高森の教行信証(証編) - つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その裏といふは、『「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活』『アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験』なり。
「高森の教行信証」も後は「高森の証」を残すのみとなりました。今までを簡単に振り返りますと、
「高森の教」・・・映画『なぜ生きる』(を代表とした高森顕徹会長の出版物)
「高森の行」・・・助正間雑、雑行、悪業悪行(人集め金集め、高森への無条件服従)
「高森の信」・・・①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心(獲られたとして)
②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ
です。いずれも「真実の教」「真実の行」「真実の信」とは大いに異なります。決定的な違いは
如来より回向せられる他力真実の教行信に対して、高森より授けられる自力邪偽の教行信
という点です。「他力回向」に対して「自力いっぱいの求道」、「念仏一行」に対して「高森教の組織拡大活動」、往生には念仏一つとふたごころない「真実の信」に対して意業の上での「ハッキリスッキリ体験」ですから、そんな教えで「浄土真宗」「親鸞」会などと名乗る資格はありません。「高森教」とでも名乗るのが相応しいです。
阿弥陀仏は久遠実成の古仏として、五濁の凡愚を憐れに思われ、釈迦牟尼仏となってこの世に応現して下さいました。そして『大無量寿経』を説いて、南無阿弥陀仏の名号という形で我々のような凡愚に「往生のみち」を与えて下さったのです。全く本願力の独用(ひとりばたらき)によって、我々は本願力がはたらいていることを聞かされ、信知させられ、成仏させられるのです。私達はこの道理を造作もなく、計らいも要らずにただ聞き受けるのみです。こうして十八願のいわれ、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受したのを「信心決定」と言います。その人にしかない神秘的体験やハッキリスッキリ体験のことではありません。このように「真実の行信」を獲た念仏の行者がやがて得させて頂くのが
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(「証文類」往相の真証)
とあるようにこの上ない仏のさとりという「真実の証」であり、そして大悲の必然である「還相」でした。
二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。(「証文類」還相回向)
迷える人びとを救うために、煩悩の渦巻く穢土に還ってくる。思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれるというのです。
このことは高森教でも「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向」と言うには言いますが、「高森の教行信」からは出てきようもない証果です。また会員にとっては、死後の「浄土往生」「往生即成仏」もけっこうだがそれよりも何よりもこの世を「絶対の幸福」に生きたい、苦悩渦巻く人生を「光明輝く生活」の出来るようになりたい、としか思っていないでしょう。それに現在「絶対の幸福」になりさえすれば死後の証果は必ずついてくるのだから、今はとにかく「絶対の幸福」になることが肝要、それには聴聞、おつとめ、善・・・といった感じで、会員は念仏一行とは程遠い活動の日々を過ごしていることと思われます。
そうやって頑張って求めていけば、やがて信仰が進んで、ドタ牛のような下の心が被っている布団がはがれていって、下の心が「聞」と阿弥陀仏のジカの呼び声を聞ける時が来るのだ。アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験ができるんだと夢見ているのは想像に難くありません。いつまでも救いは今ではなく求めていった先の未来の話で、それでいて「平生業成」とはどの口が言うのか、今から振り返れば狂人の寝言としか思えないです。
こんな具合で、会員は阿弥陀さまの願いを聞き受けるどころか、逆に自分の願望を阿弥陀さまに聞き入れてもらおうというつもりで教えを聞いています。迷いの世界からの出離、報土往生をさせると誓われている本願を、この世を「絶対に崩れない変わらない幸福、一切の滅びる中に滅びざる永遠の幸福」にする本願だと思い込み、早くその身になりたい、早くしてくれ、どうしてして下さらないんだ、こんなに頑張っているのに、こんなに苦しんでいるのにと、どこかの幸福製造機や、求道の褒賞として信心を獲られるかの如く思っているのですから、これで親鸞聖人の教え、浄土真宗が分かるわけがないのです。
それに、「浄土往生」「往生即成仏」はまだしも、「還相回向」は肯定的に捉えていないのではないでしょうか。私は親鸞会で初めて「還相回向」の話を聞いた時、鬱々とした気分になったものでした。
