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「よき人の仰せ」=「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とは絶対に話さない高森顕徹会長

『飛雲』親鸞聖人は法然上人の教えを聞いて救われた、と言いながら法然上人の教えを完全否定する高森顕徹会長

に挙がっているように、日曜日は富山で高森顕徹会長の話がありました。

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」と
は、どんなことでしょうか。


という質問に対して、「聞く」とはどういうことか、歎異抄第二章を通して解説をしたそうです。

年頭所感でも、当然「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かない高森顕徹会長でも紹介したように、歎異抄第二章は『顕正新聞』年頭所感で高森会長が触れた御文であること、また、親鸞会の「歎異抄をひらく」が映画化することに伴って今回根拠として用いたのだと思われます。

歎異抄第二章は、田畑を売り、命がけで京都の親鸞聖人を訪ねた同行達に聖人が仰ったお言葉であり、その中でも教えが詰まっているとして高森会長が紹介した言葉が

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。

でした。しかし高森会長が説明したことと言えば、よき人とは善知識であり、善知識の説明に

善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。『御文章』2帖目11通

という根拠を用いたこと。善知識の元祖がお釈迦様だということ。親鸞聖人にとってよき人、善知識は法然上人だということ。「よき人の仰せを被りて」は「法然上人から教えを聞いて」ということ。とまぁこの程度で、肝心のよき人、法然聖人の仰せとはどんな教えなのかを示すことは最後までありませんでした。それでいて

聞く一つの教えであること、『聞く一つで、大船に乗せる』ということが阿弥陀仏の本願であることが歎異抄第二章の聖人のお言葉からも明らかである

などとはどの口が言っているのか、滑稽至極とはこの事であります。


『歎異抄』第二条は、関東の同行が京都の聖人の元まで「ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがため」に赴き、関東の同行に対してなされた聖人の教えが説かれています。ここで「往生極楽のみち」とは、直後に

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し・・・

と仰っていることからも判るように「往生極楽のみち」=「念仏」です。親鸞聖人が教えられたことは「念仏」以外には無かったことが知られます。そのことは、次のお言葉

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

によってより明らかになります。親鸞聖人が法然聖人から受けた教え、つまり「よきひとの仰せ」とは

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

これ以外無かったのです。法然聖人が諸善を廃してただ念仏一行を勧められたのはこの記事にも書いていますが、それほどに諸善を廃し念仏一行を立てる教えであったので、こうした『選択本願念仏集』を読んでそれまで法然聖人に対して「深く仰信を懐」いていた明恵上人高弁が、『摧邪輪』という書物まで著して徹底的に批判することともなったのです。親鸞会の会員は、朝廷と聖道諸宗が結託して恨み妬みの心で承元の法難を起こした位にしか捉えていないでしょうが、無知もいいところです。そして親鸞会は、当時聖道諸宗が法然聖人を攻撃したのと同じような理論で18願一つ説く真宗宗派や退会者を非難していることをよく知るべきです。(※)

さて、そういった法然聖人、親鸞聖人の「念仏一行」の教えに対して、高森顕徹会長の教えは全く異なります。高森の教行信証(行編)でも示した通り、高森会長の勧める行は

悪業悪行(聞邪義、弘宣邪義、献金、服従)、助正間雑、雑行

です。対する法然聖人、親鸞聖人の教えは

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに三選の文(行文類引文)

とあるように、

聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、選んで正定(仏の名を称する)をもつぱらにすべし

です。「高森の行」は、『教学聖典』に依れば(1)熱心な聞法、(2)五正行の実践、(3)六度万行の実践であって

自力で命がけでワシの話を聞け。助業もやれ。雑行もやれ。

ということですから真逆です。このように教えが真逆であることはここ10年や20年の話ではなく、遅く見積もっても『会報』や『こんなことが知りたい①』等が発行された昭和40年代からの話ですので、そんな親鸞会の教えしか聞いてこなかった者がそれをまともに信じて法然聖人や親鸞聖人と同じ信心になれるわけがないのです。


念仏は私が称える私の行ではなく、阿弥陀仏がただ一行選び取って与えて下された如来回向の行ですから、「南無阿弥陀仏(必ず往生させるから、安心してまかせなさい)」と深く信じて称える者は必ず報土の往生を遂げさせて頂くのです。私が称えるからでは往生するのではなく、「称えた者を往生させる」という本願に順ずるが故に往生するのです。

