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「真実の行」を示さずに「大悲の願船」に乗るとか言い、創価学会の信心は貫き通す高森顕徹会長

『飛雲』 『観経』も『観経疏』も『教行信証』も全く読んだことがないから韋提希の話を創作するしかない高森顕徹会長

にて紹介されているように、11日はいつもの

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

について高森顕徹会長の話がありました。

大悲の願船」=「阿弥陀仏の本願」=「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

と相変わらず50年近く貫き通している創価学会の信心を説いていましたが、今回は「ガラリと変わる」説明に

与韋提等獲三忍 即証法性之常楽(正信偈)

のお言葉と、アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』を用いていた点がいつもと違いました。そして「三忍」について、直前に本願成就文をいつものように説明した後、

信忍=信心
喜忍=歓喜
悟忍=即得往生住不退転
(※)

と「三忍」を成就文のお言葉に当てはめて教えていた点も違いました。従来は

『挑戦の道 in Singapore』三忍 ・・・ 「喜忍」 「悟忍」 「信忍」

に書いてあるような説明で、成就文のお言葉と関係づけて話していたことは記憶にありません。そういう高森会長の文章を読んだこともありません。このように当てはめて教えている方はいるのかと調べてみたのですが、現時点では判明していません。ただ『正信偈大意』には

「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」というは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜悟信の三忍をうべきなり。喜悟信の三忍というは、一つには喜忍という、これ信心歓喜の得益をあらわすこころなり、二つには悟忍という、仏智をさとるこころなり、三つには信忍というは、すなわちこれ信心成就のすがたなり。しかれば、韋提はこの三忍益をえたまえるなり。これによりて真実信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、すなわち法性の常楽を証すべきものなり。

とあって、

喜忍」=「信心歓喜の得益をあらわすこころなり

とありますから「喜忍」が「信心歓喜」に該当するとは言えると思います。しかし他は・・・

信忍」をツユチリほどの疑心もなくなった心と説明するなら、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

とあるのですから「」もしくは「聞其名号」なのではないかと考えられますが、考察はこの辺にしておきます。


それにしても、譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇といい、

絶対の幸福になると苦しみの人生が幸せな人生にだんだんではなくガラリと変わる

と創価学会の信心の説明に正信偈(三忍)を利用するとは不届き千万であります。

自力から他力へと信心はガラリと変わっても、私たちの心も幸福もガラリとは変わらないのです。阿弥陀仏にすべておまかせをしたという点においてのみ、変わるだけです。

とある通りで、阿弥陀仏の本願を聞信した瞬間から、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得た瞬間から、真実の行信を獲た瞬間から苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにはならないのです。仮にそうなるとしても、高森の教を学び高森の行を修めている者は絶対に真実の行信は獲ることはできません。なぜなら、

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

とは行文類に説かれており、真実の行、すなわち南無阿弥陀仏を称えるという念仏一行による徳益を述べられたものだからです。「高森の行」という悪業悪行、助正間雑、雑行を修める者には決して窺い知れないものであることは言うまでもありません。尤も「高森の行」を修めて創価学会の信心を獲られる可能性はあります。


最後の方で本尊と二益法門について語っていたようですが、本尊については『飛雲』に紹介されているリンク先へ飛んで下さい。こちらでは二益法門について述べます。高森会長はいつも「往生は2回ある」などとホラを吹いていますが、このように説くことが「体失往生」と「不体失往生」について無知な何よりの証拠です。

体失往生」とは「諸行往生」の機、19願の機が遂げる往生で「化土往生」のこと。「不体失往生」とは「念仏往生」の機、18願の機が遂げる往生で「報土往生」のことです。「念仏往生」の機は平生の聞信の一念に往生が定まりますからこれを「体失せずして往生を遂ぐ」と言われたのです。生きている時の往生ではありません。

高森会長は「不体失往生した者を体失往生させる」などと無知を晒す発言をしていますが、これは

報土往生を遂げる身になった念仏往生の機が、死ねば諸行往生の機と同じく化土往生する

と言っているようなもので全くのデタラメです。ろくに真宗を学んでいないことの証明であります。

また、高森会長は現益の方を「往生」の語を用いて

絶対の幸福に往かされて生く

などと言っていますが、現益は「正定聚」の位に入ることです。ところが、

正定聚」の位に入る=「絶対の幸福

としますと、七高僧方は死後に「正定聚」の位に入ると仰っていますので、死後に「絶対の幸福」になると教えられたのが七高僧方ということになります。つまり、私達には信心を獲ても「正定聚」の位に入ったという明確な自覚は無いということです。その無いものを有るように見せかけ、現世利益で聞く者を釣って組織拡大に利用せんとして浄土真宗の教義を用いる高森教は本当に許せません。


大悲の願船」に乗るのは「南無阿弥陀仏」の名号法、すなわち「念仏一行」という「真実の行」によるのですから、いくら「高森の教」を学び「高森の行」を修めたところで絶対にできません。会員の皆さんは、偽物の浄土真宗から速やかに離れ、本物の「浄土真宗」を聞いて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。



【参照 及び 追記】
『WikiArc』三忍

※・・・この配当は、山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』からのパクリだそうです。
之を成就文に配すれば、信心が信忍、歓喜が喜忍、即得往生が悟忍である。」(P.878)
suさん、ありがとうございました。
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No title

