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どう答えればよいか困ってしまった質問

以前、安心問答にてどう答えればよいか困ってしまった質問がありました。

当時、「みそみそ」さんという方が阿弥陀仏の救いについて悩んでおられたようだったので、何とかその方が本願を信じ念仏するきっかけになればという思いで以下のように書き込みました。

********************
自力では無理だから弥陀をたのむしかありません。「南無阿弥陀仏」(必ず助けるから安心してまかせなさい)という勅命をそのまま受け容れるよりありません。では弥陀をたのむとはどういうことかというと、ただ念仏するよりないのです。

・極重の悪人はただ仏を称すべし。(正信偈)
・なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(行文類)
・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)


信心決定したい、弥陀に救われたい、そのお気持ちは結構なことですが、善知識方はこのように仰せです。ただ南無阿弥陀仏のすがたを心得て念仏するより他に信心も安心も無いのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える一声一声が、みそみそさんを必ず助けるぞよとの阿弥陀仏の喚び声であります。どうかただ念仏して弥陀に助けられて頂きたく思います。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・
淳心房のコメント
********************

そうしたところ、みそみそさんからの返答は

********************
淳心房さま
では本当に念仏を唱えるだけで助かるのですか?
みそみそさんのコメント
********************

というものでした。これを受けて、とにかく答え方に困ってしまいましたね。私が「そうです」と答えてもみそみそさんに響くか分からない。第一、私自身が「必ず助けるぞよとの阿弥陀仏の喚び声」をただ聞き受けて念仏しているだけ、善知識方の教え・仰せをただ信じて念仏しているだけだ。自己の上で阿弥陀仏や浄土をハッキリ確かめたわけでもないので「そうです」と言うわけにもいくまい。かと言って「知らん、阿弥陀さまに聞いてくれ」と突っ撥ねるのもどうだろうか。読者の皆さんだったら、こういった質問を受けた場合どうお返事しますか?

色々思案しましたが、結局は以下のようにお答えしました。

********************
私が助けるわけではないので、私には教えを示すことしかできません。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(末灯鈔12通)

阿弥陀仏の本願は、念仏を称える者を極楽へ迎える、平たく言えば「助けるぞ」という本願ですから、その誓いをそのまま受け容れて仰せの通り念仏申すだけです。私の中に信心を探していてもそんなものはありゃしません。あるのは煩悩妄念のみです。親鸞聖人が示して下された教えを通して阿弥陀仏の勅命を受けて下さい。なんまんだぶなんまんだぶ・・・
淳心房のコメント
********************

以前にも思いましたが、親鸞会教義の誤りを示すことはそんなに難しいことではありません。正しい教えを示して聞く方が信心を獲て念仏される身になることに比べたら。これを通して、

自信教人信 難中転更難往生礼讃

のお言葉が思い浮かんだのでした。まぁ私のやっていることなど大悲を伝える中に入らないかも知れないし、善導大師のような方が仰る「難しい」とは比較にならないほど浅い「難しい」の捉え方なのかも知れませんが。


すべては阿弥陀仏の本願力によって皆さんが本願を信じ念仏して仏に成るのですが、それは分かっていても「どうしたら皆さんに誤りなく、正しく伝わって本願を信じ念仏して頂けるのか」と悩まずにはいられません。結局その方が法を聞かれるかどうかは阿弥陀さまのお計らいであって私の力の及ぶところではないのですが、何とか聞いて頂きたいという気持ちは消えません。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』自信教人信
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Abcです

おはようございます、Abcです。

「われも信じ、人にも教えきかしむるばかり」というのは中々な問題です。
私も「布教使」として、「どのように伝えたらよいか」と常々考えております。

さて、
>すべては阿弥陀仏の本願力によって皆さんが本願を信じ念仏して仏に成るのですが、それは分かっていても「どうしたら皆さんに誤りなく、正しく伝わって本願を信じ念仏して頂けるのか」と悩まずにはいられません。(淳心房さん)

淳心房さんの言われるように、「どのように「本願力回向」を伝えればよいか」が最大のカギとなっております。
 源空聖人は、『選択集』にて、 「三乗・浄土、聖道・浄土、その名異なりといへども、その意また同じ。浄土宗の学者、先づすべからくこの旨を知るべし。たとひ先より聖道門を学する人といへども、もし浄土門にその志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。」と「悲願の一乗」を勧められ、

 親鸞聖人は『浄土和讃』にて、
 「神力自在なることは 測量すべきことぞなき
 不思議の徳をあつめたり 無上尊を帰命せよ」と「阿弥陀さまにお任せしなさい」といわれているとともに、
『親鸞聖人御消息』にて
 「なかにも、この法文のやうきき候ふに、こころもおよばぬ申しごとにて候ふ。つやつや親鸞が身には、ききもせず、ならはぬことにて候ふ。かへすがへすあさましう、こころうく候ふ。弥陀の本願をすてまゐらせて候ふことに、人々のつきて、親鸞をもそらごと申したるものになして候ふ。こころうく、うたてきことに候ふ。」
 と、「悲願の一乗」を伝えきらなかったかなしみが綴られています。

