかれましては「男人 女人えらばず嫌わず」なのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Abcです

おはようございます、Abcです。

金星人さんもそうですが、そのほかの「高森信心」にハマっているひとは「すべからく浄土門に帰して」いただきたいです。

さて、親鸞は「弥陀の48願」のうち重要な願として9つ抜き出しております。
これを「九願文」と申しますが、戦国時代、下間蓮崇によってバラバラにされました。その「9願」というのは、「11 12 13 18 19 20 22 23 33願」でありこれを「自力」と「他力」で大まかに分けますと

自力 19 20願
他力 18 11 12 13 22 23 33願  となります。

 まず「自力」ですが、
(十九) わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(二十) わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
(WikiArc より引用 現代語 無量寿経 上巻)

 これらは「横出の機」と呼ばれ「他力の中の自力」とも言われたりもします。往く先は「宮殿 化土 疑城胎宮」とされます。

 次に「他力」ですが、端的に言って「南無阿弥陀仏」以外伝えることはありません。ですが、「18 11 12 13 22 23 33願」とありますので、「かいつまむ程度で」説明していきます。

18願 念仏成仏願 自然法爾願 至心信楽願 不回向願 他力回向願...
こちらは「真宗の本願」とも呼ばれる願であり、これをもって弥陀は「われをたのめ! 必ず助ける!」と誓われています。

11願 必至滅度願
こちらは「あなたの命が終わったら滅度(涅槃)に生まれさせます」という願です。親鸞は「正信偈」中で、「必至滅度願成就」といわれています。よってこの11願は「11願でありながら18願に含まれている願」となります。

12願 光明無量願
こちらは「清浄光」「智慧光」とも言われる由縁であり、一光三尊像では「弥陀と大勢至菩薩」がこの願にあたります。「正信偈」では、「南無不可思議光」がこれにあたりますが、
 <<大慈悲心は「智慧」と「光明(おちから)」を兼ね備えておりますので「どちらがどちらとはいえません。」>>

13願 寿命無量願
親鸞が「正信偈」でいわれる、「帰命無量寿如来」ですが、上述のとおりですので「これが「無量寿だ!」とはいえません。」一光三尊像では「弥陀と観世音菩薩」がこれにあたります。

22願 還相回向願 一生補処の大願
親鸞が「如来二種回向文」に示されている、
「還相回向といふは、『浄土論』にいはく、「以本願力回向故是名出第五門」と。これはこれ還相の回向なり。」であり、この「迷いの衆生」に弥陀願をひろめんがための願です。
「往還回向由他力」といわれているように「これも他力回向のひとつ」です。

23願 供養諸仏願
別エントリーでも記しましたが、「弥陀願をひろめるために浄土を離れたいと願うならばどうぞ離れてください」という願です。そのため「22願の補願」とも見ることができます。

33願 触光柔軟願
「すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。」(WikiArcより)
とあり、端的にいいますと「全て弥陀にお任せしたならば私の方でやきもきしなくてもよい」と言うことです。ただ「弥陀に任せ」ましても「煩悩は消えません」ので実のところその「煩悩のせいで」やきもきはします。

補願
この9願には含まれていませんが、「観経」のイダイケ夫人の下りでも出てきますのでしるしておきます。特に35願は、「対象者には女人も含まれる」という当時の仏教界では画期的なものでした。

34願 聞名得忍願
『正信偈』の「与韋提等獲三忍」にあたり、
「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。」とも言われています。ですがこれは親鸞会がいうところ
「ハッキリ分かった」と言うことではありませんので留意しておいてください。

35願 女人成仏願
文字通り「女人を助ける願」です。蓮如上人はお手紙(御文)のなかにて、

「まづわが身は女人なれば、罪ふかき五障・三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も三世の諸仏にもすてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりかかる機をすくはんと誓ひたまひて、すでに四十八願をおこしたまへり。そのうち第十八の願において、一切の悪人・女人をたすけたまへるうへに、なほ女人は罪ふかく疑のこころふかきによりて、またかさねて第三十五の願になほ女人をたすけんといへる願をおこしたまへるなり。かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもふべきなり。」(御文 一帖 吉崎 より)
と言われています。そのため真宗におかれましては「男人 女人えらばず嫌わず」なのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

追記

こんにちは、Abcです。
こちらの不調で連投してしまったようです。まことに申し訳ございません。

Abc

suさんへ

<<念仏でも唱えて待ってろよ、すぐに死神が迎えに行くからな<<

これは売り言葉に買い言葉で出た言葉でありますが、「唱えて」がポイントです。
相手が、「称えて」という字を使った時に、厳重に注意してます。
「でも」は軽く見過ぎてますので訂正している筈です。
「死神」は無常の事であり、「諸行は無常であり、今晩の臨終にその念仏を唱えていて大丈夫ですか?」と言い返しただけの事です。
称名念仏を称えている人は、いつ死神が来ても必ず極楽往生させるという本願を深く信じてますのでご心配無用ですよ。っと反撃しています。
念仏唱えている人に、早く称名念仏を称える人に人になって下さいという意味です。唱えている人に対して称えなければ、という意味です。
火星人は親鸞会の教義にどっぷりと漬かっており、退会者からは敵対視されているので、すぐに喧嘩になります。「阿弥陀仏の本願は無条件でそのままの救いだぞ」という事は一致しますが、「高森の行は信心決定する為の方便の行だ」と強く思い込んでいるのが問題です。全ての人は真実を聞く耳がないので、求道という名のもとに、同じ所を疲れ果て倒れるまで走り続けなければならず、それが三願転入だと思い込んでいます。
高森の教に従えば、そういう考えになりますが、親鸞聖人の教えとは違うという事をよくよく火星人に言い聞かせてやってください。高森の行で苦しんでいる人は救われますか?これからも淳心房さん達に真偽検証をよろしくお願いします。

No title

火星人と金星人は同一人物と認めていながら、何を言ってるの?