三忍と成就文との関係については、山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』からのパクリです。

「之を成就文に配すれば、信心が信忍、歓喜が喜忍、即得往生が悟忍である。」(P.878)

Abcです

Abcです、今日も相変わらずの寒さです。
滑らないように注意しないといけません。

さて、「観経」の話が出てきたとのことでしたので、先エントリーで記した事柄の再投をしておきます。「三忍」に関しましては「親鸞の学術的考察」でありますゆえ、あまり追及はされておりません。

再投箇所
---
補願
この9願には含まれていませんが、「観経」のイダイケ夫人の下りでも出てきますのでしるしておきます。特に35願は、「対象者には女人も含まれる」という当時の仏教界では画期的なものでした。

34願 聞名得忍願
『正信偈』の「与韋提等獲三忍」にあたり、
「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。」とも言われています。ですがこれは親鸞会がいうところ
「ハッキリ分かった」と言うことではありませんので留意しておいてください。

35願 女人成仏願
文字通り「女人を助ける願」です。蓮如上人はお手紙(御文)のなかにて、

「まづわが身は女人なれば、罪ふかき五障・三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も三世の諸仏にもすてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりかかる機をすくはんと誓ひたまひて、すでに四十八願をおこしたまへり。そのうち第十八の願において、一切の悪人・女人をたすけたまへるうへに、なほ女人は罪ふかく疑のこころふかきによりて、またかさねて第三十五の願になほ女人をたすけんといへる願をおこしたまへるなり。かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもふべきなり。」(御文 一帖 吉崎 より)
と言われています。そのため真宗におかれましては「男人 女人えらばず嫌わず」なのです。

---

親鸞著『正信偈(正信念仏偈)』
「与韋提等獲三忍」 (韋提希夫人(いだいけぶじん)と等しく三忍(さんにん)の徳を得て)

親鸞著『文類偈(念仏正信偈)』
「入涅槃門値真心 必獲於信喜悟忍」 (涅槃門に入りて真心に値へば、 必ず信 喜 悟の忍を獲)

とあります。

走り書きで申し訳ございません。 なもあみだ なもあみだ

Abc

庄松ありのままの記(永田文昌堂)より

御法主「(略)後生の意見をしてくれるのは汝一人じゃ、よく意見をしてくれた。しかし汝は信を頂いたか。」
庄松「へェ頂きました。」
御「その得られた相を一言申せ。」
庄「なんともない。」
御「それで後生の覚悟はよいか?」
庄「それは阿弥陀様に聞いたら早う分かる、我の仕事じゃなし、我に聞いたとて分かるものか。」
御「弥陀をたのむと云うも、それより外はなし、多くは我機をたのみてならぬ、お前は正直な男じゃ、今日は兄弟の杯をするぞよ。」


庄松は
現在、阿弥陀様に救われている自覚があること、と
自分は何もわからないが阿弥陀様にすべておまかせしている心境を述べておられます。

実際に無いものを有ると考えるのは無明である。(wikipedia )

会の教える絶対の幸福の正体に気づきましょう。

体験だけで申し訳ありません

一念覚知という事を教えて頂き、論文を読ませて頂きました。一念により心がガラリと変わるのは確かですが、親鸞会の目的にしている絶対の幸福とは違うと思います。
一念覚知の論文を基に親鸞会の教義を考えてみると、大沼和尚の「魂のささやき」に書いてある、「後生の一大事」と「逆法の屍」と「上の心、下の心」に秘密があると思いました。
高森先生は怪しい人で、親鸞会はカルトだと思いつつ、24年も同じ話を聞き続けてきたのは、上の三つが教義の根底にあったからだと思います。
私は元々聖道門の機でしたので、阿弥陀仏の本願を聞く耳が無く、心の奥の奥の深い所に何か得体の知れない恐ろしい心があり、それが何なのか。その心をズバリ教えて解決するのが仏教だと認識していたので、不思議不思議と聞く気が無いのに聞き続けてきたのだと思います。
布団が次々に剥がされて、隠れていたのが「逆法の屍」の心であり、どうする事も出来ずに只々恐れおののくのみでした。そこに、「そのままだぞ」と本願名号が届いたので、疑情が晴れて、本当だったと大驚喜の心が起こりました。
その事が、あの論文に書いてある半分は共感できる所であります。
本当に申し訳ありませんが、教学の根拠が出せず、体験でしか語る事が出来ません。体験談は人それぞれ異なるので、獲信の妨げになるから語るべきものではないと抑制されてますが、私には阿弥陀仏との仏縁を語る事しか出来ません。また、語らずにおれません。謗る人は幾らでも謗って下さい。それも仏縁になる事かと信じています。
SUさんとの喧嘩もその様な思いがありましたので楽しみでした。分かってはいただけなくても、SUさんは仏縁の深い偉大な人であり、物凄い人かと想像してました。常に教学の御文を出して「これはどうだ」と投げかけてくれました。TENさんの言う様に、かまっていただきたかったのかもしれません。

No title

>私は元々聖道門の機でしたので

嘘ですね。出家して聖道門の修行をしている人が聖道門の機。
火星で修行してるの?
違った金星で修行してきたの?