また、蓮如上人は『御文 4帖目15通 大阪建立の章』にて、
 「あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。 またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意にたりぬべきものか。」と「専修正行」を綴られています。

末筆とはなりますが、この「火宅無常の世界」にて「どのように伝えればよいか」ということは「永遠の命題」ではないかと私は思います。なにせ伝えることは「思議の法(自力回向)」ではなく「不思議の法(他力回向)」なのですから。

なもあみだ なもあみだ

灌仏会講にそえて
Abc

ちは。
参考にもならないと思うけど、つらつらと。

先日死にかけたんですが、色々な縁が重なってまだ生きてるし、だいぶ生きるのが楽になりました。

過去数度やりかけた時は死ぬのが怖くて仕方なかったけど、今回は肉体的な苦痛による逡巡は変わらなかったけど、不思議と後生に関しては不安も恐怖もありませんでした。
阿弥陀さまの元へ帰れる、という楽しみや喜びを感じるような殊勝な奴ではない事は分かりましたけど。

完全に個人の感想、って事は強調しておきますけど俺の価値観は無価値だった。
俺が考える善も悪も大した意味はなかった。
俺は人一倍生きる事、幸せや不幸に囚われてた。
自分で言うのもなんだけど、真面目すぎて人に迷惑かけないようにとどんどん自分を縛って身動きが取れなくなった。

無常の世界に自分がいるように勘違いしてたけど、俺自身が正に諸行無常の世界の一部だった。
俺という実相なんてなかった。
幸福も不幸も楽しみも苦悩も、多分本当はない。
全ては虚空で、煩悩というよりも執着が全ての迷いの根源だった。

でも、たまたま本当の仏教を聞けて、一方的に阿弥陀さまがお念仏申す身に救って下さった。
自分の力では永久に迷いの世界から出られる事はなかったと思う。
それ以前に、その発想すら持てなかったと思う。

六道輪廻の真っただ中にいる凡夫にとって、自力なんて全く不要で邪魔なだけ。

既に法蔵菩薩様の誓願は成就されて、十方世界に満ち溢れてる。
その証拠が「阿弥陀」。
俺が阿弥陀さまと書くのは、阿弥陀というお名前を大事にしたいから。
それはけんぴねんどう(漢字変換できねぇ)の類までお念仏一つで仏となれるお働きが働いている証拠だから。
阿弥陀様でも阿弥陀仏でも、人によって書きかたは異なるしどうでもいいんだけど。

南無阿弥陀仏と聞いている今、自力に執着する理由は1ミリもない。
どうすれば、とかどうでもいいよ。

ただ、阿弥陀さまに全てお任せして下さい。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


コメント返信

Abc様

> この「火宅無常の世界」にて「どのように伝えればよいか」ということは「永遠の命題」ではないかと私は思います。

やはりそうですよね。色も形もない、心も及ばず言葉も絶えた本願力のおはたらきを領受して頂こうというのですからこれほど難しいことはありません。しかし何とか伝わってもらいたいなぁという気持ちは、蓮如上人のように「しばらくもやむことなし」とはいきませんがやはり尽きないものです。


R1000様

ありがとうございます。

> ただ、阿弥陀さまに全てお任せして下さい。
>
> 南無阿弥陀仏
> 南無阿弥陀仏

それまでの言葉を受けて、この数行の言葉が重く響く気がしました。

確かに私も自分のことは大した価値の無い人間だと思います。もうオジサンだし、人と違った何か特別なことが出来るわけでもないし、煩悩妄念は絶えず漏れ出ている愚悪な者だし、てんでダメ人間です。ところがそのような者に

「お前は私の独り子だ」

と仰って下さる方がいた。お前は自分の事をどう思っているか知れないが、私にとってはかけがえのない我が子だと仰って下さる方がいた。その方の仰せをそのまま受け容れることができた。有難いことではないですか。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

この世を厭いながらも、R1000さんはよほどこの世と縁をお持ちなのだと伺えます。死は縁にまかせて、それまでは共に本願を信じ念仏を申す御同行として報恩の人生を生きて頂きたいものです。

Re:淳心房さん R1000さん

こんばんわ、Abcです。

最近、「暖かくなったなー」と思い冬物を片付けたとたん、真冬並みの突風が吹いて冬服を出そうかどうしようか思案している私です (^ ^ ;)

