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高森の教行信証(行編) - 高森の教を学び行を修すといへども、真実の行信を獲て報土に入ること無し

阿弥陀仏の本願」は確かに「聞く一つ」です。成就文に「聞其名号 信心歓喜」とあるように、名号のいわれを聞いて信心歓喜するので、我々は善知識からお救いの法を聞かせて頂く以外にありません。名号のいわれ、すなわち南無阿弥陀仏の六字のこころ、「助けるぞ」を聞くのがすなわち信です。聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はありません。

南無阿弥陀仏の六字が心に届いたのが信心、それが口に現れれば念仏であり、浄土真宗はこの名号六字の他に無いのであります。この名号六字によって我々は迷いの世界を離れ、浄土に往生して仏に成らせて頂くのです。念仏は私の口より出ずるものですが、それは我が計らいの心をもって称える私の行ではなく如来回向の真実行です。ですから、称名は私達の無明の闇を破り、往生成仏の志願を満たして下さる「最勝真妙の正業」だと仰せられてあります。

往生の行も信もすべて阿弥陀仏より回向せられる真実行、真実信であり、行と信は不離の関係です。分けて説かれてあるのみで、念仏と信心は二つであって一つ、一つであって二つです。『末灯鈔』11通には

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。

とあります。信心の内容は、「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」「行をひとこゑする」ということですから、これを聞いて疑う心が少しも無いということは、本願のおいわれの通り、おいわれのまんま、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申すということです。念仏と関係ない信心など真宗の信心ではありません。念仏といっても信心といっても共に本願の名号、念仏一つを心に、口に保つことに他ならないのです。

信心正因とか唯信独達とか、「信心を頂きなさい」「この信心一つ獲られたら・・・」などと、殊更信心ばかり強調するのは何も親鸞会ばかりではありませんが、「行をはなれたる信はなし」ですから、本願の仰せのままお念仏申す他に信心は無いのです。この他に、何かハッキリスッキリ安心満足しようと我が計らいの心をもって求めるから、反って訳が分からなくなってしまうのでしょう。

選んで正定をもつぱらにすべし」というよき人の仰せの通りただ念仏するより他に、我ら愚悪の凡夫が極楽に往生する道は二つと無いのです。仰せの通り念仏するのが行、仰せを疑い無く受け容れて念仏一つと心が定まったのが信、この行信は共に如来回向の真実の行信ですから、まことに真実の証果を開く因となって下さるというおいわれであります。

ですから、この如来回向の真実行をもって

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(中略)

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。
尊号真像銘文

と仰せられる一方で、また如来回向の真実信をもって

「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。(同)

とも仰せられています。「仏名をとなふる」という念仏と、「往生にはただ念仏」という信心とは、共に「無上涅槃のさとりをひらくたね」であり、行で顕すか、信で顕すかの違いのみで、双方とも同じことを仰っています。

このようなことですから、親鸞聖人は『末灯鈔』12通

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

と仰っています。信心一つで事足りると念仏を軽視するのも、念仏を重視して信心を軽んじるのもどちらも良くない、弥陀の本願は念仏を称える者を極楽へ迎えようという誓いなのだから、この御誓いを深く信じて(信)、つまり仰せの通り疑い無く、そのまま受け容れて、お念仏申す(行)のが、まこと本願のお心にかなった念仏の行者であるとお示しです。

本願の仰せ、南無阿弥陀仏の六字のこころを「聞く一つ」にて、念仏一行と心が定まり、仰せのまんまお念仏申す。それは我が計らいの心で称える自力の行信ではなく、彼の仏願に順ずる正定業、計らいを離れ南無阿弥陀仏に全ておまかせして称える如来回向の真実の行信ですから、こうした念仏の行者、信心の行者は間違いなく浄土に往生してこの上ないさとりを開くことが決定したのです。


こうした「真実の行信」を知らず、「高森の行」と、後に示す「高森の信」をほんまもんと勘違いしている親鸞会の会員は実に哀れです。「高森の信」を求めて「高森の行」を修めても「真実の行信」を獲ることとは何の関係もありませんし、「真実の証」を開くことなど絶対にできません。高森教の「因果の道理」からしてもそれは明らかに知られると思います。

聞く一つ」ですが、敢えて聞いたことを実行すると言えばお念仏申すことだけ念仏一行です。それに対して、高森教では高森教を自力で命がけで聞くことを筆頭に助正間雑雑行高森教の布教高森教徒の獲得高森教への献金高森教、会長並びに上司への無条件服従とまぁ雑多な行をやらせています。これらの行をやらねば信仰は進みませんとか言ってるのですから、何が「聞く一つ」だとツッコまざるを得ません。

今回は行編で示したことを古文調にしたものを紹介します。一部紹介しましたが、これを基にその説明をしたのが前回の記事です。文法的におかしな部分もあるかも分かりませんが、古文に詳しい方がいらっしゃいましたら、ここをこう直した方がよいなどご指導頂きたいと思います。


