高森の教行信証(信編) - つつしんで高森の信を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、二種深信なり。他力真実の信心なり。その裏といふは、すなはち「絶対の幸福」なり。「光明輝く生活」なり。裏の信にまた二種あり。

今回も、例にならって古文調で書いた文章を紹介したいと思います。「高森の信」も以前に示した「高森の行」と同様に、表向きの「高森の信」と裏の「高森の信」とが存在します。

表向きの「高森の信」とは、「二種深信」「他力真実の信心」といった真宗用語を使った信心です。

裏の「高森の信」とは、「絶対の幸福」という創価学会の信心です。「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」という高森教の阿弥陀仏の本願によって現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようになったことを言います。それを他力信心を獲たとか、信心決定したとか言っております。

そのように高森教の本願に救い摂られると、二つのことがハッキリします。一つには「地獄一定」、二つには「極楽一定」で、この二つが、同時に疑い晴れている心だから、「機法二種一具の深信」(二種深信)といわれると言っています。実際の高森教では同時ではなく若干の前後のずれがあり、まず自力でド真剣に聞法求道して自力間に合わなかった無間のドン底に叩き堕とされた時「地獄一定」「機の深信」が立ち、それからほぼ時を同じくして信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上が「極楽一定」「法の深信」が立つようです。このような高森教の二種深信に則って、アニメ『世界の光 親鸞聖人』の親鸞聖人の獲信のシーンも、アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』の韋提希の獲信のシーンも描かれています。土蔵秘事地獄秘事信心の典型です。

それから、こうした高森教の「機法二種一具の深信」(二種深信)を「聞即信の一念の体験」と呼んでいます。それは火にさわったようにハッキリするものである明らかな明らかな体験盲者の開眼の一刹那等と言って明らかな自覚があり、逆にハッキリ自覚のない信心は絶対に他力真実の信心ではありませんというのです。信一念の自覚に固執し、その自覚をもって信心の有無を計る一念覚知の異義です。

こうしたことを阿弥陀仏はその本願に「信楽にしてみせる」と誓っているというのです。

ところが、阿弥陀仏の本願は「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のような現世の幸せを獲させる本願ではありません。それは高森教の本願であって、弥陀の本願ではありません。弥陀の本願は「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いです。信楽を獲た者を浄土に生まれさせるという誓いです。

「地獄一定」と「極楽一定」の二つがハッキリするというのは、二種深信の誤った認識です。聞即信の一念の体験があると言い、そうしたハッキリした体験をするまで自力で命がけの求道(「高森の行」の実践)をし、求道に精も根も尽きたところで二種深信が立つなどと説くことは、救済の予定概念を聞く者に植え付ける行為です。信心ばかり強調して念仏を軽視し、ありもしない信心を求めてありもしない道程を進むよう教えるのは、聞く者を信心決定病に陥らせる行為です。

浄土真宗は信一念を覚にも執じず、不覚にも執じない「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」という立場です。信一念の自覚が有っても良し、無くても良し、共に仏智に信順する、つまり本願の名号を計らい無く聞き受け、仰せの通りおまかせしたのが信心です。信一念の自覚がハッキリ有るから往生一定だとか、逆に無いから往生不定だとか、はたまた地獄だとかは言えないのです。凡夫のハッキリスッキリなどみなもつてそらごとたはごとであり、往生の証拠にはなりません。往生の証拠は、現に常にはたらいて下さっている「いまの南無阿弥陀仏」です。このように凡夫の側に確かなものは何一つなく、ただ仏様の側にしかまことはありませんから、「ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰られるわけです。

真実の教行によって真実の信は発起するわけで、高森の教行は決して真実の教行ではありません。よって聞く者が真実の信を獲ることができないのは当たり前のことです。高森教では「難信」を盾に獲得不可能の信心、獲得超難関な信心であることを正当化し、法然聖人、親鸞聖人の教えと真逆なことを教えています。数年に一度、親鸞会会員であり、高森顕徹会長や出版物を褒め讃えている者の中で「獲信した」という会長へのお礼状を機関誌に載せていますが、その信心は定かではありません。同じく「獲信した」と言っていても組織に都合の良い人間はもてはやされ、都合の悪い人間には「除名」処分が下されます。