R1000さん

>南無阿弥陀仏と聞いている今、自力に執着する理由は1ミリもない。
>ただ、阿弥陀さまに全てお任せして下さい。
(R1000さん)

コメントありがとうございます。読ませていただきました。
真宗は「本願力回向」といわれるように「全ては弥陀の縁、弥陀のお働き」であり、凡夫はただ信受するのみでありますが、還相回向に照らされますとどうしても「御同行にもお伝えしたい」と言う心がしきりに起こりまして「弥陀の名号称ずべし」の心が起きてくるのです。 どうかお許しください。
 ただ、22願に照らされましても、私や大谷は「弥陀の代官である」との心にて布教しており、御同行には、「代官である私をあがめてはならない。全ては阿弥陀さまがご用意なされたものであるから、稽首すべきは阿弥陀さまなのです」とお伝えしております。これが、蓮如上人が言うところの

 「南無阿弥陀仏の体をよくこころへたるを信心決定の念仏行者と名づけたり(中略)然則此土には知識帰命なんど云事更以あるべからず。ちかごろ三河国より手作云出したる事なり。相構々々これらの俄信用すべからざるものなり。(真聖全・五の三八〇~三八一)」 とある通りであります。

淳心房さん

>色も形もない、心も及ばず言葉も絶えた本願力のおはたらきを領受して頂こうというのですからこれほど難しいことはありません。
(淳心房さん)

さようでございます。ですから私は、『正信偈』の以下の箇所、
「弥陀仏本願念仏 邪見僑慢悪衆生
 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」は迷いの衆生を言われたと同時に、
そのような人に教えを伝えることの難しさを「難中之難無過斯」といわれたのではないかと私はあじわっております。

親鸞は、『和讃』にて、

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
 法身の光輪きわもなく 世の盲冥を照らすなり

阿弥陀仏が一切の衆生を救いたいという願いを発して
 仏になられたのは、 十劫という気の遠くなるような昔にさかのぼります。
 
 以来、その願いは実際に力となり、無限のいのちをもって今日に至るまで止むことなくはたらき続けています。
 しかも、そのはたらきは光がどのような暗闇の世界であろうともあまねく照らし尽くしていくように、煩悩の闇に惑わされて真実の智慧をもたない私たちを一人残らず真実に目覚めさせてくださいます。

※現代語訳はhttp://www2.saganet.ne.jp/namo/sub100.htmより引用させていただきました。


末筆とはなりますが、私も「弥陀の代官の一人」としてあまねく衆生に弥陀のおはたらきを伝えていけたらとおもいます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

気候の変動が穏やかではありませんね。お互い気をつけたいものです。

> 私は、『正信偈』の以下の箇所、
> 「弥陀仏本願念仏 邪見僑慢悪衆生
>  信楽受持甚以難 難中之難無過斯」は迷いの衆生を言われたと同時に、
> そのような人に教えを伝えることの難しさを「難中之難無過斯」といわれたのではないかと私はあじわっております。

その通りですね。自身が疑い無く信ずるというのが難しいだけでなく、人に疑い無く信ぜしめる難しさも含めて仰ったのかも分かりません。真意のほどは親鸞聖人にお聞きしなければ判りませんが、私は同感です。


Abcさんの「弥陀の代官」としての活躍を心より期待しております。子供達の手がかかる内は中々遠出も叶わぬ身の故、北陸までは参られませんが、今後、もし関東へ布教にお越しになることがありましたら、その際はぜひ前もってお知らせください。

淳心房さま

こんにちは。

私も山も山さんのブログでみそみそさんにコメントしました。コメントをされたみなさまはきっと今もみそみそさんのことを気にかけていると思います。淳心房さんと同じように。

みそみそさんにお伝えしたいことをあらためて書いてみます。

ご信心を頂けない私が、先生やお同行さんと信心の沙汰をしていて最後は何が問題になったか。
「最後は無常と罪悪に責めたてられて悲泣悶絶!」というのが親鸞会の説明です。でも親鸞会の言うことは嘘です。違います。

最後はお同行さんに質問することがなくなってしまう。だから質問できない。そしてこちらからとってつけたような質問をして、お同行さんから回答をもらっても反応できない。反論もできない。

他力の世界は無分別智ですもんね。分別智しか持たない私が、無分別智の阿弥陀さまと相撲をとっている。「分かろうとしている私」だと気づかされる。

後生に驚きがたたないのがただいまの私。そして、阿弥陀さまのことも、お念仏のことも、はてなマークのままで死んでいくのが私。そのことを受け入れなければならない。だってそれが「事実」だから。だけどそれが受け入れられない。「受け入れられない」のが「私の実相」です。