え~、またこの世に還って来て苦しまねばならないのか~
と思ったからです。講師部員や先輩から「浄土から還って来た人は必ず信心決定できる」などと聞かされてはいたものの、またこの世の苦しみを味わい、信心決定までの遠き道を求めなければならないのかと思うとイヤで仕方ありませんでした。無間地獄に堕ちることと比べたらマシか位で、けっこうなことだとは到底思えませんでした。ここらへんR1000さん辺りは同感してくれると思いますが、読んでたらコメきぼんぬ(笑)
このように「死後の救い」と言っても実質言葉のみで、死後の地獄を説くことも組織拡大に駆り立てるためのツールに過ぎず、現世利益を謳って浄土真宗を利用しているのが高森顕徹会長であり、その教えが「高森の教行信証」であることがお判り頂けると思います。「高森の証」も表向きの証と裏の証があり、表向きの証は
・「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向」
ですが、会員が憧れ求めているところの証、裏の証は
・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。
です。ただこれも、高森教の理想像であって現実に獲られる人は極めて稀です。たいがいは絵に描いた餅、目の前にぶら下げられたニンジンであって、組織拡大活動のモチベーションとして掲げられているに過ぎません。そして獲られたとしても、あくまで「高森の証」であって「真実の証」とは似ても似つかぬ邪義の証です。そんなものはよその宗教、特に新興宗教へ行けばいくらでも聞くことができるでしょう。
以上、長くなりましたが「高森の教行信証」を一通り顕し終わりました。会員の皆さんは、一刻も早くこのような高森の邪道を出て、「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。
つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、すなはちこれ浄土往生なり。往生即成仏なり。還相回向なり。然るに親鸞会の会員、かくのごとき証果を求めず。弥陀の本願を知らず、本願を聞かず、ただ己が願望を弥陀に叶えさせんとして活動するのみなり。その裏といふは、
・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。
なり。かくのごとき己が願望を叶えんと高森の教を学び、高森の行信を修するのみなり。是は是、高森教の理想像なり。画餅なり。目前の餌なり。組織拡大活動の根源なり。もし、これを獲たりといふとも、高森の証にして真実の証に非ず。邪義の証にして大般涅槃を超証せざる条勿論なり。
「高森の教」・・・映画『なぜ生きる』(を代表とした高森顕徹会長の出版物)
「高森の行」・・・助正間雑、雑行、悪業悪行(人集め金集め、高森への無条件服従)
「高森の信」・・・①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心(獲られたとして)
②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ
です。いずれも「真実の教」「真実の行」「真実の信」とは大いに異なります。決定的な違いは
如来より回向せられる他力真実の教行信に対して、高森より授けられる自力邪偽の教行信
という点です。「他力回向」に対して「自力いっぱいの求道」、「念仏一行」に対して「高森教の組織拡大活動」、往生には念仏一つとふたごころない「真実の信」に対して意業の上での「ハッキリスッキリ体験」ですから、そんな教えで「浄土真宗」「親鸞」会などと名乗る資格はありません。「高森教」とでも名乗るのが相応しいです。
阿弥陀仏は久遠実成の古仏として、五濁の凡愚を憐れに思われ、釈迦牟尼仏となってこの世に応現して下さいました。そして『大無量寿経』を説いて、南無阿弥陀仏の名号という形で我々のような凡愚に「往生のみち」を与えて下さったのです。全く本願力の独用(ひとりばたらき)によって、我々は本願力がはたらいていることを聞かされ、信知させられ、成仏させられるのです。私達はこの道理を造作もなく、計らいも要らずにただ聞き受けるのみです。こうして十八願のいわれ、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受したのを「信心決定」と言います。その人にしかない神秘的体験やハッキリスッキリ体験のことではありません。このように「真実の行信」を獲た念仏の行者がやがて得させて頂くのが
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(「証文類」往相の真証)
とあるようにこの上ない仏のさとりという「真実の証」であり、そして大悲の必然である「還相」でした。
二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。(「証文類」還相回向)
