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高森の教行信証(信編) - 「難信」だから何十年と求めても信心を獲られないのだ、と救われないことを正当化し、法然聖人、親鸞聖人の教えと真逆なことを教えている高森顕徹会長

確かに真実信心を獲ることは難しいと教えられています。

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

(68)
如来の興世にあひがたく
 諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも
 無量劫にもまれらなり

(69)
善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

(70)
一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ
(浄土和讃)

せっかく「高森の教行信証」という邪道を出て、親鸞聖人の教えを聞いて報土往生したいという願いを起こして聴聞している人でも、未だ「どうしたら信心決定できるのか」悩まれている方が少なくないと思われます。

親鸞聖人は、なぜ信心を獲ることが難しいかというと、一つには「邪見・驕慢の悪衆生」にとってはこれ以上難しいことはないとお示しです。ただこれは、次の理由にもつながりますが本願力回向の救いを自力疑心の計らいをもって捉えるからこれ以上難しいことはないということです。阿弥陀仏のお力を疑っているから、他力の救いを知らないから、自力に拘って邪見になり驕りたかぶっている、そういう者は難の中の難、斯に過ぎたるは無しとなるわけです。本願力におまかせして自力を離れたならば、これ以上易いことはありません。

「じゃあどうまかせればいいのか」と問う方がいるのですが、それが「自力」であり「邪見驕慢」なのです。如来が問題にされ、如来の手によって成就し回向されている救いの法を、我が問題とし、我が手を伸ばして掴もうとしているのですから、獲られるわけがないのです。「南無阿弥陀仏(必ず極楽へ迎えるから、安心してまかせなさい)」の勅命をそのまま聞いて、そのまま受け容れるよりありません。「助けるぞ」をくのがです。

方法論はありません。歎異抄で言えば、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とよきひとの仰せをかぶりて信ずる、つまりそのまま受け容れて念仏するより「往生のみち」は二つと無いのです。この他に、何か我々がすべきことがあるはずだと、何もしないで救われるなどあるはずがないと自力で救いを掴みにかかっている者を邪見・驕慢の悪衆生と言われ、そんな者は「信楽受持甚以難」と説かれるのです。

これは親鸞会がよい典型例です。高森会長は「大沼法竜師の味わい」を教義と勘違いして半世紀以上経過しておりますが、言葉だけ真似て真宗を装い、「真実を知っている者は自分達以外にはいない、と他人を見下し扱き下ろして」います。そんな高森会長や愉快な仲間達のような者を

邪見・驕慢の悪衆生

というのです。高森会長は、「難信」だから何十年と求めても信心を獲られないのだ、と救われないことを正当化し、「我々は自惚れているから、善をして善のできない地獄一定の自分だとハッキリ知らされなければ救われない」と教義を創作して「善の勧め」なる「高森の行」を勧めて法然聖人、親鸞聖人の教えと真逆なことを教えています。会員も会員ですっかり騙されてその気になり、ありもしない信心を求めてありもしない道程を通ろう、通れるんだと自力の求道を美学としているのですから、まさに邪見・驕慢の悪衆生そのものです。

私は声を大にして言いたい。掴もうとしているその手を引っ込めて、ただ如来の勅命を仰ぎ聞き受けろと。真宗の信心はただそれだけです。後は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏を申して、往生を定めて下された御恩を報謝する人生を生きて行く。これがお念仏申す人生を生きるということです。


さて、それと、信心を獲ることが難しいもう一つの理由は、「いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり」と教えられています。この現代語訳は、

なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

ということですが、要は「阿弥陀仏の本願力によって回向される信心であるから難しい」というのです。人によっては「?」が100個くらいつく理由だと思います。私もそうでした。

普通は、「教えがあって、教えの通り行じて、さとる」というのが仏教なのですが、浄土教、特に真宗は行ずる際の「信心」が問題になります。また、教えを行じてさとるのは私ですから、普通主体は私なのですが、浄土真宗は「阿弥陀仏」が往生の因も果も「回向する」つまり与えるという教えであり、主体は私ではなく「阿弥陀仏」であるという点も事を難しくしています。そして「信心獲得」とか「信心を頂く」と表現しますので、そう聞いた私達はつい「頂こう」「頂くにはどうすればいいか」と方法論に走りがちです。この点が厄介なのです。