高森教に都合が良いかどうかで信心の有無を計り、都合の良い人間を利用するだけですので、「みなみな信心決定あれかし」などというのは本当に口先だけ、ただ読んでいるだけ、そう願っているように振る舞っているだけです。教えが釈尊、七善知識方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と真逆であることがそうである何よりの証拠です。結局、高森会長は

そんなすごい信心を獲たワシを崇めていけ。ワシだけの話を聞け。ワシの教えを世界に弘めよ。ワシに献金せよ。ワシの指示に無条件で従え。早くワシの示す道を進まなければ後生は必堕無間だ。

という主義主張を会員に、果ては全人類に徹底させたいだけです。

ところで、裏の「高森の信」にまた二種類あります。一つには

①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心

です。「獲信した」と思ってもこうした信心です。「高森の行」が「自力の行」ですから、信心も自力の信心です。「自力の行」をやっていった結果他力の信心になることはあり得ません。二つには

②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

です。たいていの会員はハッキリ体験ができず、ただ高森顕徹という人物や、その主義主張を「間違いない」と頑なに信じているだけです。「鰯の頭も信心から」の信心と同類で、「高森先生から聞かなければ助からない」「高森先生から離れたら助からない」という善知識だのみに陥っています。

自分の体験に固執してしがみついても、高森会長をいくら深く信じても、それらは真実の信心ではありません。それらは真宗を装った外道の信心であって金剛の真信ではありません。尤も、現在親鸞会で言われる信心や体験は高森顕徹会長の過去の獲信体験とは随分異なっています。



つつしんで高森の信を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、二種深信なり。他力真実の信心なり。

その裏といふは、すなはち「絶対の幸福」なり。「光明輝く生活」なり。

高森に曰く(『こんなことが知りたい①』)、真実の他力信心を獲得するということは、阿弥陀仏の絶対の救いにあずかるということです。即ち阿弥陀仏の絶対の願力によって助かったことをいいます。阿弥陀仏は、その本願(約束)に「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」と誓っていられます。勿論、死後ではありませんから、これを平生業成というのです。現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束です。

また曰く(同)、その約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです。これは偏に阿弥陀仏(他力)のお力によって、このようにさせて頂けた、ということがハッキリしますから、他力の信心、他力の信仰というのです。しかも、阿弥陀仏の救いは一念でなされます。阿弥陀仏は「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると誓っていられるからです。これを聖人は「一念往生」とか「一念の信心」とも仰言っています。アッという間もない時剋の極促に我々の苦悩を抜き取り、無上の幸福を与えて下さいます。

また地獄一定、極楽一定を同時に知らるることなり。

高森に曰く(『なぜ生きる』)、誓願不思議に救い摂られ、無明の闇が晴れると、次の二つのことがハッキリする。「金輪際、地獄ゆきと、疑い晴れる」(機の深信)「極楽へ、必ず往けると、疑い晴れる」(法の深信)この二つが、同時に疑い晴れている心だから、「機法二種一具の深信」(二種深信)といわれる。「地獄一定」と「極楽一定」を同時に、どうして知ることができるのか。

地獄一定について曰く、自身はこれ極重悪人なり。五逆謗法闡提なり。無慚無愧なり。煩悩具足なりと、露塵の疑い無く知らるるなり。火に触るより、盲者開眼の一刹那より明らかなり。自覚するなり。自覚なき者、信無き証拠なりと。決定して深く、自身は必堕無間の極悪人にして、出離の縁有ること無しと信ず。無間の底に堕ち切るなり。悲泣悶絶するなり。五体投地するなり。

極楽一定について曰く、弥陀の誓願まことなり。「絶対の幸福」まことなり。必ず極楽にむまるなり。弥勒に同じなり。等覚の菩薩なりと、露塵の疑い無く知らるるなり。火に触るより、盲者開眼の一刹那より明らかなり。自覚するなり。自覚なき者、信無き証拠なりと。決定して深く、高森の仰せまことなり、大宇宙一の幸福者なり、極楽参り間違いなしと信ずるなり。