某ブログのコメント

返信
親鸞会で検索したら、「さよなら親鸞会」に繋がり、読んだら酷い批難中傷が延々と書かれていたので、石を投げてみたところ、S会は敵だとばかりに避難轟轟と攻撃され、売り言葉に買い言葉で罵り合いの喧嘩が始まりました。喧嘩相手に火星人だと言われた事により、火星人が誕生しました。なので、親鸞会よりのコメントを書く人は火星人です。
TENさん達の影響を受けて、やはり親鸞会は間違った事を言っている。お聖教には何が書かれているのか確かめよう。どちらが正しいのか検証しよう。と退会者側の立場になって色々と教えて頂こうというのが金星人です。なので、同一人物であって別人格です。
S会と退会者は抗争する様ですが、弥陀の本願は無条件で平等に常に働いております。あの麻原彰晃でも助かる本願です。その本願六字の心を正しく説かない先生は悪いです。金星人はまだT先生は悪知識だと決めつけるには至ってませんので、まだまだ時間が必要かと言われる通りだと思います。
2018-02-03 16:06 金星人 URL [ 編集 ]

金星人(火星人)さんへ



コメント見ました。

> 「阿弥陀様の本願は無条件でそのままの救いだ。救われても何も変わらずに疑情の心が晴れるだけだ。」と言われると、「それはその通りで納得です」

この、あなたの発言がヘンテコです。
あなたがおっしゃりたいのは「自分は弥陀に救われました」「現在の高森会長の説法には矛盾や誤りがあるけれども、過去の会長の教導によって自分は「そのままだぞ」の不思議な声を聞く体験ができました。あのときの体験は間違いないから、当時の会長を今も信じているし、あのときのご教導は間違っていなかった。」と言いたいんですね?「そのままだぞの弥陀の願心を私も分かっています。」とこのブログを閲覧しているみなさんに言いたいんですよね。

ですが、「不思議な声が聞こえたから疑いが晴れた」という過去の体験にしがみついて、体験を拠り所にしていることを「体験至上主義」と言います。淳心房さんがおっしゃっているとおりです。金星人さんは、高森会長の説法の真偽や退会者の発言を検証する前に、自分が握りしめているものの真偽を検証してください。自分の「求めた、泣いた、聞けた、喜んだ」それら過去の体験はすべて自力です。自力無功ですから、それらでは往生は不可です。それらを手放したんですか?手放せていないように私は思いますが、あなたはどう思っていますか?(あなたが私のブログにて書きこんだ沢山の体験談を読んで私が感じたままに聞いています。あなたはどう思っていますか?)
弥陀の願いにおまかせできたってどういう意味ですか?「疑い晴れた」とは何に対してのどのような疑いが晴れたのですか?もし「聞法会場で不思議な声を聞く体験」をしたことによって、高森会長が言う「命がけで聞法求道したら、ジカの呼び声が聞こえるのだ」という言葉に対しての疑いが無くなったのだとしたら、それは「弥陀の本願に疑い晴れた」のではなく「会長の言葉に疑い晴れた」が正しいと思いますが、いかがですか?
また「弥陀の本願は、無条件の救い」と聞いた人の中に「無帰命安心」という聞き誤りがありますが、ご存知ですか?「無帰命安心」とあなたのいう「そのままだ」は何が違いますか?

私たちが同行善知識から聞かせて頂くことは、「弥陀が私たちにかけている願い」です。その願いを高森会長が正しく説かない(説けない)から、このようにブログを立ち上げている人たちがいらっしゃるんです。弥陀の願いを正しく説く先生に会わずに、弥陀の願いに生かされるようになることはありません。ありえません。弥陀の願いに生かされるようになると、高森会長が弥陀の願心を正しく伝えていないことは他人に聞くまでもなく明らかに分かります。だから「弥陀に救われたけれど、会長の間違いが分からない」と発言するあなたに対しては、はてなマークがつくのです。

あなたが火星人から金星人に改名したのは、「親鸞会教義と親鸞会でした体験を一度横に置いて聞法をスタートするため」だと、チュウビさんや私は思っていました。それであなたはこちらのブログに訪れて教義の質問をしているのではなかったのですか?結局、ご自身が親鸞会でした体験をこのブログにて認めてもらうために書き込んでいるようにしか見えませんがいかがでしょうか?淳心房さんが「体験至上主義」とおっしゃっていることについてどう思われますか?

参考として、親鸞会での求道で獲信したという金星人さんの私のブログでの発言を引用します。
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私はS会以外から話を聞いた事がありません。
光に向かっている筈なのが、悪果が次々に現れて韋提希の様に愚痴の心で苦悩し、全てを捨ててご法話会場に行き、泣き泣きお勤めをして真剣に聴聞しました。聴聞する目的がお門違いの人は創価学会に行ってくれとT先生からも見捨てられました。今まで真剣に求道してきたのに何も聞かないテレーキョトンボーの闡提の心に泣かされて、分からない分からないと三定死で苦しみぬいて、もうダメだと諦めた時に、幼児の様な声で「そのままだぞ」とハッキリと声が聞こえました。本願に間違いがなかった。T先生の言っていた事は本当だったと大驚喜心が起こり疑情がなくなりました。それ以来後生の一大事の解決の為に聴聞するという気持ちはなくなりました。
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もうひとつ、参考として「信心と念仏」についてご自分の言葉で語っている金星人さんの発言を引用します。
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私の信心はS会で聴聞してきた事がバックボーンになっています。実機は逆法の屍の闡提の心しかなく、本願を聞く事ができません。他力回向により、聞く心も弥陀様から頂いた心であります。本願の生起本末を聴いて念仏を称える事で他力の称名念仏を称える事が出来ますか?自力で唱えただけの念仏ではダメです。信心が肝要です。自力が完全になくなり弥陀から称えさせられるのが念仏だと思っています。方便により真剣に求め続けたから聞く事が出来たのだと思っています。自力のまま形だけで念仏を唱えてそのままだと自分で思い込んでいる自力の信心の人ばかりだと思えてなりません。
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以上が引用です。「自力で唱えただけの念仏」というものなどありません。六字のいわれを聞いて弥陀の願いに生かされている他力信心の人がそのような発言をすることは考えられません。「自力」についても誤解していますし、「念仏」についてもご存知ないです。それで私やチュウビさんが「真実の行を知ってください、教行信証行巻を読んでください、選択本願念仏集を読んでください」と話をした結果、あなたはこちらのブログを訪れたんですよね。あなたは「真剣に求め続けたから聞く事が出来たのだと思っています。」とおっしゃっていますが、これが「自力無功」とはまったく逆なのですよ。阿弥陀様の大悲に背を向けている姿です。呼び声きいておまかせしたつもりだったけど、自力が廃っていない姿です。今ならそれがお分かりになりますか?それとも私の言っていることは意味不明ですか?

金星人さんは高森会長の教えが正しい真宗の教えだと今も思っているのですか? あなたのいまの信仰が聖人の教えたかった他力信心だと今も思っているのですか? 会長の教えがどうだの退会者の発言がどうだのと周囲を検証することにばかり目が向いていませんか? ご自身に目が向きましたか? いま阿弥陀仏からあなたへどういう願いがかけられていますか? それをあなたは分かりましたか?

