先日、4歳の次女と1歳の三女を連れて
横浜アンパンマンこどもミュージアム&モールに行ってきました。
久々に満員電車に乗りましたね(;^ω^) あんな風に毎日通勤していたころが懐かしい・・・。まぁ二度とあの頃には戻りたくはありませんが・・・
平日に行ったのですがそれでも中々の盛況ぶりで、土日に行ったら混雑しすぎて何にも遊べないのではないかと思ったほどでした。GWとかすごいことになりそうですね。
さて、そこで人形劇やらミニコンサートを見てきたのですが、その中で流れてきた歌の一つが
アンパンマンのマーチでした。しかし、歌は二番の
なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!から始まり、一番は聞けませんでした。歌が二番から始まるというのはずっと昔に親鸞会の学生部会で聞いていましたが、本当なんだなと思ったのでした。ちなみに一番の歌詞は皆さんよくご存知でしょうが
なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!というものです。今や日本中の子供達の誰もが一度は通ると言ってもいいアンパンマン。そのアンパンマンのマーチには、実はこんなに難しくて深いことが問われているのですが、果たしてこの問いにハッキリ「これだ!」と即答できる大人がどのくらいいるでしょうか? もしこの問いに答えを持ち合わせていないとしたら、それでは残念ながら薄っぺらい人生だと言わざるを得ません。
この記事でも書きましたが、何のために生まれてきたのか、生きる意味とその方向性、そして死んでいく意味についてよく考えもしないで、ただ毎日を生きるだけの生き方では、私はそれは動物と一緒だと思います。それで動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのかと思うのです。
この問いに対して、私は親鸞聖人から二つのことを教えて頂きました。これを一言で言えば
お念仏申すためです。広げて言いますと、二つに分かれます。一つは
阿弥陀仏の本願を信じてお念仏を申し、浄土に往生・成仏して迷いから離れるためです。二度と迷わない身になるということですが、とても聖道の修行に堪えられない私はひとえに本願の独用(ひとりばたらき)によって浄土往生するほかありません。それともう一つは、
如来二種の回向を縁のある方々にお伝えし、仏恩を報ずるためです。法を聞いて喜び、なんまんだぶなんまんだぶとお念仏申すままが人にも伝わってゆき、それがまた仏恩を報謝することにもなる。このようなことですから、つづめて言えば先の
お念仏申すためというのが「
なんのために生まれて なにをして生きるのか」に対する私なりの回答です。
この答えに対して同調する人もあれば否定する人、または無関心な人と色々あるでしょう。私は有縁の方々に本願を信じてお念仏して頂きたいと思っていますが、否定する人や聞く気のない人に対して強制するつもりはありません。今の私には仏様の如く法を示す自在性がありませんので中々人を納得させることができませんが、それでも何とかと思ってこのように綴っています。
僅か50年乃至100年で終わってしまう人生、「
なんのために生まれて なにをして生きるのか」。まだ考えたことも無い方には、この記事がそれを考えて頂くきっかけに、親鸞聖人の教えを聞いて浄土に参りたいと思う方には、本願を信じ念仏するきっかけになって頂ければ幸いです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
【参照】
・
『週刊みんなの法話』何の為に生まれて 何をして生きるのか・
『法話ライブラリー』親鸞聖人の求道に思う -宗祖750回御遠忌を前に-・
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』 『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会・
『うたまっぷ』アンパンマンのマーチ
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こんにちわ、Abcです。
横浜アンパンマンこどもミュージアム&モールに行ってこられたのですね。