いずれにしても真生会でカウンセリングを受けることをお勧めします。

突っ込み

この様に体験談を書くと、「それじゃ信前の求道が役に立ったって事じゃん。矛盾しているよ!」と突っ込みが入ると思います。
自分のやってきた事は何一つとして往生の役に立つものはありません。
調熟の光明に促されて、頭だけ合点して形だけ求道していただけです。
助かる縁が一つも無く、同じ所をグルグル回っている姿を知らされる為の方便であり、これも自力でありながら他力の働きであったと思います。
だから、一から十まで阿弥陀仏の一人働きであったと思わずにおれません。
淳心房さんの言う通り、最初から横の線はありません。勝手に横の線を作って進んでいる様に思い込んでいただけです。なので横の線は縦の線には繋がっていません。自力でいくら求道しても絶対に縦の線には辿り着けません。
何一つとして役に立つものはありません。

No title

いや~、本当に家出して座禅の修行をしようとしました。
失敗して精神科のカウンセリングも受けましたよ。神経症の薬を飲みました。
親鸞会から勧誘された時に、麻原彰晃からも勧誘されて行こうとしました。
聴聞する姿勢も聖道門の機であり、仏道修行の一つだと思ってました。
これは冗談ではありません。

No title

ならば、三願転入したという火星人の体験は嘘だったということね。

No title

家出して座禅しようとしたくらいで聖道門の機なら、聖道門の機で溢れていますね。

世界的に座禅ブームなので、キリスト教徒の聖道門の機、イスラム教徒の聖道門の機もたくさんいるわ。

こちらのコメントものびてますね。前の記事にもコメント書きましたので読んでね。金星人さん。

語るなというのは、親鸞会が語ると突っ込まれるから語るな、なので。
蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
の蓮如上人の言われたようにしたらいいと思います。だけど直してください。今のままは信心詐称ですよ。お念仏が、無いのに信心決定した。ということはありえませんので、信の一念を念仏と捉えずに、びっくりドッキリ体験と捉えているから間違いなのです。名号法に所帰してないのですよ。で相変わらずの念仏をサンキューぐらいに思って念仏してると言ってるわけですよね。前の記事のほうにカキコミしましたけど、歯がいたいの治してくださいと思って念仏したら効かなくて、お礼御恩と思って念仏したら治った!凄い!やっぱり念仏功徳ある!そんな理解ならアーメンとなんでしたっけ、火星語だと、らーめんですと平気で言ってしまうのです。阿弥陀様がそのままと言ってくれたから念仏誹謗のままていいのだ!センダイでいいのだ!お手前勝手で解釈してますよね。「そのまま」と聞こえたというのは都合のよい言葉ですね。回心皆往わかったと最近言ってましたけど、相変わらずの逆法センダイで平気なわけですか。口で分かったと言っても駄目ですよ。

Re: 金星人様

> 一念により心がガラリと変わるのは確かですが、親鸞会の目的にしている絶対の幸福とは違うと思います。

では、金星人さんは高森会長の教えの通り進んで信心決定したが、高森会長の教える絶対の幸福にはなっていないということでよろしいでしょうか?


> 一念覚知の論文を基に親鸞会の教義を考えてみると、大沼和尚の「魂のささやき」に書いてある、「後生の一大事」と「逆法の屍」と「上の心、下の心」に秘密があると思いました。

大沼師や伊藤師のパクリのままならまだ良かったのですが、どんどん邪義を入れてゆき、今はほとんどオリジナル教義、創価学会の信心を教える教義と化しています。金星人さんは大沼教学や伊藤教学の残り香に触れたのかもしれませんね。


> 本当に申し訳ありませんが、教学の根拠が出せず、体験でしか語る事が出来ません。体験談は人それぞれ異なるので、獲信の妨げになるから語るべきものではないと抑制されてますが、私には阿弥陀仏との仏縁を語る事しか出来ません。また、語らずにおれません。謗る人は幾らでも謗って下さい。それも仏縁になる事かと信じています。

教学をあまり知らないのであれば学べばよいのではありませんか? 今からでは遅いというものではありません。親鸞聖人は法然門下に入られてからその勉学ぶりは相当のものであったようですが、それからも生涯に亘って教えを学び続けられたのでありましょう。ならば我々も、知らないことばかりなのですから少しでも教えを知ろう、お念仏のお心を知ろうと聴聞したり、本を読んだりして学んでゆくべきでしょう。それによって知らないことも知らされ、いよいよお念仏の尊さを知らされて歓喜するものと思いますよ。なんまんだぶつなんまんだぶつなんまんだぶつ・・・

いまさらながら

こんばんわ、Abcです。

>調熟の光明に促されて、頭だけ合点して形だけ求道していただけです。(金星人さん)

「調熱の光明」は、「遍照の光明」と言うことでよろしいでしょうか。
もし違っていたならば、簡単なご説明をお願いいたします。

Abc

同属嫌悪

同じ「高森親鸞会」の飯(教義)を食べた同士なら「同病相憐れむ」という憐憫の情があると思ふのだが、脱会者は「同属嫌悪」「近親憎悪」の情に幻惑されて、かっての仲間を罵倒するのであろう。

