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序盤の方で『二河白道の譬え』の存在を示していながら話さない高森顕徹会長

『飛雲』二河白道の譬えを回避した話で、更に恥の上塗りをして収拾のつかない無知ぶりを発揮する高森顕徹会長

にある通りで、日曜日の講義でまたしても高森会長は『二河白道の譬え』を話しませんでした。これが最初から譬えには一切触れずに、

「聞く一つで、大船に乗せる」とはどういうことか。どうしたら大船に乗せて頂けるのか。

という映画『なぜ生きる』の質問に沿って話をするというのならまだ判るのですが、序盤の方で

どうしたら大船に乗せて頂くことが出来るのかを分かりやすく徹底するために善導大師が『二河白道の譬え』を説かれた。

と『二河白道の譬え』の存在を示していながら話さないという体たらくです。話せば全く違う話だと叩かれるのは火を見るよりも明らかですから、逃げに逃げ回っている様子が鮮明に分かります。


さて、上リンク先では高森流宿善論を論破していますが、何しろ高森教は信心獲得の速い遅いは宿善が厚いか薄いかによるという教えです。それで、耳四郎や親鸞聖人、熊谷蓮生房、明法房弁円等は過去世の宿善が厚かったから、つまりは聞法や仏法・世法のさまざまな善根を積んできたから、今生において早く信心決定したというのです。これは、『観経』下三品の悪人を実は「大乗始学の凡夫」だと説明した天台大師ら諸師の理論と非常によく似ています。

更に高森教では、「耳四郎や親鸞聖人は宿善が厚かったから早く救われたんだ。私達は宿善薄い者だから、努めて宿善を求め、厚くしなければならぬ。そうしなければ信心獲得の時節到来はあり得ない」ということで、様々な「高森の行」を授けて実践させています。そんな行を人によっては何十年と続けてきた方もあるでしょうが、どうでしょうか。それによって信心獲得できましたでしょうかね? そういった「宿善を厚くする教え」、近年で言えば「三願転入の教え」なるものを信じている人には、下三品の悪人、中でも下品下生の極悪人が臨終に善知識に遇い、言われるまま「南無阿弥陀仏」と10回称えて往生したとはとても信じ難い話でしょう。

この下品下生の往生について、摂論宗の一派は念仏別時意説を唱え、すぐに往生したように説かれているが実際には往生を得たのではないと主張しています。何だかこれも、「平生業成」の語を「人生の目的が現在に完成する」という意味だと教え、あたかもすぐに「平生業成」の身になれるかのように説いてはいるが実際にはそうではないという高森教と似ていますね。


では下品下生の極悪人は摂論宗の者達の言うように実際は往生を得ていないのかどうなのか。それについて善導大師は有名な六字釈でもって説明されています。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
「玄義分」六字釈

【現代語訳】
いまこの『観経』の中の十声の称名には、 十願十行があって具足する。 どのように具足するのか。「南無」というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。「阿弥陀仏」というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。

十声の念仏は唯願無行ではなく、願行具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるというのです。こうした善導大師の古今楷定の註釈により、高位の菩薩の為の経であると見られていた『観無量寿経』は主人公の韋提希を始めとした凡夫の為の経典であることが明らかにされたのでした。


これを親鸞聖人はさらにご自身の六字釈において、「帰命」とは阿弥陀仏からの「帰せよの命」であると仰せられています。「必ず浄土へ迎えるから、安心して我にまかせよ」との仰せであるというのです。こうした名号のいわれを聞くところに私達の自力疑心の計らいは取り去られ、報土の真因決定しますから、そのような意味で浄土真宗は「聞く一つ」と言っても差し支えありません。

浄土往生するのに、我々の煩悩は邪魔になりません。「無碍光如来」ですから。では何故、そのような名号が成就していながら全ての衆生は救われていないかと言えば、その名号のいわれを領受していないからです。撥ね付けているからです。茶碗に水を注げばそこに水は入っていきますが、蓋がしてあれば注いだ水は全て外に流れてしまいます。そのように、我々の疑いの蓋が本願力を撥ね付け、領受しないから、本願が成就してはたらいていながら救われないのです。

この疑いの蓋、「疑蓋」も、南無阿弥陀仏のひとりばたらきによって取り去られます。私達の力は要りませんし、要るとしてもどうにもなりません。「聞く一つ」とは言いますが、私の聞いた力と合わせて取り去られるのでもありません。だから正確には如来の「聞かす一つ」にて浄土往生決定となるのです。


これに、従来の「煩悩と闘って白道を進む」という創作『二河白道の譬え』を合わせたら当然ですが「聞く一つ」にはなりません。そして高森会長自身が言っている「人生の目的が現在に完成する」ということにも反します。

