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高森の教行信証(信編・番外編) - 高森教(火星教金星教)の信心、念仏誹謗、念仏一行の否定、自己弁護と弁明、過去の体験の固執、手の平返しに満ちたカルト教祖

親鸞会側が法論で劣勢になると、最後に言うセリフが

お前は一念のはっきりした体験が有るのか!」(チュウビさんのコメント

というものです。「火星人」=「金星人」さんも

ハッキリしないのに一念一念とこだわるのは何故ですか?ハッキリするから一念一念と書かれているのではないですか?

と書いています。根拠を出せないとハッキリ体験を語って逆転を図ろうとする、お決まりのパターンです。

確かに親鸞会の「仏教を聞く目的」「真宗を聞く目的」は浄土往生、成仏ではなく「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のような現世の幸せです。そのことは親鸞学徒信条に、

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。


とある通りです。「絶対の幸福」などというのは浄土真宗の信心ではなく、「高森の信」「創価学会の信心」であって「自力の信心」ですから、必ず自分で「信心が起きた!」というハッキリした自覚、体験を伴うのでしょう。

チュウビさんに先の言葉を吐いた講師部員も、自身は例のハッキリスッキリ体験をしたのか知りませんが、高森会長が「ハッキリ」「ハッキリ」と壊れた蓄音機のように説くことと、熱心な高森教徒であることからそのように自信満々に言ったのだと考えられます。やっぱり最後は「体験至上主義」の親鸞会です。

古来、異解・異安心といわれるものの多くは、この信一念についての誤った理解によるといえましょう。信一念の時は本人にわかるのか、わからないのか。その時の体験はどのようであるのか。そうした体験はもう済んだのか、まだなのか。等々の論議は、宗祖の信一念釈の思召しとはおよそかけ離れた戯論でありましょう。安心論題/信一念義

戯論に走り、結局は「体験至上主義」で論拠の出せない高森教からは、一刻も早く脱するべきです。


さて、親鸞聖人は浄土に往生してさとりを開く教えを浄土門と仰っています。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。化身土文類

もう一度言いますが、私達が教えを聞く目的は「浄土往生」であり「成仏」なんです。聖道門の修行には堪え難く、とてもこの世ではさとりを開けない末代不善の凡夫だから、阿弥陀仏の本願によって次生往生してさとろうというのです。「絶対の幸福」だとかいう五十年百年のうちのたのしみを獲るための教えではありません。もしこの世から真の安楽を獲たいのであれば、聖道門へ行って入聖証果すべきです。

ただいそぎても生れたきは極楽浄土、ねがうてもねがひえんものは無漏の仏体なり。」と蓮如上人も仰せのように、この世の幸福云々を超えた出離を目指した上で、自力修行ではさとれないと知って、阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申して浄土、成仏を願うのが真宗ですから、「光明輝く生活」を目的にしている人は今すぐその目的違いを改めるべきです。そうでないと、このまま高森教に搾取され続ける「闇の生活」になるだけでなく、後生は三悪道です。念仏誹謗、念仏一行の否定によって「必堕無間」も間違いではないかもしれません。


ところで前回、念仏誹謗、念仏一行の否定を繰り返して慚愧あることない異聖教の教祖様を取り上げました。親鸞会教義に疑問を持ったふりをしてその実「親鸞会の教義にどっぷりと漬かって」いる彼の人物は、自ら言い放った「念仏でも唱えて待ってろよ、すぐに死神が迎えに行くからな」の暴言について

********************
<<念仏でも唱えて待ってろよ、すぐに死神が迎えに行くからな<<

これは売り言葉に買い言葉で出た言葉でありますが、「唱えて」がポイントです。
相手が、「称えて」という字を使った時に、厳重に注意してます。
「でも」は軽く見過ぎてますので訂正している筈です。
「死神」は無常の事であり、「諸行は無常であり、今晩の臨終にその念仏を唱えていて大丈夫ですか?」と言い返しただけの事です。
称名念仏を称えている人は、いつ死神が来ても必ず極楽往生させるという本願を深く信じてますのでご心配無用ですよ。っと反撃しています。
念仏唱えている人に、早く称名念仏を称える人に人になって下さいという意味です。唱えている人に対して称えなければ、という意味です。
火星人は親鸞会の教義にどっぷりと漬かっており、退会者からは敵対視されているので、すぐに喧嘩になります。「阿弥陀仏の本願は無条件でそのままの救いだぞ」という事は一致しますが、「高森の行は信心決定する為の方便の行だ」と強く思い込んでいるのが問題です。全ての人は真実を聞く耳がないので、求道という名のもとに、同じ所を疲れ果て倒れるまで走り続けなければならず、それが三願転入だと思い込んでいます。
高森の教に従えば、そういう考えになりますが、親鸞聖人の教えとは違うという事をよくよく火星人に言い聞かせてやってください。高森の行で苦しんでいる人は救われますか?これからも淳心房さん達に真偽検証をよろしくお願いします。
2018-02-12(11:56) : 金星人
「金星人」さんのコメント
********************

と言い訳しています。いくら酔った勢いでも、売り言葉に買い言葉であっても、本願を信じ念仏を申して浄土を目指して生きる者が言うような言葉とは到底思えません。仮に書いてしまったとしても、その誤りに気付いたならば謝罪した上でコメントの削除を要請するのが筋でしょうが、そのようにする気配は全くありませんでした。

その他の発言についても、

念仏誹謗ではなく、早く自力の念仏から他力の念仏を称える人になって頂きたいという願いからですので誤解なく。「火星人」さんのコメント

と悪びれる様子は全くなく、相変わらずの一人よく仏法知り顔の体、一人よく他力の信心を獲た体です。高森教(火星教金星教)信心の者は「真実を知らされているのは自分(達)だけ」「オレは真実の仏法を知っている、お前らは聞き損ないの無安心無信心の必堕無間の哀れな奴らだ」という思い上がり、慢心がありますから、必然的に批判者を見下す発言となるのです。まぁ日蓮●宗でもパンフレットに「真実の仏法」等と書いていますから、どこでも「真実の仏法」などと言うには言うのですが、その信仰や信心は彼の人物の主張発言からして「真実の仏法」「真実の信心」とは似ても似つかぬ「異星教」「創価学会の信心」であることは明らかです。