私があなたと話したいのはそういったことです。

金星人さんの立ち位置や考えを明確にしたほうが話が早いと思いまして書き込みました。コメントが長文になったり金星人さんへの私信のようになってしまいました。管理人様や読者の皆様にはご迷惑おかけします。

同一であり別人格なり

だから、親鸞会に洗脳されている火星人は山の中に引っ込んで頂き、正しい親鸞聖人の教えを知りたがっている金星人が、淳心房さん達に頭を下げて真偽を伺っています。親鸞会の方便の行は、自力の人を他力に導く為の方便だと火星人は信じきってますので真偽を伺っています。
Abcさんも、親鸞会の方便の行に長い事とどまって、絶対に求まる事のない求道の道を走り回り続けている会員に対して早く救われて頂きたいと願っている様に、火星人も同じ事を願っています。

No title

>火星人も同じ事を願っています

A橋医師の診断を受けてから、コメントしてください。

体験談

TENさんとは話がかみ合わない点が多々あります。その元凶が親鸞会と高森先生にあります。親鸞会の間違った教義では絶対に救われる事がないと主張するのがTENさんだと思います。
私と親鸞会との関わりと、自分の心境の変化と阿弥陀仏とのご縁を自分の体験を通して語りました。高森先生と親鸞会については「怪しい」という疑いの心が常にあります。後生の一大事と阿弥陀様の本願がいつも心に引っ掛かり、絶対に行きたくないのに無理をして聴聞に足を運んだのは不思議な事でした。
聴聞していればいつか助かる、と信じていた我が身に大変な大事件が起こりました。心は真っ暗にカキ乱れ、光に向かっているのに何故に最低最悪の酷い目にあい、この世の地獄を見なければならぬのか。この世の自業苦を解決しなければと真剣に聴聞しました。
真剣に聴聞する心が信罪福心からであり、後生の一大事が何一つも心にかかってない自分が知らされて、お門違いだと見放されました。一生懸命に求道してきたつもりが、何一つも役に立たず、結局空回りで一歩も進んでいない。これから先にいくら求道しても絶対に助からない奴だ。どうしたらいいのだ。分からない分からない。と、もがき苦しんでいた時に「そのままだぞ」と直の呼び声が脳裏にハッキリと聞こえました。「そのまま助ける本願」は本当だった本当だったと疑いが無くなり、湧き出る歓喜の心から念仏を何度も称えさせられました。
これが私の体験談でありますが、この体験を拠り所にしているのではなく、「本当だった」という歓喜の心を拠り所としています。なので、それは間違いだ、体験至上主義だ、異安心だと責め立てられても、「本願は本当だった」という信心には変わりありません。
親鸞会と高森先生は怪しいという心は今でも晴れてはいません。逆に淳心房さん達のブログを読むと、疑いが確信にさえなり得ます。しかし、それは非常に悲しい事であります。何か裏があるのではないのかと親鸞会を信じる心がありますが、ブログを見れば見るほど疑いがつのるばかりです。
TENさんの質問には答え切れてませんので、おいおいと答えます。

No title

高森先生を信じる信じないは疑煩悩であり、疑情とは関係ありません。
火星人は高森先生を信じたいと思っていました。
現実はTENさんが指摘する様に親鸞聖人と違う事を言ってました。
どう間違っているのか確認する為に、真偽検証のブログにたどり着きました。
お聖教に書いてある事をもとに、分かりやすく間違いを教えて頂き大変有難い事だと思って読ませて頂いています。
親鸞会にはいい印象が一つも無く、怪しい会だと思いつつ、高森先生と親鸞会はどこどこまでも嘘の塊だと認めたくない心もあります。この複雑な心境がTENさんには理解できないのだと思います。

No title

>高森先生を信じる信じないは疑煩悩であり、疑情とは関係ありません。

まだそんなこと言っているんだ。

高森先生を信じる信じないは疑情そのもの。

高森会長の教えていることは、疑情の教え。

疑情=因果の道理を信じる心=救いに善が必要と思う心=自力で求めないと救われないと思う心=高森会長を信じる心

つまりだ、火星人=金星人は疑情が無くなっていないどころか疑情を肯定している異安心で、いくつものブログを荒しまわっている者だってこと。

No title

>分からない分からない。と、もがき苦しんでいた時に「そのままだぞ」と直の呼び声が脳裏にハッキリと聞こえました。

キリスト教でもイスラム教でも神の啓示というのがありますから、その類です。

なお、火星人は救われた役、金星人は火星人を信じている救われていない役

この前提がすでに崩れているのですが。

Re:金星人さん

こんにちわ、Abcです

>高森先生を信じる信じないは疑煩悩であり、疑情とは関係ありません。

他の方がたが記されているように「知識帰命」であり「疑情」です。

>火星人は高森先生を信じたいと思っていました。
>現実はTENさんが指摘する様に親鸞聖人と違う事を言ってました。

「絶対の幸福」と言う語句は「真宗」にはありませんからね。
さりとて、「体験談」に固着するところが「体験至上主義」であり
「自力執着」ともいわれるのです。淳心房さんの言われる通り、
「過去にどんなことがあったかは個人の自由ですが、その個人の自由をもって「信心決定」とは申さないでいただきたい」という所見です。

>どう間違っているのか確認する為に、真偽検証のブログにたどり着きました。
>お聖教に書いてある事をもとに、分かりやすく間違いを教えて頂き大変有難い事だと思って読ませて頂いています。

「わかりやすい」と申していただけるならば個人としては大変嬉しいのですが、
「正しいと思っていた高森会長から、私(Abc)に帰命しよう」と思っているならば「それは間違いである」といわなければなりません。「真宗」におかれましては「南無阿弥陀仏」、「弥陀に南無(帰命)します」でありますので、「この知識が」「あの知識が」ともうしている次元では「往生はできていないのでは?」とTENさんと同じくはてなマークを並べなければなりません。

>親鸞会にはいい印象が一つも無く、怪しい会だと思いつつ、高森先生と親鸞会はどこどこまでも嘘の塊だと認めたくない心もあります。この複雑な心境がTENさんには理解できないのだと思います。

確かに親鸞会にはいい印象はないかもしれません。そうでなかったならば退会うんぬんとはならないでしょうから。ですが、金星人さんが「真偽検証」にて「間違いだと分かった」ことは、少なくとも間違いであったということにほかなりません。
高森会長 や 私(Abc) はあくまで、「一知識」でしかありません。繰りかえしますが、「そのうちの誰かに任せなければならない」と考えているのでしたら、「知識帰命」(「知識の義に帰命する」)を離れてはいないのです。くれぐれも「義・はからい」については気をつけていただきたいところではあります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

金星人(火星人)さんへ

あなたは金星人に改名しても「私は信心決定した」と発言することに決めたのですね。分かりました。

あなたの体験談を聞きたいのではないのです。
4ケ月間あなたの体験談を聞いてきましたので、こちらのブログにいらっしゃる皆さまより、あなたのことは存じ上げているつもりです。

「私は信心決定したけれど、高森会長の教えのどこが間違っているかが分からない」というスタンスにあなたが立つことによって、「あなたの信仰に対する検証」は避けられないと思います。あなたはどう思いますか?

