真宗の根本とも言うべき南無阿弥陀仏の「南無」や、その翻訳語である「帰命」の言葉の意味を説けない高森顕徹会長

『飛雲』親鸞聖人の教えられた二河白道の譬えの解説で高森顕徹会長を攻撃しておきます

でも紹介されているように、日曜日は富山で高森顕徹会長の話がありました。今回は

『正信偈』と『歎異抄』について

という質問に答える形式だったようです。ただ、話した内容は浄土真宗ではなく、いつもの「絶対の幸福」という「創価学会の信心」を『真宗宗歌』や『正信偈』や『歎異抄』の言葉で粉飾し説明しただけというものでした。

この記事で書いたように、前回高森会長は

どこでどのように大悲の願船に乗せて頂けるのか、絶対の幸福になれるのか

二河白道の譬え」で善導大師は明らかにされていると話していました。が、今回その説明は一切無しです。前の講演でその説明を中途半端で終えていながら、話をすれば容赦のない批判を浴びせられることに戦々恐々としてか、頂いた情報からは「二河白道の譬え」の「二河」の字もありませんでした。「創価学会の信心」は説き続けるくせに、浄土真宗については説かない、説明も途中で終わりというのが最近の高森クオリティです。


ところで、高森会長はまたまた面白いことを言っていました。

「帰命」と「南無」の言葉の意味は説けない。分かりやすく言うならば「永久の闇より救われた」ということ

だと。仏教の勉強もろくにせず、『教行証文類』もまともに読んだことがない高森会長らしい発言です。これは、『真宗宗歌』で「永久の闇よりすくわれし・・・」と歌われている通り、「永久の闇から救われた」というのが仏教で教えられる「絶対の幸福」だとし、そこからお釈迦様と阿弥陀仏の違いを説明する一環で

帰命無量寿如来 南無不可思議光

の『正信偈』冒頭のお言葉を挙げた際に言い出したことです。

それにしても「帰命」と「南無」の言葉の意味を親鸞聖人が丁寧にご解説されているのを高森会長は知らないとしか思えない発言です。または知っていても意味が分からず、解説ができないのでしょう。

親鸞聖人は「行文類」にて、善導大師の六字釈を承けてご自身の六字釈を施しておられます。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。


そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


現代語訳を載せておきましたが、聖人は一字一字とても細かく説明をされ、「帰命は本願招喚の勅命なり」と結ばれています。「帰命」とは、阿弥陀仏が私達に来いよ来いよと絶えず招き喚び続けておられる本願の仰せだというのです。その仰せ、願力を仰せのままに聞き受けて「報土の真因決定」し、阿弥陀仏に心身共に帰依したこと、また阿弥陀仏一仏、念仏一行を心の拠り所としたことの表明として、親鸞聖人は『正信偈』冒頭に

帰命無量寿如来 南無不可思議光

と仰っています。「親鸞聖人の教えを徹底する」とか言うつもりなら、もっと親鸞聖人の教えをよく勉強し、人にも教えられるようになってからにするべきでしょう。

順番が飛んでしまいましたが、「帰命は本願招喚の勅命なり」の後に聖人は、「南無」のもう一つの意味である「発願回向」について、

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。

と仰せられています。私達が「迷いの世界を離れたい」「清らかな世界へ往生したい」と願いを発す遥か以前に、法蔵菩薩は私達を「迷いの世界にとどめてはおかぬ」「必ず浄土へ迎え取る」と願いを発され、48願を建立して菩薩の行を成就され、ついに阿弥陀仏と成られました。

本来私達が迷いを離れてさとりの世界である浄土へ往生しようとするなら、私達自身が浄土へ生まれたいと願いを発し、相応の修行を積まなければなりません。しかし私達は如実にそのような清らかな願いを発すことも、相応の行を修めることもできないと知られて、阿弥陀仏は本来私達がしなければならない願と行とを成就して、私達に回施、まるまる与えることで助けようとされているのです。その願行が具足して、衆生を必ず往生させるはたらきとしての顕現体が「南無阿弥陀仏」という六字の名号だったのです。