つつしんで高森の行を案ずれば、表裏の義あり。その表といふは聞法なり。聴聞なり。聴聞といふは、高森顕徹会長の話を聞くことなり。曰く、真剣に聞くべし。命懸けて聞くべしと。

『御一代記聞書』に曰く、「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」。また映画『なぜ生きる』に曰く、「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」

然るに「聞く一つ」といへども、聞法のみにては「絶対の幸福」を獲ず。高森に曰く、聞きたることを実践せよと。問う。何を実践す。答ふ。因果の道理なり。因果の道理といふは、すなはち廃悪修善なり。

その裏といふは聞法、廃悪修善の二行なり。これを修めて求道し、絶対の幸福を獲得すべし。求道を或は縦横の線と顕し、或は宿善厚くなる道程と顕し、或は二河譬の白道と顕し、或は三願転入の道と顕すなり。

高森に曰く、光に向かへと。光といふは縦線なり。信一念なり。決勝点なり。卒業なり。「人生の目的」完成なり。「絶対の幸福」なり。彼へ向けて、この横線を進むべしと。進む術は上にありて知るべし。横線を進み、縦線に到達する者、「絶対の幸福」を獲得するなり。その過程を求道と名づけたり。

また曰く、宿善薄き者、宿善を求めよと、厚くせよと。宿善厚くする術は、一に「熱心な聞法」なり。二に「五正行の実践」なり。すなわちこれ勤行なり。曰く、朝夕二度、欠くこと無く『正信念仏偈』、『御文章』を拝読せよと。三に「六度万行の実践」なり。布施(親切といふ)、持戒(言行一致といふ)、忍辱(忍耐といふ)、精進(努力といふ)、禅定(反省といふ)、智慧(修養といふ)なり。曰く、真剣に修すべしと。「善をしなければ信仰は進みませんよ」と。また破邪顕正せよ。財施せよ。高森顕徹会長並に上司の指示に無条件服従せよとなり。これらが行業を修して宿善薄きより厚きに至り、やがて宿善開発の時節到来するなり。時節到来する者、「絶対の幸福」を獲得するなり。その過程を求道と名づけたり。

また曰く、煩悩と格闘し、白道を進めと。白道とは、善導和尚の二河譬に依りけり。自力の求道を顕すなり。白道の中間に三定死あり。絶体絶命なり。その時、行者弥陀の喚び声を聞くなり。喚び声を聞く者、「絶対の幸福」を獲得するなり。その過程を求道と名づけたり。

また曰く、三願転入せよと。三願とは、弥陀の十九願、二十願、十八願なり。まず十九願より始めよ。十九願とはすなはちこれ修諸功徳の願なり。諸の功徳を修せよ。『観経』の定散二善を修せよとなり。やがて造悪不善の自己を知らるるなり。その者、二十願へ進む。二十願とはすなはちこれ植諸徳本の願なり。諸の徳本を植えよ。念仏を称えよとなり。やがて行者、地獄一定の自己を知らるるなり。必定地獄なり。地獄は一定すみかぞかし。その者、十八願へ進む。十八願に転入する者、「絶対の幸福」を獲得するなり。十九願より始めて十八願に至る過程を求道と名づけたり。

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。信心は自利各別にして、利他の一心にあらず。

六度万行はすなはちこれ雑行なり。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。

五正行はその行殊勝なりといへども、助正間雑するなり。朝夕の勤行を「五正行の実践」といふにはあらず。これ聴聞なり、御恩報謝なり。行者、助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。

高森は念仏の一行を勧めず、南無阿弥陀仏の六字のこころを説かず。雑行、助正間雑の行を授ける悪知識なり。彼の者の話を聞くを「聞法」といふにあらず、「聴聞」といふにあらず、「聞邪義」といふべきなり。彼の教を弘めるを「顕正」といふにあらず、「法施」といふにあらず、「弘宣邪義」といふべきなり。彼の教に献金するを「布施」といふにあらず、「財施」といふにあらず。彼並に上司に従ふを「諸善」といふにあらず、「万行」といふにあらず。これをもっての故にその裏といふは、聞邪義、弘宣邪義、献金、服従、助正間雑、雑行なり。

あきらかに知んぬ、これ凡夫自力の行にして、不回向の行と名づけざるなり。しかのみならず、是は是、組織拡大活動にして諸善万行といふべきにあらざるなり。故に知りぬ。真実の行に非ざるといふことを。然れば、高森の教を学び行を修すといへども、真実の行信を獲て報土に入ること無し。

悲しいかな、親鸞会の会員、六度万行といふも修諸功徳といふも定散二善といふもこれ名ばかりなり。朝夕の勤行と号して助業をこのむ。たとひ如実の善といへども、是は是、雑行なり、助正間雑なり。その実は聞邪義等の悪業なり。この諸の悪業をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。悪業をもっての故に悪道に堕する、これ道理なり。高森の行、顕し終りぬ。
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Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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