高森に曰く(『こんなことが知りたい③』)、信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)

また曰く(『こんなことが知りたい①』)、自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。

また聞即信の一念の体験なり。曰く、一念の体験無き者、真実信心に非ずと。

高森に曰く(『こんなことが知りたい③』)、信心獲得するとはどんなことなのかと言えば、「必ず絶対の幸福に救うと誓われた御約束通り、阿弥陀仏に救われ、弥陀の本願は私一人をこの身に救うためであった」と慶喜せずにおれない明らかな明らかな体験なのです。(乃至)曾我師が言われようが、何人が言われようが、ハッキリ自覚のない信心は絶対に他力真実の信心ではありません。

また曰く(『顕正』p.99)、真実の信仰には一念がある。一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、明来闇去、闇去明来の一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟の及ぶところではない驚天動地の一刹那をいうのである。しかし、思慮分別を越えるといっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚である。

また現世で信楽に生まるることなり。信楽とは絶対の幸福なり。

然るに、教を学び行を修せんに、真実の信を獲る者無し。何を以ての故に。是は是、高森の教、行にして真実の教、行に非ず。本願は高森教の本願にして弥陀の本願に非ざるが故に。阿弥陀仏は「絶対の幸福にせん」と誓わず。「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」と誓はせたまひたる。また至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる。

「地獄一定」「極楽一定」の条、これ二種深信の謬見なり。二種深信は一他力信心を二種に開きし相なり。一にして二、二にして一なり。別々の二に非ず。高森の二種深信、聞即信の一念の体験、これは救済の予定概念なり。信心決定病を起こさしむ邪義なり。

鮮妙師の曰く(『意業非意業之論』)、年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす、故に前々住上人も年月日時の覚不覚を論ずべからず、御相承多く年月を記し給はず、高祖之を記し給ふ。その義云何と云へば親の懐で育ったものは年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る。生来真宗の教示に育せられたるもの如此。又生まれてより他人に育てられて生長の後、家にかへる者は親を知る年月を知る(中略)覚えたが好と計するもよからず。不覚が正義なりと認むるも悪し。乃ち覚不覚を論ずべからずと御裁断されたものなり。(宗学院論集 一念覚不論集所収、九五頁)

真実の教行によりて真実の信は発起す。高森の教は真実の教に非ず、高森の行は真実の行に非ず。故に真実の信を獲ざる条勿論なり。「難信」の語に依りて獲得不可能、獲得超難関の信心とし、法然、親鸞の仰せならぬくせ法門を説く。偶「我信心を獲たり」と云ふ会員ありといえども、自身の喜び、高森の賛美、高森への感謝のみにして信心不可解なり。同じく「我信心を獲たり」と云ふ者、都合よければ利用し、都合わるければ「除名」の命を下し追放するなり。

みなみな信心決定あれかし」の言は真意に非ず。その故は如何となれば、師主知識の仰せならざる邪義を説く。高森の申す条は

そんなすごい信心を獲たワシを崇めていけ。ワシだけの話を聞け。ワシの教えを世界に弘めよ。ワシに献金せよ。ワシの指示に無条件で従え。早くワシの示す道を進まなければ後生は必堕無間だ。

といふ主義主張なり。

裏の信にまた二種あり。一には

①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心

なり。「信心を獲たり」といふもこれなり。行は自力の行にして、信は自力の信なるが故に。自力の行より他力の信を獲ざる条勿論なり。二には

②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

なり。親鸞会といふもかくのごとく信ずるばかりの集まりなり。鰯の頭も信心なり。高森に依らざれば助かるといふことあるべからずと信ず。これ善知識だのみなり。

信心を獲たりといふとも、高森を如何に深く信ぜんとも真実の信にあらず、外道の信心にして金剛の真信にあらざるなり。尚、「高森の信」と高森顕徹会長の過去の体験談とはおほきに異せり。



【参照】
一念覚知説の研究 紅楳英顕 伝道院紀要19号
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Abcです