「アンパンマン」は「子供たちのヒーロー」でありながら、少なくとも私にとっては「色々と考えさせられるヒーロー」でもあります。
参照先の「うたまっぷ」様をみて、私は
>時ははやく過ぎる 光る星は消える
>だから君は行くんだ ほほえんで
淳心房さんのいわれるように、50年乃至100年の「電光朝露の命」であるわたくしたちが「なんのために生きるのか」と、ふと思うこともあるかとおもいます。
「時ははやく過ぎる 光る星は消える」と「あっという間の命」であるからこそ阿弥陀さまが私たちに常にほほえんで下されているのです。わたくしたちは、「このようにほほえみかけて下されている阿弥陀さまがいるのですよ」とお伝えするのみであります。
>たとえ どんな敵があいてでも
>ああ アンパンマン 優しい君は
>いけ! みんなの夢 まもるため
私は「アンパンマン」と「阿弥陀さま」を重ねてみてしまうフシがあります。こちらの歌詞ですと、「たとえ どんな敵があいてでも」と「さまざまな悪衆生」がいるが、
「いけ! みんなの夢 まもるため」とある通り、「迷える衆生をたすける」という誓いをもたれて来現されていると私は味わっております。
すこし、ずれますが「真言宗における阿弥陀さま」は「雲に乗られた姿」で描かれます。このことからも「すぐに衆生に会われる為に雲に乗られている」と見れます。
※作詞された やなせたかし さんは、「人権について」注力された方でありました。そのことからも「人間とは」と常々考えられ、このように「作品」として残っているのであります。
Abc
>時ははやく過ぎる 光る星は消える
この部分は電光朝露の儚い命、諸行無常の世界を歌っているように思えますね。
火宅無常の世界に生きる煩悩具足の私達が「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。作詞されたやなせさんでさえ、晩年の特集なんかを見ているとついにその答えを見いだせなかったようです。
「やっと面白くなってきたところなのに、何で死んでいかなければならないんだ」
等とぼやくやなせさんに、スタッフ達も何と言葉をかければよいか困惑していた映像が忘れられません。恐らくほとんどの人々が知らない中、大分回り道をしてしまいましたが、その答えを親鸞聖人より教えて頂けた私は幸せ者です。
私はアンパンマンのマーチをAbcさんのように味わったことはありませんが、言われてみると仰っている意味が伝わってきます。何一つとして本願力の働かぬところは無い、尽十方無碍光如来ですから、歌一つとっても阿弥陀仏の御心をその中に伺うことができるのですね。
ちなみに私は、Mr.Childrenの『GIFT』
https://www.youtube.com/watch?v=xfKcUb_vWIwに、よく阿弥陀仏の御心が味わわれます。この前久しぶりにラジオでかかっていて、改めて味わわれたのでした。
なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・
「なんのために生まれて」
「なにをして生きるのか」
「生きる目的」
「人生の意味」
「人生の目的」
と、言葉遣いによって少しずつ意味合いが違うように思いますが、大まかに言えば同じようなことを言っているようです。
個人的には、生きることに目的も意味もないという考えに達したのですが、理解はして頂けないかもしれません。リアルでご縁のある方には問いかけてみたくはあります。
> 「なんのために生まれて」
> 「なにをして生きるのか」
> 「生きる目的」
> 「人生の意味」
> 「人生の目的」
> と、言葉遣いによって少しずつ意味合いが違うように思いますが、大まかに言えば同じようなことを言っているようです。
「なにをして生きるのか」は生き方と捉えることもできますが、大まかに言えば同じ類の言葉です。
> 個人的には、生きることに目的も意味もないという考えに達したのですが、理解はして頂けないかもしれません。リアルでご縁のある方には問いかけてみたくはあります。
私も十代の頃はそう思って自殺しようとしましたので分からなくはありません。ただ、「生きることに意味も目的もない」と決定づけるのは早計だと思います。生きてその先に待つのは老病死で、老病はなくても必ず死んでいかねばなりません。意味も目的もなく生きるということは、死ぬために生きるようなものです。