『さよなら親鸞会』観勢寺落慶のコメント欄

を辿ってゆけば例のコメントへ行き着きますが、その前も、その後も、彼の人物のコメントからは「早く自力の念仏から他力の念仏を称える人になって頂きたいという願い」など感じ取ることはできません。読み取れるのは批判者を侮り見下す態度、念仏誹謗、念仏一行の否定、自己弁護と弁明のみと言ってよいでしょう。ちなみに、どんな心、どんな信心から例のコメントが出てきたかについては、それを的確に捉えていると思われるコメントがありましたので紹介しておきます。

********************
いつもいつも言い訳がみっともない。

自力念仏=多善根・多功徳・多福徳
諸善=少善根・少功徳・少福徳

>念仏でも唱えて待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。

(無功徳の自力の)念仏でも唱えて待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。

こういう気持ちだからこんな言葉になるの。

親鸞会が最重要視する聴聞について

「聴聞でもして待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。」

こんなことをいうか?
言わないね、言ったら指摘の嵐。講師なら降格、学院送り。

親鸞会が次に重要視している布施について

「布施でもして待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。」

こんなことをいうか?
言わないね、言ったら指摘の嵐。

つまりだね、

聴聞>布施>>>>>………>>>>>>>>>倫理道徳>念仏

この程度にしか考えていない。正確に言うと

念仏=無善根・無功徳・無福徳

としか考えていない証拠。

これを念仏誹謗という。

投稿: | 2016年12月11日 (日) 17時17分

********************

この通りです。念仏のこころを知らず、他宗教の祈りの言葉や不可解な呪文と同列に見なしているからこそ出た発言です。彼の人物からしたらアーメンでも題目でもいいわけです。


彼の人物は口を開けばお得意の体験談、都合が悪くなればエントリーを変えて謝罪や言い訳といったことを繰り返しています。業を煮やせば「ハイ、さようなら!」と親鸞会教義をまき散らして逃亡、別のブログでまたしても過去の体験の固執、そして手の平返し、謝罪、言い訳・・・と全く進歩のないことをやっています。

法論が出来ないので

はこちらのセリフです。聖教の根拠に基づいて宗義の優劣や真偽をめぐって行われる論争を法論と言います。聖教の根拠を示せずに高森教に基づいた火星教金星教のオンパレードでは法論になりません。まして論争において自分の体験談を出すなど敗北を自ら認めているようなものです。

彼の人物にはどうやら信者がいるようで(※)、「カルトにはカルトをもって信心決定病に感染させないと、十八願を聞く機には熟さない」などと言って信者にカルト教義を授けるカルト教祖となっている模様です。TENさんも仰るように「仏様の願いからまったくの逆方向を向いて」おり、彼の人物からは願作仏心度衆生心もまるで感じられません。それどころか、

下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人は、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。かくのごときの罪人は悪業をもつてのゆゑに地獄に堕すべし。命終らんとするとき、地獄の衆火、一時にともに至る。『観無量寿経』下品中生

の愚人と同一に思えてなりません。この下品中生の悪人はまだ念仏誹謗はしていませんが、彼の人物は念仏誹謗を繰り返しています。仏法を誹謗しているのですから、仏の浄土の往生を願うはずがありません。以前に「願生心」について頓珍漢な回答をした訳もこれで納得です。

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうくとぞときたまふ
(正像末和讃)

と仰せの通り、無間地獄に堕ちる因は「念仏誹謗」です。直ちに「念仏誹謗」と、お仲間にカルト教義を授けるのを止めてもらいたいと切に願います。
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非公開コメント

ひどい言い訳ですね

酔った勢いで念仏誹謗。

そんな言い訳ありえません。

未信の時は 飲み会で酔ってもどんなに楽しくても

「人生これでよいのか」

の想いが心の底にありました。

その想いを阿弥陀さまに抜いて頂いて

「人生これでよし!」とさせて頂いた人が

念仏誹謗などありえません。


 飲みにゆく 行きも帰りも お念仏

 心に刺さった 釘を抜かれて


 なんまんだぶ 酔った私に 声をかけ

 いまのおまえが 目当てだと言う 

 
スナオ詠む(笑)

スナオさん良い歌ですね。私などは、
日本酒のお燗の肴にお聖教を読み、感涙すること度々です〜。姿勢を正して聞け!と阿弥陀様は言われなので(笑)酒は良いですね感情の発露に(笑)、シラフだと有り難いのに有り難くない体でいます。阿呆ですね。勿論こんだけ私は泣けたから、救われたではないですよ(笑)

病人と医者と薬と全快の話 ①

「阿弥陀仏は念仏を称えなくてもよいと言っている」と主張するK氏。

K氏の以下のコメントの間違いについて書きたいと思います。

-----------
病人と医者と薬と全快の話
何度も何度もその事一つを繰り返して聞いてきました。その事は退会者の人達も否定できないと思います。
•2018-02-16(12:06) : 金星人
------------

親鸞会の「病人と医者と薬と全快の話」は間違っています。病人は全快していません。

以下は、新しくなった親鸞会のホームページ。
しかし、内容は間違った教義のまま。刷新されていません。
https://shinrankai.jp/article/222


【まとめ】南無阿弥陀仏とは何か

 ・すべての人…病人
 ・阿弥陀仏…医師
 ・心の闇(無明の闇)…病気
 ・名号(南無阿弥陀仏)…薬
 ・絶対の幸福(信心決定)…全快
 ・念仏(南無阿弥陀仏)…お礼