私のブログではあなたはこれを拒否して去っていきました。その時のコメントは「どう言われようと勝手ですが、TENさんとは絶対に合わない事が明白となりました。この世では合わなくても弥陀の極楽浄土で再会できる事を楽しみにしています。ハッキリとした聞即信の一念の体験があるという事だけは覚えておいて下さい。」でした。結局、拠り所は「体験」ですか。「ただ体験のみぞまこと」のあなた。そして「ただ念仏のみぞまこと」と仰せの親鸞聖人です。

あなたは「真剣に求め続けたから聞く事が出来たのだと思っています。」とおっしゃっていますが、これが「自力無功」とはまったく逆なのですよ。阿弥陀様の大悲に背を向けている姿です。あなたは「疑情が晴れた」「おまかせした」そうですが、自力が廃っていないように私にはみえます。あなたはどう思いますか?

1.自力が廃りましたか?
2.自力とは何ですか?
3.自力が廃るとはどのような意味ですか?

No title

高森会長の話を聞いて、現在救われたと言っている人物が、今更高森会長の教えが正しいのかを確認してどうするのさ。

目的は明白で、挙げ足をとって、高森会長の教えの正しさを訴えたいだけ。

これまで何カ月も同じことを繰り返してきたのだから、火星人じゃなかった金星人の魂胆はみえみえなんですよ。
ちなみに、火星人と命名したのは私ですよ。

金星人さん並びに火星人さん

まだこんな茶番をさせるのですね。残念です。TENさんのブログから火星人さんのカキコミをあげます。

ハイ、さようなら!
法論が出来ないので、講師に質問したその答えを聞き間違っている人に親切に伝えてやっただけですよ。怒りなさんな。謗法罪は「弥陀の本願を説く仏教を謗ったり、説く先生を見下して侮る罪を言うんだってさ。実機は何も変わる事なくそのままの救いなんだってさ。念仏を謗ったり本当だろかと疑う心は疑情の心であり、一念回向でなくなりますとよ。つまり、信心決定してない人は口先だで念仏唱えていても阿鼻地獄に堕罪して八万劫中大苦悩の後生の一大事の罪は消えないんだってさ。聞即信の一念で回入が正解なんだってさ。謗法闡提廻心皆往生は、仏教を信じない心が翻って聞く事ができるのだとよ。納得したわ。危うく悪知識に騙されるところだったわ。これでこのブログも卒業だわ。やはりT先生から聞いた教えが正解でした。よくよく考え直して余命を精々頑張って下さいな。謗法闡提の実機のまま救われる本願でした。無くなるは疑情のみです。

つい先月このような発言をTENさんところで捨て台詞されたあと、真偽検証さんのところに金星人としてコメントを入れてますよね。回心されたのですか?、こちらでも最初は殊勝そうなテイで教えてくださいという姿勢でしたけど、ここに来て結局また、自分の主張の繰り返しですか!親鸞聖人の信心と同じという根拠はまた言えないのですね。言えるのは高森から聞いたとおりだった。喜びが溢れた。そのままと何かが言ってくれた。これのみですね。それを高森爺さんは絶対の幸福と言ってますよ!おめでとうございます。良かったじゃないですか。
でも高森爺さんも講師も誰もあなたを信心決定したと褒めてくれないから、仕方なく親鸞会に仇なす、飛雲さん真偽検証さんのブログを、そしてTENさんのところなどまだできて間もないので、赤子の手を撚る程度と白羽の矢を立てたのでしょ?でも法論では勝てないので、都合が悪いと 教学を学んでないので、とか名前を変えて心入れ替えたとか、こちらの言うことを一旦は素晴らしい!とおもねってみたりとか。
その真の目的は、退会者を裏切り者と見下し荒らすことによって高森から褒めて貰おうとしているわけですよね。我々と噛み合わないのは当然ですよ。阿弥陀仏の本願を説いていない高森からいくら聞いても、真実の信心は出てきません。火星人さんの信心は高森教の信心です。真実の信心というなら、根拠をあげてください。またキレていなくなるのなしですよ。前も言いましたけど私は貴方を知ってますので是非とも、その自力を打ち捨て他力に帰していただきたいのです。そのための4ヶ月のお付き合いです。

チュウビさん へ

こんばんわ、Abcです。

やはり、わたくしでは金星人さんに聞き入れていただくことは出来ないのでしょうか。確かに、私も「一知識」ではありますし、それなりに(他の方がたからは色々あるとは思いますが)親鸞の教えというものをわきまえてきたとは自負しております。

また、私が「親鸞」だけでなく「法然」「蓮如」「一遍」等々真宗以外の語句も記してはおりますが(時宗 浄土宗 融通念仏宗 など)これらも「南無阿弥陀仏が第一である」という宗派ですので挙げさせていただいております。

こんなことは私も申したくないのですが、「60年の新興宗教」と「800年の伝統宗教」を並べたら歴然だとは思いますが、(こんなことをいいますと「歴史に鼻を掛けて」ともいわれますが...)やはり「高森先生にすくわれた」というのは拭い去れないのでしょうか。すこしアドバイスをいただきたいです。

よろしくおねがいします。

Abc

No title

いくら懇切丁寧に教えてあげても、意に介さないのが、かの人物です。
かれこれ一年以上前から、私はさよなら親鸞会のコメント欄で、相手をしてきましたので、やり口、理解力の無さ、性格など熟知していますね。

ヘナチョコと名付けたのも私ですが、あまりにも会話が成り立たないので、火星人と呼んだら、自ら火星人と名乗る始末です。今は、別人格の金星人らしいですが。

suさん へ

こんばんわ、Abcです。

>いくら懇切丁寧に教えてあげても、意に介さないのが、かの人物です。
かれこれ一年以上前から、私はさよなら親鸞会のコメント欄で、相手をしてきましたので、やり口、理解力の無さ、性格など熟知していますね。

左様ですか、私からしましたらチュウビさんにも申し上げましたが、「念仏成仏コレ真宗」でございますゆえ、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏におまかせします)としか申し上げることは出来ません。このことは親鸞が「これさらに性信坊、親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。」と言われていることよりも明らかです。
親鸞がこのように言うことによって「私の計らいではないし、聴衆(ここでは性信坊)に「すべては弥陀回向である」」と印象付けられているのです。

 もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
(歎異抄 第二 おのおの十余箇国のさかひをこえて より)

