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親鸞聖人を「群賊」呼ばわりする謗法の徒が高森顕徹会長

親鸞会発行『顕正新聞』平成30年3月15日号6面に以下の文章が載っています。

●親鸞会と群賊の違い

親鸞会と群賊の大きな違いの一つは、
親鸞聖人の教えは三願転入であると説く。
三願転入の教えは「なぜ生きる2」にも
詳述されている。
それに対して、群賊たちは、三願転入は
不要として説かない。


久しぶりに「三願転入の教え」という言葉が出てきた気がします。「一切衆生必堕無間」といい「宿善」といい、「若不生者の「生」について」といい、親鸞会では外部からの批判を恐れて、それまで大上段に構え自信満々で唱えてきた説を引っ込めて、ほとぼりが冷めた頃にまた復活させるということを繰り返しています。尤も、今回は飛雲さんが今では、会の中で話題にさえしない駄作だと煽ったのが要因かも知れません。


それにしても親鸞会は「親鸞聖人の教えは三願転入である」とこれまた大ウソをついています。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。教文類

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(末灯鈔1通

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり一念多念証文

真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。唯信鈔文意【3】

等とあるように、親鸞聖人の教えは阿弥陀仏の本願を説く無量寿経の教えであり、往還二種の回向であり、往相の回向について真実の教行信証であり、選択本願すなわち第十八願であり、念仏往生であり、信心往生の教えであります。親鸞聖人の書き残されたもののどこかに、

・つつしんで浄土真宗を案ずるに、三願転入あり。
・浄土真宗のならひには、三願転入と申すなり


のような文言が一箇所でもあれば親鸞会の主張にも筋が通るのですが、御存じのようにそんなお言葉は存在しません。では何を根拠に言っているのかと言えば、言わずと知れた大沼法竜師です。

大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ

他人の著書をパクりまくって自説のように振舞っている、これが偽らざる無二の善知識様の正体です。


さて、親鸞聖人はある処では本師源空法然聖人の教えを「浄土真宗」だと仰っています。

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ
『高僧和讃』源空讃

元々「浄土真宗」とは教団の名前ではなく「浄土往生を説く真実の教え」という意味でした。親鸞聖人としては、法然聖人の明かされた選択本願念仏の教えをそのままわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなりという思いだったのでしょう。では法然聖人の教えに「三願転入」があるかと言えば、これまた全くありません。

そもそも親鸞会流「三願転入の教え」とは、

・弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。
・ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義10『なぜ生きる2』のトンデモ邪義11より)

とあるように阿弥陀仏の第19願の善を実地にやること、つまり19願の『修諸功徳』の勧め、及び『観無量寿経』顕説である19願意の定散二善の勧めが大前提としてあります。ところが法然聖人はこうした十九願、定散二善は実行させるためではなく、捨てさせるために説かれたのだと仰せです。

・諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。(『選択集』傍正

・また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。(『選択集』観仏三昧と念仏三昧の一経両宗


こうした『選択本願念仏集』を一度でも読んでいたら、「三願転入の教え」云々とは絶対に言えないし、ましてそれを本に書いて世に出版するなど有り得ない話です。高森会長が七祖聖教を読む者を罰するのも道理です。

法然聖人のお言葉が親鸞会にとって水爆級であることはこの記事にも書いていますが、『選択集』にはそれほど諸行諸善を廃して念仏一行を立てよという一貫した教えが説かれていました。それ故、聖道門から『摧邪輪』という書物や『延暦寺奏状』『興福寺奏状』という朝廷への直訴状まで出されて厳しく批判されねばならなかったのです。その中でどのような批判がなされていたのかと言えば、例えば

********************
『延暦寺奏状』にこうあります。

しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義9
********************
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけでいいというのはおかしいと言っているのです。
また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、

しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出して、19願は本願ではないのかといっています。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義20
********************

とあるように「七仏通戒の誠に非ずや」「ただ一種を以て本願と号せんや」「是れ本願にあらずや」などというものでした。まさに高森会長ら親鸞会側の主張そのものです。かつて聖道諸宗が法然聖人・親鸞聖人を攻撃したのと同じ理屈、同じ根拠で、現在親鸞会が本願寺や退会者を攻撃しているのが判るでしょう。