こういう事を書くからアングリマーラの譬喩、

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。

を依用して、ぼろくそに非難されるのだが、唯識の熏習という高森親鸞会の攻撃的姿勢の習い性から、脱会者を批判するのであろうか。

 以仏願力 五逆之与十悪罪滅得生。謗法闡提 回心皆往。
仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

の回心を論ずるべきであろう。否定は何も生みださないのである。困ったこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

追記(金星人さんへの返信)

またまた申し訳ございません。Abcです。

>歯がいたいの治してくださいと思って念仏したら効かなくて、お礼御恩と思って念仏したら治った!凄い!やっぱり念仏功徳ある!(金星人さん)

...? そもそも「歯がいたい」というのは(虫歯という前提ならば)、「糖分を含んだ食品を咀嚼したことによって糖が歯に付着し、それが歯の主成分Ca(カルシウム)を腐食することによって起こる歯神経の炎症」ではありませんか? その「因果の理」を「なんとかしてほしい!」と思い、歯医者(歯科クリニック)に行かれるのでしょう?
お仏壇の前で「歯がいたい!治してほしい!」といくら懇願したとしても直らないと思いますが。

お仏壇にまします阿弥陀さまは、「超世の悲願」を建てられ、ひろめられている如来です。この「超世の悲願」は凡夫の「因果の道理を大きく背いている」ために、「不可称 不可説 不可思議の願力」とも言われ、「無碍光」というお力から「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず」(正像末法和讃)とも詠われています。

金星人さんは仏心宗(禅宗)ということですので「禅」ということを私が知る限りで説明しますと、「禅宗では座禅を組み、私自身が持っている煩悩を無に返す」ことを行うとうかがっております。(これを「無の境地」というらしいです) 私は過去に福井の永平寺 石川の総持寺 を訪ねたことがございますが、金星人さんが仰るように修行僧たちが座禅を組まれていました。それはもう圧巻でしたし、道元禅師(禅宗の開祖)のいわれをきき、私の中での「禅宗」というものの印象というか「学ぶこと」もございました。

さて、「座禅をして煩悩をなくす」というのは「私の計らいにて座禅をし、「煩悩」をなくそう」としていることですので浄土教では「仏心宗もまた自余の行」(選択集 など)といわれています。
少し話はそれますが、「お釈迦様は阿難や浄飯王(お釈迦様のお父様)に「念仏三昧」を勧められたのか」を考えられたことはございますでしょうか。これについて源空聖人(法然上人)は主著『選択集』にて

「問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。
答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」
(wikiarc 法然上人『選択本願念仏集』 観仏三昧と念仏三昧の一経両宗 より)

と顕されております。これによって金星人さんが修せられたとされる「聖道門」は「念仏の余善に超過したることを顕さんがため」と読み取ることが出来ます。

そのため源空聖人(法然)は巻頭にて、
「浄土宗の学者、先づすべからくこの旨を知るべし。たとひ先より聖道門を学する人といへども、もし浄土門にその志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。」と言われているのです。

私も「帰命尽十方無碍光如来」と弥陀におまかせして随分と経ったようにおもえますし、また少ししか経っていないような気もいたしますが、みな同じ心持ちとなられてお念仏申されていただかれたく存じます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

かまってちゃんの林遊さんへ

回答もせず、よくもぬけぬけとコメントできたものだ。
誰からも相手にされず、かまってほしいのでしょう。
では回答しましょう。

再掲

一退会者として黙っておれないので。
これまでのまとめ

1.釈尊はカルトの教えを実践し大量殺人を犯したアヒンサ(アングリマーラ)を許されて弟子にされた。

2.天親菩薩は最初、小乗仏教を信じられて大乗仏教を誹謗されていたが、親鸞聖人は七高僧のお一人として尊敬されている。

3.他の高僧方も親鸞聖人も、最初は聖道門を信じられていた、つまり浄土門を軽く見られていた。

4.耳四郎は、殺人放火強盗をしてきた者であり、法然上人の法座での盗みを計画までしながら、法然上人は許されて弟子にされた。

5.板敷山弁円は、最初修験道を信じ、親鸞聖人を害する企てをしながら、親鸞聖人は許されて弟子にされた。

以上より、
親鸞会で被害者となり、時には加害者でもあったにせよ、他人の身体を害するようなことはしてこなかった退会者に対して、加害者としての責めをしつこく迫ることが、仏教徒として、真宗の同行として、当然の行為と言えるのか?