諸行に対して念仏一行を徹底されたのが法然聖人ですので、よく行行相対と言われますが、親鸞聖人はそこから更に、行行相対して往生には念仏一行となった者の中に、自力の信心の念仏者と他力の信心の念仏者がいるということを仰ったわけです。それで、自力の信心の念仏者は化土にとどまるとこれを誡め、他力の信心を具えた念仏を称えなさいとお勧めになっているのです。ただ高森に言われるがままに邪義を聞き続け、助正間雑し、雑行を修め悪業悪行をやっている者が「信心」がどうのこうのと言っても、それこそ「コンマ以下」です。念仏一行にもなっていない者が浄土真宗の信心を語るなど、それこそ不届き千万であります。

「よき人の仰せ」=「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とは絶対に話さず、念仏を本願と置き換えて「全ての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」などという低俗なものに貶め、ありもしない信心を教えありもしない道程を指し示して私利私欲を満たさんとする悪知識の話を、会員の皆さんはいつまで信じ続けるのでしょうか。高森会長は皆さんを信心獲得させようなどとは微塵も考えていないことを、教えが真逆であることを通してどうか気付いて頂きたいと思います。
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Abcです

おはようございます、Abcです。

>さて、そういった法然聖人、親鸞聖人の「念仏一行」の教えに対して、高森顕徹会長の教えは全く異なります。高森の教行信証(行編)でも示した通り、高森会長の勧める行は

>悪業悪行(聞邪義、弘宣邪義、献金、服従)、助正間雑、雑行

>です。
(上記、淳心房さんのエントリーより)

仰るとおりで、「ただ念仏」の「念仏一行の教え」でその念仏は「念仏成仏の願」より出たる「本願力回向」であり観経でいう「称南無阿弥陀仏(称仏名)」であります。

親鸞は、
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
のほかに
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』後序)
とも言われたとされています。

高田派は大谷派から「高田は念仏しか説かない」と「念仏高田」の二つ名が与えられましたが、「念仏しか説かない」というよりも「親鸞が言ったことは「念仏まこと」のみであるからそれしか説く手立てがない」です。

※『歎異抄』は高田派のなかでは「後世に親鸞の同行が、記したもの」と言う位置づけですが、ただそれでも第1~第9は「念仏」について書かれています。

Abc

Re: Abc様

> 高田派は大谷派から「高田は念仏しか説かない」と「念仏高田」の二つ名が与えられました

浄土真宗を一向宗と言われたのに似ていますね。
勿論仏願に順ずる念仏を説いていらっしゃるのでしょうから、それはそれでいいのではないでしょうか? 昔は念仏を称えるのが当たり前だったから、念仏の信を説かねばならなかったのでしょうが、今は念仏を称える人が少なく、信心が独り歩きしてしまっている感が否めませんから、真実信を具足した真実行としての念仏を説かねばならんと思いますよ。


あと、彼の人物に何を言っても都合の良いことしか聞きませんから、気にしなくていいと思います。私達の仕事は、有縁の方々に念仏成仏の教えをお伝えして如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳に報謝する念仏者としての人生を生きる、これしかないでしょう。Abcさんは私には無い視点をお持ちですから、どうぞコメントで記事の内容を広げて頂いて構わないです。そうして真宗の教えを讃嘆する、それもまた尊いご縁かと思います。なもあみだ、なもあみだ。

「高森の行」について

こんばんわ、Abcです。
ご返信ありがとうございます。先ほども記しましたとおり「念仏成仏これ真宗」ですので「弥陀におまかせする」と言うことについて今後も伝えてゆきたいと思います。

さて、表題の通り「高森の行」についてですが、

>「高森の行」は、『教学聖典』に依れば(1)熱心な聞法、(2)五正行の実践、(3)六度万行の実践であって

>自力で命がけでワシの話を聞け。助業もやれ。雑行もやれ。
(淳心房さん)

つまり、「高森の行」といいましても「教学聖典に依る高森の行」と「高森会長のありがたい(?)お言葉に依る高森の行」があることが分かります。

教学聖典に依る高森の行
 熱心な聞法
 五正行の実践
 六度万行の実践

高森会長のありがたい(?)お言葉に依る高森の行
 自力で命がけでワシの話を聞け。
 助業もやれ。雑行もやれ。

とまとめられますが、ここから各々に突っ込みを入れていきます。

まず「教学聖典に依る高森の行」です。
 熱心な聞法
これは後の「自力で命がけでワシの話を聞け。」ですが、
「自力で」と「自力」が混ざっているので「化身土往生」です。高森会長が言われている「必墜無間」ではありません。

 辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文にみえ候ふぞや。学生だつるひとのなかに、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教をば、いかやうにみなされて候ふらん。

 信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。


辺地といわれる方便の浄土に往生する人は、結局は地獄に堕ちることになるということについて。

 このことは、どこにその証拠となる文があるのでしょうか。これは学者ぶった人の中からいいだされたと聞きますが、あきれた話です。そのような人は経典や祖師方の書かれたものをどのように読まれているのでしょうか。

 信心の欠けた念仏者は、阿弥陀仏の本願を疑うことにより、方便の浄土に往生し、その疑いの罪をつぐなった後、真実の浄土においてさとり開くとうかがっております。

 本願を信じて念仏するものが少ないので、仮に方便の浄土に多くのものを往生させておられるのです。それが結局意味のないことであるようにいうのは、それこそ浄土の教えをお説きくださった釈尊が嘘いつわりをいわれたと申しあげておられることになるのです。(『歎異抄 第17』WikiArcより)

 五正行の実践
高森会長のありがたいお言葉からしましたら「助業もやれ。雑行もやれ。」らしいので、「五雑行を実践」し、蓮如上人の「雑行・雑修・自力のこころをふりすてて」というおん言に背いているのです。会員はこのことをよくよく知る必要があります。

 六度万行の実践
コチラに関しましては『大経』(上巻)のなかにて、
「布施調意 戒忍精進 如是三昧 智慧為上 
 吾誓得仏 普行此願 一切恐懼 為作大安」

 「布施と調意と持戒と忍辱と精進、このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。」といわれ、
また、『大経』(下巻)のなかには、
「施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧之力 [乃至] 一切具足。」

 「施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、 [中略] かくのごときらの力、一切具足せり。」とも言われています。「念仏」は阿弥陀さまが五劫の間、考えにかんがえこのようなお力を「南無阿弥陀仏」としておつくりになられたのです。ですから「私の側にて」さらに「六度万行せねば」と言うことはありません。「ただ念仏」なのです。
 ですが、他宗から見ますと「念仏を唱えているだけ」、「悟りを開こうという意志がみられない」と『摧邪輪』という書物が記され、

『摧邪輪』は正確には『於一向専修宗選択集中摧邪輪』といい、『選択本願念仏集』において法然が唱えた教説、すなわち称名念仏こそが浄土往生の正業であり、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする専修念仏に対し、そこには大乗仏教における発菩提心(悟りを得たいと願う心)が欠けているとして、激しくこれを非難したものである(摧邪輪 Wikipediaより)

ともいわれ、また叡山の非難の的にもなるのです。

 ただ、そうであるからこそ親鸞は、
「菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす
 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし」

 「仏のさとりを得られそうもない人はみな 真宗(専修念仏)を謗るものである
 頓教(漸教の対義語 「すぐの教え」とも)を無くしてしまったならば
 生死の大海(生死の苦海の別称)には限りがない」

といわれているのです。この「真宗」は「弥陀を褒め称える人がいるならば、謗る人もいるだろう。だが、このように謗る人も弥陀の縁によって慶ばれていただきたい」という宗教なのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

高森爺さんから聞いた歎異抄の思い出

Abcさんお世話になっております。念仏成仏これ真宗。有り難いです。高森爺さんの歎異抄の話はよく1章の「ただ信心を要とすとしるべし」ここだけでした。念仏ないから信心一つと。しかし他の章には念仏が出てきますね。そして10章の義なきを義とする話など一切出てきません。まるっとガン無視です。そのせいで念仏アレルギーとさせられました。しかし今はお蔭さまで根治して念仏称えさせていただけることを喜んでおります。
先の林遊さんがあげてくださった真慧上人の顕正流儀抄の蓮如上人に対する批判の根拠などまさしくこのブログでも度々出る親鸞聖人のお言葉です。今の私が見ると両者は同じことを言ってる一体の話ですけど(表裏でもない)、今の私には想像つかない戦国時代の当時の状況というものがあったのでしょう。
さて、しかし親鸞会などは全くの信心しかいわないどころか念仏誹謗の輩ですから。しかもその自覚がないので反省するきもない。逆謗のものの大自覚はありながらも慚愧しない。そのままで良いと言われたから言っても良いのだぐらいにしか考えていない輩です。典型は火星人ですね。念仏と信心の関係このブログで分かった!素晴らしい!など言いながらも、論理が分からない口だけその場だけで言ってる。結局全くの別ものと考えている。それどころか先の火星人の質問の意図は、我々が一念のはっきりくっきり神秘体験をしていないし、語らない。その自分との違いを明らかにしたくて、お前ら信心決定ほんとはしとらんやろが〜!と言いたいのです。なので、またすぐにでも土蔵秘事の体験談を開陳したくてたまらないのに(目的は信者獲得する気だと思います。仲間がおると以前ブログで申しておりました)、あくまで分からないお前らサイドの要請で開陳してるのだという、ずいぶん上からの態度、さすがミニ高森です。滑稽ですが本人は何が滑稽かも分からないのです。
 Abcさんは、こんな門徒さん今までおりましたでしょうか?こじらせるとここまでいくのですね。なので気にせずに、そのままでの書きたいままでこれからもお願いしたいとおもいます。Abcさんの仏法を讃える話が聞きたいのです。宜しくお願いします。

