「仏願の生起・本末」を聞きなさいと言いながら、「仏願の生起」しか話さない高森顕徹会長

先日の日曜日は、富山でいつもの2通りの内、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか。


という質問に対して高森顕徹会長の話があったようです。

今回の話を要約すると、高森流「仏願の生起」を『歎異抄』後序のお言葉と「人間の実相」の掛け軸の譬え話で説いたというものです。古参の会員なら耳タコの、特に新しい話題も無い話でした。


今回の話で問題だったのは(今回ばかりではありませんが)、高森会長が「信文類」

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

のお言葉を出して

「仏願の生起・本末」を聞きなさい

と話しておきながら、実際に話したのは「仏願の生起」の部分だけだったということです。

前回の記事で少し「仏願の生起本末」について触れましたが、そこで指摘した通りのことを今回もやっていたのが高森顕徹会長です。違いと言えば、「仏願の生起」の部分を

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

のお言葉と、人間の実相の掛け軸を用いたオリジナル「仏説譬喩経」の譬え話で話したという点くらいです。それで何をどのように聞くのかと言うと、

「火宅無常の世界に生きている煩悩具足の凡夫」
「これ(掛け軸に描かれている旅人の姿)が自分の本当の姿」
と知らされるところまで聞かせて頂くこと


だと言っていたそうです。


恐らく、高森会長の話を聞き続けてそのように知らされたのを「機の深信」だと思い込んでいる会員ばかりだと思いますが、全くもって的外れも甚だしいです。「二種深信」は「他力の信心」を二種に開いて顕されたものですから、「他力の信心」を獲ないことには「機の深信」もなければ「法の深信」もないことは当たり前の当たり前のことです。では「他力の信心」を獲る、「信心獲得」するとはどういうことかと言えば、

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。『御文章』5帖目5通

とあるように「第十八の願をこころうる」ことであり、それは「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。ですから「南無阿弥陀仏のすがた」を聞かないことには「信心獲得」もなければ「機の深信」も立たないことは言うまでもありません。「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の阿弥陀仏の勅命を受けて、仰せの通りおまかせするのが「信心獲得」ということですが、高森会長の話のどこに「南無阿弥陀仏のすがた」が説かれていますか?

阿弥陀仏の勅命を受けて、我が機に用事は無い、計らいは要らないことに疑い無いのが「機の深信」です。私は自力では決して迷いの世界を出られるような者では無かったなと知らされるのです。これは、疑い無く慮り無く仏願力に乗託して往生を得ると決定して深く信じた「法の深信」が必ずその裏にあります。

こうした「南無阿弥陀仏のすがた」を「信文類」では「仏願の生起本末」と言われ、仏願の起こりから法蔵修行、そして南無阿弥陀仏を成就して私達に往生の因を恵み与えて下さるまでの一部始終を聞きなさいと仰せられています。ところが親鸞会ではご存知の通り私達のこと、いわゆる「堕つる機」ということばかりが問題にされ、南無阿弥陀仏のこと、いわゆる「助ける法」は全くと言っていいほど説かれません。「仏願の生起」の話ばかりで「仏願の本末」が無いのです。

助ける法」が無いのに、助かるということがあるはずがありません。薬を与えずに、患者の病気が治るということがありますか? 救助隊を派遣せずに、動けない被災者を助け出すことができますか?

南無阿弥陀仏」は今、現にここにいる私に向かって常にはたらいています。「南無阿弥陀仏」が成就したのは未来の話でも過去の話でもなく、現在只今です。それは他の誰のためでもなく、ここにいるこの私一人のためです。「そなたを救う法が完成しているから、安心してまかせよ」という「南無阿弥陀仏のすがた」を説かずして、どうして聞く者が本願の通りに救われることがあるでしょうか。


「私がどのようなものなのか」という話ばかり聞いていても、「南無阿弥陀仏」を聞いて、本願におまかせすることがなければ私は助かりません。肝心の「助ける法」が抜けた話を何十年聞いていても、私は救われるはずがありません。会員の皆さんには、皆さんの聞き方、求め方以前に「何を聞くのか」を間違って教えられている事を知って頂くと共に、早くエセ真宗教義を捨て去って浄土真宗に帰して頂きたいと思います。



【追記】
ところで、もうご存じの方も多いと思いますが、親鸞会の「仏説譬喩経」の譬え話は経典の話とは随分異なっています。実際に説かれている話との違いは

『親鸞会の邪義を正す』 『仏説譬喩経』には”無常の虎の譬え”は説かれていない

を参照して下さい。「経典の言葉は一字一句加減してはならない」と言いながら、経典の通りに説いていないのが高森顕徹会長です。また譬え話に関連することですが、「二河白道の譬喩」や「長者窮子の譬喩」に関しては親鸞会に都合の良いように経典や聖教の話を変えているということも知って頂きたいと思います。
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秘密コメント様