なんじゃこれ!
間違っています。

「信心決定=全快した」ではありません。

病人と医者と薬と全快の話 ②

「南無阿弥陀仏とは何か」

私なりに喩えを改めてみました。
おかしかったらツッコミいれてくださいませ。

 ・私…病人
 ・阿弥陀仏…医師
 ・無明…病気
 ・名号…薬
 ・信心…薬のはたらき①
 ・念仏…薬のはたらき②
 ・往生成仏…全快

です。

阿弥陀如来の願いは十方衆生を往生成仏させること。
そのための手段が「信心」と「念仏」です。
十方衆生にご自身の願いを受け入れさせ、念仏を称えさせること。
そのはたらきを収めた薬にあたるものが南無阿弥陀仏です。

阿弥陀如来が問題にした「ふたつの無明」
1.無明の闇(疑無明とも言う)
2.無明煩悩(痴無明とも言う)

南無阿弥陀仏の薬の「ふたつの無明」に対する効能
1.無明の闇⇒一念で破る
2.無明煩悩⇒煩悩即菩提

無明の闇が破られた私にあらわれる「ふたつのはたらき」
1.本願に信順する
2.念仏を称える

私はいつ「全快する」のか
1.この世では全快しない
2.往生成仏した時が全快したとき


以上から、K氏が言う親鸞会の教えは間違い。
そして、「念仏を称えなくてもよい」と主張するK氏の理解も間違い。
そのような間違った主張は、いまだ六字の薬のはたらきを頂いていない人の思いこみです。

病人と医者と薬と全快の話 ③

阿弥陀如来の願いは十方衆生を往生成仏させること。そのための手段が「信心」と「念仏」です。
それを一言で「本願を信じて、念仏申せば、仏に成る」と表すのでした。

入信はしたけれども、成仏はしていない。
無明の闇は破れたけれども、無明煩悩は無くなっていない。
そのような人にとって、大切なことは「どう生きるか」です。
「どう生きるかよりも、なぜ生きるかのほうがもっと大事」というのが親鸞会のテーマです。

しかし、「ただいまの私」にとっては「どう生きるか」のほうが大切だったりします(笑)
それが篤信者・念仏者にとっての実際問題だと私は思うのですが、皆様いかがでしょうか(笑)
つまり、穢土に存在している私が、煩悩を抱えた私が、どう生きていくか。
自分自身の煩悩と向き合って、この社会をどのように生きていくか。


信心決定するために、煩悩と闘う必要はありません。戦う相手は疑情です。
しかし、信心決定したら煩悩と向き合うようになります。
※このあたりも、高森会長は真実と逆に説いているように思います。信前の求道は煩悩との闘いであり、信後にはその戦いから解放されて重荷が降ろせるかのように説いています。

信前に向き合うのは疑情。信後に向き合うのは煩悩。(言い過ぎかな?)
未信の時には煩悩から離れられず、煩悩にふりまわされて流されてきた私が、煩悩と向き合うようになるのです。信心決定した後の方が、煩悩と真向かい合わせになるように思います。信後の方がある意味では修行です。
しかし、そこでの闘いは、肩に力を入れて歯を食いしばっての戦いというよりも、もっとリラックスした闘い。
しんどいけれども目をそらさずに向き合わせて頂ける闘い。
動物同士の戦いの場合、弱い動物は強い相手の目を見ることが出来ないそうですが、そうではない。
相手をジッと見つめての勝負ができる。
阿弥陀様の智恵と慈悲に支えられて、ようやく煩悩と向き合うことができるようになる。
軟心の私が、ずるくて軟弱な心の私が、少しずつ煩悩と向き合うようになる。
そのように向き合ってはじめて、どれだけ向き合っても尽きることのない煩悩を知らされるのでした。
それが南無阿弥陀仏の薬のはたらきです。

つまり、南無阿弥陀仏の薬は「信心決定の時にはたらく」のではありません。
煩悩がとどまらず消えず絶えない私が、臨終の一念を迎えるまで、はたらきつづけて下さっているのです。

信後の話を高森会長はしてくれますか?
「絶対の幸福だ」「念仏はお礼だ」なんていう紋切り型の、しかも間違った話しばかりです。

K氏の言葉を再掲します。
-------------
病人と医者と薬と全快の話
何度も何度もその事一つを繰り返して聞いてきました。その事は退会者の人達も否定できないと思います。
•2018-02-16(12:06) : 金星人
-------------

ここではK氏の言うことを否定しません。言っているとおりです。
つまり間違いだらけの喩え話を何度も何度も繰り返してきたのが親鸞会です。
会員の鼻先にニンジンですね。夢を見せてきたのです。叶わない夢です。
信後の世界を正直に具体的に話して下さる先生に、早くお会いしてください。
親鸞会会員のみなさんに、そう願うばかりです。

コメント返信

スナオ様
チュウビ様

酔った勢いで念仏誹謗。
売り言葉に買い言葉で念仏誹謗。

彼の言い訳は、要は「ナワをうらむ泥棒」と一緒です。

親鸞会で必死に求道したといっても、彼らの言う因果の道理一つ理解していなかったのが彼だったのでした。

「誤りを犯さないことを誇りとするよりも、誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」(一日一訓カレンダー)

ではなかったのでしょうか。高森の行である助正間雑もまともにしていないことが伺えます。上が上なら下も下です。

あくまでも自分達だけが真実を知らされていて、他はみな間違い。俺がその誤りを正してやろうという慢心、思い上がりが根底にありますから、高森会長を始めとして親鸞会教義に毒されている人間は非を認めないのです。恐ろしい聞き誤りです。


> 「人生これでよし!」

詠まれた歌といい、素晴らしいです。往生は弥陀にまかせて安心ですが、私なんかは欲や怒りが体から溢れていて、失敗ばかりです。生き方への迷いや、生活態度の迷いもあります。もう反省することしきりであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ。


酒を飲んで念仏が出るなら飲んで、飲まない方が念仏が出るなら飲まない方がよいでしょうね(笑) 私はただ眠くなるばかりなので最近はあまり飲んでおりませんが(;^ω^)

病人と医者と薬と全快の話 ④

追記します。

以下が元ネタです。
それを会長の都合に合うようにアレンジしたのでしょう。

「一粒の丸薬」のたとえ (本願寺派総合研究所)
http://j-soken.jp/ask/2067

・田淵静縁『布教大辞典』(法蔵館)より。
(田淵静縁:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1234052072