Re: Abc様

自力で命がけでワシの話を聞け。助業もやれ。雑行もやれ。

これは、法然聖人の教えと正反対であることを顕著に示すために書きました。が、高森の行はこれだけではありません。


確かにやっていることが如実の善なら化土往生なのですが、彼らのメインの活動は

・高森教という邪義を命がけで聞き、信じる
・高森教という邪義を布教する
・高森教という邪義に献金する
・高森会長及び上司の指示に無条件服従する

といった悪業悪行なので、後生は三悪道であり、阿弥陀仏を誹謗する数々の悪業も造っておりますから無間地獄に堕するのもあながちまちがいないのであります。

・一切衆生必堕無間(つまり自力念仏の者も必堕無間)と説いて、念仏の功徳を軽視し、また真宗に反することを説いている。

・阿弥陀仏の木像や絵像を「人」だとか言って、やがて必ず滅びるものだと説いている。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-65ee.html

・阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-2698.html

・阿弥陀仏の絵像を「そんな気持ちの悪いもの!」と講師部員が非難している。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/42969884.html

表向きの高森の行と、裏の高森の行があることが分かれば、そういった「高森の行」では化土往生などとてもとても・・・。Abcさんは1年しか在籍していなかったということなのでそこまで親鸞会教義について詳しくないかと存じますが、実態はカルト教義であり、トンデモ邪義のオンパレードです。

コメント返信

おはようございます。Abcです。

> Abcさんは、こんな門徒さん今までおりましたでしょうか?こじらせるとここまでいくのですね。(チュウビさん)

 特に記憶はしてませんね。大谷と高田の争いの焦点は親鸞が言われてきた「念仏一行」か、親鸞が顕せられた「顕浄土真実教行証文類(ご本典 教行信証)」を紐解くことか、です。そのため、淳心房さんがいわれている「阿弥陀仏の絵像を「そんな気持ちの悪いもの!」と講師部員が非難している。」ということには両者ともなりません。

>一切衆生必堕無間(つまり自力念仏の者も必堕無間)と説いて、念仏の功徳を軽視し、また真宗に反することを説いている。(淳心房さん)
このご指摘もそうですし、「念仏ないから信心ひとつ」という言葉もそうですが、
そのように「念仏を軽視している教団」をみて「念仏を最重要視している教団」の意義をひしひしと感じている今日このごろです。

Abc

追記
>Abcさんは1年しか在籍していなかったということなのでそこまで親鸞会教義について詳しくないかと存じますが
「念仏ないから」などと言う言葉を聞いた以上、「共に念仏慶ぶなかま」ではないと見限っただけのことです。またずるずると「籍だけある」と、「高森の船」が転覆した際に「死なばもろとも」となってしまいますので、「1年」という区切りにしました。
 さすがに「阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない。」と言っているのを聞いた時は「お仏壇に何を掛けてあるのだ?」とおもいましたが。

三法門と四法門

Abcさん。

念仏と信心の関係は、三法門と四法門(ここでの門は区別とか分類という意味)の説き方の違いだと思ふ。
いわゆる「行中摂信」(行に信を摂する)と「信別開」(行から信を別に開く)ですね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E6%B3%95

本派の場合は「三業惑乱」の影響で徹底的に安心(心を一処に安置しすること)を追求してきた歴史があるので、信心を語る坊さんが多いのかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>念仏と信心の関係は、三法門と四法門(ここでの門は区別とか分類という意味)の説き方の違いだと思ふ。
>いわゆる「行中摂信」(行に信を摂する)と「信別開」(行から信を別に開く)ですね。

この文面をみて前に淳心房さんがエントリーにて言われていたことが思い起こされました。 三法門と四法門ですか。文字にすると「教行証」と「教行信証」ですが、『書物の表題の俗称』としては同じものを指しています。