明確に、根拠をもってお答え願いたい。

林遊さんへ

入信して日が浅い私が、林遊さんに申し上げるのはなんですが、ことに脱会するまでに、林遊さんのブログや梯和上の法話など感動しまして勝手に、お世話なっておりましたもので。
金星人さんに対して同病あい憐れむの気持ちはあります。良く知った方なのです。そしてその裏のまだ会員の法友にもなんとか脱会してもらいたいのです。勉強不足なので言葉が否定に否定となるのは相手に申し訳ないとは思います。同族嫌悪で醜い争いと第三者の林遊さんは事あるごとに言われますけど、そのように言う林遊さん、金星人さん私の宿業ではないかなあと思ってます。今ここで、こうあるのは、凡夫の私には複雑な因縁でわからないけど宿業と受け止めてます。早く死んで極楽に行って還相で帰って来たほうが、思うように助けられるのではないかなあ、とも思います。ですが子どもが小さいので死ぬわけには行きません。家族を食わせねばなりません。
真宗とのご縁は林遊さんは本願寺きっかけですけど、私は親鸞会きっかけなのです。たまたまのことでなんだかんだ言われる程の大きな差はないと思います。そしてたまたま林遊さんは先に救われて私はたまたま後に救われました。金星人さんもたまたま今こんな感じなのです。たまたま行信をえて遠く宿縁を慶んでます。
 もう一つ場が荒れるのは、荒れると注目する人がいます。私がそうでした。昔、真実信心がわからなすぎて林遊さん等の念仏者の言ってることが理解できず、そこでワイドショー感覚で親鸞会対脱会者の対立軸で見てました。浄土門の凄さは聖道門を説かないと凡夫にはわからないような感じですかね。やっと意味が分かり己の真偽検証がすみ、聴聞することができました。なので昔の私みたいな人、注目してみてくれんかな〜。きっかけで良いので。
すみません淳心房さんのブログなのに勝手に荒らしました。またやりますのでご容赦ください。

No title

>同じ「高森親鸞会」の飯(教義)を食べた同士なら「同病相憐れむ」という憐憫の情があると思ふのだが、脱会者は「同属嫌悪」「近親憎悪」の情に幻惑されて、かっての仲間を罵倒するのであろう。

はっきり言って、全くの的外れ。
これまでのやりとりを読めばわかりそうなものですが、上から目線で見下し、石を投げ続け棒で叩きまくる醜い心を改めない限り、死ぬまでわからないのでしょう。
あなたと違って、退会者は心を改めた人を許すのですわ。
まあ、あなたの性格ではわからないでしょうね。
黙って見てなさい。

報謝の念仏

親鸞会の話で一番分からないのが絶対の幸福であり、勝手にこういう事かと理解してました。相対の幸福の延長にはなく、相対の幸福しか知らないので表現が出来ない不思議な幸福。猫に鰹節の様なもので、機に応じて聞く人が勝手に忖度する曖昧で適切な表現なのかと思っていました。真相は淳心房さんや飛雲さん達が指摘する通りです。TENさんの表現が適切かと思います。
弥陀の本願は大宇宙くまなく何時でも何処でも普遍的なものであり、言葉は関係なく弥陀の本願の心が本質にあるなどと、浄土真宗をかけ離れた思想に偏っていた時に、チュウビさんから念仏が真宗の全てなので教行信証行巻を読めと言われて読みました。念仏の功徳について色々と書かれていました。80億劫の罪が消えるとか転悪成善だとか苦が楽に変わるとか・・・。
その時に奥歯からばい菌が入り、リンパが腫れて鼓動の度に劇痛が走り、布団の中で痛い痛いと苦しんでました。念仏の功徳を思い出して痛いなか称えつづけました。その時に気付いたのが、「自分はこの場に及んで信罪福心の念仏しか唱えられない愚か者だ。地獄の苦とは比べ物にならない。それをそのまま救うとは有り難い本願だ」と報謝の念仏に変わりました。報謝の念仏を称えれば歯の激痛は変わらなくても、歓喜の心が生まれました。行巻に書いてあった念仏とはこういう事なのか。という事でコメントを書きました。これも自分の味わいなので、本当は違う事が書かれてあるのだと思いますが分かりません。
お聖教に書いてある事は難しくて読解できないところが多々あります。YouTubeで説法を聞いたり、淳心房さんのブログを見させて頂いて勉強してます。これからもよろしくお願いいたします。

No title

仏願の生起本末を聞くこともなく、疑心あることなしになるかってことです。
高森教の生起本末しか聞かなかったけど、体験だけはしました!!

これを神の啓示と言う。

suさんへ

SUさんと論議すると、また、あらしになるので控えたいと思います。
三願転入については、「弥陀の本願まこと」をもとに都合よく解釈していたのかもしれません。18願は淳心房さん達の言う通りです。その世界に出させて頂くまで阿弥陀仏は常に善巧方便し、調熟の光明をもって早く真実を聞けよ、蓋をとるぞと呼びかけとおしです。それが方便の19、20願によるものだと確信してました。なので、SUさんとは、あれだけ激闘する事になりました。
仏願の生起本末については、後生の一大事とセットで常に聴聞してきました。法蔵菩薩の話、病人と医者と薬と全快の話、本師本仏の話、毎回毎回阿弥陀仏一仏をたのめ、と何度も何度もその事一つを繰り返して聞いてきました。その事は退会者の人達も否定できないと思います。否定されたとしても、私は本願一つを聞き続けてきました。ここ10年の話は聞いてこなかったので何とも言えませんが、十年前までは「後生の一大事、必ず助ける」という本願一つの聴聞でしたよ。

No title

>仏願の生起本末については、後生の一大事とセットで常に聴聞してきました。

だから高森教のでしょ。やっぱり正しいと思ってるじゃない。
それなら、
こんなところで教えてくれ
でなく、
俺が正しい教えを教えてやる
でしょ。

金星人の目的がはっきりしたでしょ。

金星人さんへ

> 仏願の生起本末については、後生の一大事とセットで常に聴聞してきました。法蔵菩薩の話、病人と医者と薬と全快の話、本師本仏の話、毎回毎回阿弥陀仏一仏をたのめ、と何度も何度もその事一つを繰り返して聞いてきました。その事は退会者の人達も否定できないと思います。


ちょっと待ってくださいね~!

