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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(2)

」と言えば、普通は我々の為す行い、行業のことです。それでいくと、浄土真宗で「」とは南無阿弥陀仏とお念仏することだと思いがちです。あるいは本願のはたらきを「」と説かれる方もいます。これは確かにその通りなんだけれども、本願名号のはたらきばかりで私達の称名を全く無視していたらやはり祖師方のご解釈に合いません。とにかく御開山の「」の捉え方はそう単純なものではないのです。余談ですが、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり

だから、私は当初短絡的に「なんまんだぶ、なんまんだぶ、とお念仏することか」と思っていました。けれども、「行文類」を読んでみるとそうは書いてないんです。まず「行文類」の標挙の文が

諸仏称名の願(浄土真実の行 選択本願の行)」

であり、これは諸仏の称名であって我々の念仏とは言われていません。諸仏が無碍光如来の名を褒め讃えることが「浄土真実の行」だというので、当面は我々の関係することではないんです。

ところが、です。「浄土真実の行」と並べて「選択本願の行」と書いてある。「選択本願の行」といったら第18願の念仏です。だから親鸞聖人の仰る「」の捉え方は難しいのです。ここのところを蓮如上人は、衆生の称名は信後報謝に決めてしまって、信前は法体の名号で語られています。『御文章』は皆そのような教えられ方になっています。その方が判り易く、また称名正因の異義に陥る心配がないからです。判り易かったから浄土真宗が庶民に広まったのでしょう。しかし親鸞聖人は「」についてそのような単純な捉え方はされていません。


親鸞聖人は、第17願に誓われた諸仏讃嘆の名号、また名号を私達に回向して信じさせ、称えさせ、往生成仏せしめる本願のはたらき、本願のはたらきのままに称えられる念仏、更に、私達の声を借りて「助けるぞー」という大悲招喚の呼び声となり、絶えず一切衆生を平等に救わんと濁世に活動している有り様、それらを「」と仰っています。そしてそれは、生きとし生ける者を平等に成仏せしめる絶対唯一の教法(誓願一仏乗)であり、諸善に対して遥かに超え勝れた浄土真実の行、選択本願の行です。

『行文類』には「」についてまず、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
大行釈

とお示しになられています。ここで、いきなり私達の常識では考えられないことを仰っています。

往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

大行」というのは「往相の回向」によるものなんだと言われています。阿弥陀仏より回向される、与えられる。我が計らいで称える行ではなく、阿弥陀さまの方より与えて下さる行なのです。このことは、後の

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。「行文類」決釈

にも明らかですし、『歎異抄』第8条にも

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

と教えられています。「」と言ったら私の行いと誰しも当たり前のように思っているでしょうが、もはやこの時点で「」に対する捉え方が常識とは全く異なるのです。私が称えるには称えるのだけれども、それは称えさせる阿弥陀仏のおはたらきがあって称えているのだということです。私には念仏申そうなどという殊勝な心は無い、ひとえに本願のおはたらきにより称えさせられている、本願のはたらきがそのまま我々の口から出てくるというのが浄土真宗のお念仏です。

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。『一念多念証文』

」は「(はかり)」ということで、秤は乗っかったものがそのまま出てきます。そのように、なんまんだぶせよと私にはたらいている本願力がそのまま出てきたのが称名念仏だというのです。だから浄土真宗では「」の字ではなく「」の字を使うわけです。

ここで、「信心」を阿弥陀仏より賜る、頂くというのは親鸞会でも言われますし、ご存知の方も多いと思います。しかし、「」を賜る、頂くというのは親鸞会では聞いたことがありません。高森会長が真宗に無知であること、また会員には念仏という「真実の行」ではなく、献金・勧誘・服従といった「高森の行」を授けたいためでしょう。高森会長には「阿弥陀仏の本願を正しく説いて聞く皆さんに浄土往生して頂きたい」なんて気持ちは更々無いことに、会員の皆さんは早く気が付くべきです。

話を戻します。もし念仏が「私が称える私の念仏」なら「大行」ではありません。しかし、「阿弥陀仏が称えさせている阿弥陀仏の念仏」、阿弥陀仏が「どうか私の名を称えておくれ」と回向されている念仏、つまり阿弥陀仏の行ということならば、「大行」と言われてもすんなりきますね。お念仏は私の口よりいずるものですが、実際には阿弥陀仏をして称えしめている他力の行ですから、無碍光如来の名を称することを「大行」というのです。

ところで、「」とはただ口に出して言うということではなく、称揚、称讃のことで褒め讃えるということです。私達がなんまんだぶなんまんだぶと称えるということは、意識するしないに限らず南無阿弥陀仏を褒め讃えていることなんですね。

では南無阿弥陀仏を褒め讃える、称名念仏するという「大行」はどのようなもので、どのようなはたらきがあるのか。それは、如来が完成されたすべての善徳をおさめ(もろもろの善法を摂し)、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており(もろもろの徳本を具せり)、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきがある(極速円満す)というのです。そしてそれは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態(真如一実の功徳宝海)であるから、「大行」と名づけるのだと教えられています。

これも先ほど述べたように私の行ではなく、阿弥陀仏より回向される阿弥陀仏の行だからです。仏の行だからこのような素晴らしい功徳、はたらきがあるのです。そんな仏の行を阿弥陀仏にさせて頂いている、素晴らしいじゃないですか。有難い。かたじけないです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


そういうことならば、『観無量寿経』流通分にて

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。

と、念仏する人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると言われるのも、

「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。 この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。
もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
『観経疏』散善義

と、念仏する人を五種の嘉誉といって様々に誉めるのも、

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏』散善義

と、称名が正定業であることも、これら皆仏の行を行じているからということなら全て納得いくんです。また仏智を疑い、本願の嘉号を己の善根として称えている者でも化土往生する、ということも納得いくんです。たかだか念仏を称えた位でと思われますが、行自体は仏の位に属する行だからです。

ただし、親鸞聖人は化土を誡め専ら報土往生をお勧めになっています。化土は本願のお心にかなっていない者が往くところです。化土へ生まれた者は500年の間、宮殿の中で仏智疑惑の罪を償わねばなりません。また邪定聚ほどの危うさはないけれどもやはり往生が不定だというので、自力念仏往生をしようという人を不定聚の機と言われています。それで聖人は自力疑心を誡め、他力の信心を獲て念仏しなさいと教えられています。


今回はここで一旦切ります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


【参照】
『安心問答』20願は「○○往生」でしょうか?(スナフキンさんのコメント)
『みんな、西に向かう命の旅人』真門(第二十願)
『WikiArc』大行
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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