では死んだらどうなるのか。これは誰も分かりません。真っ暗がりです。私が死を思い止まったのは、家族や友人がどうこうというのはなく、死んだ後が真っ暗がりという得体の知れない恐怖から、この一点でした。
生きる者にとって絶対に避けられない死。その死を、「死ぬことは浄土に生まれることだよ」と仰って下さるのが阿弥陀さまです。「どうか念仏を称えて浄土に生まれてきておくれ」と願い、その願成就して仏に成り、浄土を建てて私達を迎え取ろうとして下さっています。そうした願い、また願いを果たし遂げるだけのはたらきを具えているのが南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏のこころを頂いたその時に、後生は阿弥陀さまにおまかせと安心させて頂きました。後はお念仏を申して如来の恩徳を報謝しつつ浄土の旅をするのみですが、願はくは多くの連れと共にみんなでお浄土参りをしたい。そんなことですからつらつらと書いています。
今の名無しさんには分からないかも知れませんが、私達は阿弥陀仏の大悲の願いの只中にいて、大悲は常にはたらいて下さっています。こうしてコメントして下さったのもそのはたらきのおかげであり、よほどの因縁と思います。強制はできませんけれども、名無しさんも親鸞聖人の教えを聞いて浄土に往生する生き方というのもあるのだなということを知って頂ければと思います。
なお私もリアルでご縁のある方一人一人に問うてみたくはありますね。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
>>名無しさん
名無しさんの仰る事、なんか分かるような気がします。
自殺未遂から日が経ってないからか、俺は名無しさんが阿弥陀さまにお遇いした上でのコメントなのかなぁと思ったので、的外れな事を勝手に書く事をお許しください。
人生に目的も意味もないと思いますよ。
阿弥陀さまにとって、俺の人生には目的(?)や意味がありましたけど。
生きる事に意味があるなら死ぬ事にも意味があると思いますし、人生の目的や生きる意味はこっち側から言ったら人それぞれだと思います。
俺が書くと厭世的に聞こえてしまうかもですが、目的や意味がないから虚しい、とか自殺を推奨する、とかそういう事ではなくて。
俺も含め、特に親鸞会関係者にその傾向があるように感じるんですが、人間の命は尊いけど、それ以外の命はそこまで重視してない気がしています(偏見入ってるのは自覚してます)。
阿弥陀さまに出遇った後、特に最近は猫や鳥などの動物たち、虫など全ての生き物が美しく感じます。
意味があるから生きなきゃいけないとか、そういう小さな枠に縛られずに今を受け入れ(?)阿弥陀さまの中で日々の生を全うしていると思うからです。
近々、引っ越す事になりました。
主に隣人の騒音問題が原因ですが、ペット可のRC構造の物件に。
GWはヒマを持て余しているので、近所の保護ネコカフェに通ったりして。
辛い思いをしてきた保護ネコに幸せな一生を送ってもらう為には最後まで責任を持って世話をしなければならないし、生半可な覚悟では飼えないので実現するかは分かりませんが、ネコ好き友達に教えてもらったジャクソン・ギャラクシーの本を読んだりしていますw
要領を得ないコメントになってしまいましたが、お互いにお念仏を称えつつ、今日為すべき事を為し、明日為すべき事を今日為さない感じで今届いている幸せに感謝して生きられれば、と思います。
南無阿弥陀仏
コメントへのお返事、ありがとうございます。
淳心房さんの仰ることは、その通りだと思います。有り難く読ませていただきました。私の思いとしては、R1000さんが書いて下さったことに近いと感じました。
因みに、仏法に関して言いますと、南無阿弥陀仏があるのだから後生の心配はいらないと思っています。(自分の信心が正しいかどうかはさておき。)
後生の心配をしなくなった反面、現在の自分に直面して思ったのが、「生きる目的はない」なのです。それに加えて、若干の論理的考察をしたのですがそれは省略するとして、経験上、「生きる目的」を考えるのは決まって今が辛いときだったりします。現在の瞬間が幸せなら、未来に向かっての目的は必要なかったりします。
ですから、悟りとはどんなことかと想像するとしたら、目的地ではなく今の瞬間の中にしかないモノだと想像しています(凡夫の妄想ですが)。