受け入れられないから何とかしようとバタバタしているのが自力。ちょうど泳げない金づちの人が、溺れまいとしてバタバタしているのと同じですね。

その私の姿を見させて頂くのが本願のおはたらきでした。それが「法鏡に映った私の姿」「仏眼から見た私」でした。「だから私にまかせよ」とおっしゃっているのが阿弥陀さまです。

みそみそさんのように長く聞いてきた人でも誤解しやすいところです。
はてなマークがはてなじゃなくなると思うでしょう?
フラフラの心がフラフラじゃなくなるようになると思うでしょう?
その方法を教えているのが仏教だと思うでしょう?
でもそうではありませんでした。
「ハテナのまま、フラフラのまま、死んでいくんだよ」と教えているのが仏教でした。
私はまだ聞き始めた方と仏法讃嘆するときにはそのように話をさせて頂いてます。

そして「ハテナが解消される、フラフラの心じゃなくなる」と教えるのが親鸞会です。親鸞会の説明は自力一杯の私たちの耳には馴染むけど間違っている。 実際は違う。 その「実際」が素直に聞けないから「無耳人」と言われます。

じゃあどうしたら良いのか。
ご本願に立ち返る。自分の心を何とかしようとするのはもうやめて本願を聞く。どう聞けば良いのかと考えるのはもうやめて、ただ阿弥陀さまの心をそのまま聞く。阿弥陀さまがどのような人を相手に、どのような願いを起こしているのか。その願いを果たすためにどうされたのか。

本願に立ち返った時に阿弥陀さまにお会いしました。
正確に言うと「阿弥陀さまの願いに出会って、願いに生かされる身になりました。」です。阿弥陀さまにお会いしてやさしくしっかりといだかれるから、聞きたくない実相も聞けるのでした。その時が無耳人からの卒業です。

苦しかった聴聞が楽しくなります。
本当の聴聞をして頂きたいです。

というのが、みそみそさんに伝えたいことでした。


話が長くなってしまいましたが、淳心房さんの今回のエントリーについて思うことを書いて終わりにします。

> ********************
> 淳心房さま
> では本当に念仏を唱えるだけで助かるのですか?(みそみそさんのコメント)
> ********************
>
> というものでした。これを受けて、とにかく答え方に困ってしまいましたね。

みそみそさんの問いに対して善導大師が答えた御文が「順彼仏願故」です。

 念仏を称えるだけで助かる。
 それが阿弥陀様の願いだからだよ。

また、その御言葉を受けて
「順彼仏願故の文、魂に染みて忘れることはない。」
とおっしゃったのが法然上人でした。

法然上人もみそみそさんと同じ疑問があった。同じ事で同じように悩まれたのでしょうね。そして善導大師の一言で阿弥陀様に会えた。疑問に対して答えが与えられた。

あの法然上人も同じように悩まれたのかと思うと、上人が身近に感じられ、また心強く思います。

Re: スナオ様

そういえばスナオさんもコメントされていましたね。

>5つめに「念仏称えて聞け」があります。

は初耳でした。知らないことが多すぎて困ったものです・・・


彼の仏願に順ずるがゆえに、仏の本願によるが故に、本願が成就してはたらいて下さっている故に、本願力にまかせて念仏すれば必ず往生を得させて頂くことを、一人でも多くの方に知って頂きたいものです。「順彼仏願故」、親鸞会でもこの御文自体には遇っていましたが、全く意味が分かりませんでした。今は、実に有難いお言葉と頂戴しております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

順彼仏願故

ども、林遊@なんまんだぶです。

スナオさんに支援。
https://goo.gl/eQFQ15

御開山は『教行証文類』の「後序」で、

 しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。p.472

と、「雑行を棄てて本願に帰す」とされておられました。雑行を捨ててなら、正行に帰す、とすべきなのですが、御開山は「本願に帰す」とされていました。
これは明らかに、法然聖人の回心の原点である「順彼仏願故(かの仏願に順ずるが故に)」の意を正確に承けられたからの表現なのでした。

これを『歎異抄』の著者である唯円は「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と記したのでした。高森親鸞会では私の想い描く妄想の「信」、別名は絶対の幸福なるものを説きますが、御開山の信心論からいえばアホです。そもそも浄土教に於ける「順彼仏願故」の意味が解っていないから、思春期特有の抑圧された性的リピドーの解放と、本願成就文の歓喜と信心を混同したのかもです、少しくフロイト風の解釈かな(笑

ともあれ、若い時(二十代)に正義を説く宗教の熱情に駆られない者は、情熱が足りないのであり、三十にして立つ(三十而立)齢(よわい)を過ぎても、絶対の幸福という煩悩を刺激する宗教にかぶれている者は、知能が足りないのかもです。
で、こういう投稿をすると脱会者の罵詈雑言が返ってくるのだろうけど、そんなもん知らんがなである。
「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり」(蓮如上人御一代記聞書171条)であった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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