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救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説く高森顕徹会長

『飛雲』嘘体験至上主義の与太話を60数年し続けてきた高森顕徹会長

にあるように、日曜日はまたまたいつもの演題

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

で高森顕徹会長の話がありました。現在は『歎異抄をひらく』の映画への移行期であることが誰の目にも明らかで、今回は第一条と第九条を出していました。今後は、親鸞会は映画『歎異抄をひらく』が公開になればそれ一色になり、『なぜ生きる2』同様に映画『なぜ生きる』もほとんど見向きもされなくなるでしょう。

第一条については、大悲の願船に乗せられるとは阿弥陀仏の本願(お約束)によって絶対の幸福の身になることであり、阿弥陀仏はどのような者を絶対の幸福に助けるかということから

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

とつなげています。ただ話したのは主に下線部のみで、「死ぬまで罪悪深重で煩悩しかない者、この私を(絶対の幸福の身に)助ける」とか何とか言っていたようです。ここで問題だったのが

罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。

などと話していた点です。おそらく会員の頭では、

罪悪深重の私であったと判」ったのが機の深信機の深信が立たなければ法の深信も立たず救われない

という理解でしょうから、これをまともに聞けば、「罪悪深重の私であったと判」るためにますます高森会長の話を聞き、因果の道理を聞き、廃悪修善という名の「組織拡大活動」に身を沈める方向へと向かってしまうことでしょう。そんな活動をいくらやったところで二種深信とは無関係な徒事とは知らずに。それが高森会長らの目的なのですが、それにしても何十年と聴聞している講師部員や幹部会員も多くある中で

聞法不足だから判らない。

とは何とも無慈悲な話です。救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説いておいて「平生業成」とか「不体失往生」などとはどの口が言っているのでしょうか。

親鸞会教義が染み付いている会員には理解不可能でしょうが、本願に救われるには

念仏にまさるべき善なき」「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき

という念仏一つ、またそのような念仏一つで助けるという本願に疑い無い

信心を要とす

です。「聞法不足」などというのは救われない条件ではありません。法然聖人は

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。『選択本願念仏集』難易義

と仰り、多く聞法した者を助けるという本願ならば、聞法の少ない者は往生の望みを絶たねばならず、しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多いと教えられています。親鸞聖人は

修行の久近を論ぜず「信文類」大信嘆徳(四不十四非)

と仰って、修行期間の長い短い、親鸞会で言えば聞法歴活動歴の長い短いが問われるのではないと教えられています。日本の、それこそ何十年と聞いている会員の皆さんが「聞法不足」なら、昨日今日聞き始めた人はどうなってしまうのでしょうか。今まさに臨終という人が聞いたところで「聞法不足」です。到底救われっこありません。ところがなぜか学徒になって2年目の、通訳を通して聞いているブラジルの会員さんなどは救われたことになっています。このことは会員の間では、親鸞会七不思議(笑)の一つに数えられているでしょう。

会員の皆さんは、高森教については「聞法不足」ではありませんが、浄土真宗の教えについては「聞法不足」です。今すぐに高森教を捨て離れ、「南無阿弥陀仏」(必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい)という如来の勅命をそのまま聞き受けて念仏して下さい。彼の仏願に順ずるが故に、仏の本願によるが故に、本願が成就してはたらいて下さっている故に、本願の仰せを疑い無く、そのまま聞き受けて念仏すれば必ず往生を得させて頂けます。往生の安心についてはこれだけです。


さて、大悲の願船に乗るとガラリと変わるという根拠に先日も

与韋提等獲三忍

を用いていましたが、これは詳しくはこちらの記事をご覧頂くとします。当ブログでは、今回高森会長が

0段の煩悩具足の凡夫が51段の身となる

と宣ったことについて触れます。これは本願成就文の

即得往生 住不退転

の説明から出てきたことですが、正定聚の位に入ったことを正定聚の位に入ったことが実感として知らされると勘違いした高森会長の珍説です。正確には伊藤康善師からのパクリなのですが、親鸞聖人は「さとりの52位」に配当して正定聚の位を「51段の身となる」などとは説明されていません。即得往生について聖人は

「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。 一念多念証文

と解釈され、正定聚の左訓に「往生すべき身と定まるなり」と施しておられます。信心獲得のその時に必ず次生往生してさとりを開く身と定まるということで、「51段の身となる」わけではないのです。「51段の身となる」なら、51段の位に達したと判らないはずはありませんから当然自覚はあるでしょうが、それなら七高僧方がどなたも現生正定聚を仰らず、死後に正定聚に入るとしか教えられていないのはどうしてでしょうか。

親鸞会理論でいくと、死後に「51段の身となる」と教えられたのが七高僧方ということになります。現生で「51段の身とな」った自覚の無い七高僧方は異安心になりますが、親鸞聖人はそうは仰っていません。つまり現生で正定聚の位に入るが、それは正定聚の位に入ったことが実感として知らされるとか、「51段の身となる」ということではないということです。あくまで往生すべき身と定まったのを正定聚の位につき定まると言われているのです。このように述べますと、反論として

『正信偈』に「成等覚証大涅槃」とあり、「等覚」=「51段」ではないのか!

