このようにして親鸞会教義が徹底されました(5)

※新入生の皆さんへ。
この時期に盛んに勧誘活動を行い、キャンパスでの声かけ、メルマガ登録、mixi、ツイッターなどいろいろな手段で近づいてくる浄土真宗親鸞会の学生組織があります。話を聞き続けているうちに、こんな話に注意!関連の内容をサークルで聞いたら、親鸞会の可能性が高いです。

※親鸞会は親鸞聖人の名を語って宗教ビジネスを展開するカルト団体です。新入生の皆さん、親鸞会サークルに入ると大変なことに!に詳しく書きましたが、入会すると様々な活動に時間とお金を費やし、学生生活やその後の人生を台無しにしてしまいかねません。

※以前からの非難により、現在は、勧誘の最初の段階で仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※『なぜ生きる』、『光に向かって100の花束』など一万年堂出版の書籍をゼミ(部会、ミーティング、講座)で用いていたり、『世界の光 親鸞聖人』のアニメ上映があったりしたら、親鸞会だと思って間違いないでしょう。

※ネットの情報には、デマが多いみたいなことも言われているかもしれませんが、自分でよく情報を取り入れて判断してください。



現在は、新歓合宿後から入会するまでになされる内容について書いています。
今日は、このようにして親鸞会教義が徹底されました(4)の続きです。

なお、前回と今回の五逆罪と謗法罪についての親鸞会の誤りは、

『親鸞会教義の誤り』
一切衆生は必堕無間なのか

を参照して下さい。

また会員には、親鸞会を批判するサイト(会内部では誹謗サイトという)を見ることも謗法罪と教えられているので、ネットを見ようともしないのかもしれません。

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◎謗法罪

仏教で最も恐ろしい罪は謗法罪である。
大恩ある親を殺したり、多くの人を殺すのも大変恐ろしい罪だが、謗法罪はもっと恐ろしい罪である。
謗法罪は無間業と言われ、謗法罪を造った者は最も苦しみの激しい無間地獄に堕ちて、気の遠くなるような長期間苦しみを受け続けなければならない。

謗法罪とは仏法(仏教)をそしる罪を言う。なぜ仏教をそしることがそんな恐ろしい罪なのか? それは、仏教に何が教えられているか分かれば、お分りになると思う。
かの聖徳太子は、有名な十七条憲法に仏法を「四生の終帰、万国の極宗」と言われている。
四生の終帰とは、生きとし生ける全てのものが最後帰依する所ということ。このように全人類が救われるたった一本の道を教えたのが仏教だから、万国の極宗とも言われている。

そういう教えが仏教だから、その仏教を謗り、非難する事は、全人類が救われるたった一本の道を破壊する事。何十人の人の命を奪うよりもっと恐ろしい。
何百万、何千万、幾億兆の人々を地獄へ突き落とすことになるから、それほど恐ろしい罪はない。

しかし、「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて邪教」だと非難する者だけが謗法罪を造っているのではないのだよと、親鸞聖人は
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。」
と仰っている。
善知識とか師というのは、仏教を正しく説かれる先生のこと。
その先生をおろそかにする事も謗法罪だという。

また、仏教では心を一番重く見るから、心で善知識をおろそかに思うのも謗法罪である。

仏法聞きに来ておりながら居眠り半分で聞いているのは、善知識をおろそかに思っての謗法罪だ。説かれる先生を尊く思っていれば、居眠りなどするはずはない。
また「今日の話は長かった、短かった、分かりやすかった、分かりにくかった」
と、善知識の話を批評しているのも謗法罪。
先生は子供の答案の良し悪しが分かるから採点できるが、子供は先生の答案の良し悪しが分からないから採点できない。善知識の説かれる教えをあーだこーだと批評しているのは、善知識の上に立たねばできないから、善知識をおろそかに思っての謗法罪である。

それだけではない。
「一体どれだけ聞けばよいのだろう」と不足に思ったり、「こんなことなら聞かねばよかった」と後悔するのも、説かれる方をおろそかに思っての謗法罪。

更に、インターネットで善知識や真実の仏法を伝える団体の誹謗したり、悪口を書き込んだりするのは、不特定多数の人が目にして善知識、仏教に近付けないようにする事だから、大変恐ろしい謗法罪である。
自分が書き込むだけでなく、そのようなサイトを見ることも、誹謗するものに加担することであり、謗法罪である。

じゃあ聞きにきていない者達はどうかというと、用事を優先したり、聞く価値がないと思って聞きに来ないのだから、体で謗法罪を造っている。

一体世の中で謗法罪を造っていない者はいるだろうか。
仏教は法鏡。鏡に近づけば近づくほど自分の姿が見えてくる。親鸞聖人は、自分の胸に手を当てて、静かに我が身を振り返ってみなさいと教えられている。


◎雑毒の善

このように私達は身口意の三業で謗法罪、五逆罪、十悪を造り通しであることを、お釈迦様は
「心常念悪 口常言悪 身常行悪」
と教えられている。

お釈迦様が「曽無一善」と最後に仰っているのは、かつて一つの善もやったことがない、ひとつの善もできないということである。
ここで疑問なのが、「私は確かに教え通りならば悪を造り通しだが、親切をしたり、災害で困っている人達には義援金を出したり、それなりに良いこともしている。かつて一つの善もしたことがないというのは違うのでないか?」という点だ。
お釈迦様が言われる善とは、見返りを期待する心が全くない、仏の眼から見てもきれいな、煩悩に穢れていない真実の善のこと。

仏教では、三輪空といわれ、私が、誰々に、何々をしてやったこの3つを忘れなければならないと教えられている。

ところが、悲しいことに、我々はどんなに真心を込めて善に努めても、お礼や見返りを期待する心から離れられない。
良いことだと思っても、誰も誉めたり認めなりしてくれないとやる気をなくしてしまう。
他人に物をあげても、親切にしても、相手がお礼を言わないと腹が立つ。「しなければよかった」という心さえ起きる。
こんなのは真実清浄な善とは言えない。
親鸞聖人は、「急作急修して頭燃をはらうが如くすれども、衆て雑毒雑修の善と名づけ、虚仮諂偽の行と名づく」と、頭についた火をもみ消す真剣さで善に取り組んだが、まことの善はできなかったと懺悔されている。

人間は煩悩に目鼻をつけたようなもので、常に煩悩が激しく逆巻いているから、「煩悩具足の凡夫」とか、「煩悩熾盛の衆生」と言われる。煩悩は臨終の一念に至るまで止まりもしなければ、消えることもなければ、もちろん断ち切れるものでは絶対にない。そんな人間のする善は、一つも煩悩から離れたものはないから、毒の雑じった善と言われる。

この毒は、大善ほど多く含まれる。相手に一万円使って喜ばれないのと、十万円使って喜ばれないのでは、どちらが使って損したと思うだろうか?
これが百万円、一千万円となると、とても穏やかではいられなくなってくる。

では、雑毒の善だからといって善をやらなくていいのか? 善に向かう姿勢を嫌うのか? 人を憐れむ心はいらないのか? 放逸に油を注ぐようなことにならないか?
それは全く逆である。

真剣に善に取り組めば取り組むほど、毒の雑じった善しかできない自分が知らされ、「こんなことでは」とより真剣に取り組まずにおれなくなってくる。
しかし、煩悩を離れた善のできない、己の心の醜さに驚愕せずにおれないのである。
善のできる自分かどうか、真剣にやってみなければ分からない世界に違いない。

「どうせやっても雑毒の善ではないか」といって修善に向かわないのは、観念の遊戯であり、それでは絶対に果報はえられないのだ。

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(つづく)
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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