「お礼の念仏」なんて、言わなきゃよかったのに。

http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-1100.html#comment2711

Re:TENさん

こんばんわ、Abcです。
私なりにTENさんの示していただいた文章に「色づけ」してゆきたいと思います。

>「南無阿弥陀仏とは何か」

>私(TENさん)なりに喩えを改めてみました。
>おかしかったらツッコミいれてくださいませ。

 ・私…病人 無明業障の病の罹患者
 ・阿弥陀仏…医師 「医王」ともいわれます
 ・無明…病気

 ・名号…薬
 「医王」である阿弥陀さまが、まだ「法蔵菩薩」の時に五劫の間、考え抜かれ調合された「薬」です。もっといいますと、まず「久遠実成の仏」であったが、「なんとかして衆生をすくいたい!」といったん「仏の称号」を差し置いて「菩薩」となられ、薬を調合し、世自在王仏の許にて、「弥陀仏」となられました。

それを、親鸞は和讃にて、
 南無不可思議光仏 饒王仏のみもとにて
 十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する

※饒王仏は、弥陀仏の師である 世自在王仏の別号です。

と申されております。

 ・信心…薬のはたらき①
 「正定之因唯信心」ともいわれ、「正定の因」であるとされます。
「薬のはたらき①」とありますとおり、「弥陀の頓服薬」の効能の1つであります。

このことを親鸞は、
十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき
 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん

と申されています。

 ・念仏…薬のはたらき②
 「唯能常称如来号」ともいわれ、「唯能く称えなさい」とあります。
「薬のはたらき②」とありますとおり、「弥陀の頓服薬」の効能の1つであります。

このことを親鸞は、

不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし

といわれたり、

十方衆生のためにとて 如来の法蔵あつめてぞ
 本願弘誓に帰せしむる 大心海を帰命せよ

ともいわれます。「十方衆生のために」弥陀は「頓服薬」を作られたのです。

△ ・往生成仏…全快

こちらは、TENさんの見解と私の見解では少し違うので三角をつけさせていただきました。ご了承ください。

まず、親鸞は、

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

と申されております。こちらはTENさんもご了承の内容でしょう。

次に、『如来二種回向文』に、

これは如来の還相回向の御ちかひなり。これは他力の還相の回向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。よくよくこの選択悲願をこころえたまふべし。  とあります。

それに加えまして、『正信偈』には、
「必至滅度願成就」 「11願もまた成就する」とあります。こちらは「七高僧」との明らかなる違いであり、「不体失往生」ともいわれる由縁です。
(高森さんをはじめとする方がたはこの「不体失往生」ということばかり気をとられて「現生利益」となってしまうのです。)
 そもそも「弥陀(医王)にすくわれた!!」と豪語するのなら、「念仏ないから」云々はならないかと思います。

よって、「医王の頓服薬」を服用したならば、「煩悩はなくならない」(丸太や板切れが欲しいという心はなくならない)が、
「三途の黒闇」(生死の苦海で溺れること、「生死輪転家」とも)は晴れます。

そもそも、「火宅無常の世界!」といいながら、その「火宅から厭い離れる」ということを説かないのが、高森教なりK教の問題点です。


信心のひとは正定聚にいたりて、かならず滅度に至ると誓ひたまへるなり。これを「致」とすといふ、むねとすと申すは涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。
 「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身に満ち満ちて、欲も多く、怒り腹立ち、嫉み妬む心多く間なくして、臨終一念に至るまでとどまらず消えず絶えずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一多文意)

仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり
 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ (浄土和讃)

すなわち、私が味わっている「往生」とは、「現生正定聚」であり、
「信前は疑情で『本願』を見ることが出来ないばかりか、それで「輪転の家」に還らなければならなかったが、弥陀にお任せして五悪趣を断ち切っていただいた」であるから、

そのあとTENさんが言われている、
>私はいつ「全快する」のか
>1.この世では全快しない
>2.往生成仏した時が全快したとき

の1.は「この世では全快しない」ではなく「この世で疑情を行っている(患っている)限りは全快しない」だと私はかんがえます。なので2.は正しくそれは「命ある間である」ということです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re:TENさん

連投申し訳ございません、Abcです。

先ほどのことを『正信偈』を読み解くと既に記してありました。
最初からこれを添付すればよかったのですが、どうしても私の言葉で
述べてみたかったのです。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

生死輪転家に還ってくるのは 疑情を以って所止と為し、決定とする(「決定」とは「信心決定」のことです。)
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入るには 信心を以って能入することを必定とする(「必定」とは「自然即時入必定」とあるように、「寂静無為の楽(みやこ)に入る」ことです。)

Abc

Abcさん

コメントありがとうございます。

Abcさんがおっしゃるように、久遠実成の仏が法蔵菩薩になり下がっての求道・ご苦労が、ただいま私が称える念仏としてあらわれて下さいました。
仏願の生起本末をそのまま受け入れさせて頂いた心で念仏を称えていることがありがたいです。
お念仏をひもとけば仏願の生起本末となり、また弥陀の願心におさまる。阿弥陀如来と親子名乗りをあげさせて頂いたことがありがたいです。


喩え話しの解釈に、「△」をつけて下さってありがとうございます。

Abcさんがおっしゃるのは、本願を信受した時が「全快した時」、ということでしょうか?(^^)

法然上人までは「正定聚に入るのは死んだ後」だと教えられていましたが、親鸞聖人はその教えを一歩進められました。
この世で往生が定まるのだから、この世で正定聚に入ったのと変わらないのだと聖人はおっしゃいました。
そのように先生からお聞きしています。
その御教えに従って、Abcさんは△をつけて下さったのかなと理解しましたが、いかがでしょうか。(読解力がたりなくてすみません)

「往生が定まる」ということについては、以下のお言葉もありますね。

 本願名号正定業
 至心信楽願為因

「十方衆生を往生させるはたらき」がある(正定業)のが本願の名号。
だけど、それはいまだ「私が往生するはたらき」とはなっていない。
本願名号を信受したときが私が往生すると定まった時。
つまり、本願を信受した時が 「十方衆生を往生させる力」⇒「私を往生させる力」  となった時。