この言葉しか掛けることができない私をお赦しください。

Abc

auさんに深くお詫びします

やはり、suさんは、「さよなら親鸞会」のブログで激闘した人でしたか。
退会者のブログに遭遇したのは初めてであり、コメントしたのも最初でした。
高森先生から聞いて来た事しか知らず、反旗を振って刃向かう者は皆敵だとみなして切り付けてしまいました。SUさんは教学に長けた人でした。
それから、ブログ「飛雲」にたどり着き、10年近く永遠と批判し続けている書き込みを読みました。親鸞会を見下してバカにしている点は差し置いて、お聖教の根拠を元に間違った事は一つもないと思いました。親鸞会の出す印籠が本物なのか分からなくなりました。
TENさんのブログで廻心という言葉の意味が分からず、親鸞会の講師に質問し、その時に言われて分かった事をそのまま書き込みました。逆法闡提の聞かない心が翻って本願を聞くのが廻心だと言われ、謗法闡提廻心皆往生とはそういう事なのかと納得しました。念仏誹謗とは本願を疑っている心の事だと理解しました。もやもやした心境で投げやりにぶつけてしまいました。
教えの真偽が更に分からなくなり、このブログで色々と勉強させて頂いています。念仏と絶対の幸福が特に分かりませんでした。
suさんには、滅茶苦茶に悪口雑語をぶつけて思いっきり傷をつけてしまい大変申し訳ありませんでした。色々と教えて頂いた事に感謝しています。あそこで喧嘩しなければ本当の親鸞聖人の教えが分からずに、親鸞会の教義との溝が埋まらずにもやもやしたままでした。深くお詫び致します。ブログでは相手の顔も見えず、気持ちも分からずに、敵視する相手に言いたい放題に悪口を並べてエスカレートするのが恐ろしい事です。あそこはそういうブログになってます。
高森先生が完全に間違った事を言っていると判明しても信じようとする心。我が子が殺人犯だと判明しても信じようとする心。この欲目で見ようとする心は煩悩ですよね。もっと言うと自分を正当化しようとする心だと思います。この心の事を煩悩だと言っています。

深信因果したのでないの?

金星人さん。高森爺さんのいうとることに間違いないのでしょ?深信因果で、全て分かったのに親鸞会や、高森爺さん、ぶるうのさん、飛雲さんのせいにしてませんか?他因自果ですよね?ちなみにてTENさんのブログの貴方の発言は、他にも、早く答えろ!とか暴言いいまくりでしたけど、売り言葉に買い言葉でしたか?貴方の一方的な、お前ら悪知識だ!という決めつけでしたよね。ちょっとイライラモヤモヤして言っちゃうぐらいの深信因果なんですね。それ自是他非というのですけど深信因果ってよく言えますね。高森爺さんのところで信心決定したというのは何人かいますけど、見る人が見れば皆不思議体験のみ、高森帰命の外道の信心です。高森爺さんを信じているのは煩悩だからとツマラン言い訳しないで、板敷山の弁円をアニメでみましたよね。あれは何を貴方に伝えていますか?遅くないので慚愧懺悔して如来の大悲を今すぐ受け取ってください。

No title

今まで何度お詫びの言葉を書いてきたことか。それが口先だけであったことは、この1年の歴史が証明している。

今の心境

目的としている絶対の幸福というのが良く分かりませんでした。
深信因果とは因果の道理を深く信じるという意味ですよね。
何を人のせいにしていると言っているのか分かりません。
それぞれのブログは、親鸞会の間違いを的確に指摘してます。認めます。
喧嘩とはいえ、suさんの出す根拠を楽しみにし、親しみすら覚えてました。
淳心房さんと山よさんのブログを興味深く見させて頂いています。
分からない点を親切に教えて頂きありがたく思っています。
親鸞会が正しくて退会者を敵視する見方は完全にやめました。
高森会長に何を言われても、何とも思いません。既に絶対の幸福の信心と違うからお前の信心は異安心だと言われ続けています。

No title

間違った高森会長の教えを聞いて救われたと思っていたが、間違いだった。
ずらずら書いてきた体験談は、嘘だったと。

廻心

高森会長の話を聞いてではなく、「そのままだぞ」という阿弥陀仏の本願を聞いたのは確かです。親鸞会から、「そんなに簡単に聞く奴じゃない」とか、体験至上主義だ、機決定だ、法体つのりだ、・・・などと言われても事実は事実であり変わりありません。体験は人によって違うので体験談は語るべきでないと抑制されてます。

彼は火星人が廻心について投げやりに答えた事を怒っているのですか。
「親鸞会は、廻心と念仏誹謗を知らない」と言われて、何か特別な事なのかと思い、担当講師に質問しました。すると、「廻心・転入・廻入・回向。逆法闡提廻心皆往生。などと言って高森先生はしっかりと説いているからもっと真剣に聴聞しましょうね。」と釘を刺されてしまいました。それをそのまま投げやりに報告しました。「仏教を聞かず、因果の道理を認めない心が翻って本願を聞く」と解釈しました。ここで問題になるのが「逆法の屍」です。親鸞会は「逆法の屍」だというし、退会者の人は「逆法の屍は嘘だ」と言います。大沼和尚も「逆法の屍」だと言いますが、「それは味わいだ」とも言います。
親鸞会は上の心と下の心の図を書いて布団かぶって隠れいる心だと言います。これについて淳心房さんやAbcさんの見解を伺いたいと思います。

Re:今の心境

> 喧嘩とはいえ、suさんの出す根拠を楽しみにし、親しみすら覚えてました。

あぁ、金星人さんはただの「かまってちゃん」でしたか。あのブログでの一年に渡る暴言はsuさんにかまってもらうために書いてたんですか?


> 親鸞会が正しくて退会者を敵視する見方は完全にやめました。

と書きながら、直後に

> 「そのままだぞ」という阿弥陀仏の本願を聞いたのは確かです。
> 体験は人によって違うので体験談は語るべきでないと抑制されてます。

と、自分の体験と親鸞会教義から離れられないことを書いてますね。

No title

>高森会長の話を聞いてではなく、「そのままだぞ」という阿弥陀仏の本願を聞いたのは確かです。

では誰の話を聞いたのですか?
神の啓示を聞いたのでしょうね。

真生会でカウンセリングを受けられては如何でしょうか。
A橋医師は、新たな患者は診ないと無慈悲の宣言していますので、10燈会員のS浦医師に診てもらってください。余計悪くなると思いますが。