「三願転入」は七高僧方の仰っていないことであり、親鸞聖人も「化身土文類」にただ一箇所述べられているのみ、覚如上人や蓮如上人は言及されていません。また親鸞聖人はお手紙にて、ご自身の『教行証文類』ではなく、『唯信鈔』、『後世物語聞書』、『自力他力事』等を読むように同行に教えられています(※)。それらの書物の中にも当然「三願転入」は説かれていません。ということは、「三願転入」は我々が18願の救いにあずかるために不要だということです。必要なら親鸞聖人が至る所に書かれているはずですし、また「三願転入」が書かれていない兄弟子達の書物を同行に勧めるのも疑問です。第一、親鸞聖人の教えを正確に伝えられ、聖人と一味の安心だと親鸞会でも言っている覚如上人や蓮如上人が言及されないわけがないではありませんか。

以上より、獲信・往生のために「三願転入は不要」なのでした。会員の皆さんは、親鸞聖人を「群賊」呼ばわりする謗法の徒が高森顕徹会長であることに早く気付いて親鸞会に見切りをつけましょう。



【参照】
『WikiArc』浄土真宗
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

>「三願転入」は我々が18願の救いにあずかるために不要だということです。必要なら親鸞聖人が至る所に書かれているはずですし、また「三願転入」が書かれていない兄弟子達の書物を同行に勧めるのも疑問です。第一、親鸞聖人の教えを正確に伝えられ、聖人と一味の安心だと親鸞会でも言っている覚如上人や蓮如上人が言及されないわけがないではありませんか。(淳心房さん)

それを説かれず、「名利の大山」を説く方を「悪知識」といわれるのです。誠に悲しい限りです。「疑(疑い)」と思われる『親鸞の著書以外の著書』から抜き出してみました。お時間が許すのであれば、ご一読ください。

 その疑のきざすところは、かならずしも弥陀超世の悲願を、さることあらじと疑ひたてまつるまではなけれども、わが身の分を卑下して、そのことわりをわきまへしりて、聖道門よりは凡夫報土に入るべからざる道理をうかべて、その比量をもつていまの真宗を疑ふまでの人はまれなれども、聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふこと、かつは無明に痴惑せられたるゆゑなり、かつは明師にあはざるがいたすところなり。(伝・覚如上人 『口伝鈔』)

 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。(蓮如上人 『領解文』)

 他力の信心をやすく知らしめたまふ教示なるがゆゑに、たすけたまへといふは、ただこれ大悲の勅命に信順する心なり。【中略】わが往生を願力にまかせたてまつる心の少しも疑なきを、法を信ずるとはいふなり。さればいたづらに信じ、いたづらにたのむにはあらず。雑行雑修自力をすてて、二心なく信ずるが、すなはちたのむなるがゆゑに、その心を顕してたすけたまへと弥陀をたのめとは教へたまふなりき。(本如上人 『御裁断申明書』)

Abc

三願転入の論理

御開山の「三願転入論」については、いろんな人が各様に論じられてますが、ネット上では、

「親鸞における三願転入の論理」信楽峻麿
http://sugano.us/butu/23.htm

「三願真仮について」紅楳英顕
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/24/2/24_2_648/_pdf

などが参考に資するかもです。
そのそも法然聖人は、善導大師を承けて第十八願を王本願であるとされ、第十九願と第二十願は第十八願の利益をあらわした願だと見ておられました。
これに対して強烈なツッコミを入れたのが明恵上人の『摧邪輪』でした。

第十九願云 發菩提心修諸功德 等{云云}是豈非本願乎。
 第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや。
http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/8/page/693

と、第十八願、第十九願、第二十願に「設我得仏 十方衆生」とあるではないか?。第十九願も第二十願も十方衆生に誓われた本願ではないのか、往生浄土の生因では無いのかという論難でした。
御開山と明恵上人は同い年ですが、この論難に対して三願ともに往生の因ではあるが、御開山は、それには真仮があるのだと主張されたのでした。
法然門下からは、愚禿(御開山を貶称している)は阿弥陀仏の本願に仮があるというのか。とんでもないことであり廃師自立(師匠に背いて勝手に自分の義を立てた異端者)であると非難されたのですが、法然聖人の示された「選択本願念仏」という「ただ念仏して」という教義を正確に受容された御開山であったからこそ、本願に真仮を見ることができたのでした。

これを後の学者は「願海真仮論」と呼ぶのでした。
「六三法門」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E4%B8%89%E6%B3%95%E9%96%80

