ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(4)
高森顕徹会長の説く「聞く一つ」の誤りをあと1つ挙げるとすれば、
(4)「聞く」目的が間違っている
からと言えるでしょう。この記事等でも書きましたが、親鸞会の「仏教を聞く目的」「真宗を聞く目的」は
浄土往生、成仏
とは言っていてもそれは建前であって、会員の本音は
・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。
にあります。そのことは親鸞学徒信条に、
一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。
とある通りです。死後の往生極楽も結構なことだが、それよりも何よりも現実のこの苦しみを救うてもらいたい。人生の目的を達成して絶対の幸福になりたい。「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲得したい。このままでは何のために苦しい人生を生きてきたのか分からない。多くのものを犠牲にして親鸞会で活動してきたのか分からない。せっかくここまで求めてきたのに、何も獲られないで終わりたくはない。流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻るという、一切の苦労が報われる世界へ早く出たい・・・
要するに、会員は阿弥陀仏の願いを聞き受けようというのではなく、自分の欲望を叶えてほしい、叶えて下さいという気持ちで聞法し、活動しているということです。そのために辛くても、苦しくても、理不尽な目に遭ってもそこを耐え忍んでいるというわけです。とにかくこの世が「絶対の幸福」にならなければ死後の救いも無い、と教えられるので、自己の欲望とも相まってそのような「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めているのです。違いますか? そういう目的違いの人は救われないと教えられています。
寺参りしている人の目的が「死後の華降るお浄土」なら、会員はそれが「この世で、きわもない大功徳大利益を頂いて、幸せ一杯、満足一杯で生活させて貰えるようになる(※)」という「現世利益」に変化しただけです。この場合、前者はまだ欣求浄土の思いが見られますが、後者は浄土を願ってさえいないので、浄土真宗からは尚更遠いです。「浄土真宗」「親鸞」会と言いながら、その目的からして既にズレてしまっていることに、会員の皆さんは早く気付くべきです。
このように言いますと、あるいは、
・後生の一大事(無間地獄に堕ちるという一大事)の解決のためだ!
と反発する人もあるでしょう。しかし、これも浄土真宗の目的から幾分ズレてしまっています。こちらは、要するに地獄に堕ちたくないから、地獄行きを免れるために、ということでしょう。
確かに、死後の地獄が恐ろしいというのが浄土真宗を聞くきっかけにはなると思いますが、浄土真宗の目的はあくまでも自身の往生成仏(往相)と、仏果を得ての必然である衆生済度(還相)です。二度と迷わない身になりたいと出離を目指した上での18願他力の救いですから、ただ地獄を免れるために聞くというのは非常に程度が低く、真宗の目的にかなっていないと思います。
また、単に地獄行きを免れたかったら、わざわざ親鸞会で苦しい思いをせずとも神を拝めばよいのです。一生を費やして苦しい活動の日々を送った挙句、解決できずに後生無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩をひまなく受ける位ならば、神を拝んで蛇に生まれた方が比較にならないほどマシだというものです。
ところで、「後生の一大事」という用語においても、実際の意味と親鸞会で使われている意味とは随分と異なります。「後生の一大事」という語は主に蓮如上人が使われておりますが、上人が度々仰る「後生の一大事」という言葉は
(a)凡夫が浄土往生し、仏に成るという一大事。
(b)凡夫が浄土往生し、仏に成れるかどうかという一大事。
といった意味で使われていることがほとんどです。親鸞会のように
(c)信心決定していない者は必ず無間地獄に堕ちるという一大事。
という使われ方はされていません。それは高森信心の色眼鏡を外した状態で拝読すればよく判る事です。ちなみに、「信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる」ことを「後生の一大事」ということは問題ありません。ただ蓮如上人は、「信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける」意味で「後生の一大事」の語を使われる事が多いようです。
親鸞会が「必堕無間」の意で「後生の一大事」を説く目的は会員の皆さんに獲信・往生して頂くためではなく、皆さんを利用して「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」といった「高森会長の私利私欲を満たすため」です。それは、往相の回向である真実の教行信証を説き与えずに化土の教行信証まがい、八万四千の法門まがいの邪偽の教行信証を授けていることからも十二分にお判りになるでしょう。