迷える人びとを救うために、煩悩の渦巻く穢土に還ってくる。思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれるというのです。
このことは高森教でも「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向」と言うには言いますが、「高森の教行信」からは出てきようもない証果です。また会員にとっては、死後の「浄土往生」「往生即成仏」もけっこうだがそれよりも何よりもこの世を「絶対の幸福」に生きたい、苦悩渦巻く人生を「光明輝く生活」の出来るようになりたい、としか思っていないでしょう。それに現在「絶対の幸福」になりさえすれば死後の証果は必ずついてくるのだから、今はとにかく「絶対の幸福」になることが肝要、それには聴聞、おつとめ、善・・・といった感じで、会員は念仏一行とは程遠い活動の日々を過ごしていることと思われます。
そうやって頑張って求めていけば、やがて信仰が進んで、ドタ牛のような下の心が被っている布団がはがれていって、下の心が「聞」と阿弥陀仏のジカの呼び声を聞ける時が来るのだ。アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験ができるんだと夢見ているのは想像に難くありません。いつまでも救いは今ではなく求めていった先の未来の話で、それでいて「平生業成」とはどの口が言うのか、今から振り返れば狂人の寝言としか思えないです。
こんな具合で、会員は阿弥陀さまの願いを聞き受けるどころか、逆に自分の願望を阿弥陀さまに聞き入れてもらおうというつもりで教えを聞いています。迷いの世界からの出離、報土往生をさせると誓われている本願を、この世を「絶対に崩れない変わらない幸福、一切の滅びる中に滅びざる永遠の幸福」にする本願だと思い込み、早くその身になりたい、早くしてくれ、どうしてして下さらないんだ、こんなに頑張っているのに、こんなに苦しんでいるのにと、どこかの幸福製造機や、求道の褒賞として信心を獲られるかの如く思っているのですから、これで親鸞聖人の教え、浄土真宗が分かるわけがないのです。
それに、「浄土往生」「往生即成仏」はまだしも、「還相回向」は肯定的に捉えていないのではないでしょうか。私は親鸞会で初めて「還相回向」の話を聞いた時、鬱々とした気分になったものでした。
え~、またこの世に還って来て苦しまねばならないのか~
と思ったからです。講師部員や先輩から「浄土から還って来た人は必ず信心決定できる」などと聞かされてはいたものの、またこの世の苦しみを味わい、信心決定までの遠き道を求めなければならないのかと思うとイヤで仕方ありませんでした。無間地獄に堕ちることと比べたらマシか位で、けっこうなことだとは到底思えませんでした。ここらへんR1000さん辺りは同感してくれると思いますが、読んでたらコメきぼんぬ(笑)
このように「死後の救い」と言っても実質言葉のみで、死後の地獄を説くことも組織拡大に駆り立てるためのツールに過ぎず、現世利益を謳って浄土真宗を利用しているのが高森顕徹会長であり、その教えが「高森の教行信証」であることがお判り頂けると思います。「高森の証」も表向きの証と裏の証があり、表向きの証は
・「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向」
ですが、会員が憧れ求めているところの証、裏の証は
・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。
です。ただこれも、高森教の理想像であって現実に獲られる人は極めて稀です。たいがいは絵に描いた餅、目の前にぶら下げられたニンジンであって、組織拡大活動のモチベーションとして掲げられているに過ぎません。そして獲られたとしても、あくまで「高森の証」であって「真実の証」とは似ても似つかぬ邪義の証です。そんなものはよその宗教、特に新興宗教へ行けばいくらでも聞くことができるでしょう。
以上、長くなりましたが「高森の教行信証」を一通り顕し終わりました。会員の皆さんは、一刻も早くこのような高森の邪道を出て、「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。
つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、すなはちこれ浄土往生なり。往生即成仏なり。還相回向なり。然るに親鸞会の会員、かくのごとき証果を求めず。弥陀の本願を知らず、本願を聞かず、ただ己が願望を弥陀に叶えさせんとして活動するのみなり。その裏といふは、
・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。
なり。かくのごとき己が願望を叶えんと高森の教を学び、高森の行信を修するのみなり。是は是、高森教の理想像なり。画餅なり。目前の餌なり。組織拡大活動の根源なり。もし、これを獲たりといふとも、高森の証にして真実の証に非ず。邪義の証にして大般涅槃を超証せざる条勿論なり。
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