信心を頂く」といいますが、これは言葉を変えると「計らいは要らない」「方法論は要らない」ということです。本願は既に成就して「南無阿弥陀仏」と成り、「必ず極楽へ迎えるから、安心してまかせなさい」という喚び声となって私に届いています。こうした名号のいわれを聞いて、「必ず助ける」本願力が私にはたらいているとわかったら、本願力が信じられたなら、こちら側で余計な詮索は不要なのです。これは自分で起こす信心ではありません。ではどうして起こるかといったら如来より起こさしめられる信心だというので、これを、「他力の信心」「本願力回向の信心」というのです。それで「信心を頂く」と言われているのです。私が私の力で頂こうとして頂けるものではなく、「南無阿弥陀仏」の六字のこころをそのまま聞き、そのまま受ける。それが「頂く」ということなのです。

同じことで、「自力を捨てる」とよく言われますが、捨てようとするのもまた「自力」であって、自分で捨てられるものではありません。これも、「必ず助けるからまかせろ」の阿弥陀仏の勅命を受けて「こんな邪魔なものは要らないな」と廃るのです。これを「自力を捨てて他力に帰する」というのですが、私の力は一切要せず、ただ如来の本願力のみで迷いの世界を離れ、往生成仏せしめられるという教えであるが故に、逆に人々は「そんなことはなかろう」「そんなうまい話があるか」「何かやらなければならないことがあるはずだ」と疑い計らってしまう。だから、「無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し」、まことに悟り易い教えであるが、悟る者がいない。それは真実の信楽を獲ることが難しいからだ。どうして難しいかと言えば、阿弥陀仏の本願力によって回向される信心を自力で捉えているからだ、と言われるのです。


このようなことですから、自力で掴もうとする限りは「難信」であっても、一たび「助けるぞよ」の勅命を受けて計らいを離れた念仏の行者にとっては「とりやすの安心」「こころえやすの安心」なのであります。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。
『御文章』2帖目7通

対して「高森の教」では「絶対の幸福」という「高森の信」を目指して悪業悪行、雑行、助正間雑等の「高森の行」を勧めています。「すてて」と仰せの「雑行」を「拾え」と言って自力疑心を勧めているようなものですから、そんなデタラメ創作教義をまともに信じていては「難信」は「難信」のままであり、「とりやすの安心」「こころえやすの安心」と心得られるわけがないことは言うまでもないことです。

迷いの世界を自力で出離しようとしているから、これ以上難しいことはないとなるのです。あ、いや、そうじゃなかった。親鸞会の会員は「絶対の幸福」を獲ようなどと目的からして違っているので、18願を信ずる以前の問題でした。まぁそれはさておき、私達には絶対不可能な出離、そして往生成仏をさせんと阿弥陀仏は本願力を成就し「南無阿弥陀仏」と回向されているのですから、私達はただその本願力がはたらいておるぞと聞き、受ける以外にないのです。願力にうちまかせる他に信心も安心もありません。

このまま親鸞会で高森会長が「正しい阿弥陀仏の本願を説く先生」だと信じていくら聞き続けたところで、悪業悪行、助正間雑、雑行、ありもしない信心、ありもしない方法論を説き与える偽の善知識、邪の善知識なのですから「真実の行信」を獲ることなど不可能です。高森会長が指し示す道は「全人類が救われるたった一本の道」ではなく、「かへつてまた曠劫を経歴する道」であります。会員の皆さんは、早くこの事実に気づいて泥船から脱し、「南無阿弥陀仏」という「大悲の願船」に乗じて「難度海を度」して頂きたいものです。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

今回も読ませていただきました。ありがとうございます。

補足として、私より書かせていただきます。

>同じことで、「自力を捨てる」とよく言われますが、捨てようとするのもまた「自力」であって、自分で捨てられるものではありません。これも、「必ず助けるからまかせろ」の阿弥陀仏の勅命を受けて「こんな邪魔なものは要らないな」と廃るのです。(淳心房さん)

「捨自帰他」ですね。全くその通りです。
源空聖人(法然上人)は、『選択集』のなかにて、

「決定して深く、釈迦仏のこの『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふを信ず。 また決定して深く、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧したまふ、決定して生ずることを得と信ず。また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定してより行じて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。」

とも言われています。「仏が「捨てよ!」といわれたものを捨て、仏が「行うべし」といわれていることを行うのみである」ということなのです。「自力がどうこう」と言われている方がいらっしゃいますが、その方は先ず「釈尊が 阿難尊者と浄飯王に『念仏三昧』をお勧めされている」ことを、よくよく読まれていただきたいです。

Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

『回向文』のうち、

世尊我一心

「帰命尽十方 無碍光如来」

願生安楽国 (天親菩薩 『願生偈』より)

とありますが、
これも「お釈迦さまは私たちに「名号」を一心に行じ、安楽国に往生することを願われた」です。「念仏一行」です。

なもあみだ なもあみだ
Abc

No title

いつもの事ながら、今回も記事を拝見しつつお念仏不可避です。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

毎回感心するのですが、よくもまぁスラスラと縦横無尽に根拠を示しつつ明確に文章化できるなぁ、と。
コメ欄は読んだり読まなかったりですが、記事更新は毎日チェックしてますw

明日は有休取ってRCさんと築地本願寺にお聴聞に行く予定なのですが、「真仏土巻にこんな事が書かれてますよ!すごくないですか?」とロクにお聖教も読んでないのにあたかも常々読んでます風を吹かせながら仏法讃嘆、お聴聞と幸せな休日を過ごせそうな予感ですw

今回も勉強させて頂きました。
有難うございます。



Re: R1000さん

こんばんわ、Abcです。

>毎回感心するのですが、よくもまぁスラスラと縦横無尽に根拠を示しつつ明確に文章化できるなぁ、と。
コメ欄は読んだり読まなかったりですが、記事更新は毎日チェックしてますw

本当に淳心房さんの文章力には驚かされますよ。なので私も毎日チェックしていますwww

コメ欄の「私のつぶやき」は適当に読み進めてください。「コメ欄は読んだり読まなかったりですが」と書かれているように、「読むときは縁あって読まれるのです」。

>「真仏土巻にこんな事が書かれてますよ!すごくないですか?」と (中略) 仏法讃嘆、お聴聞と幸せな休日を過ごせそうな予感ですw

そのように声掛けしていただけ、またお話できる同行がいるということは心強いではありませんか。「真宗」は「弥陀に任せる」法義ではありますが、そのように隣で一喜一憂する「なかま」がいるというのも魅力的であります。

Abc

コメント返信

Abcさん

ありがとうございます。法然聖人のこうした教えを知らず、それどころか教えに反して「仏の捨てしめたまふをばすなはち拾い、仏の行ぜしめたまふをばすなはち捨て、仏の去らしめたまふ処をばすなはち用いる」が親鸞会です。善の勧めと、念仏軽視がその典型です。会員の皆さんには、信心獲得以前に教えが間違っていることをまず気付いて頂きたいです。


R1000さん

中々飛雲さんやsuさんのようには行きませんが、慣れによるものと、web上で聖典が拝読できるのが大きいです。
文章として成立しているなら良いのですが、何せ俺の苦手科目は国語、特に古文漢文が滅法不得意ですから、そんな俺がこんなことをやっているのは不思議なもんです。なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶ・・・

聴聞に行きたいですが、機会が得られず・・・その点でR1000さんは裏山ですw
何か心に残ったこと、感動したことがあればまたコメ下さい~(^ω^)

Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

ご返信ありがとうございます。ご覧頂きましたとおり、私の師は
円光大師 法然房 源空聖人 でございますが、伝えるべき
「教え」は、「弥陀の法水」、「弥陀の願船」、「弥陀の頓薬」であります。

>何せ俺の苦手科目は国語、特に古文漢文が滅法不得意ですから、そんな俺がこんなことをやっているのは不思議なもんです。

古文が得意ではないのにこのようなブログを行っているとは、弥陀の縁とは不思議ですね。

私の苦手科目は英語で、逆は中世国文学(俗にいう「古文」)、戦国歴史学、古代歴史学 です。 私のはなしに「当麻麻呂古皇子」や「厩戸皇子(聖徳太子)」などが出てくるのはその流れからです。

仏教は西暦538年(一説には541年)に朝鮮半島百済国を経由してやってきたとされており、その後612年に厩戸皇子(うまやど・みこ)が「十七条之憲法」を制定されたとされます。ここから語るととても長くなるのでやめておきますが、そのときに渡ってきた宗教のスタイルは「華厳宗」であったとされます。

親鸞、法然などの「浄土教」は中世 鎌倉時代に「修行僧だけでなく一般人にも仏教を知っていただきたい」、「弥陀仏は貴賎男女 僧侶・在家 を選ばず救い給う仏であるから知っていただきたい」というものでした。
 なお、その後「遊行念仏」といわれる「時宗」(祖は一遍上人)などがあがってきます。