とか何とか言われそうですが、親鸞聖人はそうは解釈されていません。このお言葉は『大無量寿経』の異訳である『無量壽如來會』の11願

もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。

から出ていると思われますが、先ほど申し上げたように七高僧方は「等正覚を成」ることは死後だと仰せられています。親鸞聖人はこれを現生のことだとされましたが、「等正覚を成」ると言っても51段の位をさとるわけではありません。『尊号真像銘文』正信偈の文には

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。

と、「等覚」=「正定聚の位」の意味で教えられています。「弥勒の位とひとし」と言われるのも、次の生で仏に成る弥勒菩薩と同様に、念仏の衆生は必ず次の生で仏に成ることが確定しているからです。その点で「ひとし」なのであって、弥勒菩薩と等しいさとりを開くのでも、智慧や徳が具わるのでもありません。第一、51段の位を現生でさとるのなら、煩悩が少しも変わらないというのは有り得ない話です。


高森会長の説は、『歎異抄』で言えば第十五条

煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと

という邪義に近いものがあります。さすがにこの世での成仏は否定していますが、高森会長の説明からは51段の位をさとるかのような印象しか受けません。一段違えば人間と虫けらほど違うと言い、信心獲得した人は51段の高みにいるように教えます。高森会長や講師部員、また熱心な高森教徒の傲慢な態度はここが由来かと思われます。遥か高みから虫けらを見るように一般世間や各真宗宗派、また退会者を見下し蔑んでいるのは、「高森先生は51段の位に達した御方」という痛い勘違いから来ているのでしょう。

対して、阿弥陀仏はごそごそと蠢く虫の類にも「必ず往生させる」と深い慈悲を注いでおられます。言動を近くで見ている方は、「高森先生は51段の位に達した御方」なのかどうかはよくお判りでしょう。また、見ていなくても、飛雲さんからの公開法論の申し込みに6年間も応じないこと一つ取ってもその真偽は明らかです。

会員の皆さんは、阿弥陀仏の御心とはおよそ縁の無い高森顕徹会長、また親鸞会に見切りをつけ、早く浄土真宗に帰依して、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


【参照】
『WikiArc』正定聚
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聞いてよろこぶ

どもです、林遊@なんまんだぶです。

御開山は真仏弟子訳で『安楽集』を引いて、説聴の方軌ということを示して下さいました。説聴の方軌とは、教えを説くものと聞くものとの心得という意味。

 諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、『大集経』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、醍醐の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、愈病の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。(p.258 現代語は科段番号をクリック)
http://wikidharma.org/5acc0ed9595d3

越前の古参の門徒は、これを「今晩聞いて今晩助かるご法義」と言ってましたです。

「聞不具足」という意味で云えば、高森教の聖道もどきの「八万四千の法門」を聞くだけで、「誓願一仏乗」の本願の教えを聞かないから「聞不具足」なのでしょう。
「聞不具足」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%81%9E%E4%B8%8D%E5%85%B7%E8%B6%B3

浄土真宗は、御開山が「総序」で、

 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。 p.132
http://wikidharma.org/5acc116dcf1e2

と、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」(慶所聞 嘆所獲)の「聞く」ご法義なのでした。
これを越前の門徒は「浄土真宗は、聞いてよろこぶご法義」と云ってました。
時々、救済の論理と救済そのものをごっちゃにしてご法義を語る人がいますが、高森顕徹氏は本願力回向の法に救われていないのでしょうね。知らんけど。

聞いてよろこぶという意味では、このご法義には人間の側から語ってはいけない言葉がありますよと、梯實圓和上は示して下さっていました。

 人間から言っちゃいけない、ただ仏様からだけ仰る。如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉。私の方から言ったら嘘になる。仏様が仰ることを有り難く頂戴する、そういう言葉っていうものがありましてね。これを間違えないようにしないとね。
http://wikidharma.org/5acc0d514677d

ともかく、救済の論理の説明と、わたくしの救済の事実を混乱すると高森会のような教義になるようです。もはや教義ともいえないかな(笑

ともあれ、正定聚とは、

 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。p.735
http://wikidharma.org/5acc1638773aa