その親鸞会の教えが間違っていますよ。 と、昨日からあなたに言っています。聞こえていますか?
「病人と医者と薬と全快の話」で「念仏はお礼」と高森会長が昔から毎回言いますよね?  
それ、間違ってます。真宗の教えではありません。 退会者の私があなたに言っています。スルーしないでください。

「念仏はお礼」という親鸞会の教えは正しいとあなたは今も思っているんですね?

No title

高森教は正しく仏願の生起本末を教えていてそれを聞いて救われたんだ~

そういう人が、高森教が正しいかどうか分からなくなったとは言わないのよ。
嘘が下手過ぎ。

真相は分らん

確かに「念仏はお礼だ」と聞いて来たかもしれないですね。
聞くのは本願名号だと認識してました。
念仏は称えさせられる念仏であり、信後の念仏はお礼の念仏に限る。とか。

本願まことの体験からしか見る事ができないのですが、高森教の全部が全部間違いだとは言えませんね。
真実と方便とカルトがゴッチャになっているから厄介なのです。火星人は親鸞会が間違いないという観点に立ってました。
飛雲氏や淳心房氏やTEN氏のブログ、特に嶋田講師の「私の白道」を読んで親鸞会の正体が益々分からなくなりました。なので、高森先生を信じる信じないは疑煩悩であり、どうでもいい問題だと思う事にしました。
淳心房さんから、浄土真宗ではどの様に教えられているのか勉強する事にしました。

No title

>淳心房さんから、浄土真宗ではどの様に教えられているのか勉強する事にしました。

過去の体験は真宗の救いとは関係なかったと宣言してから、そういうことを言いましょうね。

親鸞会の「お礼の念仏」は間違い ①

「お礼の念仏」は間違い

金星人さんが信じている「念仏はお礼」という親鸞会の教えは間違いです。

1.だれが主体なのか

「念仏・お礼」で検索すると親鸞会関係のサイトばかり出てきます。つまり、本来の真宗では「念仏=お礼」とは教えられていない。なぜかというと「お礼」とは「私が相手に対して行うこと」だからです。行の主体が「私」だから間違いです。
真宗では「私」が主語になることはありません。お礼とは「私が阿弥陀仏に対して称える念仏」だから、間違いなのです。「他力回向」「本願力廻向」を領解していなから、間違いなのです。

阿弥陀如来に救い摂られると「主体」が転換します。法然上人は「念仏を主人とし、煩悩を客人とせよ」とおっしゃいました。これは「弥陀が主人であり、私は客人である」ということ。
私の往生は、私のはからいによってかなうのではなく、すべてが弥陀のおはからいによって成されるもの。私はただ自分のはからいを捨てて、阿弥陀如来のおはからいにおまかせするだけ。だから弥陀が主人公で私は脇役。弥陀がホストで私はゲストです。
それが分からないのが疑情であり、自力の心です。

そして、親鸞会の人が好きな「聞即信の一念を突破したら」の表現を使うならば、「聞即信の一念を突破したら主体の転換が起きる」のです。主体の転換が起きた人には、「私が称える念仏」というものは無いと知るのです。「弥陀が私に称えさせている念仏」となります。ですから「念仏はお礼」は間違いです。

ところが、あなたの領解をお聞きすると、すべてにおいて「私」が主語になっています。「主体が転換していませんね」とこちらから質問すると、あなたは表現を変えます。「私が称えた念仏」ではなくて「私が称えさせられた念仏」と言い直す。
でも、やっぱり主語が「私」のままなのです。それを私は4ケ月の間、ずーっと見続けていました。あなたに詳しくお話しもしました。ですが、あなたの最初の書き込みから最後のコメントまで、すべて「私」が主語でした。
真偽検証ブログにおいて金星人さんが書いたコメントを読み返してみて下さい。「私」が主語の体験や教義ばかりを書いています。まだご自身が主役の求道物語を語り続けるのですか?話せば話すほどに、廻心していないな~、と私は思うだけです。

法然上人の「念仏を主人とし、煩悩を客人とせよ」のお言葉どおりに親鸞聖人は廻心され主体の転換が起きました。蓮如上人の「仏法を主人とし、世間を客人とせよ」もまったく同じ御心です。
しかし、まだ主体の転換が起こっていない人は善知識が往かれるお浄土には往かれません。

なぜ親鸞会で「聞法」しているのに、(あなたの場合は不思議な声まで聴いたのに)主体の転換が起きないのだと思いますか?。

親鸞会の「お礼の念仏」は間違い ②

2.「聞法」という言葉を誤解している

なぜ聞法してきたのに、主体の転換が起きないのか。それは間違った聞法をしているからです。

【親鸞会が勧める聞法】

だれが・・・・私が
どのように・遠くまで行って
       何度も聞法して
       無常や罪悪に驚いて
       真剣に聞いて
なにを・・・・弥陀の作った名号を
どうする・・獲る