しかも、それを自分の元まで取りに来いと言うのでなしに、ご自身が「南無阿弥陀仏」という声の仏と成られて、この「諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海」である私達の心に飛び込んで下されるというのです。

これが高森会長の説き方だと、阿弥陀仏が横の道を進んで自分の元まで来た者を助ける、また助かるに相応しい行いをしてきた者を助ける、と仰っているかのようです。そうではなく、現在只今、ここにいる、この私めがけて阿弥陀仏は「衆生の行を回施したまふ」ているのです。私は何もやる必要も変わる必要も無く、ただ「願力を聞くによりて報土の真因決定する」のです。それまでに「白道を煩悩と闘って進む」とか、「白道は聞法心」とか言っているのは、全く根拠の無いデタラメです。

帰命」や「南無」の言葉の意味を説けないのなら、「南無阿弥陀仏」のすがたを心得たのを「信心獲得」するというのですから、私達は「南無阿弥陀仏の六字のこころ」が分からず「信心決定」できない、「無明の闇」が破られない、「永久の闇よりすくわれ」ないということになってしまいます。高森会長の話をどれだけ真剣に聞いても「信心決定」も「信心獲得」もできない、「永久の闇よりすくわれ」ないのは当然すぎるほど当然なのです。


さて、『歎異抄』の「念仏者」というのは大行である如来回向の「念仏一行」を称える念仏行者のことです。本来は本願の名号に我々の無明を破り、志願を満たすはたらきがあるのですが、聖人は本願の名号が我々に至り届いて信心となり、それがそのまま現れてきた称名の位で

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と仰せられています。名号はそれを信受した念仏行者の口に称えられても仏の位に属する性質を失わない、正しく浄土に往生する行業だというので「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり」と言われています。そして念仏の他に阿弥陀仏という仏様は無いんだと、名体不二を表しているのが次の「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり」であり、南無阿弥陀仏の他に信心は無いんだと、信行不二を表しているのが「南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり」というお言葉です。そういう真宗の根本とも言うべき南無阿弥陀仏の「南無」や、その翻訳語である「帰命」の言葉の意味を説けない者が、法話と称して講演していること自体が気ちがい沙汰なんです。

話を戻しますが、そうした念仏行者は、現生では「不退の位に至ることを獲る」、正定聚の位に入ると言われ、この世の命が尽きたら浄土に往生して仏のさとりを開くのだと、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。「信文類」決釈

と示されています。こうした現当二益を教えられたのが浄土真宗です。世俗的な幸福、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」の身になると教えられたのではありません。迷いの世界を出離するという、この世の幸福云々といった世俗的なことを超越した上での18願、阿弥陀仏の救いですから、「絶対の幸福」だとかいうこの世の幸福を求めて教えを聞いていても現当二益は獲得できません。まして

念仏者は、どんな幸せになれるのか

と新聞に一面いっぱい使って大々的に広告する割、「念仏者」とはどんな人か、「念仏」とはどういうことか一切話されず、ただ「絶対の幸福」だとかいう親鸞聖人の教えられたことのない幻想的な楽の話を聞いていても、「現当無益」は必至です。会員の皆さんも、広告や勧誘によって初めて参加したという方々も、中身は空っぽ、浄土真宗の仮面を被った一新興宗教の教えを聞かされていることに気付いてもらいたいものです。
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Abcです

おはようございます、Abcです。

>「帰命」と「南無」の言葉の意味は説けない。分かりやすく言うならば「永久の闇より救われた」ということ

なかなかにタイムリーですね。これについては私が7時間ほど前に記したばかりです。 ((1)【聖道仏教】については4行ぐらいしか記してはいませんが、親鸞がというより真宗が「自力無効」と言われている以上「八万四千の法門」について説いても・・・と考えこの行数となっております。また(2)【浄土仏教】に関しまして『和讃』等も使い長々と書き連ねましたが、蓮如上人も言われている「無上甚深の功徳、ただこれ南無阿弥陀仏に籠もれるなり」とある通りです。)

時間がございましたら、先コメントをご一読いただけると幸いです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Abcです