と、阿弥陀仏の摂取不捨の本願力の説明であって、私の上であれこれ論じると高森会の「絶対の幸福」のマジックに引っかかりますね。

ちなみに本願を「約束」という表現はキリスト教の神との契約のようにとられてしまいがちなので留意した方がいいかもしれません。本来、約束(約して、それにより拘束される)とは法蔵菩薩と世自在王仏との関係であって、現代語でいう「お互いにある事を取り決める」という意味ではないのでした。中国語の約束には前記の意味しかないそうです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 「今晩聞いて今晩助かるご法義」

左様ですね。今晩聞いて今晩、今聞いて今助からなければ、我々は助かりません。次また法縁に遇えるという確約は誰もできませんから。


> 高森教の聖道もどきの「八万四千の法門」を聞くだけで、「誓願一仏乗」の本願の教えを聞かない

「誓願一仏乗」の教え、真実の行信を教えられませんから、会員は悲しいことに如来回向のなんまんだぶの大行による利益は受けられません。つまり大悲の願船に乗ることはできないのであります。「大悲の願船に乗じて・・・」の御文が何文類にあるのか、よく考えてみて頂きたいですね。


> 救済の論理の説明と、わたくしの救済の事実を混乱すると高森会のような教義になるようです。もはや教義ともいえないかな(笑

間違いないですね(笑) 真宗教義とはおよそかけ離れた「高森教」でしょう。会員は絶対の幸福という創価学会の信心、ハッキリスッキリ体験を追い求め、信心獲得したらすごいことが起きるとカンカンに信じているでしょう。それで浄土往生、成仏は光明輝く生活の延長線上のおまけみたいなものですから、願生心について頓珍漢な回答をした自称獲信者が出てくるわけです。


> ちなみに本願を「約束」という表現はキリスト教の神との契約のようにとられてしまいがちなので留意した方がいいかもしれません。本来、約束(約して、それにより拘束される)とは法蔵菩薩と世自在王仏との関係であって、現代語でいう「お互いにある事を取り決める」という意味ではないのでした。中国語の約束には前記の意味しかないそうです。

ありがとうございます。一つ一つの細かな言葉遣いにも注意が必要であることが分かりました。これからも言葉の意味的におかしな点があったり、文章的におかしい点があったりしましたらご指摘頂ければと思います。私としては皆さんが親鸞会教義の誤りに気付き、真宗の教行証を敬信して如来の恩徳の深いことを知らされて頂けさえすればよいので、それで正しい教えが伝わってくれるなら喜んで直します。
ちなみに記事中の「阿弥陀仏の本願(お約束)」とはあくまで高森会長の説明で、私は本願はそのまま本願とか、誓願とか、誓いと言い表しています。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

今回は、林遊さんが記していただいた『信巻 末』よりお話させていただきます。

 「光明師(善導)のいはく(般舟讃 七三三)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。{乃至} あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でんと。{乃至}いかんが今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」と。

 またいはく(礼讃 六七六)、「仏世はなはだ値ひがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとすみづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する。まことに仏恩を報ずるになる」と。」

こちらにも「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し」とあり「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」に通じるものがあります。

また、『和讃』のなかにも、
 「善知識にあふことも をしふることもまたかたし
  よくきくこともかたければ 信ずることもなをかたし」とあります。
 こちらも「厳しい」と言う意味であり「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」を和讃にされたものと見ることが出来ます。

<<参照 かた・し 【固し・堅し】の意味>>
 厳しい。しっかりしている。強い。
出典 源氏物語 明石
「后(きさき)のかたく諫(いさ)め給(たま)ふに」
[訳] お后が厳しくお諫めになるが。

<以上 学研全訳古語辞典 より>

私は「専ら念仏せよ」と申しては下りますが、衆生は「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。」とある通り弥陀を疑っている「疑情」でありますからなかなかなことです。ですが私も「オレは三井、諦めが(ry」ですので、今日も「自信教人信」のこころにて布教を行っております。

なもあみだ なもあみだ
Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

『信巻 末』を読み進めていると、『正信偈』や『文類偈』にあるようなことが記されていましたので、私の覚え書きとして記しておきます。(それならば「メモ帳」でいいのでは、と言われそうですが・・・

またいはく(序分義 三九〇)、「心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と (『信巻 末』)

与韋提等獲三忍 (『正信偈』より)

必獲於信喜悟忍 (『文類偈』より)

 たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。もししからずは、正覚を取らじ。(弥陀44願 「名利の大山」があるためこの願は娑婆では達成されない)

 たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ(弥陀48願 上記にあるように「ハッキリ」とはしるされていない。)

---

 一つには、弥陀仏の名を専念することを明かす。

円満徳号勧専称 (『正信偈』 『文類偈』 共通)

 二つには、能念の人を指讃することを明かす。

遊煩悩林現神通 入生死園示応化 (『正信偈』 『文類偈』 共通)

 三つには、もしよく相続して念仏するひと、この人はなはだ希有なりとす、さらに物としてもつてこれを方ぶべきことなきことを明かす。ゆゑに分陀利を引きて喩へとす。分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。

十方同称讃悦可 (『文類偈』 より)

仏言広大勝解者 是人名分陀利華 (『正信偈』 より)

四つには、弥陀の名を専念すれば、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。

唯可信斯高僧説 (『正信偈』 『文類偈』 共通)

 南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに
 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり (『浄土和讃』)

『浄土高僧和讃』(『高僧和讃』) 全体

五つには、今生にすでにこの益を蒙れり、命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり。かしこに到りて長時に法を聞き、歴事供養せん。因円かに果満ず、道場の座あにはるかならんや  といふことを明かす 

 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに、つねに梵行を修して仏道を成るに至らん。もししからずは、正覚を取らじ。 (弥陀36願 「梵行を修して」とあるので解行以上を指すのではと思われる)

 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬ひを致さずといふことなけん。もししからずは、正覚を取らじ。 (弥陀37願 上記と等しく、「名利の大山」があるためこの願は娑婆では達成されない。ただ、そのことも含めて弥陀は「われひとり助けん」と誓われている。)

 たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ (弥陀43願 上にて「命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり」と記されていることである)

 還来生死輪転家 決以疑情為所止
 速入寂静無為楽 必以信心為能入 (『正信偈』 より)

 還来生死流転家 決以疑情為所止
 速入寂静無為楽 必以信心為能入 (『文類偈』 より)

また、長々と記してしまいましたが これを読まれた方が信心獲得していただくことをもちまして、これまでといたします。

なもあみだ なもあみだ
Abc

科を分けて段を切る

Abcさん。

『教行証文類』の意図を理解することは難しいですね。
このために、古来から科段(表現の段落ごとに科を分ける)を切るということが行われきました。
文章の主題ごとに段落を切って全体の意味を掴むという手法ですが、こういう全体から俯瞰するという方法は高森会のように断章取義(文章の語の一部だけを取り出して自分の都合のいいように解釈すること)に陥る愚を避けることができます。
もちろん、『教行証文類』は重層的な書物ですから、ただ分ければいいというのではないのですが、科段を切ることで全体的視点から部分の文の意味を把握する手法は有効だと思ふ。

そのような意味では、自分なりの科段を切って『教行証文類』を読むこともアリかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

アドバイスありがとうございます。林遊さんも言われているように

>文章の主題ごとに段落を切って全体の意味を掴むという手法ですが、こういう全体から俯瞰するという方法は高森会のように断章取義(文章の語の一部だけを取り出して自分の都合のいいように解釈すること)に陥る愚を避けることができます。

と、「文章の主題ごとに段落を切って全体の意味を掴む」方法もあります。
これは「石垣の石を「どのように組み合わさっているか」と研鑽していく工程」ともとることができます。 前に林遊さんが私に対して「Abcさんは、少しく御開山の著された書物を「あじわい」として説かれたほうが門徒の方にもよいかもしれませんね。」と申されたことを私は記憶しています。

確かに「あじわい」として説く方法もございます。御開山が記された書物は『和讃』といえども古文でありますから、現代の方たちからしますと理解しにくいことは私自身も重々承知です。

ただ、一方で、蓮如上人が言われている「法主と能化」との問題、また福井のかたなら聞いたことがあるとは思いますが、「熊坂専修寺の問題」「大町専修寺の問題(如浄の問題 和田・三門徒 の問題)」等など 蓮如上人も手を焼かれた事柄が「私のところの問題」としてございますゆえ、あまり大胆な「あじわい」というのを記すことが出来ないのも事実です。(その問題が起きたときに伊勢専修寺より文書を届けたのですが、結果論からいいますと「火に油」のような感じとなっております)

これからの時代、「宗派の垣根を越えて」として布教していく上では、上記の問題は何とかしなければいけない問題としてございます。そのための「新しい切り口」としまして林遊さんのブログを始めとしまして、淳心房さんのこのブログなどを読ませていただいて、日々学ばせていただいております。

 末筆とはなりますが、これからもよろしくお願いします。
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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