長々と申し訳ありません。今後ともよろしくお願いします。
Abc

No title

>>Abcさん

本当に、俺には勿体ないなと思うくらい、お同行方に恵まれていると思います。
基本、ボッチな上に色んなものを拗らせてしまった為か「もう阿弥陀さまの元へ帰りたい」としばしば思うのですが、お同行方の存在に触れると「この世界も捨てたもんじゃないかもな」とも思います。


>>淳心房さん

文章、超成立してる。
大丈夫。自信持て(誰

今日のお聴聞の感想。
一言に集約すると、やはり南無阿弥陀仏ですねw

それと、勿論詳しくは書きませんけど会員さんも来られていて、嬉しかったです。
やはりこちらのような教義批判サイトなどから親鸞会教義の間違いを知らされたのがキッカケのようで、今後もそのような方々が阿弥陀さまに導かれてお念仏喜ばれるようになるんだろうなと思います。

会に在籍しながらでも構わないので、本当に親鸞会は浄土真宗なのか、会員の皆さんは外の広い世界に出て検証されてほしいな、と思います。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

Abcです

こんにちわ、Abcです。

今回は、淳心房さんが厳選された和讃について紐解いていきたいと思います。

>弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

弥陀の本願である念仏(称名念仏)は、自力をつのりとする「邪見・驕慢の悪衆生」には、信楽受持することはとても難しいことである。それを「難中之難」とも言われる。(この本願は弥陀が法蔵比丘のむかし五劫の間 思惟された願であり、それを命濁のなかのわれら凡夫が行うことは難しいとされているからである。)

>しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

常に「生死の苦海」に沈んで、流転を繰り返している私たちが無上妙果を成すことはないのである、われわれ自力にて「真実の信楽」を獲ることはむずかしいのである。
このように言われるのはなぜであろう、それは如来の加威力(弥陀のおちから)によるからである。博く大悲広慧の力によるからである。

Point. ここで「如来の加威力」と「大悲広慧の力」と「おちから」について重ねられていることからも「弥陀のお力ひとつ」ということを伝えるためと見ることが出来る。

(68)
如来の興世にあひがたく 諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも 無量劫にもまれらなり

釈尊の在世時に生まれ合わせることは、もちろん難しいことですが、釈尊が説かれた教えを聞くことも難しいことです。

釈尊の勝れた教えは、教えを身につけて歩む人から直接聞かなければ、その真意をなかなか受けとめることができませんが、そのような人に出遇う縁も、たとえ無限の時間をかけて生死を繰り返しても、滅多にない希(まれ)なことです。
(引用:http://www2.saganet.ne.jp/namo/wasann68.htm より)

(69)
善知識にあふことも をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし

(教えを「聖道門」としてみた場合)
南都北嶺の由々しき学生にあって 教えていただくことも難しいことである
 その「聖道の教え」を聞くこと(行うこと)も難しいならば 信を獲ることもまた難しいのである (機でいう「竪出の機」にあたる なお「竪超の機」は即身仏など)

(教えを「浄土門」としてみた場合)
浄土の教えを説く方にあって、その知識の教えを教えていただくことも難しいことである。
 その「知識の中での浄土の教え」を聞くこと(行うこと)も難しいならば 信を獲ることもまた難しいのである (機でいう「横出の機」にあたる 本来の浄土の教えは「弥陀より賜る信心」である「横超の機」である)

(70)
一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ (浄土和讃)

釈尊一代の色々な教えよりも 弥陀の建てられた他力信心を獲ることは尚更難しいことです。
 そのことを「難中之難」といわれたり、「無過此難」といわれたりします。

Point. 『正信偈』のなかにて「難中之難無過斯」は「印度西天之論家」の前にあたり、
「難中之難無過斯」までは「その本願が作られたいきさつを言われている段」となります。(なお「印度西天之論家」からは「それを伝えられた高僧たちの段」となっています。

 それを、蓮如上人は『正信偈大意』にて、
「この偈のはじめ「帰命」といふより「無過斯」といふにいたるまでは、四十四句二十二行なり。これは『大経』のこころなり。
 「印度」以下の四句は、総じて三朝の祖師、浄土の教をあらはすこころを標したまへり。」 と言われています。

ご参考程度に述べさせていただきました。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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