ということですね。
Abcさんがおっしゃるのは、今はまだ往生していないけれども「私の往生が定まった」ことを全快とする。だから「△」なのだということでよろしいでしょうか。
(何度も言いますが、読解力がなくてすみません(^^ゞ


「往生が定まったか、定まっていないか」の点のみで考えれば、本願信受をした時に「全快」ですね。

昨日、私が書いた内容は「往生は定まる身になったけれども、無明煩悩は変わらない」の「けれども」という点に着目しました。

・無明の闇・・・全快
・無明煩悩・・・変わらない

無明の闇は全快したけれど、無明煩悩は減りも無くなりもしない。つまり「無明」は全快していない。だから「△」です。
という言い方もできるかな、と思いました。
いかがでしょうか。

淳心房さんが昨日のコメントに書いていらっしゃいました。

> 生き方への迷いや、生活態度の迷いもあります。

いま私もまったく同じことを思っております。
生き方や生活態度についての迷いもなくなるのだと、会員の人達は思っているのではないでしょうか。私は「仏法を聞きぬいたら人生についてのすべての迷いが払拭される」のだと会員のときには思っていました。だからこそ、富山まで行ったり、行きやすい環境を作る努力をしていた訳です。
では信心決定したらどうなるのか。
実際には淳心房さんがおっしゃる通りだと思います。
淳心房さんの言葉は、篤信者の「ありのまま」「現実」「実際」の言葉だと思いました。「無明煩悩が変わらない」姿だと思いました。


そこで、Abcさんにお聞きしたいのですが。
高田派には「生き方」「生活信条」のようなものはございますか?

ちなみに私が本願寺派のお寺から頂いた勤行集の中には「浄土真宗の教章(私の歩む道)」「浄土真宗の生活信条」というものが載っています。

Re:TENさん

こんばんわ、Abcです。

ご返答ありがとうございます、微力でしたがTENさんにはとどいたでしょうか。

今回も、質問に回答してゆきたいとおもいます。

>Abcさんがおっしゃるのは、本願を信受した時が「全快した時」、ということでしょうか?(^^)

さようです、そのため先コメントでは「この世で疑情を行っている(患っている)限りは全快しない」と書かせていただきました。もしそうでなかったならば「平生業成」とはなりませんから。

>法然上人までは「正定聚に入るのは死んだ後」だと教えられていましたが、親鸞聖人はその教えを一歩進められました。
この世で往生が定まるのだから、この世で正定聚に入ったのと変わらないのだと聖人はおっしゃいました。
そのように先生からお聞きしています。
その御教えに従って、Abcさんは△をつけて下さったのかなと理解しましたが、いかがでしょうか。

さようです。その先生の仰るとおり、「この世で往生が定まるのだから、この世で正定聚に入ったのと変わらないのだと聖人はおっしゃいました。」です。

そのことを「現生正定聚」と申し上げます。

>つまり、本願を信受した時が 「十方衆生を往生させる力」⇒「私を往生させる力」  となった時 ということですね。
Abcさんがおっしゃるのは、今はまだ往生していないけれども「私の往生が定まった」ことを全快とする。だから「△」なのだということでよろしいでしょうか。

そのように受け取られて問題はありません。「疑情が晴れる」であり、「煩悩が晴れる」ではないことを留意されてください。

すこし蛇足とはなりますが、親鸞は「ご消息」のなかにて、
 「この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」

と申されております。

>・無明の闇・・・全快
>・無明煩悩・・・変わらない

>無明の闇は全快したけれど、無明煩悩は減りも無くなりもしない。つまり「無明」は全快していない。だから「△」です。
という言い方もできるかな、と思いました。

こちらの考察は肯定しかねるかと思います。そもそものこの命題は「1.この世では全快しない」に対する回答です。確かに、「何が全快するのか」とTENさん自身がかかれておりませんでしたので、そのことに従ったならば回答は出来なかったかと思います。
 しかし親鸞は、「不断煩悩得涅槃」といわれており、「無明煩悩・・・変わらない」のは明らかであります。先のコメントを再投するとしますと「丸太や板切れは相変わらず欲しいままである」となります。

弥陀の本願は「このまま生死輪転の家に衆生を迷わせてはならない! 助けたい!」でありますから、その「生死輪転の家」に行くのを断ち切るのは当たり前のことです。そのため18願は「即横超截の願」とも申し上げることが出来ます。

このことを本願寺法主 蓮如上人は、『御文』にて、
 「いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。」(2帖目第8通 「本師本仏」より) といわれています。

>そこで、Abcさんにお聞きしたいのですが。
高田派には「生き方」「生活信条」のようなものはございますか?

特に定まった「信条」というものはございませんが、「いつも心には「念仏高田」であり、衆生に「念仏」をただお伝えすること」を主としております。

高田派25世 常盤井慈祥 法主は、
 「私ども高田派には、古来から「念仏高田」と形容されてきたように、お念仏に生きる信仰を体現してきた歴史があります。これこそが、私たちが取り戻し、突き進むべき道ではないでしょうか。」といわれております。

また、本願寺派は「ご本典(教行信証)から衆生を教化する」とされ、WikiArcにもしるされておりますが、「据わりは本典(教行証文類)です。」なのです。

対して私たち高田派は、「和讃」に慣れ親しみ、その「和讃」から親鸞のお手紙「ご消息」へと続いていきます。だいぶ前のコメントに記されていたかとはおもいますが、「教行証」は「「約仏」の立場にて、聖道の学僧にしるされた書物」でありますから、「私たちにはとても・・・」となるのは道理であります。そのため、重ねて申し上げますが「和讃」から私たちは教えを主に説いています。

(親鸞が記された「ご消息」のほかに、歴代上人が記された「御書」というものもございます。前にリンクを張ったアレです。)

一切菩薩ののたまはく われら因地にありしとき
 無量劫をへめぐりて 万善諸行を修せしかど
恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし
 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし

全ての菩薩が言われている。 私たちが因地にあって、
 大変長い間、万善諸行を行ったが、
「煩悩」は断ち難く、 また「生死」もまた尽き難かった。
 念仏三昧行じてこそ、罪障を滅し度脱するのである。

※補足:「罪障を滅し度脱する」のは「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらおば」とあるように、「生死の苦海」からの度脱です。(「生死の苦海」にはそのほかの意味もございますが、ここでは高森さんの言われている「生死の苦海」にて話を進めています。ご了承ください。

Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

>南無阿弥陀仏の薬の「ふたつの無明」に対する効能
1.無明の闇⇒一念で破る
2.無明煩悩⇒煩悩即菩提

こちらについてですが、1.は何度も述べましたとおり「弥陀にお任せすることによって晴れる」です。

問題は2.です。ここからはいろいろな方がたの意見が分かれるところではありますが、すくなくとも私は、「煩悩即菩提」を「弥陀に助けてもらって、菩提となるから、煩悩に左右されることはない」と読み解きます。

それを親鸞は、『正信偈』にて
 「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」といわれています。
 「煩悩の林に遊んでいながら、不思議なお力(神通力)によって 迷いの世界(生死薗)にかえって衆生を救うことができると示された」となります。

この「煩悩即菩提」からも「自力煩悩の因が、他力菩提の果となる」と、「自因他果」と読み解くことが出来ます。先のコメントに沿いますと、

 「私たちが因地にあって、 大変長い間、(私たちの計らいにて)万善諸行を行ったが、「煩悩」は断ち難く、 また「生死」も尽き難かった。 (ここまでが「因」です)
(仏の計らいにて)念仏三昧行じてこそ、罪障を滅し度脱するのだ。 (ここまでが「果」です。) 」です。

Abc

痴無明と疑無明

どもです。

話が噛み合っていないような。
仏教では「無明(無知)」ということを説くのですが、浄土真宗ではこの無明を「痴無明(真如に背反する無明)」と「疑無明(自力のはからい)」に分けて考察します。極々一部にこれに反対している学者もいます。
これを知っていると高森会のいうハッキリという言葉が、いかにいい加減な表現であるかが判ると思ふ。

「痴無明と疑無明」
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/09/05/%e7%97%b4%e7%84%a1%e6%98%8e%e3%81%a8%e7%96%91%e7%84%a1%e6%98%8e/

「称名破満の釈義」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%A7%B0%E5%90%8D%E7%A0%B4%E6%BA%80%E3%81%AE%E9%87%88%E7%BE%A9

越前の門徒は、談合の場で、夜明けさしてもろたかや?とよく言っていましたが、

 摂取心光常照護 已能雖破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
現代語:大智大悲の光明は、信心の行者を常に照らし護りたまう。信心の行者は、すでに生死に惑う無知の闇は破られているが、愛憎の煩悩は、雲や霧が天を覆うように、信心の天を覆っている。しかし太陽が出ているかぎり、厚い雲霧に覆われていても、地上に闇はないように、信心は煩悩を透して念仏者を導き続ける。

の、「疑無明」が晴れたかどうかを問題にしていたのでした。「痴無明」(根本無明)が晴れれば仏陀です(笑
このような意味では、信心一発後の生活が真の求道といえるのかもです。もっとも求道というより御恩報謝の生活という方が真宗向きではある。

少し論の建て方がちがうけど、浄土真宗は現益(現在の利益)と当益(将来の利益)の二益法門を説くので、この「痴無明」と「疑無明」の説は判り易いかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E6%98%8E



Abcさん 林遊さん

御二方からコメント頂きまして、ありがとうございます。

林遊さんから「話がかみ合っていない」とありましたので、今回の話を「別の角度」から見直しました。
私の中で、ひとつハッキリしない点がありました。
それが原因だと思いますので、書かせて頂きます(^^)

それは仏願の生起本末の「末」です。

「末」とは
1.ただいまの私が現生正定聚の身になること
2.往生成仏すること

ここがハッキリしていないために「かみ合わない」のだと気づきました。

「仏願(大慈悲心)による壮大なドラマ」を軸に考えると、「末」とは、私が往生成仏することであり、さらには還相のおはたらきによる衆生済度をすることだと思っていました。
つまり、信心と念仏によって、仏果を得ることが「末」になります。

一方で、「ただいまの私」を中心に考えますと、無明の闇を阿弥陀如来に破って頂いて正定聚の身にして頂いた。
つまり、「名号」という因によって、現生正定聚という「結果」を得ることが「末」となります。


仏願の生起本末の「末」とは
1.現生正定聚のこと
2.往生成仏のこと
のどちらなのでしょうか。


私は、どちらとも言えるし、親鸞聖人は「弥陀の願心」「他力回向」「往還二回向」を軸に教行信証を書かれたので、「2」ではないかと思っていました。
浅学なので、間違っていることが多々あると思いながら、カキコミさせて頂いております。
御二方の知見を加えて頂ければと思います。

頂いたコメントで他にもお返事したいことがあったのですが、仕事なので取り急ぎ上記だけ書きました。

ネットを通じてこうして信心の沙汰をして頂けることがありがたいです。
こういう場を提供して下さる管理人様にも感謝です。

なんまんだぶ。

横から失礼します

無明の話ありがとうございました。勉強になります。なんまんだぶなんまんだぶ。
ですけどTENさんのそもそもの話は、
仏教の目的が成仏である。しかし親鸞会は、信心決定=絶対の幸福を目的にしている。その間違いを、親鸞会も使う「医者のたとえ話」を使ってツッコミを入れてるのです。
 真宗は浄土往生して成仏するわけですね。そこが目的=全快です。とTENさんは定義してます。そこにツッコミは入れないでください(笑)
 では親鸞会はどこをどう捉えてズレてしまったのかは、林遊さんがいうように無明の捉え方だと思います。そこがズレて目的地が変わってしまったあほの親鸞会と火星教団でした(笑)
でもAbcさんが話をずらして拡げてくださって勉強になりましたと重ねてお礼を書きました。なんまんだぶなんまんだぶ。

