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高森の教行信証(信編) - 信心決定は過去の体験ではない。いまの南無阿弥陀仏こそわれらが往生の定まりたる証拠

親鸞会では「一念」ということを非常に重視します。その大体は、

「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時をいう」(『なぜ生きる』p.342)

という意味で、あっともすっともギャーとも言う間もない極めて短い時間のことを指しています。その「一念」に人生の目的が完成する、絶対の幸福になる、無碍の一道に出る、後生の一大事が解決する、などというのです。そしてその「一念」に自力間に合わなかったと無間のドン底に堕ち、同時に他力に摂取されるという摩訶不思議な体験をするように説き、それを「信心決定」だと言い、その時の体験を「聞即信の一念の体験」などと呼んでいます。会員の皆さんが追い求めている憧れの体験です。

しかし、そんなものが「信心決定」だなどとはどこにも説かれていません。全くもって珍しい教えであり、まさに「高森の信」であります。「信の一念」にしても、

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心が開け発った最初の時を信の一念(時剋の一念)といい、

一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。

また、阿弥陀仏の救済をふたごころなく疑いなく信ずることを一念(信相の一念)というのです。時剋の一念の瞬間を凡夫の上で必ず、ハッキリと自覚できるとか、時剋の一念の自覚が無ければ真実信心ではないとか、時剋の一念の瞬間に地獄一定と極楽一定を同時に知らされるなどとは、ただの一言も仰っていません。

そもそも「信心決定」「信心獲得」が「体験」であるとは言われていません。蓮如上人は

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(5帖目5通)

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(5帖目11通)

等と仰って、信心決定する、信心獲得するといっても南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得る以外には無いのだぞとお諭しです。であるから、蓮如上人は事あるごとに南無阿弥陀仏の六字のこころを懇ろに説き示されたのです。「必ず浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という南無阿弥陀仏の仰せをそのまま心に受けたのが信心です。その信心が開け起る最初の時を指して時剋の一念といい、その信心のすがた、仰せの通り南無阿弥陀仏に全ておまかせしてふたごころないことを信相の一念というのです。

ですから、重要なのは時剋の一念の時をハッキリ自覚し覚えているかどうかではなく、現在只今、南無阿弥陀仏に全ておまかせしてふたごころがないかどうかなのです。時剋の一念(と自身で勝手に思っている時)にどんな体験をしたといっても、それは年月を経る毎にどんどん過去の話になっていき、その記憶は段々と曖昧になってゆきます。そして最後死んでゆくときは忘れ失ってゆく、やがて必ず滅びるものです。「聞即信の一念の体験」をしたといっても、自分の記憶しか証拠はありません。もしそれが真実まことの信心を獲た体験ならばよいのですが、それがいわゆる神の啓示、自己暗示の類だったらどうします? 記憶の上での体験を糧に信心を語るというのは非常に危ないことなのです。

そんな曖昧で、100年もしない内にやがて必ず滅びゆくものが往生の証拠なのでしょうか? 蓮如上人は、いまの南無阿弥陀仏こそわれらが往生の定まりたる証拠であると仰っています。

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

阿弥陀仏が昔法蔵菩薩であった時、「衆生(お前)を仏に成さなんだら我も仏に成らんぞ」と私の正覚と自身の正覚とを同時に誓われました。その本願が成就し、誓いの通り阿弥陀仏と成ってすでに正覚が成就されたすがたが、いまの南無阿弥陀仏であるというのです。そして、いまの南無阿弥陀仏が、私達の往生が定まっている証拠だとの仰せです。

定まりたる」とは現在完了形で、過去だけでもなく、現在だけでもないところがポイントであるとお聞きしたことがあります。私達が名号のいわれを聞き受け信心が開け起こったはじまりが時剋の一念、その信心のすがたが信相の一念でありますが、信心が相続してゆくのは南無阿弥陀仏が成就して絶えず私を喚んで下さっておられる故、バックボーンに常に如来の本願力がはたらいて下さっているが故であります。

信心を頂いて私の心が立派になったから相続してゆくのではありません。また信心を頂いたその時に不思議体験をしたから往生一定なのではありません。私の中には何にもありゃしません。空っぽです。そこに如来の本願力が、つまり南無阿弥陀仏が来りたまい、入りたまうから「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とよく響くわけですね。私の中には確たる証拠はなく、証拠は今現に届いている南無阿弥陀仏しかありません。

常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人がよく言ったというのはそのことなのです。私にあるのは煩悩妄念のみで、まことはない。だから私の心の中に信心を探さずに、仏様の側に仰げというのです。それを、「自分がこうこうこういうハッキリした体験をしたのだから間違いない」と決めているのは、信を仏辺に仰がず、煩悩妄念の中に探しているすがたです。「高森の信」とは所詮その程度のもので、創価学会の信心を真宗の言葉を使って表現しているに過ぎません。