このような御開山の「願海真仮論」によれば、生因三願(第十八願、第十九願、第二十願)は、全く違う法門なのでした。
御開山は、「回入」「転入」という語を使われますが、「三願転入論」はプロセスを論ずるのではなく浄土真宗の教判を論ずる語なのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%BE%BF%E5%8C%96%E8%BA%AB%E5%9C%9F%E6%96%87%E9%A1%9E(%E6%9C%AC)-%E6%BC%A2%E6%96%87#no68

高森親鸞会では、「宿善論」を論破されたので代替えとして会員の修善としての金儲けの手段としてプロセスとしての三願転入論を導入したのですが、こういう意図を見抜けない人は、永遠に火鉢の周りを循環する尺取り虫のような生なのかもであった。

 これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。(論註p.57)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E8%AB%96%E8%A8%BB_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#P--57

浄土真宗の信心とは思い固める信ではなく、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞える「本願招喚の勅命」に随順することなのだが、ありもしない信心に狂うている高森会の講師や会員には領解不能であった(笑


なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


リンクが多すぎなので分けて投稿

『正信偈』について

こんばんわ、Abcです。

林遊さん

豊富なリンク ありがとうございます。今日も読ませていただいております。

淳心房さん

>法然聖人のお言葉が親鸞会にとって水爆級であることはこの記事にも書いていますが、『選択集』にはそれほど諸行諸善を廃して念仏一行を立てよという一貫した教えが説かれていました。(淳心房さん)

さようです。源空聖人は、お示しの通り
「諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。」(『選択集』傍正)
とありますし、

親鸞は、有名な
「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」(『三帖和讃 浄土和讃』) 
にて真実願(18願)と方便願(19願)といわれていますし、

 そのほかとして、『正信偈』には
「聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」(18願)
「弥陀仏本願念仏(※この箇所は18願の箇所ともこの後の19願の説明ともとれます)邪見僑慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(19願)と説かれていますし、別の箇所では、

「顕示難行陸路苦」(19願) 「信楽易行水道楽」(18願)
---
「万善自力貶勤修」(19願) 「円満徳号勧専称」(18願)
---
「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」(19願・18願)
---
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(19願)
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」(18願)

とあります。この『正信偈』

最初二文「帰命無量寿如来 南無不可思議光」は「名号法」であり
最後二文「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」とは「全ての『念仏を信じる人』は、斯(その)高僧の説を信じなさい」であり
どちらとも、「18願」のことであります。
(※私は「~を信ずべし = ~に帰命せよ」と見ていますので、『三帖和讃 浄土和讃』もまた根拠としてあげることが出来ます。)

「19願」につきましては『三帖和讃 正像末法和讃 誡疑讃』にございますが、これらも源空聖人で言うところ「諸行は廃せんがために説く」なのです。

また、別の箇所から真実願と方便願を見ますと、
安居院 聖覚法印 著『唯信鈔』には、
「浄土門に入りて諸行往生をつとむる人は、海路にふねに乗りながら順風を得ず、櫓をおし、ちからをいれて潮路をさかのぼり、なみまをわくるにたとふべきか」と言われています。

会員たちは「六度万行」につとめることは、「浄土門に入りて諸行往生をつとむる人」であることを心得るべきかと存じます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 第十八願、第十九願、第二十願に「設我得仏 十方衆生」とあるではないか?。第十九願も第二十願も十方衆生に誓われた本願ではないのか、往生浄土の生因では無いのかという論難でした。

まさしく親鸞会が本願寺を攻撃している文句です。本願寺が呆れて相手にしないのも道理です。


> 浄土真宗の信心とは思い固める信ではなく、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞える「本願招喚の勅命」に随順することなのだが、ありもしない信心に狂うている高森会の講師や会員には領解不能であった(笑

確かにです(笑) ハッキリスッキリ体験が信心だと思い、その体験を追い求めて真宗では雑行、雑修としか言われない活動、更に悪業悪行を正義と勘違いした活動をしていますから、「真宗の教行信証」にはかすりもしません。早く親鸞会の邪義に気づかれることを祈るばかりです。

法然門下での三願の受容

どもです。

「法然門下での三願の受容」というブログを記してみました。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2018/03/28/%e6%b3%95%e7%84%b6%e9%96%80%e4%b8%8b%e3%81%a7%e3%81%ae%e4%b8%89%e9%a1%98%e3%81%ae%e5%8f%97%e5%ae%b9/

ブログでリンクしてある「浄土宗要集」などは、法然門下で三願がどう領解されていたかの参考になるかもです。

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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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