「真実の教行信証」によって私達は真実の報土に往生するのです。「真実の行信」は如来回向の「念仏一行」であり、「至心、信楽、欲生」の「他力信」、本願に対して疑蓋無雑の「他力の一心」です。
「化土の教行信証」によっては方便化土にしか往かれません。「化土の行信」は、行は19願の場合は「諸功徳」であり「定散二善」、要は「雑行」です。信心は「至心、発願、欲生」の「自力信」、「定散心」です。
「邪偽の教行信証」によっては永く三途に沈むのみです。「邪偽の行信」は、行は親鸞会の場合は「助正間雑、雑行、悪業悪行」です。信心は「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、「自力心」の者がほとんどで、救われたと言っている者でも話を聞いてみれば「創価学会の信心」の者ばかりです。
親鸞会では「化土の行信」を根拠として、それを「真実の行信」を獲得するために絶対必要な手段であるかの如く教え、その実「邪偽の行信」を吹き込んで会員を組織拡大に利用しています。「化土の行信」からは化土へしか往けませんから速やかにこれを捨てて、「真実の行信」を賜りなさいと教えられているのが親鸞聖人です。まして「邪偽の行信」などに執心していては迷いの世界を流転するという果しか得られません。
このようなことですから、高森教をまともに聞いていては報土化土どころか、三悪道は必至です。それどころか「自力念仏の者は必堕無間」と念仏誹謗して慚愧あることなしですから、必堕無間もあながち間違いとは言い切れないのであります。
「絶対の幸福」などというのは決して浄土真宗の信心ではありません。それは「高森の信」「創価学会の信心」であって「自力の信心」ですから、そんなものを獲たい、幸せになりたいと思って、いくら高森教を「聞く一つ」と聞き続けていても「真実の行信」は獲られません。
専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず(「化身土文類」真門決釈)
で、如来広大の恩徳を知ることができないのですから、専修にさえならず雑心極まりない者が大慶喜心を獲られないなど当たり前すぎるほど当たり前のことです。会員の皆さんは、聞いている教も、行も、信も、証も、全て間違っているから救われないのだと知って直ちに「高森の教行信証」を捨て、速やかに「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。
以上をもちまして、「ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか」の問いに対する答えとしたいと思います。
【参照】
・『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事
・『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
(※)・・・『こんなことが知りたい①』p.21
(4)「聞く」目的が間違っている
からと言えるでしょう。この記事等でも書きましたが、親鸞会の「仏教を聞く目的」「真宗を聞く目的」は
浄土往生、成仏
とは言っていてもそれは建前であって、会員の本音は
・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。
にあります。そのことは親鸞学徒信条に、
一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。
とある通りです。死後の往生極楽も結構なことだが、それよりも何よりも現実のこの苦しみを救うてもらいたい。人生の目的を達成して絶対の幸福になりたい。「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲得したい。このままでは何のために苦しい人生を生きてきたのか分からない。多くのものを犠牲にして親鸞会で活動してきたのか分からない。せっかくここまで求めてきたのに、何も獲られないで終わりたくはない。流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻るという、一切の苦労が報われる世界へ早く出たい・・・
要するに、会員は阿弥陀仏の願いを聞き受けようというのではなく、自分の欲望を叶えてほしい、叶えて下さいという気持ちで聞法し、活動しているということです。そのために辛くても、苦しくても、理不尽な目に遭ってもそこを耐え忍んでいるというわけです。とにかくこの世が「絶対の幸福」にならなければ死後の救いも無い、と教えられるので、自己の欲望とも相まってそのような「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めているのです。違いますか? そういう目的違いの人は救われないと教えられています。
寺参りしている人の目的が「死後の華降るお浄土」なら、会員はそれが「この世で、きわもない大功徳大利益を頂いて、幸せ一杯、満足一杯で生活させて貰えるようになる(※)」という「現世利益」に変化しただけです。この場合、前者はまだ欣求浄土の思いが見られますが、後者は浄土を願ってさえいないので、浄土真宗からは尚更遠いです。「浄土真宗」「親鸞」会と言いながら、その目的からして既にズレてしまっていることに、会員の皆さんは早く気付くべきです。
このように言いますと、あるいは、
・後生の一大事(無間地獄に堕ちるという一大事)の解決のためだ!