教義の根幹は大沼法竜師、伊藤康善師のパクリ、組織拡大法もパクリ、信心もパクリ、何もかもパクリというのが「高森の教行信証」です。こんなものを「唯一絶対にして真実の宗教」などと一時的にでも信じていたのですから、それは馬鹿にされ蔑まれても仕方ないかなと思わされます。会員の皆さんは、いくら「高森の教行信証」を仰ぎ奉ろうとも「真実の教行信証」とは無縁、どころか反って障害にしかならないことを知って、一刻も早く邪義を捨て去り、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』補註7 信の一念・聞
『飛雲』自力による一念の信心
『用管窺天記』慈悲は罪悪機中に味わう
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Abcです

こんばんわ、Abcです。
今回は、記事に挙げていただいた御文5帖目について
解説してゆきたいと思います。

原文:信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(5帖目5通)

書下し文:信心を獲るというは18願を心得たことです。この願を心得るをいうことは、「南無阿弥陀仏」の相(すがた)を心得ることでありますから、南無とおまかせする一念のところに(他力による)発願回向のこころがあるのです。
この回向(計らい)は弥陀如来から私たちに計らいましますこころなのです。
(御文5-5 意訳)


原文:他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(5帖目11通)

書下し文:他力の信心を賜ったといっても、別のことではありません。
「南無阿弥陀仏」という六字のこころをよく承ったということを以って、
「信心決定する」といいます。 (御文5-11 意訳)

この記事を読まれ、また「古文はちょっと...」という方へ少しでも手助けになっているのでしたら嬉しい限りです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

話頭

Abcさんは、話頭を拡散するのが好きなのかな。
淳心房さんは、なんまんだぶを受け容れる信について論じているのであって、『御文章』でいえば、「相(すがた)」ではなく「体」について論じているのかもです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%94%A8

鈴木大拙師は『浄土系思想論』の中で、
 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。

と言われていましたが、言葉の表面をなぞるより、言葉の生まれてきた背景を思索すると高田派のよい坊さんになるのかもです。知らんけど。

で、舞台用語には「上から目線」という用語がある。仏教においての「教」とは、聖人、下に被しむ言なり、とあるように上下の関係なのだが、師の説かれた教えの語使うと「上から目線」と避難されると、師と弟子の関係性を否定されるようで、それ違うだろと思ふこともある。
色々批判のある加賀の暁烏敏師だが、明達寺の臘扇堂を拝見した時に、高森顕徹氏と全く違う、本当の師と弟子の関係を思ったものである。
御開山は、

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

といわれたように、わたしのとっての「後生の一大事」なのであった。意味わからんやろうけど、どうでもいいや(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

「相(すがた)」ではなく、「体」でしたか。
ご指摘いただきありがとうございます。

>と言われていましたが、言葉の表面をなぞるより、言葉の生まれてきた背景を思索すると高田派のよい坊さんになるのかもです。知らんけど。

「言葉の表面をなぞる」より「言葉の生まれてきた背景を思索する」ですか...
「すべて弥陀の計らいであり、弥陀におまかせする」というのは、
「純粋な意味では」合っているのかもしれませんが、林遊さんの言われる「言葉の生まれてきた背景を思索する」という立ち位置とした場合、少々心許ないのかもしれません。  今後とも、「言葉の生まれてきた背景を思索する」という事柄に関しましては学んで行きたいと考えています。

なもあみだ なもあみだ
Abc

往生みたびになりぬるに

Abcさん

Abcさんの書き込みで気付かせて頂くことも多々あります。
『和讃』の脚注で「往生みたびになりぬるに」を云々の書き込みで、『西方指南抄』の「法然聖人臨終行儀」の一節を思い出して、自分の記録用に追記しておきました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%81%B3%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%AC%E3%82%8B%E3%81%AB

御開山は、法然聖人を還相の人と見ておられたのでしょうね

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

師と弟子

林遊さんのコメントをみせて頂いて、真宗もやはり仏教だから、師と弟子の関係性は言うのだなあと思いました。お世話になってる禅宗の老師さまが、弟子には大喝しますし、先師の話をよくされます。面授口訣の話もされるのですが、真宗の面授口訣とは違う理解でした。御同行御同朋とは言われるが、体は師と弟子ということですね。親鸞会で如来聖人高森先生の御恩とか言わされ絶対服従を強いられていたので、ついつい御同行御同朋という言葉に甘えていました。法然聖人の頃などは上下関係かなり厳しそうですね。

城の石垣

チュウビさん

浄土真宗の場合は、真仏弟子釈で、

 弟子とは釈迦諸仏の弟子なり
http://wikidharma.org/4b7b6f3fcbcaf

とありますから師匠は釈尊です。
ただ善知識という概念があって、「外護の善知識」、「同行の善知識」、「教授の善知識」をいいます。この中の教授の善知識を師匠と呼ぶのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98

林遊は、この師匠方の受け売りをしたいるだけだったりします。
「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり」でした。

もちろん、なんまんだぶ一つでアルファでオメガなのですが、暇なので自分の学び用にネットで書き散らかしてますです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/01/11/%e8%81%b4%e8%81%9e%e9%9b%91%e8%a8%98%e3%81%8b%e3%82%89%e8%bb%a2%e8%bc%89/