こんばんわ、Abcです。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(親鸞 『正信念仏偈』より)
についての高森さんの回答は、

「「帰命」と「南無」の言葉の意味は説けない。」らしいので、蓮如上人の言葉とカンタンな私釈を記します。

 「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。「南無不可思議光」といふは、智慧の光明のその徳すぐれたまへるすがたなり。「帰命無量寿如来」といふは、すなはち南無阿弥陀仏の体なりとしらせ、この南無阿弥陀仏と申すは、こころをもつてもはかるべからず、ことばをもつても説きのぶべからず、この二つの道理きはまりたるところを南無不可思議光とは申したてまつるなり。(蓮如上人 『正信偈大意』より)

帰命ー無量寿如来 : 「無量寿」とは「限りなきいのち」、すなわち「13願」をしめされている。また、一光三尊の中では、阿弥陀さまと、「アミダーユス ブッタ」からの派生とされる観音さまとされる。

 私の先のコメント「ナマス・アミダーユス・ブッダ」の「ナマス → 帰命」、「アミダーユス・ブッダ →無量寿如来」とされ、記されたものであります。また次の「南無ー不可思議光」とあわせて、「帰命と南無は同じである」ということと「無量寿光」や「不可思議光」など様々な呼ばれ方があるということもこの文節にて示されております。

南無ー不可思議光 : 「不可思議」とは「限りなきお力」、すなわち「12願」をしめされている。また、一光三尊の中では、阿弥陀さまと、「アミダーバー ブッタ」からの派生とされる勢至さまとされる。

  私の先のコメント「ナマス・アミダーバー・ブッダ」の「ナマス → 南無」、「アミダーバー・ブッダ →不可思議光(如来)」とされ、記されたものであります。

最後に『和讃』をひとつ、

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

 こちらの「摂取の対象」は、「十方微塵世界の 念仏の衆生」であります。
ただ、この文から「この文の主語は、(主語+述語+(目的語)の観点から)「十方微塵世界の 念仏の衆生」である」と釈しては、少し(場合によっては大幅に)ズレが生じます。 この真宗は「阿弥陀を主とせよ」でありますから、「主語+述語+(目的語)の観点」に倣いますと、

主語:阿弥陀仏が

述語:十方微塵世界の 念仏の衆生(をみられて)

(目的語):摂取してすてざれ(ば) → おさめ摂られておすてになられない

でありますから、これらをつなげますと
「阿弥陀さまが、私たち迷える衆生のことをご覧になられて、「わが名を称えよ。そのようにされたならば、必ず浄土に生まれさせるぞ。」と誓われました。」となります。これが、何度も記しています『正信念仏偈』の巻頭であり今挙げた文の少し下の、

「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」 でございます。

この直後に、「五劫思惟之摂受」と「長い時間をかけられて」とありますが、先ほども記しました「主語は阿弥陀さま」でありますので、「阿弥陀さまは長い時間を掛けられて」ということであり、私たちが「長い時間をかけて聞き求めなければならない」ではないのです。「真宗」は、「大乗無上の法」であり、「頓教」であります。「頓教 = 頓(すぐ)の教え」です。「漸くの教え =漸教」ではありません。ここを間違えたならば「真宗」ではなくなってしまいます。

 おわりに
今回も、「4,5行でやめておこう」と筆をとったのですが気がつくとコレですよ。なんというか、「私は「簡潔に述べよ!」ということには慣れていないのだな...」としみじみ感じてしまいます。 ここまで読まれている片がいらっしゃるならば、ありがたいことです。しいて「簡潔に」と言うならば「南無阿弥陀仏」ですかね。ここまで読んでくださりありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Abcです (追記)

おはようございます。Abcです。

昨日記したことの訂正でございますが、
「述語」と「目的語」が逆になってますね。申し訳ございません。

主語 + 述語 + 目的語 の場合、
「阿弥陀さまは、 「わが名を称えよ。そのようにされたならば、必ず浄土に生まれさせるぞ。」と誓われました。 十方微塵世界の 念仏の衆生(をみられて)

ですね。申し訳ございませんでした。
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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