体失不体失往生の諍論(『口伝鈔』を直に拝読しましょう)

親鸞会では、親鸞聖人の三大諍論が重要視されていて、法話などでも何度も話がなされ、アニメ『世界の光 親鸞聖人』第2部にも描かれています。

体失不体失往生の諍論をアニメで何度も見ている会員の方は多いと思いますが、『口伝鈔』でどのように教えられているか知らない方もあると思います。私の知る限りでは、教学講義で1度『口伝鈔』を出して話をしたことがありました。

アニメで描かれた体失不体失往生の諍論と、『口伝鈔』のお言葉を比較して頂きたいと思います。


一 体失・不体失の往生の事。

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。

 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。

 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。



まず親鸞会で説かれるような、18願の「若不生者不取正覚」の「生」が平生のことか死後のことかの争いではないことが分かると思います。


では、『口伝鈔』の流れをみてみましょう。 
親鸞聖人が「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」、善恵房証空が「体失してこそ往生はとぐれ」と主張したことで相論になりました。
法然聖人は、最初、どちらの主張に対しても「そうだ」と答えられています。
しかし、それでは是非が分からないと、相論を聞いていた人がさらに法然聖人にお尋ねします。

その法然聖人のお答えを、簡単にまとめますと、

○体失往生
・諸行往生の機
・本願にあらず(19願)
・臨終を期し、来迎をまつ
 穢体亡失するとき(臨終)に、(化土)往生できるかどうかが定まる
・定散の機にかぎる

○不体失往生
・念仏往生の機
・仏の本願(18願)
・臨終の善悪を沙汰せず
 平生に業事成弁
・あまねく十方衆生にわたる


こうして、不体失往生と体失往生には、優劣の隔たりがはなはだしい、解説するまでもなく違いがはっきりしていると結ばれます。


いくつか分かることを列記したいと思います。

(1)親鸞会でいわれるような救いは現在か死後かという争いではなく、「往生が定まる」のが「平生」か「臨終」かの争いです。

(2)親鸞会では、19願を説明するとき、思いっきり省略して「善をしなさい、そうすれば助ける」ということがありますが、その助けるの内容は「臨終に迎えにいき化土往生させる」ということです。

(3)しつこいようですが、もう一度書きます。
 
 19願は、臨終に往生が定まるのです。
 今は「発菩提心修諸功徳 至心発願欲生我国」と自力諸善に励むことが勧められます。そして、臨終(未来)に往生が定まるのです。つまり、臨終業成です。

 18願は、平生に往生が定まるのです。
 今、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことが勧められます。「聞其名号信心歓喜乃至一念~即得往生住不退転」ですから、平生(今)、南無阿弥陀仏のいわれを聞く(=信)と同時に往生が定まります。つまり、平生業成です。
 『口伝鈔』のお言葉に、「至心信楽の帰命の一心、他力より定まる」とありますように、自力のはからいは一切まじりません。

(4)あまねく十方衆生にわたるのは本願である18願です。19願の諸行往生は、定散の機にかぎるのです。では、親鸞聖人は、定散二善を凡夫に堪えられる行であるかどうかについてどのように教えられたのかは先日書きましたので参照して下さい。
親鸞聖人は「定散二善は成じ難い」と教えられているのです


最後にもう一度書きます。
親鸞会の皆さんは、親鸞聖人の教えは「平生業成」と何度も聞いていると思います。
一方、19願は「臨終業成」なのです。

この違いが分かって頂けたでしょうか?

大沼師のパクリ損ないのアニメから学ぶのではなく、直に善知識方のお言葉に触れて下さい。
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No title

直接には「若不生者」の御文の論争ではないなんて
とうにわかりきったことです。

しかし敢えてそんなことに取り合わないのか。

「若不生者」の御文の論争ではないということをどうしても言うなら、
同時に言うべきことがあります。
この文章ではそれにきちんと触れていない。

それは、
「弥陀の救いは、死後か、現在か」わからぬことが、
本願成就文によって明らかになるのだ、ということです。

アニメでそんな詳細な解説までできないため、
法然上人のお言葉で決着させられているのです。


アニメに文句があるなら、その人がつくればいい。

そしてもっと多くの人に頒布すればいい。

どんな批判を受けるか。
それとも批判されるまでにも至らずにおわるか。


口先だけの、人の批判は、
『赤子の手を折るよりも』
簡単ですよ。




プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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