No title

他人の過去には、異常に執着して責め立てながら、自分の過去のことはなかったものとして、オピニオンリーダー気取りでお山の大将の厚顔無恥には、笑えるがな。
高森会長と同種の輩だなぁ。

林遊さんありがとうございました

教授の善知識を高森爺さんと見誤った私でした。林遊さんが過去どこかのブログで化土巻末の起信論をあげて高森会は、それであると言われてましたが、正にそうでした。悪魔、外道、鬼神がわかりやすい格好で私の前に現れるのでなくて仏教なり!真宗なり!と端正な面持ちで来るので惑わされました。全ては南無阿弥陀仏一つ。そこから出でた師であり弟子なんですね。なんまんだぶなんまんだぶ。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>浄土真宗の場合は、真仏弟子釈で、

> 弟子とは釈迦諸仏の弟子なり
http://wikidharma.org/4b7b6f3fcbcaf

>とありますから師匠は釈尊です。
>ただ善知識という概念があって、「外護の善知識」、「同行の善知識」、「教授の善知識」をいいます。この中の教授の善知識を師匠と呼ぶのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98
(林遊さん)

大筋は間違いないのですが、私は「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり 」とありますから「師匠は弥陀」だと考えます。

その根拠としましては、『和讃』にある
「智度論にのたまわく 如来は無上法皇なり
 菩薩は法臣としたまいて 尊重すべきは世尊なり」
でございますが、
この「世尊」は「釈迦」とも「弥陀」ともいわれます。

林遊さんがいわれるように、「釈迦」と見ましたら仰るとおりです。釈迦が阿難などに説かなかったならば、「一代経」も「称南無阿弥陀仏 という単語」もないのですから。

ただ、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏におまかせする)と言う見方からしますと
「弥陀にお任せする」のですから「弥陀」と見ることとなります。

また、私が親鸞聖人のことを「親鸞」と敬称を省いて申しているのはチュウビさんが申されている「御同朋・御同行」のこころからです。

私、真宗高田派(真宗専修寺派)は、「真宗の歴史としましては初期の教団」であり、「真宗」が「浄土教 念仏衆(現:浄土宗)」と呼ばれていたころです。
 そのため、師は「源空聖人」ですし「親鸞 証空 幸西 隆覚 聖覚」などはみな「御同朋」であります。また、これより下代の上人も「御同朋」であります。

ですから、私は親鸞を「御同朋」とし、また「親鸞は弟子の一人も持たず候」と言われているので、「親鸞」と呼びます。

Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

後は暇にまかせてお聖教を拝読し、うまく組んであるなあと先達の釈を讃嘆し楽しむのは、こちら側の目的のない遊びです。
 
遊びですから自分の解釈にあまり一生懸命になってはいけないのです。一生懸命になって説いて伝えて下さった、内容・目的を聞信するだけなのでしょう。
(林遊さんのブログ より)

この文章に賛同し、こうして文章を書かせていただいております。
林遊さんが言われる「遊び」である「自分の解釈」にこだわりすぎると、かえって「疑情」となることもございますので注意しなければなりません。
といいましても、この「私の側で注意する」というのは「自力」にあたるので、
 真宗のご法義は 「ただ念仏」 であり 「弥陀におまかせする」ということなのです。

Abc

『智度論』にのたまはく

Abcさん

お示しの和讃は『安楽集』p.215-252にある『大智度論』の(意)を和讃されたものですよね。
http://wikidharma.org/5a8c345ae8760

で、この『安楽集』の文を真仏弟子釈で引文されてるのでした。
http://wikidharma.org/5a8c35c47315d

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Abcです

こんばんわ、Abcです。

今日は「和国の教主」ともいわれる厩戸皇子(うまやどのみこ)の祥月命日の行事を行いました。その際、「聖徳皇太子和讃」より、

仏智不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて
正定聚に帰入して 補処の弥勒のごとくなり

他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし

を復唱させていただきました。「補処の弥勒」や「如来二種の回向」という語句があるのは私が御坊さんに「還相回向について説いてほしい」と予め伝えたからだと私は思っていますが 実際の程はわからないです。

ですが、この和讃からも分かるとおり「如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」とございますので、「仏恩報ずるために 迷いの衆生を化する」となります。

なもあみだ なもあみだ

厩戸皇子 祥月命日 講
 Abc

Re: Abc様

ありがとうございます。Abcさんは布教使の方ですから、不断聴聞申すことのできる身で有難いことですね。

> この和讃からも分かるとおり「如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」とございますので、「仏恩報ずるために 迷いの衆生を化する」となります。

往相についての真実の教行信証と、還相のおはたらきを頂くという、自利利他円満の教えをお伝えするということが、仏恩を報ずるということなのですね。もう本当に満足いく活動はできませんが、私なりに、少しでも御恩報謝したいと思っております。なもあみだ、なもあみだ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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