Re:TENさん

こんにちは、Abcです。

お仕事、お疲れ様です。私も出来るならば昼夜問わず「信心の沙汰」をおこないたいのですが、なにぶんお金がないと生活できないもので... 誠に私たち衆生は浅ましい限りです。

さて、ここからは「あくまで私の意見」となりますが、

>仏願の生起本末の「末」とは
1.現生正定聚のこと
2.往生成仏のこと
のどちらなのでしょうか。

の問いは「どちらとはいえない」または「どちらともである」といえます。
 なぜならば、「本願名号正定業」、「正定之因唯信心 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土」、「行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」ともいわれています。これらは全て『正信偈』からでありますので、蓮如上人が追記していただいた『正信偈大意』とともに読み解くことをお勧めします。
 1つの例として、「正定之因唯信心」の箇所を記しておきます。

「正定之因唯信心 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土」(親鸞 『教行証 行巻末 -正信念仏偈 正信偈-』 より)

「「往還回向由他力 正定之因唯信心」といふは、往相・還相の二種の回向は、凡夫としてはさらにおこさざるものなり、ことごとく如来の他力よりおこさしめられたり。正定の因は信心をおこさしむるによれるものなりとなり。

 「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」といふは、一念の信おこりぬれば、いかなる惑染の機なりといふとも、不可思議の法なるがゆゑに、生死すなはち涅槃なりといへるこころなり。

 「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」といふは、聖人(親鸞)、弥陀の真土を定めたまふとき、「仏はこれ不可思議光、土はまた無量光明土なり」(真仏土巻・意)といへり。かの土にいたりなばまた穢土にたちかへり、あらゆる有情を化すべしとなり。」(大谷本願寺 第8世 蓮如上人『正信偈大意』 より)

とあります。

TENさんの質問を上の書物から抜き出して、私なりにアレンジしますと

>仏願の生起本末の「末」とは
1.現生正定聚のこと (如来の他力よりおこさしめられ、正定の因は信心をおこさしむるによれるもの)
2.往生成仏のこと (仏はこれ不可思議光、土はまた無量光明土なり」(真仏土巻・意)といへり。かの土にいたりなばまた穢土にたちかへり、あらゆる有情を化すべし)
のどちらなのでしょうか。

と問われているものかと私は感じました。ここまで記すとTENさんも「どちらともでは...」と思われるかとおもいます。そのため、冒頭でも記しましたように「どちらとも」となります。

Abc

追記

「話を広げる」ということは、私も半ば無意識に行ってしまう愚行です。ですが、それによって「さまざまな縁(えにし)」ともなりますので私は容認しております。

Re:TENさん

連投申し訳ございません。Abcです。

先ほどのコメントは「真宗内で考えた場合の考察」です。
いま、記すのは「浄土仏教内で考えた場合の考察」です。

>仏願の生起本末の「末」とは
1.現生正定聚のこと
2.往生成仏のこと
のどちらなのでしょうか。 (TENさん)

1.と2.は「どちらとも真宗での「末」であり、「弥陀の願い」」であります。
対して、浄土宗では2.のみであります。

その理由としまして、先ほどからあげている「現生正定聚」という概念がないということであります。「法然上人までは「正定聚に入るのは死んだ後」だと教えられていましたが、親鸞聖人はその教えを一歩進められました。
この世で往生が定まるのだから、この世で正定聚に入ったのと変わらないのだと聖人はおっしゃいました。」(TENさん)です。

そもそもの「仏教の目的」は「行者が仏となるための行い」であります。その「行い」の考え方が、正法 像法 末法 法滅 とその時々にて変わってきているということなのです。ですから2の「往生成仏のこと」は「仏教全般に言えること」であります。その中「速やかにすくわれる教え」として「弥陀のおちからに依って 正定の因は信心をおこさしむるにより、生死すなわち涅槃となる」という「他力大乗仏教」(または「浄土仏教」)といわれるのです。

ながながと申し訳ございません。この度はご質問していただきありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

聞いて慶ぶ言葉

仏願の生起本末とは、註釈版の脚注には、

 仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあること。

とあるので、

>「末」とは
>1.ただいまの私が現生正定聚の身になること
>2.往生成仏すること

という二分類法の論理の建て方とは違うと思ふ。
たしかに「現生十種の益」p.251 として「十には正定聚に入る益なり」とあるのだが、これは因を顕しているのではなく信心の利益を出されているのだと思ふ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E7%94%9F%E5%8D%81%E7%9B%8A

「信心正因」であって「正定聚正因」ではないわけです。

昔の布教使は「米獲ろうと思たら藁まで採れた」と言ってましたが、浄土真宗の目的は「往生成仏」でした。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2010/03/01/%e7%b1%b3%e7%8d%b2%e3%82%8d%e3%81%86%e3%81%a8%e6%80%9d%e3%81%9f%e3%82%89%e8%97%81%e3%81%be%e3%81%a7%e6%8e%a1%e3%82%8c%e3%81%9f/

どなたでしたか、
 機を見ればどこをとらえて正定聚 法にむかえば うれしはずかし。
と示されていましたが、現生正定聚とは聞いて慶ぶ言葉であって、自分から論じるとおかしなものが出てくるのかもです。いわゆる持ち替え安心かな。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/10/25/%e5%bc%a5%e9%99%80%e3%82%92%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%82%80%e3%81%a8%e3%81%af%e3%80%81%e5%90%91%e3%81%8d%e3%82%92%e3%81%8b%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%aa%e3%82%8a/

浄土真宗のご信心は私の上にあるけれども私のものではないのでした。こういうところがややこしいのでした(笑
昔から浄土真宗の法義は「聞いてよろこぶご法義」といわれてきましたが、ありがたいこっちゃと思いますです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメントありがとうございます。

御三方からのコメントを頂きまして、ありがとうございます(^^)