阿弥陀さまの中で日々の生を全うしている、
今届いている幸せに感謝して、
ってとてもイイですね。
私はウジウジしてますけどね。
人生の目的ってとても面白い題材だと思います。「存在の理由」まで話を広げるともっと面白いと思います。
色々書くと私が誰か特定されそうなのでこの辺にさせて頂きます。
淳心房さんやR1000さんに身元特定されても構いませんけどね。
こんばんわ、Abcです。
> 個人的には、生きることに目的も意味もないという考えに達したのですが、理解はして頂けないかもしれません。リアルでご縁のある方には問いかけてみたくはあります。
名無しさんの意見と淳心房さん、R1000さんの意見を見ての私の意見とはなりますが、私は、「「私自身が「生きねば!」と生に固執すること」に関しては名無しさんが仰るように「生きることに目的も意味もない」と言う意見はすんなりと受け入れました。
ただ、その後の淳心房さん、R1000さんの仰らんとしていることもわかります。
私は、「生きることに目的も意味もない」ではなく「「私自身が「生きねば!」と生に固執すること」と記しましたのは、少なくとも私は「阿弥陀さまに生かされて、生きている」と言う考えからであります。
前に門徒の方から、「魚や鳥、牛や豚などを殺めているということに関して過ちや反省の心がなければならないのか」と問われたことがあります。
たしかに、聖道門ではそのようないわれから「精進料理」というものがうまれ、
「肉を食してはならない」と言われていることにつながるのですから尤もなことであります。
それに対しまして、私は
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ (愚禿悲歎述懐)
意訳:過ちや反省の心はない身であり、 誠実なこころは持ち合わせてはいないが
阿弥陀さまのお計らいである『名号』であるから その功徳は普くところに満たされる
「それらの魚や鳥や牛などは、全て「阿弥陀さまの縁」にてあなたの手のうちにきたのですから、漁師や酪農のかたはもちろんですが、阿弥陀さまのおはたらきでもあるのです。 そうであるから、私たちは食前に「いただきます」といい、食後には「ごちそうさまでした」というのです。」とお伝えしました。
名無し様がこちらのサイトにこられたのも、このように「生きる意味」についての投稿をしていただいたのもすべて「阿弥陀さまのえにし」なのです。ありがたいことです。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
R1000様
> 阿弥陀さまに出遇った後、特に最近は猫や鳥などの動物たち、虫など全ての生き物が美しく感じます。
それは素晴らしいことだと思います。自分なんか、特に猫は目の敵ですね。近所は野良猫だらけで糞尿に困っていますし、こないだなんか公園に猫のう○こが隠されてて気づかずに踏んじゃいましたから(苦笑) もう最悪~。臭くてたまらん(-_-;) 猫を飼うのは構いませんが、糞尿の問題もきちんと考慮して下さいね。
色々、意見や価値観の違いはあるでしょうが、
> お互いにお念仏を称えつつ、今日為すべき事を為し、明日為すべき事を今日為さない感じで今届いている幸せに感謝して生きられれば
俺もそう思いますよ。苦しい時は無理をせずに、イケそうなときはイク、そんな感じで(笑)
俺はようやく以前からの鬱的な苦しみが抜け始めて、如来広大の恩徳を思えるまでになってきました。個人的には、俺は特別相当に罪が重かった(重い)のだと思います。だからこそ、そんな淳心房を放っておけぬとお慈悲をかけて頂けたのかも知れません。それはまた、師主知識方や、有名無名の沢山の方々のおかげで法をお聞かせ頂けたのだから、私も何もできないかもしれないがその一端を担いたい。法を聞かす縁となりたい。お念仏が弘まる縁となりたいという思いが湧いてまいります。
まぁお互いお念仏を申してボチボチとやっていきましょうや(^^)
名無し様
> 因みに、仏法に関して言いますと、南無阿弥陀仏があるのだから後生の心配はいらないと思っています。(自分の信心が正しいかどうかはさておき。)
R1000さんの予想通り「阿弥陀さまにお遇いした上でのコメント」でしたか。それは失礼しました。