おはようございます、Abcです。

今回は、信一念を覚にも執じず、不覚にも執じない「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」(宗学院論集 一念覚不論集所収、九五頁 における考察) と 
 「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。」(親鸞『自然法爾之事』)

が同じてあるという解説を「覚もよし、覚えぬもよし」の文を用いて、してゆきたいと思います。

信一念を
 弥陀より賜る信一念は

覚にも執じず、不覚にも執じない「覚もよし、覚えぬもよし、
 覚、不覚 ともに「自力の計らい」であるからこれを問題とせず、

共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす
 下線部は「義なきを以って義とす」ということを現代風にアレンジした文である。
また、この下線部のことを 親鸞は、
「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。[乃至 源空聖人の御言の引用]これは仏智の不思議にてあるなるべし。」 と言われているのです。

つまるところ、
「弥陀にお任せする」という「南無阿弥陀仏」は、
「これは仏智の不思議にてあるから計らいなどいらない」(親鸞『自然法爾之事』)という
 「義なきを以って義とす」(源空聖人)、「仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」(鮮妙師 『意業非意業之論』) とも味わうことが出来るということです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

追記
「「高森の信」と高森顕徹会長の過去の体験談とはおほきに異せり。」 ですか。
行信不実の例としか申し上げることが出来ません。まぁ、それは「高森教」であり「浄土教」ではないのでことさら論ずる必要性は皆無ですケド。

一念覚知

ども、林遊@なんまんだぶです。

一念覚知という漢語、ですけど『御裁断御書』で、「年月日時の覚・不覚を論じ」云々は、信心一発の時を覚えている(覚)か覚えない(不覚)ということです。
こんなものは、ご信心と何の関係があるのや?ということでした。
高森氏は、本願成就文の時剋の一念と、信心一発の時を覚えているか覚えていないかを同値したから本人も訳が判らなくなっているのだと思ふ。

越前の古参の門徒は「大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心数知れず」と言ってましたが、時日の記憶の有無によって時間を超越した本願を論ずる事は無益なことです。前川五郎松じいさんは「煩悩よ、何か掴まなさびしいか」と言ってましたが、仏智ではなく煩悩心によってハッキリしてもそれは妄想の信でした。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2013/01/22/%e7%85%a9%e6%82%a9%e3%82%84%e3%80%80%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%81%a4%e3%81%8b%e3%81%be%e3%81%aa%e3%80%80%e3%81%95%e3%81%bf%e3%81%97%e3%81%84%e3%81%8b/

浄土真宗の「信」は、阿弥陀仏の仏心ですから衆生の側では聞く一つであって、凡夫の側の、分かったとか判ったとか解ったとは無縁なのでした。浄土真宗の本願の信は「聞いてよろこぶ信」であって、高森会のハッキリやスッキリの信とは次元が異なっているのでした。

信心獲得というから、仏と凡夫の関係を対人関係のように考えて、まるで他者から物を貰うように本願力回向の信を捉えているから高森氏のいうハッキリ・スッキリの信に迷うのであろう。
深川倫雄和上風にいえば、あんたの分かったや、あんたの有難いや、あんたのはっきりや、そんなものとは関係がないんだよ。あんたは自分の感情をいいたいんだろ人に発表したいだろ、それがどうした!であった。浄土真宗の信は、承認欲求ではなく一方的な「浄土真宗のかなめとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」であった。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/10/25/%e5%bc%a5%e9%99%80%e3%82%92%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%82%80%e3%81%a8%e3%81%af%e3%80%81%e5%90%91%e3%81%8d%e3%82%92%e3%81%8b%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%aa%e3%82%8a/

ともあれ、親鸞会脱会者の方のブログを拝見し、高森顕徹氏の呪縛を考察することはwikiarc記述のネタとモチベーションになってます、こういう評論的上から目線(上から目線とは舞台用語。舞台の上の役者の「目線」をいふ)が脱会者の怨嗟の投稿になるのかもですが、高森会員との長年の不毛な論争を経験しているので読んでないからゴメンです(笑

とりあえず、因果の道理に呪縛されている人に『改邪鈔』の「因果撥無」の項に追記してみた。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E6%92%A5%E7%84%A1

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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