平生業成」というからには今です。ずーっと聞き続けていった先、煩悩と闘っていった先の話ではありません。南無阿弥陀仏は既に成就して、今、ここにいる、この私にはたらいているのですから、私は今、ここで、この私一人を「助けるぞ」と仰せの勅命を聞き受けるのみです。

高森教では「聞く一つ」と言いながら実際は「聞く一つ」ではないし、「聞く」内容も間違っています。名号のいわれを聞かず、高森会長の「絶対の幸福に救われる」という邪義を「聞く一つ」なのが親鸞会会員の実態です。次回も説くのかどうか甚だ怪しいですが、創作『二河白道の譬え』をいくら聞いていても大悲の願船に乗ずることはできません。名号のいわれを信受した真実信心の称名による利益が「乗大悲願船」のお言葉です。そのようなわけですから、大悲の願船に乗りたいなら一刻も早く親鸞会を離れて、名号のいわれを正しく説かれる方(動画や音声、本、ブログ等でも)から聞いて信心決定し、お念仏申すことをお勧めします。



【参照】
安心論題/六字釈義
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Abcです

おはようございます。Abcです。
最近は、じめじめとした暑さがつづき、洋服がひっついてしまうという何かと大変な時期です。風通しをよくすると共に、適度な水分補給も必要ですね。

さて、今回も淳心房さんのエントリーを読ませていただきました。
仰るとおり、真宗は「聞く一つ = 信じる一つ」であり、
「何を信じるのか」といえば「南無阿弥陀仏を」です。
これ以上のカンタンな教えはありませんから、龍樹菩薩は「易行道」といわれ、道綽禅師は「ただよく浄土を通るべし」ともいわれ、源空聖人(法然上人)は、「真宗の教えを日本(片州)に興し、選択本願を悪世に弘められた」と親鸞は記されています。

>号のいわれを信受した真実信心の称名による利益が「乗大悲願船」のお言葉です。(淳心房さん)

さようです、このことを『浄土和讃』では、

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

と記されています。また、
>これを親鸞聖人はさらにご自身の六字釈において、「帰命」とは阿弥陀仏からの「帰せよの命」であると仰せられています。(淳心房さん)
につきまして、『浄土和讃』では、

慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ

と言われています。

なもあみだ なもあみだ
Abc

先ほど記した和讃の解説です。

こんばんわ、Abcです。

ここでは、先ほど記した『和讃』の解説を行います。

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

こちらは、「19願の方便に人々は長くとどまって、また流転の身となっているので
 悲願の一乗(18願)に帰命せよ」ということですね。ですから、「願」と言う観点で分けますと、

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる (19・20願)
悲願の一乗帰命せよ (18願)

です。次に

慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ

に関しましては、「18願のいわれ」+「18願を帰命せよ」と言う構成ですので、先ほどと同じく「願」と言う観点で分けますと、

「慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには
 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰を帰命せよ」 の全てが18願であります。

ここで「どのような喜びなのか」や「どれくらいの楽しみか」を議論いたしますと「義なきを義とす」や「不可思議光」、「無称光」などのいわれが、間違いとなってしまいますから詮なきこととなります。

別の箇所にて、

信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり
 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず

とございます。ここでは「信は願より生ずる」とあり、そのことから「念仏成仏自然なり」とございます。私は時たま
「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」と言っておりますが、
「私が報土に生まれたいと願って、私が念仏を言うのだ!」と「私が」と読んだならば「私を主人とせよ」となり「仏(阿弥陀さま)を客人とす」と逆転してしまいます。

この回向文を「弥陀回向」として読み下しますと、
「世尊(弥陀)は私たちに対して一心に 「帰命尽十方無碍光如来」と称え 安楽国に生まれさせるぞ と願われた」となります。

また、先ほどの「信は願より生ずれば」の和讃につきましては、

「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり」
真実信心は弥陀本願より生ずるのであるから 念仏成仏(18願)は「自ずから然らしむ」なのである

「 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず」
「自ずから然らしむ」というのは、「安楽国に生まれさせるぞ」ということである。証(南無阿弥陀仏)にて大涅槃(安楽国)を疑わない心となる(一心一向となしたまえる)

であります。簡単にですが解説とさせていただきます。
なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

この前、「易行」の「易」は他力だと聞かせて頂きましたね。私達の力は一切要せず、他力だから易い。一方で、他力だから信じ難い。両方ありますね。

他力を信じるのはあくまで他力によってであり、自力一杯求めなければ他力を信じられない等という教説はありません。自力一杯と称して善もどきの善を勧める邪偽の法門から、会員の皆さんは一刻も早く抜け出して頂きたいですね。そして、弥陀願力に帰して念仏成仏して頂きたいと願います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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