ありがとうございます。ご意見を頂き、書き改めました。

仏願の生起本末

こんばんわ、Abcです。

今回は「仏願の生起本末」について語ってゆきたいと思います。

・仏願の生起本末
 こちらは、「だれのためにつくられ、起こされたか」(生起)と「どのようなこと」(本)と「それによっての功徳」(末)とに分かれます。

・仏願の生起
 このことについては高森さんのお得意の場所なので、とくに言及はしません。ただ、例の「タメゴロー発言」には落胆せざるを得ません。

・仏願の本
 こちらは「名号」であります。参考といたしまして源空聖人の文より「仏願の本」の箇所を引用させていただきます。

 源空聖人(法然) 『選択集』より
すでに二行をもつて一経の宗となす。なんぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。
答へていはく、「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(散善義)といふ。
定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。
念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。
「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。
「一向専称」といふは、同経の三輩のなかの「一向専念」を指す。本願の義、つぶさに前に弁ずるがごとし。
 問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。
答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

(意訳)
Q 観仏三昧と念仏三昧があるが、なぜ観仏三昧を捨てて念仏三昧を付属するのか?

A 「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(散善義)といわれています。定散の諸行は本願ではありません。ゆえに諸行を付属しなかった(付属:この文中では「教える」「伝える」「加える」と同義)。またそのなかにて、観仏三昧は殊勝の行ではあるが、仏の本願ではない。ゆえに付属しなかった。
念仏三昧は仏の本願であるから、これを付属しました。「仏の本願に望む」ということは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指します。
「一向専称」ということは、同経の三輩のなか「一向専念」を指します。これは本願の義であり、直前に話したとおりである。

Q そうであったならば、すぐに本願を説かずに、わざわざ本願ではない定散諸善を説くのか?

A 本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかにすでに委しく説かれている。そうであるから、かさねて説いているだけである。
また、定散を説くことは、「念仏」が「余善」に対して超過していることを顕さんがためである。もし定散がなかったならば、どのように「念仏」が秀でていることを顕すのだろうか。

※ この文の直後にに「ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く」と言われている通りです。(これを『廃立肝要』といわれます。)

・仏願の「末」
 こちらは「自然の浄土」に生まれさせていただく ことでありますが、
この「生まれさせていただく身になった!!」と彼が言う「ハッキリ・スッキリ体験」があるわけではないので「ふたごころない」とはいえても「煩悩は減ることを知らず」という身であります。

※「ふたごころなくおまかせした」は「阿弥陀仏にお任せした」ということであり、『名号』であります。(『正信偈』では、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」「至心信楽願為因」「聞信如来弘誓願」「帰命無碍光如来」などでしょうか)

 「煩悩は減ることを知らず」は、「聞信しても煩悩は減らない」ということであり、「本願を執持ことは煩悩とは関係が無い」といえます。この「煩悩を持ったまま涅槃にはいらさせていただく」ということが、浄土門の意義であるとも見ることが出来ます。(『正信偈』では、「不断煩悩得涅槃」でしょうか)

 おわりに
 今回も、自由気ままに私見を述べさせていただきました。「このような説明ではダメだ」をおもわれましたらコメントいただけると幸いです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

ご解説、ありがとうございます。仏願の本を『選択集』より解説とは初めて伺いましたね。

1つ私から意見を挙げるとすれば、

> 「煩悩を持ったまま涅槃にはいらさせていただく」

だと涅槃に入っても煩悩を持ったままとの誤解が生じる可能性がありますから、

「煩悩を持ったまま涅槃に至ることに定まった位(正定聚)に入らせていただく」

と解説された方がいいと思いました。

「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。(正信偈大意)

なもあみだ、なもあみだ。

Re:淳心房さん

おはようございます、Abcです。

>> 「煩悩を持ったまま涅槃にはいらさせていただく」
>だと涅槃に入っても煩悩を持ったままとの誤解が生じる可能性がありますから、
>「煩悩を持ったまま涅槃に至ることに定まった位(正定聚)に入らせていただく」
>と解説された方がいいと思いました。

ご意見、ありがとうございます。今一度読み返してみると確かにそのように読めますね。 「煩悩」は「滅度(涅槃 寂静無為楽)」に入る際に阿弥陀さまによって断ち切っていただくのです。 ご指摘ありがとうございます。

 「往還回向由他力 正定之因唯信心」といふは、往相・還相の二種の回向は、凡夫としてはさらにおこさざるものなり、ことごとく如来の他力よりおこさしめられたり。正定の因は信心をおこさしむるによれるものなりとなり。 (蓮如上人 『正信偈大意』より)

※「如来の他力よりおこさしめられたり」と「信心をおこさしむるによれるもの」に下線を引かせていただきました。この下線部はどちらも「本願力回向」のことを言われている箇所であります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Re:Abc様

往生の行も信も、因も果も、全て「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし」ですから、私達はこれ以外にお伝えする事はありません。言葉は不完全なもので場合によっては相手に誤解を生じさせることもありますが、このように言い方を互いに推敲していくことでより正確にお伝えできるならば有難いご縁ですね。

なもあみだ、なもあみだ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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