話は以上です。

金星人さんへ

何を人のせいにしているかわからないとか、何を彼は怒っているのか、ただ講師に言われたことを報告して。
と言いますがね。こちらにも転載した発言を忘れてますかね。(私達むかって)お前らに聞き間違いに真実を伝えてやっただけ、お前ら悪知識に騙されるところだった。これでこのブログから卒業できる。せいぜい死ぬまで念仏称えていろよ。他にも、真実の自己が見えていないお前ら善人さまは、年仏称えてアビ地獄だ!とこれもつい先ごろ言われましたけど、忘れてます?それでいて金星人を名乗り火星人とは違うというのは、自己弁護、反省がない、別人格を他人として他人のせいにしてませんか。と言うことですね。そしてこちらは怒ってないですよ。多分ここにいる皆さんそうだと思います。なぜわからんのか〜と残念に思っています。怒っているのは自分の信心を貶されたと思ってる金星人さんですよ。せいぜい死ぬまで念仏称えていろ!と言われても わたしは、ハイそうです。念仏はずっと死ぬまで称えさせて頂きます。それで地獄に行くなら結構です。親鸞聖人の言われたとおりさせていただきます。阿弥陀様と地獄に行きますよ。金星人さんとは同じところではないでしょうね。是非回心して一緒に行きたいですね。神さま?にそのままと言われたという体験は過去です。今の話ではないです。今どう阿弥陀様の願いを聞いて相続してますか?淳心房さんがブログを素晴らしい速さで更新してますけど、親鸞会と書いてますけど金星人さん一人が為と受けとめてください。どうかどうか。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

ごめんなさい

こんばんわ、Abcです。

>親鸞会は上の心と下の心の図を書いて布団かぶって隠れている心だと言います。これについて淳心房さんやAbcさんの見解を伺いたいと思います。(金星人さん)

・・・自分の読解力が足りないのでしょうか。「上の心」と「下の心」がそもそもどのようなことか分からないので答えようがありません。

誰か翻訳してください。おねがいします。

Abc

No title

「上の心」と「下の心」について、一年前に私が懇切丁寧に、繰り返し根拠を挙げながら、そんなものは真宗ではない、高森教の教えだと説明してきましたが、全く聞く耳を持たないのが、かの人物です。

高森教の妄想教義について知る必要もないですし、相手にするだけ無駄なことです。

Re: suさん

ご返信ありがとうございます。

>高森教の妄想教義について知る必要もないですし、相手にするだけ無駄なことです。

さようですか、そのように仰るならば言及はしません。

Abc

コメント返信

> 親鸞会は「逆法の屍」だというし、退会者の人は「逆法の屍は嘘だ」と言います。大沼和尚も「逆法の屍」だと言いますが、「それは味わいだ」とも言います。

↓↓↓

退会者の主張は、「全ての人は逆謗ではない」です。人類の中に五逆、謗法の者がいることは仏説ですが、全ての人が逆謗というのは仏説ではないということです。誤解なさらぬよう。

なお、「逆法の屍」とは

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり(高僧和讃)

が語源と思われますが、「逆謗の屍骸も」ですから、当然逆謗でない者がいるということです。五逆、謗法という仏道の死骸のような者も漏らさず救う名号の功徳を大いなる海に譬えたもので、『教行証文類』では行文類に

「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。

「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。

と言われ、これを正信偈では

凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。

と言われています。正信偈では凡、聖、逆、謗の四種類でしたが、これを『尊号真像銘文』では

「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。

と小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提の六種類に分けて教えられています。親鸞会ではこうした親鸞聖人の教えをことごとく無視し、「一切衆生必堕無間」の教義に合わせるために「全ての人は逆謗の屍だ」と言っているのですから、それは仏説でも浄土真宗でもない、脅しで聞く者を縛り付けるカルト教義だと批判しているのです。

自分の事を「逆謗の屍だ」と内省するのは結構ですが、全人類がそうではありません。五逆、謗法についての定義が親鸞会ではめちゃくちゃですから、高森教ではなく、仏教、浄土真宗で教えられる定義上で話をして頂きたいものです。



>「上の心」と「下の心」がそもそもどのようなことか分からないので答えようがありません。(Abcさん)

↓↓↓

簡単に言えば「上の心」は理性、意識のこと。「下の心」とは本心、阿頼耶識のことだと言っています。例えば、人は必ず死ぬと聞いて「上の心」はそうだそうだと頷くが、「下の心」は今日や明日には死ぬまいとそれを撥ね付けている、などと話しています。この「下の心」に仏法を聞かせないといけないが、ドタ牛のような心で布団を何十枚もかぶっているようなものだから中々聞いてくれない。この「下の心」がうんと聞いた時が聞だとか言って、それまでは聴を重ねるとか何とかいう話です。suさんが仰るように高森教で言われるだけで真宗には無い教義なので知る必要もありません。

このようなことですから、「上の心」とか「下の心」とか気にせずに、南無阿弥陀仏のお勅命をそのまま聞き受けてお念仏申す、これ以外に信心も安心も無いですよというのが私の答えです。


それと、金星人さんは何かと過去の体験で信心を語っていますが、それは一念覚知に類するものではないかと信心が危うげでなりません。

『安心問答』一念覚知の異安心について(水さんのコメントより)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130302/1362197109

等を参照して下さい。当ブログの読者やコメンテーターの方々にも、大体どのように求めていつ頃真実の行信を獲たかという記憶はあるかと思いますが、それを語る方はいませんね。私も語ることはできますが、さして重要ではないし、いつのことか忘れてしまっても構わないことなので別に語りません。というのも、信心は過去の体験で語るものでも、未来の救いをあてにするものでもないからです。つねに現在只今、本願に疑い無いか、念仏一つと弥陀に後生をおまかせしているかどうか、なのです。

過去にこんな体験をした、こういう声を聞いた、こういうものが、私の後生に何の役に立つかということです。現在只今、真如より私一人に喚び続けられているなんまんだぶの他に何の不足があって過去の体験を何度も取り沙汰されているのでしょうか。私もこの点を金星人さんに伺いたいと思います。

ありがとうございます。

おはようございます、Abcです。

>簡単に言えば「上の心」は理性、意識のこと。「下の心」とは本心、阿頼耶識のことだと言っています。(淳心房 さん)

解説ありがとうございます。「理性」と「本心」ですか。そうみますとどちらも「自力」ですね。

反対に「他力の本心」は「「たすけるぞ」を聞いてくれよ」としか言われていないので、私たち真宗のものは「今度の後生の一大事、おん助け候へ とたのむ」となるだけです。

親鸞は「浄土和讃」では
「悲願の一乗帰命せよ」「無極尊を帰命せよ」「功徳蔵を帰命せよ」といわれ、

「高僧和讃」では、「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称ずべし」とも勧められています。
別の箇所から抜き出しますと「円満徳号勧専称」(正信偈)ともいわれています。

ですから、「如来聖人のなされた通りにする」という「聖則」通りにされるのでしたら「弥陀一仏たのむべし」となります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

一念覚知

一念覚知の異安心とか地獄秘事とか驚喜正因とか正機自力正因とか善知識頼みとか不拝○○とか親鸞会の異安心について色々と書かれた論文を読ませて頂きました。そういった異安心とは違うと断言できますが、半分共感できる箇所もありました。それが、一念の体験がハッキリとしたものであったという事です。ただし、知覚、無知覚は論ぜずと注意書きがあります。実時は忘れてしまいましたが、逆登って特定する事ができるとは思いますが、それは問題とはしてません。また、その覚知が皆様から体験至上主義だと批難の的になっている事も分かりました。

金星人さん

淳心房さんのコメント

過去にこんな体験をした、こういう声を聞いた、こういうものが、私の後生に何の役に立つかということです。現在只今、真如より私一人に喚び続けられているなんまんだぶの他に何の不足があって過去の体験を何度も取り沙汰されているのでしょうか。私もこの点を金星人さんに伺いたいと思います。

に対しての金星人さんの返信がずれているんです。あなたの返信は淳心房さんの質問に答えていませんよ。自分に都合の悪い質問だからですか?