私が前に記した「真宗=信心=念仏」は間違いではないとは思いますが、いまこのようにして「三法門」や「三法立題」をみてますと「まだまだ学ぶことがあるのだなぁ」とおもいます。この度は、ご返答ありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

林遊さんへの追記

連投申し訳ございません、Abcです。

>「行文類」末尾の「正信念仏偈」は「行文類」と次の「信文類」を結ぶものといわれている。「正信念仏偈」は、正信に念仏する偈と読むようだが、「行文類」にあるので、念仏を正信する偈と読むほうが「教行証文類」の構成上親しいようである。(Wikiarc「三法立題」より)

私は、以下の文より、

>そして、念仏の行を受け容れている浄土門の者に対しては、大行が如実の行であることを示す為に、行から信を別に開いて(信別開)、「信文類」を顕わされたのである。ゆえに「信巻」には「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す……」(信巻 P.209)と、別序の文があるのである。行に信を摂して(行中摂信)いるから如実の大行といわれるのであり、信のない行は無いのであり、行のない信もないのである。(Wikiarc「三法立題」より)

念仏の行を受け容れている浄土門の者に対しては、大行が如実の行であることを示す為に、行から信を別に開いて(信別開)とあるため、

親鸞は、私たちがなれ親しんでいる「行巻末の偈文」に「正信にて修める大行(念仏)が如実の行であることを示す偈(うた)」として「正信念仏偈」と名づけたのではないかと私は考えます。

林遊さんが言われている理論が間違っているというわけではありません。
「教 行 信 証  報身土 化身土」と順に読み進めていたならば「行巻」の次は「信巻」となるのですから。

Abc

親しいようである

Abcさん。

>親鸞は、私たちがなれ親しんでいる「行巻末の偈文」に「正信にて修める大行(念仏)が如実の行であることを示す偈(うた)」として「正信念仏偈」と名づけたのではないかと私は考えます。

そのようなツッコミがあるかもと、「べきである」ではなく「親しいようである」としておいたのでした。

高田派依用の「念仏証信偈」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%96%87%E9%A1%9E%E8%81%9A%E9%88%94

も、「正信念仏偈」も、同じような「行信偈」ですから「正信し念仏する偈」でも「念仏を正信する偈」でもいいのじゃないかと思ふ。
ただ、「正信偈」と呼ぶのが一般的ですが、「正しく信ずる偈」だという意味と混同されるの嫌って、念仏は何処へいった?という注意喚起の意味で「念仏を正信する偈」としましたです。

林遊は、つまらん事に執着する粘着タイプだと思われるかも知れませんが、wikiarcの脚注リンク作業で、個々の用語の定義を読んでいるうちに用語の使い方に煩くなったのかもです。根は単純なアホですけど(笑

ともあれ、新しい概念で「お聖教」に補助線を引くことで、より深く御開山の意図を味わえるのかも知れません。そのような意では、このご法義の先輩に感謝です。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2013/04/17/%e8%a3%9c%e5%8a%a9%e7%b7%9a/


ところで、「正信念仏偈データベース」には「正信念仏偈」の音声データは」あるのですが、
http://www.kyoto-wu.ac.jp/daigaku/shisetsu/shukyo/db.html

高田派依用の「念仏正信偈」を聞いてみたいのですが、どこかに音声データがないですかね。「念仏証信偈」を読むときのバックグラウンドとして聞いたみたいです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Abcです

こんばんわ、Abcです。

>ところで、「正信念仏偈データベース」には「正信念仏偈」の音声データは」あるのですが、
http://www.kyoto-wu.ac.jp/daigaku/shisetsu/shukyo/db.html

高田派依用の「念仏正信偈」を聞いてみたいのですが、どこかに音声データがないですかね。

10派のうち9派があるという時点で「仲間はずれ感」が半端無いのですが・・・
音声データは、どこかにはあると思いますが、Upしても(過去にUpした方がいらっしゃいます)「本願寺の意向」にてないものとされてしまうので、「本願寺の立場からしたらない」ようです。

高田派では「一番最後の文字の子音を伸ばして発音」いたします。
例:
 帰命無量寿如来 らー (実際には「いー」)
 南無不可思議光 こぉー
 法蔵菩薩因位時 じー (実際には「いー」)
  ・・・
 道俗時宗共同心 しぃん
 唯可信斯高僧説 せぇー

という具合です。(上記の記し方は『声明集』(大谷でいう『勤行集』)に準拠しています)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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