まず、チュウビさんがおっしゃるように、

> 仏教の目的が成仏である。
> しかし親鸞会は、信心決定=絶対の幸福を目的にしている。
> その間違いを、親鸞会も使う「医者のたとえ話」を使ってツッコミを入れてるのです。
> 真宗は浄土往生して成仏するわけですね。そこが目的=全快です。とTENさんは定義してます。

ということが、私の書きたかったことでした。


次に、昨日Abcさんから頂いたコメントにて

・高田派は和讃や御消息に親しみ、和讃から法を説く

ということをお聞きしたのが興味深かったです。
私たち学者ではない者にとっては和讃は親しみやすく覚えやすく心に残りやすいです。
折しもつい最近、チュウビさんがご法話にて「和讃について」、「歌として聞かせて頂く、とはどういうことか」、についてのお話を聞かれたそうです。
そのご法話の内容の要約を私もお聞きしていたものですから、タイムリーな話題だな~と思いました。

> 高田派25世 常盤井慈祥 法主は、
> 「私ども高田派には、古来から「念仏高田」と形容されてきたように、お念仏に生きる信仰を体現してきた歴史があります。
> これこそが、私たちが取り戻し、突き進むべき道ではないでしょうか。」といわれております。

「取り戻す」という表現が心に残りました。
昔に比べると少ないのでしょうね、お念仏。
「なんちゃって真宗」の親鸞会を出て、「本当の真宗」に出逢えて分かったことは、正しく説く先生が大勢いること。
そして、いろいろな場所で法が説かれていること、でした。
しかし、それでも昔に比べるとお念仏の声が少ないのでしょうね。
お念仏よろこぶ皆様と今こうしてご縁がある訳ですが、やはり現代社会でお念仏の声を聞くのは少ないのかもしれませんね。

「真宗=本願寺」 という認識も親鸞会によって作られたものでした。
井の中の蛙大海を知らず、でした。
私はまだ親鸞会から離れて1年も経たず、どこの派にも属しておりませんが真宗十派、それぞれ個性がありますね。
Abcさんのコメントから、広い真宗界を学ばせてもらっています。
法主さまの言葉を教えて頂いてありがとうございました。


最後に、林遊さんから昨日頂いたコメントについてです。

リンクを読ませて頂きました。ありがとうございました。

まず以下のリンクより
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/09/05/%e7%97%b4%e7%84%a1%e6%98%8e%e3%81%a8%e7%96%91%e7%84%a1%e6%98%8e/

> 何故なら人間は言葉によって概念を把握し分別し、生と死、愛と憎、善と悪、有と無などと分別する存在だからです。覚りの世界とはそのような対立を超えた一味平等な世界です。

名号におさめられた知恵と慈悲のおはたらきによって、自分が分別・相対・怨親の心で生きていることが知らされます。
知らされますが、その分別の世界から離れられないので、覚りの世界ではありません。信心=覚りではないですね。

> 浄土真宗でご信心を得るということは、この疑無明が晴れたことをいいます。
> しかし、痴無明は死ぬまで晴れることはありません。
> これを混同すると<絶対の幸福>などというスローガンに騙され、信と覚りを混同した変な宗教に騙されることになります(笑

私が今回の「医者と特効薬の喩え」で書きたかったことはこのことです。
ありがとうございます。

次に、「無明」についてです。

> 無明ということ
>
> ところで、ここでいわれた「無明」とは何を指すのかということについて、古来さまざまな説が出されています。それに応じて「衆生の志願」の意味も変わっていきます。

親鸞会で聴聞していて、高森会長の話を聞いて、毎回スッキリしなかったのは以下のご和讃でした。

 無碍光如来の名号と
 かの光明智相とは 
 無明長夜の闇を破し
 衆生の志願を満てたまう 
 (曇鸞讃)

「衆生の志願って何なの?!」といつも思っていました。

「私たちの願い」と言ったり、「私たちに阿弥陀如来がかけている願い」と言ったりボヤけているのです。
ボカシているのか、ぼやけているのか、分からないのですが、聞いてもよく分からない。

以下、「衆生の志願」について、詳しく説明しない高森会長のホームページ。
http://takamorikentetsu.com/nazenaze/%e4%bb%96%e5%8a%9b%e6%9c%ac%e9%a1%98%e3%81%a8%e8%a6%aa%e9%b8%9e%e8%81%96%e4%ba%ba/

衆生の志願が満たされる=絶対の幸福になる? ですか??

それを林遊さんがアップされた梯和上の解説では「破闇満願」の「無明」と「志願」は「今まで三通りに解釈されてきた」とおっしゃっています。
そして、その3つの説を併記してひとつずつ丁寧に説明されていますね。
このようには説明せずに、「衆生の志願=絶対の幸福」と乱暴にまとめてしまうのが高森会長でした。

林遊さんの以下のリンクより、まとめてみます。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%A7%B0%E5%90%8D%E7%A0%B4%E6%BA%80%E3%81%AE%E9%87%88%E7%BE%A9

【梯和上のご解説】

①痴無明説 
・無明の闇・・・痴無明(虚妄分別、煩悩)
・衆生の志願・・・浄土往生、成仏

②疑無明説
・無明の闇・・・疑無明(疑情)
・衆生の志願・・・往生一定の安堵心(信心)

③痴無明、疑無明併存説
・無明の闇・・・名号の持つ法徳からは痴無明(虚妄分別、煩悩)
・衆生の志願・・・機相からは疑無明が破られた往生一定の安堵心(信心)

林遊さん、ありがとうございました。勉強になりました。

三つの説があることを知り、それぞれ丁寧に説明して頂いて、私は納得しました。親鸞会でも、正しい教えをこのように学びたかったものです。


会員のみなさんには、疑問に思っていることはドンドン講師に質問したらよいと思います。教えを聞いて納得いかないことは追及してください。
果たして誠実に正しく答えてくれるでしょうか?

「質問大歓迎!」というのは親鸞会でよく聞くセリフです。
しかし、私の担当講師は私が退会する最後まで向き合いませんでした。
こちらの方が「質問大歓迎!」のスタンスでしたけれど、あちらは信心の沙汰からも法論からも逃げてしまいました。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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