淳心房さんやみなさんは(私も含めて)「金星人さんが本当に声を聞く体験をしたのかどうか」を問題にしていません。だれも否定していませんよ。「声を聞く体験をした」とあなたがおっしゃるのなら、「そういう体験をしたのですね」と私は思うだけです。「その体験をした結果、疑い晴れて救われた」とあなたがおっしゃるから、

「ただいまの念仏に不足がありますか?」
「なぜ過去の体験を何度も取り上げるのですか?」
「過去の体験はあなたの後生に役に立ちますか?」
と淳心房さんが聞いているのではないですか。

それに答えないで、あなたは何を書きこみしているんですか?
相手の質問にまっすぐに答えないあなたとのやり取りを、suさんは一年間つきあっていたということです。そろそろ向き合ったらいかがでしょうか。

No title

どうして一念覚知になるのかという興味深い詳しい理論も書かれていたので、それを参考に、親鸞会の教義と自分の信仰と照らし合わせて自分なりに検証してみたいと思いました。

失礼しました

1.「ただいまの念仏に不足がありますか?」
2.「なぜ過去の体験を何度も取り上げるのですか?」
3.「過去の体験はあなたの後生に役に立ちますか?」
と淳心房さんが聞いているのではないですか。

失礼しました。まずは質問に答えます。

1.大変満足しています。
2.それは余りにもハッキリとした体験だったからです。
3.あの時の一念により、「阿弥陀仏の本願まことだった」と疑いが完全に晴れました。

ん?

あなたのコメントでは分からないので、もう一度確認しますが

「過去の体験はあなたの後生に役に立ちますか?」

ちなみに私がした体験は私の後生には役に立ちません。
あなたはどうですか?

回答

今まで自分が求めて来た事は全て空回りであり、一歩も前に進む事が出来ませんでした。聞いてきたつもりが、何一つとして聞く事が出来ませんでした。今後どれだけ求道しても後生に役立つものは一つもありませんでした。後生の一大事に驚く心すらありませんでした。
助かる縁が全く無い奴を、無条件でそのまま必ず助けるぞ。見捨てはしないぞ。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の本願は本当だった。ただもただもいらぬただとはこういう事だったのか。
っと大驚喜の心が沸きあがり、真っ暗闇の心が明るい心にガラリと変わりました。しかし、親鸞会の言う様な絶対の幸福とは違います。おかれている環境も状況も煩悩も何一つとして変わってません。頭も悪く、自己中で人の話は聞かないと注意されます。順逆共に変わらずにやってきます。
表現のしようがない心境をTENさんが見事に表現してましたので素晴らしいといいました。TENさんではなく、表現が素晴らしいと言っただけなので誤解しないで下さい。

もう一回お聞きしますね

その体験談は100回くらい聞きました。存じ上げています。
お聞きしたいのは、

「過去の体験はあなたの後生に役に立ちますか?」

です。

ちなみに私がした体験は私の後生には役に立ちません。
あなたはどうですか?

完結に回答

完結に答えると、
信の一念までの体験や行いは何一つとして役に立つもはありません。
聞即信の一念の体験は、感無量であり、往生をすべてお任せ出来ました。
以後、何の不足もなく往生の為の行は一切不要です。
順逆共に事ある度に感謝の念仏を称えています。

簡潔にお願いします

私がした体験は私の後生には役に立ちません。

あなたがした体験はあなたの後生の役に立ちますか?立ちませんか?

さっきからそれしかお伺いしていません。

簡潔に。


横から失礼いたします。

こんばんわ、Abcです。

>完結に答えると、
>信の一念までの体験や行いは何一つとして役に立つもはありません。
>聞即信の一念の体験は、感無量であり、往生をすべてお任せ出来ました。
(金星人さん)

このことを考えますと金星人さんには「信前の体験」と「聞即信の一念の体験」があるということでよろしいですか?

Abc

No title

金星人の頭の中を簡潔に言うと

信前の体験=求道は役にたたない。
信一念の体験は役にたつ

それを回りくどく言っているだけ。

信一念の体験=神の啓示だから、絶対に役にたつわけないけどね。妨げ以外の何物でもない。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

どうしても「体験」を離れない金星人さんに「歎異抄」を参考文献としてあげておきます。

『歎異抄 第16 信心の行者、自然にはらをもたて』 より
一切の事に、あしたゆふべに回心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、回心もせず、柔和(33願)・忍辱(34願)のおもひにも住せざらんさきにいのち尽き〔な〕ば、摂取不捨の誓願(18願)はむなしくならせおはしますべきにや。

口には願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。

(wikiarcより)

「信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。」です。

別の切り替えしをしますと、「義なきを義とす」(源空聖人 選択集)
「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。」(親鸞 末灯抄)
「なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、[云々]」(蓮如上人 御文 二帖 御袖)

で、ありますから私も
「私のした体験は、私の後生には役に立ちません。」です。

Abc

金星人さん

私は金星人さんご自身の言葉で直接お伺いしたかったのですが、suさんとAbcさんが丁寧にまとめて下さいました。
御二方のおっしゃることともし違うのなら、金星人さんコメント下さい。


「ただいまの念仏」に不足はなく、大変満足している、と仰る金星人さん。
それは、親鸞会でいう「念仏はお礼」の、お礼の念仏のことですか?