こういう聞き方は間違いでした。


【本来の意味での聞法】

だれが・・・・阿弥陀如来が
どのように・法蔵菩薩になりさがって
       苦しみ悩む人を救いたいと願いを起こして
       五劫の思惟をして
       兆載永劫の修行をして
       名号を成就して
        光明の働きによって名号を回向して
なにを・・・ 出離の縁手がかりのない私を
どうする・・出離させ、弥陀の浄土に生まれさせる

という弥陀の願いを聞かせて頂く。「聞法」の「法」とは「弥陀が私にかけた願い」であり、それを聞かせて頂くのが聞法です。それがそのまま「仏願の生起本末を聞く」ということなのでした。

正しい聞法をした時に、ハッキリしない、ぼんやりとした、心があります。「仏願の生起本末を聞いてもおとぎ話にしか聞こえない」「西方十万億土の遠い話にしか聞こえない」という心です。しかし、その心が必ず晴れます。「私一人のための仏願だった」と喜べます。それが主体の転換が起きているということです。この「主体の転換」は私が阿弥陀様のことを忘れている時も、一切変わりなく続きます。聞即信の一念からずっと変わりません。

正しい聞法を一緒にしましょうと以前からあなたに言っています。そのためには「間違った聞法」は捨てなければなりません。
正しく説いて下さる先生に出逢えて、その先生から聞き始めたら、そして「聞法とは何を聞くことなのか」が分かったのなら、もう救われたも同然だとまで私は思います。それを「光明の縁に遇う」とか「宿善開発」と教えられているのだと、個人的には思います。

「正しい聞法」と「間違った聞法」、あなたはどちらを選びますか?

親鸞会の「お礼の念仏」は間違い ③

3.あなたの称名はどうですか?

金星人さん、「真相は分からん」など、投げやりな返答をせずに、今のご自身に向き合いましょう。お念仏称えてみて下さい。

1.阿弥陀様が私に称えさせている念仏
2.私が称えている念仏
3.私が称えさせられている念仏

どの言葉がしっくりきますか?

2と3なら、納得できるけど、1だったらモヤモヤしませんか?それが疑情ですよ。自力が廃らないとそのモヤモヤはなくなりません。


親鸞会が勧める聞法では、廻心は起こりません。主体の転換は起きません。

親鸞会の「お礼の念仏」は間違い ④

4.称名報恩、仏恩報謝の念仏とは

「お礼の念仏」と「称名報恩」と「仏恩報謝の念仏」の違いについては簡潔にします。

・親鸞会の「お礼の念仏」は信後の念仏として不適な言葉です。
・称名報恩とは、信心正因に対しての言葉です。
・仏恩報謝の念仏とは、祈願請求の念仏に対しての言葉です。

金星人さんに知って頂きたいのは、

廻心が起きるまでの念仏は、祈願請求の念仏です。
廻心が起きた後の念仏は、仏恩報謝の念仏です。

お仏壇に向かって念仏称えてみて下さい。ご自身の心に向き合って下さい。
「ただいまの念仏」に本当に満足していますか?

以上があなたと同じで教学の御文が出せないTENの領解です。
ざっくりと書きましたので、間違いや付けたしがあればお願いします。

南無阿弥陀仏

RCです。
同行さまから、真偽検証のブログが 盛り上がっいると聞いて、コメントを読んでいました。

議論から 外れてしまいますが、感じたことを書かせていただきます。

娑婆世界の苦しみの中で、溺れているだけだった私が、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただけるまでお育ていただけたのも、こうして お念仏について 熱心な方々が 過去も、今も いらしてくださるからだと思います。

南無阿弥陀仏のおはたらきは、私の間違えや愚痴などに全く妨げられないものでした。

「自分の善が 廃るまで、善をやる!」などと、南無阿弥陀仏から 一番遠くにいた私を、救わずにおかない南無阿弥陀仏でした。

淳心房さんのブログと、コメントを読んで、
南無阿弥陀仏の聞こえる世界に 生まれさせていただいて、南無阿弥陀仏を丁寧に教えていただくご縁に 遇わせていただけたこと、本当に有り難いなーって、思います。

今日は、築地本願寺の夜のご法話を 聴聞させて頂く予定です。

南無阿弥陀仏

Re: 林遊@なんまんだぶ様

確かに同じ親鸞会の釜の飯を食ったと言えば食ったのですが、(自主的)退会者と(熱心な)会員との関係は、気を通わせた小中学校の同級生のような間柄ではなく、極端な例ですが、隣国の脱走者と未だ将軍様を信じている国民といった関係の方が近い気がします。

現在、金星人さんと、suさんTENさんチュウビさん他何人かの方々がコメントし合っていますが、まず金星人さんは退会者ではなさそうです。次に、金星人さんの主張は主に親鸞会での自分の求道体験談ばかりであり、体験談から信心を語るという方であり、そのような危険な信仰を一向に改めないことからご覧のような論争になっています。また、皆さんの発言によりますと、金星人さんはつい最近まで「さよなら親鸞会」のコメント欄を荒らしていた「火星人」なる人物と同一ではないかと言われています。