> 後生の心配をしなくなった反面、現在の自分に直面して思ったのが、「生きる目的はない」なのです。それに加えて、若干の論理的考察をしたのですがそれは省略するとして、経験上、「生きる目的」を考えるのは決まって今が辛いときだったりします。現在の瞬間が幸せなら、未来に向かっての目的は必要なかったりします。
確かにそうですね。「生きる目的」「なぜ生きる」と考えるのは苦しい時、虚しい時、辛い時です。私も、今届いているなんまんだぶに満足していますから、私個人に関しては「人生の目的」云々はあまり問題ではなくなりました。
ただし、人にお伝えしようとなった時、あまりに生きる辛さを抱えて生きている人が多い中、「人生に意味も目的もない」では実に救いが無いし、自殺を推奨することにもなりかねない。また、すぐにでもお浄土へ往ってさとりを完成した方がいいに決まっているのになおもまだこの娑婆世界にしがみついて生きていくのは何のためか。
こう考えた時に、阿弥陀仏の救いの対象は十方衆生だ。念仏弘めたいというのが阿弥陀仏の願いだから、その願いに生かされた私が生きる目的は、自身が浄土に向かって往く人生を歩むと共に、有縁の人々もお連れして参るということではないかだと気づかせてもらったのです。お念仏を申していると、どうもそのような気持ちが強くなりますね。まったく如来のおはたらきによるものとしか思えないです。
決して迷わない身となったことに満足せずに、縁のある人にもその身になってもらいたい。自分は、子供達やかつての仲間達に特にそういう思いをもっています。阿弥陀仏の願いに生かされて生きる。これが念仏者としての生きる意味と方向性なのかなと思ったりします。
お互いに共感するところ、共感できないところはありましょうが、それはそれとして、同じくお念仏申す同朋として御国の旅を共にしていきましょう。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
> 「阿弥陀さまに生かされて、生きている」
そうですねぇ。まさにその通りだと思います。目の前にあること、頂いている命、どれ一つとっても、阿弥陀仏のおはたらきでないものはないというのは頷かざるを得ません。まぁムカつく客や憎たらしい人を前にして有難いなどとは思えませんがね(笑)
ところで、私は聴聞し、お念仏している内に段々とそのように思わされ、また人にもお伝えしたいという気持ちが湧くようになってまいりました。以前は、苦しかったのもありますが、「おかげさまで」という心、弘法の気持ちは今ほど無かったように感じます。元より煩悩しかない身の上ですから、法に触れていなければ煩悩の生活しか送れませんね。「念仏も称えていないのに喜ぶ心がないというのは当たり前すぎるほど当たり前じゃないか」という話を前に本で読みましたが、全くその通りでした。このブログを縁として私自身法に触れ続けることができるというのはまた有難いことです。
なもあみだ、なもあみだ。
ども。林遊@なんまんだぶです。
梯實圓和上は、
人生は 如来にあわせていただく 道場である
The life is a dojo where we meet Tathagata.
と示して下さいましたが。これ、わりと好きな言葉です。
生まれて来るということは、真っ白な答案用を持って生まれてる。
人は、問いも答えも名前も書いてない真っ白な答案用紙を持って生まれて来る。その真っ白な答案用紙に名前を書き、自らが問いを書き、そして自らの汗と涙で答えを書き込んでいくのだというのでした。
このような意味で人生を課題だと受け取っていくところに「人生は 如来にあわせていただく 道場である」という言葉が響いてくるのかもでした。
人生は道場であると受け取る生き方を、先人は「お育て」と言いましたが、いくつになっても育ちざかりが浄土真宗の門徒なのでしょう。ありがたいことです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E9%81%93%E5%A0%B4
> 人生は 如来にあわせていただく 道場である
人生とは何たるかについて様々な意見があると思いますが、私はやはり如来のお育てにあずかり、本願力にお遇いして二度と迷わない身にして頂かなければ生まれてきた所詮が無いと考えます。そういった意味で、これはいい言葉ですね。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・