更に回答

>>信前の体験=求道は役にたたない。
>>信一念の体験は役にたつ

微妙に違うのは、信一念の体験は、させられた体験であり、だだ任せるのみであり、役に立つも役に立たぬも論ずることなしです。

念仏=名号=弥陀の本願、となり、念仏というよりは本願に満足しています。
良い事、悪い事が起こった時に念仏を称えると弥陀の甚大な本願力を偲ばれます。弥陀の本願を想えば仏恩報謝の念仏となります。
前に念仏とは、「そのままだぞ」という本願の心だと言って顰蹙を買いました。ご指摘のとおり、念仏とは南無阿弥陀仏の事だとお聖教に書いてあるので改めました。

No title

>微妙に違うのは、信一念の体験は、させられた体験であり、だだ任せるのみであり、役に立つも役に立たぬも論ずることなしです。

金星人の本心:させられた体験だから役に立つに決まっているだろうが!!!
でもそう言うと突っ込まれるから曖昧にして誤魔化そう。

一年以上も付き合ってきたから、異星人の屁理屈が出て来ることは容易に想像できたわさ。

まあ、神の啓示が役に立つかどうかなんて、論ずる以前の問題だけどね。

辻褄を合わせたいけど破綻してますよ。

金星人さん。体験に固執するあまり、過去と今の辻褄が笑えるぐらいあってませんよ。昨年の発言が間違いなら、体験も間違いですし、今、念仏喜んでいるなら過去の体験は捨ててください。昨年の今頃、ぶるうのさんのブログで既にご自身が信心決定していることを告白した上でのコメント。火の人 | 2017/02/02 17:04:56
というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 「お聖教の言葉」

往生を願う清らかな信心というのが求道心になります。  18願ならば往生は一定になります。往生を願いません。往生を願うのは19願の心です。
欲と怒りの煩悩の中に往生を願って求める心、求道心が起こるのは、弥陀の本願19願に身を任せてという事だと言ってます。
清らかな求道心が起こるのは自力ではなかったと分かった。阿弥陀仏一仏に心をかけて念仏して白路を進みなさいという事をお聖教で言ってます。
                    (根拠の出どころは飛雲参照)
お聖教の根拠を出して三願転入の説明をしてやっているのに、飛雲氏は自分の理論が崩されるのが怖くて完全スパムだと受け付けてくれません。その事実を表に出す為に「さよなら親鸞会」のコメントを使わせて頂きました。

と言ってましたね。念仏を経ずして信心決定されてます。このときはバリバリの高森爺さんの三願転入論者でしたね。最近は、高森会長が三願転入を言い出してから親鸞会がおかしくなった。自分はそれ以前の三重廃立から聞いていたので真仮廃立出来たと、これはTENさんのブログで言われてました。しかしその頃もまだ念仏を誹謗してましたね。しかしようやっと念仏に大変満足していると回答されましたね。まだビミョーに変な言い方なのが気になりますけど、去年と比べれば主張が変わってますね。以下はつい10日前ぐらいのカキコミ。

私も年が変わって逆境が続いています。ウイルスが奥歯から入って炎症をおこし食べる事が出来ず、一秒ごとにズキンズキンと痛み眠れません。念仏も百回以上称えましたが、罪福心で唱える念仏は効果がありませんでした。因果の道理は厳粛であり、悪業悪果の報いを受けているだけです。そういう悪性がよくも極楽参り間違いなしの身にさせて頂いたものだと、御恩報尽の気持ちで念仏を称えると、悪果がそのまま菩提に転じて苦痛も慶びの元になりました。しかし、悪果を受ける事は苦しみそのものであり、辛い事に変わりはありません。悪果は嬉しくありません。
以上は念仏尊ぶ気持ちは素晴らしいと思いますが、まだまだ私の称え心に執着してますね。
本願力回向から出たる念仏が信心です。よくよく称えて聞いて阿弥陀様の願いを聞信してください。それと聴聞が、聞法善とか言って、苦労して富山まで行った、私が苦しんで聞いた、上の心だ下の心だと煩悩を問題にしながら苦しんで聞いた。それが善行と思っているようですけど、違いますので、聴聞とは本願力回向を疑いなく南無阿弥陀仏と称えて聞くことです。結論は念仏することですね。間違っていたと今思ってもすぐに修正が聞きますよ。世間事と違って積み重ね、経験値、実績などいらない。今のお救いですので、既に阿弥陀様がご用意してくださってます。なんまんだぶなんまんだぶ。

金星人さんへ

親鸞会で信心決定して「ただいまの念仏」に不足はなく、大変満足している、と仰る金星人さん。 長々と書いて下さいましたが、私の聞きたいことが書いてありませんでした。


1.「お礼の念仏」という親鸞会の教えは正しいですか?それとも間違っていますか?

2.「お礼の念仏」と「御恩報尽の念仏」(称名報恩)とはどう違いますか?

金星人さんへ ②

1.「お礼の念仏」という親鸞会の教えは間違っています。
2. だから「お礼の念仏」と「御恩報尽の念仏」(称名報恩)とは違います。
というのが私の意見です。

あなたはどう思いますか?

あなたは私のブログでは、答えたくない質問になるとスルーして、私が更新した新しい記事にまったく別の内容のコメントを書き込んでいましたね。今回はそれはやめてくださいね。

管理人様にご迷惑でなければ、このコメント欄をお借りしてお話しを続けましょう。

Re: 金星人様

お答えありがとうございました。

1.「ただいまの念仏に不足がありますか?」
2.「なぜ過去の体験を何度も取り上げるのですか?」
3.「過去の体験はあなたの後生に役に立ちますか?」

1.大変満足しています。
2.それは余りにもハッキリとした体験だったからです。
3.あの時の一念により、「阿弥陀仏の本願まことだった」と疑いが完全に晴れました。

3の質問に関しては、

・信の一念までの体験や行いは何一つとして役に立つもはありません。
・信一念の体験は、させられた体験であり、だだ任せるのみであり、役に立つも役に立たぬも論ずることなしです。

と追記もありましたが、結局信一念の体験は後生の役に立つのですか? 立たないのですか? 論ずることなしと仰らずに、どっちだと思っているのか、正直にお答えいただきたいと思います。その答えがどちらであっても、私個人としては別に咎めも非難もしませんので、その点はご安心下さい。それよりも、本当に極楽へ参れるか、参られぬかの大事ですから、他人の顔色をうかがって場面を糊塗すべきではない問題です。正しい信心なら報土へ参れるが、もし間違った信心であれば親鸞聖人と同じお浄土へは参られぬのですから、こうした信心の沙汰は大事ですよ。


なお、これとは無関係に金星人さんに聞いてみたいことがあります。

金星人さんは親鸞会で高森会長の教え通りに信心決定されたと仰っていますが、それを講師部員や会員に語ったことがありますか? 語ったことがある場合、反応はどうでしたか? 語ったことがない場合、会員の皆さんにはゴールした人がいると励みになりそうなものですが、なぜ語らないのでしょうか?

また、七高僧方や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人方は、それぞれ回心までの道のりがあったと思われますが、それまでのことも、信一念の体験というのも、ほとんど語られてはいません。金星人さんは、TENさんの証言によると100回位自分の体験談を書いているようですね。なぜ善知識方は自らの体験を語られていないのでしょうか。金星人さんはなぜだと思いますか?

これも周りを気にせず率直に語っていただければと思います。何分私は他の方々より金星人さんとのご縁が少ないものですので、少しでも金星人さんのお考えを知りたいと思う次第です。よろしくお願いいたします。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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