退会者同士でも会ったことも話したこともない者同士ですし、考え方や経験の違いから、同じく親鸞聖人の教えを仰いでいても意見が食い違うことが少なくありません。いわんや退会者と会員をやであり、退会者と林遊さんをやであります。私の理想としては会員も退会者も、もちろん親鸞会にとらわれず、みんなが同一に念仏して別の道無しとなればいいなぁと思っておりますが、いかんせん難しいですね。この金星人さんと他の方々とのやりとりはしばらくご静観下さい。

なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶ・・・

Re: RC様

うーん、盛り上がっているというか何というか・・・(;^ω^)


> 南無阿弥陀仏のおはたらきは、私の間違えや愚痴などに全く妨げられないものでした。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと。(歎異抄第一条)

間違いないですね。なんまんだぶなんまんだぶ。私達はただ南無阿弥陀仏のおはたらきにはからわれて、よき人の仰せの通りただお念仏して弥陀に助けられるばかりでありますね。


私も直接聞きたいのですが、中々それがかないません。今は、聖教を通して聴聞させて頂きます。また埼玉恵日会でご一緒したいものです。なんまんだぶなんまんだぶ

林遊さま

はじめまして。

いつも林遊さんのコメントや林遊さんのブログを読んで学ばせて頂いております。とても勉強になります。ありがとうございます。お聖教の解説などを頻繁に更新されていらっしゃること、なかなか出来ることではないなぁ、といつも思っています。これからもよろしくお願いします。

現役会員の金星人さんは篤信者や退会者のブログを読み漁って、管理人に質問して、自分がした「不思議な体験」を補強するのに都合の良い言葉を集めています。真偽検証ブログでもそれが目的だと私は思っています。その結果、親鸞会の求道と体験を肯定しながら、部分的に篤信者の言葉を真似る、というヘンテコな信仰になってしまいました。

やっていることは会長そっくりで、篤信者の言葉をパクる、使う、都合が悪くなると引っ込める。論点スライド、あと逃亡。そして淳心房さんたちに対して「私は頭を下げて伺っているんです!」となぜか上から目線なところも、会長に似ているのかも。会長の性格は知らんけど。です。

私のブログに来た頃の金星人さんは「大悲にふれただけで救われるのか?」「廻心が分からない」などと書いていましたが、こちらのブログに来るなり「大悲を頂いた」「廻心した」とのアップグレード版を披露くださいました。suさんは1年間、私は4ケ月、金星人さんにおつきあいしていますが、私たちの話を聞きません。廻心についても自分の都合の良いようにしか聞きません。信心の沙汰をしようとしても、都合の悪い部分は語りません。聞きません。

私は4ケ月そのやりとりをしてきました。こちらの話をそのまま受け取ってもらえないことがしんどく、モヤモヤしますが、法蔵菩薩が私のためにしてくださったご苦労は兆載永劫ですので、それに比べれば、たかが知れています。教学に長けたsuさんが1年話しても伝わらなかった廻心について、私は自分の言葉で話すことを選びました。金星人さんにもご自身がどう思っているのか、ご自身の言葉で語って頂きたい。体験談ではなく、「ただいまの信仰」を自分の言葉で語って、ご自身の信仰に向き合って頂きたい。そう思っています。

TENさん へ

こんばんわ、Abcです。

「金星人さんに分かっていただきたい」の一心で、
「9願文」や 「義なきを義とす」という「捨自帰他」や
そのほか色々意見を書かせていただきましたが、
はたして受け取っていただいてるのでしょうか。

これだけ私に向けての質問がないと、「私は蚊帳の外なのでは?」と
考えてしまいます。

本来は金星人さんに尋ねなければならないところ、TENさんに尋ねてしまいまことに不躾ではございますが、ご返信のほどよろしくお願いします。

Abc

Abcさん

金星人さんは、自分に都合の良い情報を欲しています。
Abcさんが挙げた御文が自分が欲しい情報と思わなければ、聞いていないと思います。特に欲しているのは、
・求道の苦労話
・信一念の体験談
などです。

Abcさんに対してだけではなく、誰に対しても自分に都合の悪い事には「塩対応」ですのでご心配なく。です。淳心房さんや私からの問いかけも聞こえないフリをして放置していますよ。

Re: Abc様

私の質問にも答えるでもなく、完全スルーされていますから、TENさんの仰っていることで間違いないでしょう。

上は高森会長からですが、篤い高森信者とは会話ができないのです。こちらの質問には答えず、質問に質問で返したり、それでいてこちらが質問に答えないとごねたり勝利宣言をしたりと、「手がかかるやんちゃ坊主」(本願寺なぜ答えぬ)はどっちだと言いたくなってしまいます。

いずれにせよ、過去の体験というやがて必ず滅びるものを往生の証拠としているのですから話になりません。往生の証拠とは何か、Abcさんならよくお判りですね。なんまんだぶなんまんだぶ

Abcさんは今まで通り、記事の内容やコメントを読んで思われたこと、「義なきを義とす」「自然法爾」の真宗の教えなどを聖教を通して示して下されば、読者の方々にも良いご縁になるかと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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