と反発する人もあるでしょう。しかし、これも浄土真宗の目的から幾分ズレてしまっています。こちらは、要するに地獄に堕ちたくないから、地獄行きを免れるために、ということでしょう。
確かに、死後の地獄が恐ろしいというのが浄土真宗を聞くきっかけにはなると思いますが、浄土真宗の目的はあくまでも自身の往生成仏(往相)と、仏果を得ての必然である衆生済度(還相)です。二度と迷わない身になりたいと出離を目指した上での18願他力の救いですから、ただ地獄を免れるために聞くというのは非常に程度が低く、真宗の目的にかなっていないと思います。
また、単に地獄行きを免れたかったら、わざわざ親鸞会で苦しい思いをせずとも神を拝めばよいのです。一生を費やして苦しい活動の日々を送った挙句、解決できずに後生無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩をひまなく受ける位ならば、神を拝んで蛇に生まれた方が比較にならないほどマシだというものです。
ところで、「後生の一大事」という用語においても、実際の意味と親鸞会で使われている意味とは随分と異なります。「後生の一大事」という語は主に蓮如上人が使われておりますが、上人が度々仰る「後生の一大事」という言葉は
(a)凡夫が浄土往生し、仏に成るという一大事。
(b)凡夫が浄土往生し、仏に成れるかどうかという一大事。
といった意味で使われていることがほとんどです。親鸞会のように
(c)信心決定していない者は必ず無間地獄に堕ちるという一大事。
という使われ方はされていません。それは高森信心の色眼鏡を外した状態で拝読すればよく判る事です。ちなみに、「信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる」ことを「後生の一大事」ということは問題ありません。ただ蓮如上人は、「信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける」意味で「後生の一大事」の語を使われる事が多いようです。
親鸞会が「必堕無間」の意で「後生の一大事」を説く目的は会員の皆さんに獲信・往生して頂くためではなく、皆さんを利用して「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」といった「高森会長の私利私欲を満たすため」です。それは、往相の回向である真実の教行信証を説き与えずに化土の教行信証まがい、八万四千の法門まがいの邪偽の教行信証を授けていることからも十二分にお判りになるでしょう。
「真実の教行信証」によって私達は真実の報土に往生するのです。「真実の行信」は如来回向の「念仏一行」であり、「至心、信楽、欲生」の「他力信」、本願に対して疑蓋無雑の「他力の一心」です。
「化土の教行信証」によっては方便化土にしか往かれません。「化土の行信」は、行は19願の場合は「諸功徳」であり「定散二善」、要は「雑行」です。信心は「至心、発願、欲生」の「自力信」、「定散心」です。
「邪偽の教行信証」によっては永く三途に沈むのみです。「邪偽の行信」は、行は親鸞会の場合は「助正間雑、雑行、悪業悪行」です。信心は「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、「自力心」の者がほとんどで、救われたと言っている者でも話を聞いてみれば「創価学会の信心」の者ばかりです。
親鸞会では「化土の行信」を根拠として、それを「真実の行信」を獲得するために絶対必要な手段であるかの如く教え、その実「邪偽の行信」を吹き込んで会員を組織拡大に利用しています。「化土の行信」からは化土へしか往けませんから速やかにこれを捨てて、「真実の行信」を賜りなさいと教えられているのが親鸞聖人です。まして「邪偽の行信」などに執心していては迷いの世界を流転するという果しか得られません。
このようなことですから、高森教をまともに聞いていては報土化土どころか、三悪道は必至です。それどころか「自力念仏の者は必堕無間」と念仏誹謗して慚愧あることなしですから、必堕無間もあながち間違いとは言い切れないのであります。
「絶対の幸福」などというのは決して浄土真宗の信心ではありません。それは「高森の信」「創価学会の信心」であって「自力の信心」ですから、そんなものを獲たい、幸せになりたいと思って、いくら高森教を「聞く一つ」と聞き続けていても「真実の行信」は獲られません。
専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず(「化身土文類」真門決釈)
で、如来広大の恩徳を知ることができないのですから、専修にさえならず雑心極まりない者が大慶喜心を獲られないなど当たり前すぎるほど当たり前のことです。会員の皆さんは、聞いている教も、行も、信も、証も、全て間違っているから救われないのだと知って直ちに「高森の教行信証」を捨て、速やかに「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。
以上をもちまして、「ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか」の問いに対する答えとしたいと思います。
【参照】
・『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事
・『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
(※)・・・『こんなことが知りたい①』p.21
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